店の扉をくぐった瞬間、外の空気とは別の匂いがした。甘くて、濃い香り。シャンパン、煙草、そして、重くて甘い、一見爽やかさそうな香りなのに、後には花のような香りが特徴の香水の香り。
ここは男女入り混じったキャストが並ぶ所謂コンセプトカフェ。ただ酒を飲みたいやつも、キャストを疑似恋人にしているやつも、金さえ払えば楽しく過ごせる夜のカフェ。今夜はバニーの日、だからキャストはみなウサギの耳をつけている。バニーガールにバニーボーイ。ぴんと伸びた耳や、ふわふわのしっぽを揺らして、いつもよりも柔らかな部分を巧みに露出して、熱と視線で客をもてなしていた。
そんななか、開店よりも二時間遅れて出勤したおれは、普段よりピッチリとしたシャツに黒のスラックス、X型サスペンダーを留めてBARカウンターに入った。そこで、店内が妙に静かなことに気づく。
バックヤードで女の子達が騒いでるなーと思っていたら、顔の整った若い客が来ているらしい。へー、珍しーとVIPソファを遠巻きに眺めてみたが、店内の照明と件の客がキャップを被っていたことから顔までは拝めなかった。
そうしていたら、何故かおれに順番が回ってきた。
うちの人気嬢達がかわるがわるついていたはずなのになにが不満なんだよ。うちの子ら可愛いじゃん。
首を傾げて、手でバツを作った。
「いや無理でしょ、男指名の客なら最初からフリーでボックスにこないって。冷やかしじゃね?」
「大丈夫!シャッチン顔可愛いから」
かわいくはねーだろ。
そう反論する前にVIP卓に座ってくるように言われた。仕方なく手渡されたうさぎの耳のついたカチューシャをつけて接客モードに切り替える。
すぐにチェンジじゃ女の子たち可愛そうだし、おれがやるしかない。
冷やかしだと思うから適当でいいか。
「お隣しつれいしま…あ、」
男を見た瞬間に、目が泳いだ。
嗅ぎ慣れたスズランのクラっとする匂い。
「ペ、いや、……………………あー、チェンジ?」
「しない」
まるで迷惑とでも言いたげな顔をしてみたものの、帽子を深く被っててもわかる。普段よりスポーティーな装いの、確信犯的に変装の真似事をして来ている恋人を上から下まで凝視してしまった。
なんで、何しに、の言葉を飲み込んで、ひと呼吸する。
“ここ”はペンギンが在籍しているホストクラブや、うちのキャストで掛け持ち組も少なくないキャバクラほどにナンバー争いがあるわけではない。しかし、完全にドリンクとオプションのバックで生計を立ててる色恋まったなしの仕事には変わりない。故に、恋人の来店は褒められたものではない。
自分目当ての客が店内にいないことを確認してから、ゆっくり息を吐いた。
「俺みたいな常連が来ないのも困るだろ?」
確かに、ペンギンが来るのは初めてではないが、常連かと言われれば首を傾げたくなる。
ふらりと現れては高額を使って短時間で出ていく。
この仕事をやめろとは言わないが、良い顔はしていない。それがペンギンのスタンスだ。
だって、それはお互い様だから。
「イベ日にしては意外と空いてんな」
「今日はシークレットイベントだから対外的にはど平日の通常営業だけど?」
「バニーの日なのに?」
「バニーガールとかおじだけだろ喜ぶの。ペンギン、そういう趣味だった?」
「シャチもバニー服着んの?」
「んなわけねーだろ……ペンギン、今日休みだっけ?」
「シャチに会いたくなったからお終いにしてきた」
クエッションの応酬を切り上げたのはペンギンの方だった。
いやいや、おかしいだろ。
まだ、そんな時間じゃない。
「そうだ、“ここ”店外デートみたいなオプションあったろ?」
「あー、プリ同ね。ゲーセン行くだけ、一時間。ちなみにおれはNG」
知ってるくせに、とは声に出さなかった。
「おれでも?」
「なにそれ、ウケる」
ペンギンが目線を移す。ペンギンは“ここ”に長居は好まない。黒服に目配せして、静かにオーダーを告げるペンギン。ぎゅっと、手を握られたら絆されてしまうのはしょがない。
「……またそんな高けーの頼んで」
「いいだろ、おれの金だ。今日のノルマクリアってことで」
店内の空気が、すこしだけ変わった。高額ボトルの発注が入ると、自然と音楽が変わる。ライティングもやや暗くなり、フロアスタッフが手際よく動き出す。ボトルが登場する演出の準備だ。特別な客だけに許された、派手な“投下”が始まる。店内がほぼ暗くなって、景気の良い音楽が鳴り響く中、「なァ、今すぐ持ち帰りできる?」の声。
これがその辺の客だったら「あー、ごめんなァ? 今日はいっぱいで……。でも次はもっと長く一緒にいたいからまたきてよ」とかテキトーに愛想振り撒いて次に繋げるんだけど。
ちょっと笑いそうになりながら、ペンギンの茶番に乗ってやる。どうせ、爆音の音楽で誰にもなんにも聞こえてない。
「それ、さっきのシャンパンなんかより大変だけど……ペンギン、払える?」
「どうかな、どんくらい?」
「おれは高いよ」
と耳元で囁いた。
そしたらペンギンが「そっかァ、うーん」とひどく悩み始めて。面白かったから暫く見てたら「……分割になるかもしねーけど、一生かけて支払う」なんて言うもんだから、口元が抑えきれなくてふははって笑ってしまった。
「じゃあ、くくっ、あははは、特別な」
「……ん、帰ろ」
ペンギンの顔がぱあっと明るくなる。口元がきゅうって上がって、わかりやすくご機嫌で面白い。
「バニーの衣装借りて帰ろっかなトクベツに」
また、小さく微笑んで首を傾げれば、ペンギンの顔が期待に満ちた。夜の世界において特別扱いが嫌いなやつはいない。
「マジで帰ったらバニー服、着てくれんの?」
「いいよ、バニーの日だし」
にこにこのペンギンの手をもう一度ぎゅって掴んだ。
「でも、今度アポ無しで来たら出禁にするからな」
「だって、シャチおれが見てないとなんか、致命的なのやらかしそうで心配」
「またそれー?大丈夫だって、うまくやってる」
「だと良いけど」
へらりと笑ったおれの髪の毛をペンギンがぐしゃりとかき混ぜた。
その後、おれが客のメンケアをしくじって腹を刺されて、致命的な負傷をしたわけだが。それはまた、別の話。
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