夜明 奈央
2025-08-29 23:58:00
9497文字
Public 久々綾
 

久々綾 これからきっともっと好きになる

「喜八郎のことが大事だからまだ抱かない」それは久々知の吐いた嘘だった。久々知が綾部との身体の関係を拒む本当の理由とは
2025年8月30日 0:00 〜 31日 23:59 開催の綾部喜八郎Webオンリー天才くんの落とし穴 3号目展示作品(常設)

「聞いたぞ、兵助。こないだの実習、潜入先のお嬢さんを上手く手玉に取ってたらしいじゃないか」
 授業が終わり、同級生たちと並んで長屋に向かっていると、三郎が思い出したみたいに俺の肘を小突いた。口許はにやにやと笑っている。
 三郎が言っているのは、ついこないだまで1ヶ月程かけて調査に出ていた実習の件だ。ろ組の三郎は組毎に行われていたこの実習の詳細を知らないはずだったが、一体どこから情報を聞きつけてきたのか。
「なになに? どうやったの?」
 あまり突かれたくはない話だったので無視して有耶無耶にするつもりだったが、雷蔵が興味を持ってしまった。これ以上喋るなという意味を込めて三郎を睨みつけるが、それくらいで怯む奴ではない。雷蔵が乗れば尚のことだ。
「相手先の娘さんを口説き落として、恋仲になった娘さんからまんまとほしい情報を引き出したらしい。しかも『君のことが大事なんだ』とか言って身体の関係を持ちたがる相手を上手くあしらってたとか」
「へぇ〜! 兵助すごいじゃない」
「ああ、兵助みたいなイケメンにそんなこと言われたら俺でも惚れちゃう」
 雷蔵と八左ヱ門が素直に称賛の声を上げる。普通なら、同級生たちから褒められて悪い気はしない。これが他の内容であれば、俺も「ありがとう」くらいは言っただろう。けれど、この件に関しては早くこの話題を終えてくれとしか思わない。うっかり聞かれては堪らない相手がいるのだ。まさか聞かれていやしないかと辺りを見回して、少し先の穴から喜八郎がこちらをじっと見つめているのを見つけてしまった。さっと血の気が引く。雷蔵と八左ヱ門が俺の視線の先を追って、事態に気がついた。
 俺と喜八郎は付き合っている。それは5年生の間では周知の事実で、当然この状況があまり望ましくないものであることは皆すぐに理解した。
 何か言うべきだとは思うが、何と弁明して良いかわからず言葉が出てこない。もしかしたら内容までは聞こえていなかったかも、と脳裏に過ぎるが、喜八郎は無言でこちらを見つめるばかりだ。望み薄だろう。
「いやいや、これは兵助が誠実だという証だろう。良かったじゃないか、大事にされてて」
「そうそう! 忍務でも不貞を働くつもりはないってことで!」
 元凶である三郎が慌てて弁解し、黙って聞いていた勘右衛門もフォローに入る。しかし喜八郎の表情は硬いままだ。
「僕、まだ手出されてないんですよね」
 喜八郎がぼそりと呟いて、ただでさえ重かった空気が凍りついた。真夏の太陽が容赦なくギラギラと照り付け、周囲で下級生たちが楽しそうに駆け回っている校庭には似つかわしくない修羅場の誕生である。
 視線が一斉に俺に集中するが、事実であるため黙りこくるしかない。
「あー、そういや俺委員会の仕事があるんだったー」
「そういえば俺もー」
 勘右衛門と三郎が即座に回れ右をする。八左ヱ門と雷蔵はまだ心配そうに事態を見守っていたが、勘右衛門たちに背中を押されて、無理やりにその場から退場していった。
 4人が離れていっても何も言えずに見つめ合っていたが、やがて喜八郎は諦めたように無言で穴掘りを再開した。穴の底に鋤を突き立て、土を地上へ放り投げる。最初はゆっくりだったが、みるみるうちにスピードが上がる。気づけばいつもの倍のペースで掘り進めていた。まるで俺を拒絶するかのようだ。
 俺はしばらくその様子を無言で見つめていたが、意を決して穴の縁へ近づいた。
「ごめん」
 勇気を出して話しかける。その声に反応するように鋤を突き立てた喜八郎が一瞬動きを止めた。
「怒ってるよな」
「別に怒ってません」
 喜八郎は突き立てた鋤に体重をかけると、また土を地上に放り投げた。言葉の端々には棘が感じられる。「怒ってない」わけがなかった。
「ごめん」
「だから怒ってませんって」
「でも」
 謝るくらいしかできなくてしつこく食い下がっていると、穴の底から俺目掛けて土の塊が真っ直ぐに跳んできた。バサバサと降りかかる土を頭の上からまともに被ってしまって呆然としていると、穴の中から喜八郎がにょきりと顔を出した。その表情は明らかに不機嫌に染まっている。
「邪魔なんでどっか行ってください」
 真面目に取り合ってもらうこともできず、俺はすごすごとその場を引き下がるしかなかった。


 こんな状態では鍛錬にも趣味の豆腐作りにも身は入らない。何もする気になれずに自室に戻り、座っているのも億劫で床に寝転んだ。当然、頭の中を支配するのは先程の大失態のことばかりだ。10割自分が悪いのだが、謝罪すら拒否されてしまえばこれからどうしていいものかわからない。喜八郎に嫌われたらどうしよう。この後別れ話でもされたらどうしよう。そんなことばかり考えてしまう。
 ごろりと寝返りを打ったところで、自室の扉が開かれた。
「仲直り、は、できてなさそうだな」
 俺の顔を見るなり、勘右衛門が申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「すまん、俺が三郎に喋った所為で」
「勘右衛門の所為じゃないだろ」
 あの実習の詳細を知っているのは5年い組の連中くらいだから、喋ったとすればどうせ勘右衛門だろうと予想はしていた。わざわざ口止めをする程ではないと判断したのは俺だし、仮にしていたとしても別の経路から知られていた可能性は十分にある。勘右衛門が直接喜八郎に喋ったとなれば話も変わってくるが、今回の件は正直運が悪かったとしか言えない。運と、あと自分自身と。少なくとも勘右衛門の所為ではない。
 俺がもそもそと起き上がると、勘右衛門も近くに胡座を掻いて座った。
「でも、喜八郎もそんなに怒ることか? そりゃあ女と寝てたらブチ切れても仕方ないけど、手は出してないんだから良くないか? 忍務なんだし多少は仕方ないだろ」
「いや、実はあの女に言った台詞がまんま喜八郎に言ってたのと同じで……
 勘右衛門は俺を擁護してくれるつもりのようだが、このまま慰められるのはフェアじゃない。反省の意も込めて自分の非を説明すると、勘右衛門はしばし言葉を失った。そしてびしりと指を突きつけられる。
「それは兵助が悪い」
「だよな」
「わかってるなら何でそんなこと言ったんだよ」
「まさか喜八郎の耳に入ると思わなかったし……
「それは俺等も悪いけど……でも罪悪感とか……
「あるけど仕方ないじゃん。まさか抱くわけにもいかないし、かといって他に上手い言い訳も思いつかなくて……
 ストレートに責められると若干拗ねた気持ちになるのは仕方がない。俺だって悪いとは思っていたが、他に妙案が浮かばなかったのだ。というか、手を出さない言い訳で相手に愛を疑われずに済むものなんて、世の中にそういくつもないだろう。恋愛経験も人生経験も少ない俺にはあれが本当に精一杯だったのだ。他に適切な理由があるなら教えてほしいくらいだ。今後の忍務の参考にする。
 俺は至極真っ当なことを言ったつもりだったのだが、勘右衛門には何か引っ掛かるところがあったようだった。顎に手を当てて考え込んでいる。
「それってつまり、喜八郎に手を出してないのは違う理由があるってことか?」
 まさかいきなり図星を突かれるとは思っておらず、つい目を逸らしてしまう。これでは肯定したも同然だ。勘右衛門にももちろんそれは伝わったようで、呆れて天を仰いでいる。
「それは完全にアウトだろ」
 もちろんそれは俺だって理解している。自分が悪いという自覚があるから、喜八郎に強く出ることもできないのだ。
……なんで嘘なんて吐いてんだよ」
……言いたくない」
「俺には言わなくていいけど喜八郎には言ってやれよ」
 勘右衛門の言い分はその通りだ。それこそ誠意がないというものである。ぐうの音も出ずに黙り込んでいると、呆れ顔を向けていた勘右衛門がさっと顔色を変えた。
「まさか、やっぱり男相手には勃たないとか言わないよな」
「そんなわけないだろ。だったら最初から付き合ってない」
「だよな」
 男を好きになったことをすぐにすんなり受け入れられたわけではない。最初は勘違いか一時の気の迷いだろうと思ったし、そうじゃないとわかってからはどうせ叶わないからと諦める努力をした。結局喜八郎にも望んでもらえて手を取る覚悟を決めたが、思い悩む俺を横で優しく見守ってくれていたのは他でもない勘右衛門だ。無理強いせずに色々と相談に乗ってくれたことには感謝している。覚悟を決めた後、時に優しく時に厳しく背中を押してくれていることにも。それは現在進行形で続いている。
「だったら、謝ってちゃんと説明してこい」
 びしっと外を指差される。
「えっいや、邪魔って追い返されちゃったし」
「ちゃんと説明したのか」
「してないけど……
「じゃあせめて説明するまで帰ってくるな」
 今度は顎先で外を示される。勘右衛門の意志は強固で覆せそうにない。こういう強引さは結果的にはありがたいことが多いのだが、上手くまとまるまではいつだって横暴に思える。俺はすごすごと部屋を出た。


 喜八郎が話を聞いてくれる気はしないが、話をせずに戻っても勘右衛門が部屋に入れてくれるとも思えない。気乗りしないまま先程喜八郎が穴を掘っていた場所に戻ってみると、少し目を離していた間にすごい勢いで穴が増えていた。事情を知らない下級生たちも驚いてその様子を遠巻きに眺めている。校庭はこれ以上どこを掘るんだというくらいに穴だらけだ。
 以前にもこうなったところを見たことがある。確か学園長先生に揶揄われて怒り心頭で一晩中穴を掘り続けていたんだったか。余程怒らせてしまったらしい。俺が声を掛けられずにいる間にも穴はみるみる増えていく。
 普段でさえ、穴掘りしている時にあまりしつこく話しかけると嫌がられる時がある。話をするにはひとまず自分から穴掘りをやめるのを待った方がいい。その頃には、怒りも多少落ち着いているだろう。
 周囲にはほとんど人気はなかった。あまりの穴の数に、みんな喜八郎の虫の居所が悪いことを察して離れていったのだ。
 俺が校庭の隅で穴が増殖するのをぼんやりと眺めている間に、太陽が山の向こうへと消えていった。もう夏至は過ぎたとはいえ、まだまだ日は長い。忍たま長屋の夕食のピークも過ぎただろう。
 喜八郎はまだ穴の空いてない真っ新な土地を求めて遠くにいってしまった。もうどこにいるのかもわからないくらいだ。
 今日は諦めようかと脳裏に過ぎる。勘右衛門には怒られるかもしれないが、「見つからなかった」とでも言えば許してもらえるだろう。もしくは一晩くらい八左ヱ門の部屋に泊めてもらったってかまわない。
 後ろ髪を引かれつつ諦めようと立ち上がると、背後に人の気配を感じた。
「喜八郎のあれはお前が原因か」
 そこには呆れ顔の立花先輩が立っていた。
「すみません」
「謝るなら私じゃなく喜八郎に謝れ」
「そうですね」
 それ以上言えることもなくて黙りこくる。陽が落ちていくらか涼しくなった風が立花先輩との間を吹き抜けていった。
「怯えた下級生が何人も『喜八郎を止めろ』と私のところに来た。何をしたんだ」
 目線だけで座るように促され、すごすごと逆戻りする。これは絶対に怒られるだろうと思えば自然と座り方は正座になった。立花先輩は基本的に俺と喜八郎とのことに口出ししてくることはないが、何か問題を起こせば話は別だ。そして大抵は喜八郎の味方をする。無条件で甘やかすつもりはないらしく、明らかに喜八郎に問題がある場合には上手く諌めてくれて助かることもあるが、そんなのは稀だ。たぶん今日も耳に痛い説教を喰らうことになるのだろうと思えば気が重い。
「まあその、ちょっとデリカシーのないことを言ってしまいまして」
「自覚があるならさっさと謝ってこい」
「その通りなんですが、さっき1度謝罪を拒否されてしまったので、落ち着くまで待とうかと……
「で、今日は一旦諦めて帰ろうと?」
 立花先輩の視線がグサグサと突き刺さって、まるで針の筵だった。なるべく小さく縮こまってみるが、あまり意味のある行動ではない。
「あまり人のプライベートな問題に首を突っ込むものでもないからな。具体的なことを聞くのは差し控えるが、あいつはお前が想像しているよりはずっとお前のことが好きだぞ。そろそろ落ち着いた頃だろうし、さっさと謝って仲直りしてこい」
 激励なのか肩を強めに叩かれる。視線で示された先には、穴掘りを終えたらしい喜八郎がいて、こちらを真っ直ぐに見つめていた。
 あ、と思っているうちに立花先輩は俺を置いてどこかへ消えてしまった。突然のことに待っている間に散々考えた台詞も全く出て来ず、喜八郎も俺のことなど見えなかったみたいに通り過ぎていってしまった。慌てて追いかけると、喜八郎は少し行った先にある井戸で足を止めた。桶で水を汲み、頭のてっぺんから雑に水を被る。
「僕、ほんとに怒ってないですよ」
 ぽたぽたと水を滴らせながら、喜八郎はぽつりと言った。はっと顔を上げる。喜八郎は頭からぽたぽたと雫を滴らせながら、桶に新たに汲んだ水でじゃぶじゃぶと腕を洗っている。
「久々知先輩が僕のこと大事にしてくれてるのは、ちゃんとわかってます。だから怒ってません」
「喜八郎……
「そりゃあ多少むしゃくしゃはしましたけど」
 感極まって名前を呼ぶと、ぴしゃりと付け加えられた。やはり怒ってはいたらしい。なら俺に怒りをぶつければいいのに、聞き分けの良い恋人であろうと穴掘りで発散して自分の中で片付けてしまったようだ。それを強いたのは俺だ。
「あいつはお前が想像しているよりはずっとお前のことが好きだぞ」
 先程の立花先輩の言葉が脳内に蘇る。自分のことばかり考えていたのが恥ずかしくなった。
「ごめん」
「いいですよ。もう気にしてません」
「そうじゃなくて、俺ずっと喜八郎に嘘ついてた」
「えっ?」
 喜八郎が目を丸くしてこちらを見た。たぶん、俺の言い訳を本気で信じていたのだろう。長い髪の先から、ぽたりと雫が落ちる。
 大事にしている自負はあった。喜八郎のことが好きだから罷り間違っても身体目当てだなんて思われたくないし、未熟で未発達な喜八郎の身体に負担を掛けるのも本意ではない。でも残念ながら、それが全てではない。それだけで恋人との関係を拒否する程、できた人間ではない。利己的で自分勝手な理由を説明することもせず、望まれていると知りながら遠ざけていた。
「俺が意気地なしなだけだ」
「え、えーっと、それ、どういう意味ですか? っていうか、ここでして大丈夫な話ですか?」
 喜八郎が困惑気味に周囲をきょろきょろと見回す。急な話の展開に戸惑っているようだが、その割には冷静だ。
 俺は言葉を詰まらせる。喜八郎の怒りに触れてほとんどの者はここから去ってしまったが、事情を知らずに通りかかる者がいないとは限らない。忍たまは無駄に度胸があったりあえて空気を読まなかったりと曲者揃いだから、近づかない方がいいとわかっていても井戸に用事があれば近づいてくることもある。
 あまり他人に聞かれたい話ではない。喜八郎は少し考えて「僕の部屋に来ますか?」と言った。
「それか、さっき掘ってた穴の中でもいいですけど」
 冗談めかしてもうひとつの選択肢を提示される。俺は喜八郎の部屋を選んだ。


 移動する間、ほとんど会話はなかった。お互いお喋りな方ではないから、2人でいる時に会話がないのはそう珍しいことではない。喜八郎の態度から先程のようなツンケンとした気配は消えている。喜八郎は本当に俺を許すつもりらしい。てっきり怒られると思っていたから、拍子抜けだった。喜八郎からは時に遠回しに時にストレートに「抱いてほしい」と伝えられていたのだから、もっと怒る権利があるはずなのに。
 4年い組の部屋に辿り着いて扉を開けると、すぐに滝夜叉丸の喚き声が飛んできた。
「喜八郎! 下級生たちが怯えていたぞ! どれだけ穴を掘るつもりだ! しかもこんな時間まで! みんなもうほとんど夕食は食べ終わっているぞ。どうせ夜中に腹が減ったと言い出すんだからちゃんと食べておけ。というか濡れた服は早く着替えろといつも言っているだろう。いくら夏でも」
「はいはい、わかったわかった。後で適当にやっとくからちょっと出てって」
 滝夜叉丸の小言は放っておけばいつまでも続きそうだったが、喜八郎はそれを強制的に遮断した。担いでいた踏鋤を適当に近くの壁に立て掛けると、滝夜叉丸の背をぐいぐい押して部屋から追い出そうとしている。口煩い滝夜叉丸をこうやって受け流せるのは、ある意味相性がいいのだろう。これが長年の同室の付き合いという奴か。
「ふざけるな。ここはお前1人の部屋じゃなく私の部屋でもあるんだぞ!?」
 滝夜叉丸は抵抗を示すが、喜八郎の強引さの方が上だった。部屋の入り口まで押し出され、そこでようやく扉の影に隠れていた俺の存在に気がついたようだった。
「ごめん、邪魔して」
 我ながら情けない顔をしていたと思う。滝夜叉丸はしばしぽかんと俺の顔を見つめると、おほんと咳払いをした。
「仕方ない。寝る時には戻ってくるからな」
「そこは気を利かせて『朝まで戻ってこない』って言うところじゃないの」
「急に追い出されてそこまで面倒見切れるか! そういう時は事前に言え!」
「はいはい、わかったよ」
 喜八郎は犬にするみたいにしっしっと手を前後に振っている。露骨に鬱陶しそうにしている喜八郎とは対照的に、滝夜叉丸は心配そうな顔を隠さない。「喜八郎を泣かせたら許しませんよ!」なんて台詞が聞こえてきそうだった。本当に事前に言っておけば部屋を空けてくれる気があるのか微妙なラインだ。
 滝夜叉丸がどこかへ向かうのを確認すると、喜八郎はずかずかと自室に入る。空いたスペースに座り、俺にも座るように促す。
「ごめん、邪魔しちゃったみたいで」
「いいですよ。あんな奴気にしなくて」
 喜八郎はするりと頭巾を解いて傍に置く。髪や服はもう生乾き程度に乾いているようだった。
「僕、嘘吐かれてたんですか?」
 喜八郎が不安そうに眉尻を下げる。
「ごめん。他に理由なんて思い浮かばなくて。でも、喜八郎のことが大事なのは本当だよ」
「じゃあ僕が未だに抱いてもらえない本当の理由はなんなんですか?」
 ストレートに尋ねられるとやはり怯んでしまう。好きな子相手に自分の情けない部分なんてできれば知られたくない。けれどこれ以上誤魔化すのはもっと不誠実な気がして、冷たくなった手をぎゅっと握りしめた。
「怖いんだ」
……何がです?」
 俺が答えを躊躇っている間に、喜八郎が何かを閃いた。それを恐る恐るといった風に口にする。
「僕、てっきり抱かれるものだと思ってたんですけど、もしかして逆だったりします?」
「えっ違うよっ!? あっ喜八郎が抱きたいならそれでもいいけど」
「いえ今の所は別に……
 ただの思いつきだったようで、あっさりと引き下がった。しかし言われてみれば、普通は抱かれる方が怖いものだろう。何をどこまでするかは相談するにしても、いくら好いた相手とはいっても己の身を任せるのに不安はつきものだ。体内に異物を受け入れるのであれば、それ相応の痛みも覚悟すべきだろう。
 喜八郎はそれを承知の上で抱かれたいと言ってくれているのに、くだらないことでまごついている自分が恥ずかしくなった。
「もしかして、優しくできないかもとか思ってます? 僕も男の子なので、ちょっとくらい乱暴にされたって平気ですよ」
「それもなくはないけど……お前が平気でも俺が平気じゃないからそういうこと言わないで」
「知ってます。久々知先輩は優しいので、僕は心配してません」
「ありがたいけどそこまで信頼されると心が痛い」
「先輩は期待されるとそれに応えようとするタイプなので、こう言っておけば一等優しくしてくれるかなって」
 喜八郎が珍しく甘えた声を出した。甘えるみたいにして、甘やかされている。歳下にこんなにも気を遣わせるなんて情けない。
「じゃあ、結局何が怖いんです?」
 喜八郎の真剣な眼差しが俺に向けられる。
「自分が、溺れるんじゃないかって……
「何に?」
「喜八郎に」
「えっと……?」
 喜八郎がこてん、と首を傾げる。全くピンと来ていないようだ。かっこ悪くてあまり知られたくはなかったが、ここまで来れば腹を括るしかない。
「今だって、こんなに好きで。気づいたらしょっちゅう喜八郎のこと考えてるのに、これ以上溺れたら困るじゃない。慣れてないだけでそのうち落ち着くと思ってたのに、どんどん好きになっていくんだ。口付けただけでこれだったら抱いたりしたら」
「あの、ストップ、待ってください。キャパオーバーです」
 遮られて顔を上げると、喜八郎は座ったまま床に伏せて顔を手で覆っていた。僅かに覗く耳は真っ赤に染まっている。
 喜八郎の熱が伝播するように、俺の顔にもじわじわと熱が集まってくる。しばらく無言のままお互いに熱が引くのを待つしかできない。
「先輩、いつもそんなこと考えてたんですか?」
 落ち着いてきたのだろう喜八郎がしばらくして顔を上げた。視線は床の上を這ったままで、まだその顔はほんのりと赤い。
「考えてたよ」
「好かれてる自信はあったんですけど、思ってた100倍くらい好かれてるみたいでびっくりしてるんですけど」
「そりゃ、あんまり表に出して引かれても嫌だからね」
「引きはしませんよ」
「ほんとに?」
「たぶん?」
 冗談めかして疑問形で返される。この感じだと、本人もあまりわかっていなさそうだ。嫌がっているわけではないようだから、今後は様子を見つつもう少し表に出してもいいのかもしれない。
 喜八郎は宙を向いて少し考える素振りをしてから、「でもそれだったら」と続けた。
「とっとと抱いた方がいいと思うんですよね」
「俺の話聞いてた?」
「聞いてました。だってまさか、このまま一生抱かないつもりじゃないでしょう?」
「いや、まあ、そりゃ?」
「だったら早い方がいいですよ。来年になったら実習の難易度は今よりもっと上がって、危険な忍務も増えます。卒業したらどうするつもりか知りませんけど、忍者やるなら失敗は死に直結します」
「そうだけどそれがどう関係するの?」
「溺れるなら、安全なうちに溺れときましょうよ」
 喜八郎が悪巧みをするみたいににやりと笑う。閨事へ誘われているというよりは、「あそこに罠を仕掛けてあの人を引っ掛けましょうよ」と誘われているみたいだ。本当はそれこそが罠で、ターゲットは俺なのかもしれない。ずっとなんとかして避けようと足掻いてきたけれど、今思えば喜八郎のことを好きになったあの時からとっくに手遅れで、喜八郎の罠に嵌っていたのかも。
「溺れてもいいの?」
「いいですよ」
「それで俺が進級できなかったらどうするの」
「そしたら来年は同級生ですね」
「うーん、それはちょっと勘弁してほしいかも」
 俺が苦笑いを溢すと、喜八郎も釣られたみたいに笑った。しばらく2人で笑い合う。
 溺れてしまおうと決めた。滝夜叉丸が夜には帰ってくると言ったことに、俺が心底安堵したのはここだけの秘密だった。



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