大きな池のある公園には色とりどりの手漕ぎボートがおり、それぞれが思い思いに休日を過ごしている。青年同士で競争のように漕ぐ者、恋人同士なのか、楚々とした佇まいで日傘をさした女に微笑みかけながら漕ぐ若い男、はたまた、父と母で舳先と漕ぎ手にわかれ、小さな子どもを抱える家族連れ…と、そんな具合だ。
…さて、見た目に反して腕力も膂力もある鬼太郎は、本来ならボートを漕ぐのなんて朝飯前である。
しかし、大人の水木がなにもしないで鬼太郎に漕がせるようなことをしたら、さすがに問題がある。鬼太郎が幽霊族であることなんて周りの人間は知らないし、また知られても困るわけだし。
「そんな顔するなって」
自分の膝の間に挟んだ養い子が、不満げに頬を膨らませている。…このぷくっとした頬を、くちばしのようにツンとさせた唇を上から見る時、水木はひそかにいとおしさで胸がいっぱいになる。普段は聞き分けの良い、良い子の鬼太郎がこんな風に不満を表すことは少ない。それがわがままをぶつけてくれているようで、水木は嬉しくなるのだ。
「…ぼく、おとなのひとにもまけないのに」
恨めしげな声。笑いを噛み殺しながら、知ってるよ、と頷き、水木はゆっくりとボートを漕ぐ。鴨の親子が池の端をゆっくり渡っていくのが見えた。
「でも、今日は俺に任せてくれ。みじゅもなかなかの漕ぎ手だろ?」
「……ん」
幼い栗色の頭が見上げてくるのに笑いかける。まだいささかご機嫌斜めのようだが、それでも頷いてはくれた。
「鬼太郎、王様みたいだな」
「おうさま?」
「ああ。俺はさしづめ玉座といったところだ」
「…?」
ふよふよの─その実、どんな力自慢より剛力なのだけれども─腕を自分の太ももに投げかける様子は小さな王様。おあつらえ向きに、髪には光が輪を作る。冠のように。
背中を丸めて、その頭にちゅっと唇をくっつける。
「さあ、王様。出発進行だ」
優しく話しかければ、んっ、と頷いた後ようやく笑ってくれる。しゅぱつ、しんこー、というたどたどしい声は砂糖菓子のように甘かった。
…というような思い出を水木が振り返ったのにはわけがある。少々込み入った理由が。
今水木の目の前には、鉄紺のような深い色の着物の上に虎縞のちゃんちゃんこを羽織った青年がいる。落ち着いた茶色の髪は、前髪が顔の半分を隠すように長い。後ろは少し長めで、何となく丸い。
青年でなければ、こちらを見つめる大きな四白眼といい、とても見覚えがある。ただ、大事なことだが、水木に覚えがあるのは青年ではなく少年である。
「…しかし、鬼太郎…本当にそんなことで…?」
水木は今しがた聞いたことがにわかには信じられず、繰り返し問うた。
──突然やってきた青年は、自分は鬼太郎だと名乗った。とても信じ難いことだったが、そこは目玉おやじも一緒だったため、疑うことはなかった。特徴も似通っていたし、そうか、成長するとこんな風になるのか…と何やら感慨深いほどで。
彼ら父子が言うには、こうだ。とある朽ちた祠に祀られていた神が零落し、災禍となっていた。妖怪達に助けを求められ向かった鬼太郎は見事その神を封じることに成功したが、最後に呪いをかけられたのだという。
「千年…と言ってましたけど、力も落ちていたし、三百年とか…とにかく千年ということはないと思う」
その呪いは、相手の命の時間を先に進めること。人間や、寿命の短い生き物ならひとたまりもない。だが、幽霊族は長命だ。神の自己申告では千年、鬼太郎の見立てでは三百年の時を進められても、鬼太郎が倒れることはなかった。むしろもっと力の漲る状態にしてしまったのだから、よほど相手もツキに見放されていたのだろうか。
「調べたんじゃが、この呪いはの、あることをすれば解けるそうなんじゃ」
持って回った言い方をする目玉に、水木はあきれたため息をついた。
「それは俺にも手伝えることなんだろう? だから来たんだよな?」
「それは…まあ、そうなんじゃが…」
どうにも歯切れが悪い。こちらもまた紆余曲折を経て老いがほとんど止まってしまった水木が、眉をひそめて首を傾げる。
「僕から話します」
──当然といえば当然だが、成長した分鬼太郎は声変わりをしていた。それが何だか、知らない男のようで落ち着かない。…ただ、どこかに元の声の片鱗はあって、よく聞けばちゃんと鬼太郎の声なのだが。…喉仏もはっきり出ている。
「…僕、…大きくなったらしたいと思っていたことがいくつかあって」
「うん、…今ならできるな?」
わからないながらも、水木は話を合わせる。鬼太郎はちらりと水木と目を合わせてくる。真剣なまなざしだった。ドキリとしてしまうくらいには。
なんだこれ…? と困惑しながら呼吸を整える水木に、鬼太郎は続けた。少なくとも表面上は淡々としているように見える。
「…ボートを…」
「え?」
ボート?
水木が首をひねったのも当たり前だ。この話の流れでボートが出てくるのは脈絡がない。
「僕、あの時ボートを漕ぎたかったんです。あなたを乗せて」
「…………………、……?」
いつだ? と思ったのは口に出さず飲み込んだが、顔には出てしまっていた。鬼太郎が苦笑する。
「覚えてませんよね…」
「……、あっ! もしかして、…井の頭公園…?」
ひょっとして、という水木の言葉に、鬼太郎は黙って頷いた。
「…おまえ、…だって、まだ4歳くらいで…」
唖然とする水木に、鬼太郎は言う。
「覚えてます、もっと小さい頃のことだって…。僕は、全部覚えてる」
「…………」
口を開けたまま、水木は動きをとめる。あっけにとられてしまって。
「…ええと、……」
混乱しつつも、水木は「わかった」と頷いた。
「いいんですか?」
ぱっと鬼太郎の顔がほころんだ。そうするとやはり普段の少年の面影があって、なんだかほっとする。
「つまり、その…、ボートを漕ぎたい?」
「はい。あなたは舳先に。僕の方を向いて座ってください」
困惑する水木に、鬼太郎は言う。
「…しかし、鬼太郎…本当にそんなことで…?」
「いいんです、ただ」
「ただ?」
「他にあと九つあります」
「ここの…、え?」
水木は目と口を丸くして言葉を失ったが、鬼太郎はごくごく真面目な顔で見つめていた。
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