かなざわ
2025-08-24 07:34:06
3492文字
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きみはぼくだけの

恋人関係、同棲しているよだつか。夜鷹が海外渡航から帰国、久々に顔を合わせる二人の話。

 海外渡航から帰国してきた純は、普段の二割増しくらいで目つきが鋭くなっていた。いつも通り上下とも黒の服を着ているせいで、不機嫌そうに目を眇めていると迫力が凄い。道ですれ違う人がさりげなく距離を置きそうな、そんな佇まいだった。
 付き合いの浅い頃であったらビビり倒して回れ右をしてしまいそうなその顔を眺めて、しかし司は軽く溜め息を落としただけだった。この顔にいちいち怯んでいるような胆力では純と交際はしていないし、同棲に至るまでの決意は出来ていない。
 司は座っていたソファから立ち上がり、部屋の入口で立ったままの純の元まで歩み寄って行った。純は表情を変えないまま、近づく司を見据えているだけだ。
 何も知らなければ睨まれているとしか思えない視線だが、司は動じなかった。黙り込んだままの純の様子を伺い、確信する。これはかなり疲れているな、と。
 司は純の目の前まで行き、にこりと笑顔を向けた。
「おかえりなさい」
……ただいま」
 一拍置いて返された言葉にも、心なしか力がない。
 司はふっと苦笑し、純の頬にそっと右手を当てた。
 元々司に比べれば色の白い純だが、今の顔色は白いというより青白い、と表現するのが相応しいものだった。有体に言えば、顔色が悪い。
「体調崩しました?」
「ねむい」
 端的に返された言葉はどこか舌足らずな響きで、相当に眠いらしいと知れた。純はふうっと深く息を吐き、司が頬に当てた手に頭を預けるように首を傾げてくる。擦り寄ってくる猫にも似た仕草に、司は指先で純の頬をそっとなぞった。
 純はその指を享受しながら、じっと司を見つめてくる。元々必要な時以外はあまり口を開かない純だが、今は相当疲れているのだろう。察してくれと言わんばかりに促してくる眼差しに、司は笑って腕を広げた。
 純がふらりと倒れ込むように司の腕の中に収まってくる。
「そのまま動かないでください、ね!」
 言いながら少し屈み、純を抱き上げた。
 細身に見えるが未だ現役アスリートに引けを取らない筋肉量の純は、重量的に軽くはない。軽々とまでは行かなかったが、リフトの応用を使いバランスさえ取れれば持ち上げることは可能だった。抱えるタイミングに合わせて純が上手く体を預けてくれたのも功を奏し、司は純を縦抱きにした体勢で部屋の中へ進んで行った。
 座面の広いソファのカウチに腰を下ろす。と、それを待っていたとでも言いたげなタイミングで、とんと肩を押された。乱暴な強さではないが、司の体勢を変えさせようとする意図を明確に感じる力加減だった。
「っ、と。純さん?」
 仰向けで倒れ込みはしたが、柔らかなソファの上だったので痛みはない。呼び掛けへの返事はなく、純はしばらくもぞもぞと動いていたが、やがて半身を司に乗り上げるような体勢でごろりと寝転がった。
 純の頭は司の胸の上、ちょうど心臓の辺りに耳を押し付けるような格好で。猫とかに甘えられたらこんな風なのかな、などと考えながら純の背中に左腕を回した。
 右手は純の頭に添えて、ゆっくりと髪を撫でる。完全に寝かしつけの姿勢だが、目的は純に睡眠をとってもらうことなので司としては何も間違いも問題もなかった。
「前は眠れなくなるなんて、なかった」
「そうなんですか?」
「環境が変わるくらいで体調崩してたら、ベストなパフォーマンス発揮できない」
「ああ……
 現役時代の純が見せていた演技は、自身を完全に支配下に置いているのだろうなと思わせるものばかりだった。それはどこの国のどの会場でも変わらない。指先や足先どころか、まばたきの一つ、衣装のひらめきやスパンコールの煌めきですら彼の予定調和なのではないか、と思わせるほどに。
 そんな圧巻のパフォーマンスを見せていた彼が、枕が変わると眠れない、などと言っていたわけはないだろう。
 自己管理と節制、何よりそれを支える強靭な精神力と氷上への執着。現役の頃の純は、おそらくそういうものを軸に出来ていたのではないかと思う。それは今が弱くなったという話では、決してなく。
「今は選手として実力を発揮しなくていい分、抑圧していたものが表に出てきたってことじゃないですか」
「僕はそんなに繊細じゃない」
「肩の力が抜けたんだと思いますよ。眠れなくても、乗り物酔いしても、そんなことで貴方の何かが変わるわけじゃないでしょう」
「乗り物酔いはしてないよ」
 ぺち、と軽い音で脇腹辺りを軽く叩かれた。咎めるというより、じゃれついていると表現した方がいいくらいの力で。
 脇腹を叩いた純の手は、そのまま司の胸元に乗せられた。ぐ、と指先に力が込められて、純の指が司の胸筋に少し沈む。そこに性的なものは感じられず、司の輪郭をなぞり確かめるような触れ方だった。
「君と寝るのに慣れたから、おかしな感じだった。枕の硬さは違うし、布団は冷たいし。今まで睡眠環境なんて、そんなに気にしたりしなかったのに」
 現役の頃の純は、コンディションに影響するか否かだけが環境を整える指針としてあったのだろう。それを否定する気はないが、純が自身の内側にある欲求と向き合えるようになれたのは、悪い話ではないと思えた。
 司は胸の上に伏せる純の髪を撫でながら、口元が緩むのを抑えきれなかった。寝不足になってしまった事実は心配ではあるけれど、純の心を抑圧していた箍を外すきっかけが自分だというのは、どうにもくすぐったい気持ちだった。
「じゃあ、今日は思い切り堪能してください」
「何か嬉しそうだね?」
「え、あ、まあ……はい」
 顔が見えなくとも司の心境は純に伝わってしまったらしい。声に出ていたのか、雰囲気で察せられたのか。
 気まずく思いつつも肯定すれば、純が司の胸元に乗せている指をとんとん、と軽く上下させた。話して、という意味だろう。
「純さんがよく眠れていなかったっていうのは、勿論心配なんですけど。離れた場所でも俺を思い出してくれてたんだな、とか。普段の純さんの安眠環境に俺が一役買ってるのは嬉しいな、とか。純さんが拘りを見つけたのは凄いな、とか。今日は純さんを存分に甘やかしたいな、とか。そういう気持ちです」
……そう」
 司が話している最中もゆっくりと上下していた純の指が、ぱたりと動かなくなる。寝たかな、と思っていると軽く司の胸を押したり、くるくると服の表面をなぞったりと珍しく手遊びめいたことをし始めた。
 氷上で演技をしている際に遍く人を魅了した指先が、こんな子供めいた仕草をするのだと知っているのは一体どれほどいるのだろう。
「次に遠出する時は、連れて行こうかな」
「俺をですか?」
「君といると、よく眠れるし」
「俺は枕みたいに荷物の中には入らないと思いますよ」
「入れないよ、手を引いて連れてくから」
 ぺち、と軽く胸元を叩かれる。大分眠気が訪っているのか、純の手つきはひどく緩慢としたものだった。
「手を繋いでいくんですか?」
「そうだよ。君は、僕の……
 純の言葉は最後まで紡がれず、すとんと消えた。司が黙ったままゆるゆると純の頭を撫でていると、ややあってから微かな寝息が聞こえてくる。顔色や仕草から薄々感じてはいたが、眠気が相当に限界だったらしい。
 純が言いかけた言葉の続きは気になるが、無理に聞き出すつもりはなかった。司に体を預けて無防備に寝息を晒している純が、司に対して悪意のある言葉を告げるわけはないと確信出来ていたからだ。
 手を引いて連れていく、なんて。眠気の淵の思い付きで紡がれた言葉がどれほどに司の胸中を震わせるかを、きっと純本人は理解していないのだろう。純は氷の外にいる自身を過小評価するきらいがある。
 貴方の声が、眼差しが、指先が、何よりも得難いのだと。そう告げてもきっと首を傾げるだけで終わってしまいそうな純には、今はまだ伝えられない。いつか届けられる日が来るようにと願いながら、今日もただ純の傍らに寄り添うだけだった。
 せめて彼の安眠を守れるように、と願いながら純の頭を撫でていた手をそっと背中に回した。純が苦しくない程度の、けれど決して離さないだけの力加減でぎゅうと抱きしめる。
 じわりと伝わってくる体温が泣きたくなるほどに暖かかった。体温だけで言えば司の方がよほど高いのだけれど。抱きしめているはずなのに、縋っているのは自分の方なのだと思えてしまう。
……おやすみなさい」
 貴方の眠りが、どうか穏やかでありますように。
 吐息のような声で囁き、司もまた目を伏せたのだった。