いを
2025-08-21 20:53:13
5340文字
Public 刀神
 

帰去来(Ⅵ)

青嵐
・紫垂月さん【Metol_P】
お借りしています。

 宿は静まり返っていた。植柾影子も、来島も見当たらない。影子が「他に客はいない」という言葉を思い出したが、それにしても静かだ。廊下の軋む音と衣擦れの音だけが響いている。
 蝉や鳥の声は遠くで聞こえてくるだけ、幾分か落ち着く。
 神のようなものだといった女の前では強がってはいたが、からだがあまりいうことを聞かない。
 植柾に騙されたとは思わない。ただ自分の不甲斐なさに呆れ果てる。なにがあってもおかしくはないと分かってはいた。だというのに。
 あてがわれた客室に入るも、視界がもはや機能しない。色だけがぼんやりわかる程度だ。ただ、太刀だけは抱えて落とさぬようにした。
 紫垂月頼宗に支えられて座椅子まで歩き、崩れおちるように座り込む。
 ひゅう、ひゅう、と喉がなった。だが自身の予想に反して心持ちはひどく、おもしろかった。
 口もとは緩み、笑みを浮かべている。自分の表情かおだというのに、なぜ笑っているのかわからない。ただひとつ理解していることといえば、「私が生きていること自体」がおもしろく、おかしかった——そういえばよいだろうか。
 冷たい汗、足の指先までの痺れるような冷たさ、おさまらない動悸と頭痛、喉の渇き。
 それでも太刀かれは離さなかった。いや、ただ離せなかった。酸素がうまくいき渡らないため、眩暈がする。
 妖刀を一般人に触れさせないためという大義名分。そんなきれいなものではない。抱えたままの妖刀をなぜ離せないのか、自分にもわからない。こうなってまで。
「主、それを離さないとどうなるか分からないよ」
……あなたをはなせたら、どれほどよかっただろう」
 ほんの少し冷たい手のひらが、ひたいを撫でた気がした。そこからの記憶はない。
 
 ただ、夢を見た気がする。
 幼いころの夢だ。私が夜、獣のように林や森を走り回ったあと、月が浮かぶ海を見つめていた。小さいからだは熱を持ち、呼吸をしながら空を見上げていた。
 きらりと何かが光った。海の中で。私はそれが気になって暗く黒い海に入った。なまぬるい潮水が私の着物に重たくのしかかり、あっという間に沈んだ。
 ——何かを見たのだろう。私は。きっと、うつくしいものを、見たのだろう。その手はあまりにも小さく、当時の私ではなにもつかめなかった。ただ海に沈み、海水をへだてて見た月は、この世界で一番美しいものだと思った。私はこれを見たかったのだろうかと呟きたかったが、口からは泡がでるばかりで声にはならなかった。
 ——私は助かった。美しいと思った月に助けられたと思った。けれど今思えばそんなはずはなく、誰が助けてくれたのかは現在もわからない。
 
「どうして泣いているんだい」
 目をふたたび開いても、視界はぼやけたままだった。それは生気のめぐりや植柾にあてられただけではなく、自分が泣いているからだと理解したのは数秒後だった。
 天井が見え、紫垂月頼宗が横に座っている。視界がようやく開けて、指で水滴を拭った。
「なぜでしょう」
 私も不思議に思います、とずいぶんと掠れた声で答えた。
 泣くことは人間に必要なことだと思っているけれど、何年も泣いていなかった。悲しいと思うことなどない、辛いと思うことも、痛いと思うことも、苦しいと思うことも。ただ一律で平坦な人間だった。強く喜ぶことも嬉しがることもなかった。だから分からない。なぜ泣いたのか。
 今自分が横たわって布団の上にいることしか理解できなかった。
 具合が悪くて泣いてしまったのだろうか。四十五になった男が。それではとても——いやあまりにも情けない。
 熟した果実のような匂いがし、頭を横に動かす。
「イチジク……
 茶色がかった、先のすぼまった楕円形の果実。そういえば夏が旬だっただろうかと思う。
「庭になっていたから」
 ここから中庭がよく見える。彼はあごを少し上げて目で促した。腕に力を入れてのそりと起き上がり、イチジクをひとつ、手におさめた。
「いい匂いです」
 顔を近づけると、清々しい甘い匂いがした。
「なにか食べた方がいいと思って」
 食事をしない刀の神が、食事をしなければ生きていけない人間にそういった。
「ありがとうございます」
 へたを下にゆっくりと引き、皮を剥く。一枚剥くごとに、匂いが強くなるように感じた。
 ひと口、齧った。とろりとした濃い甘さが舌をなでる。種は歯で潰し、口の中でぷつ、と音がした。
「美味しい?」
 昨日とおなじトーンの問いに、笑って頷く。
 外に花がつかない果実。うやうやしく慎ましい、内面に咲く花。人間に媚びない美しさであるような気がした。それを、人間である青嵐が食う。そのことがやはり、おかしいと感じた。口もとを緩めるくらいには。
 相変わらず頭痛とえもいわれぬ鈍痛と冷えが襲ってはいるが、眠って少しはよくなった。
 中庭を見ると、暗くなってきている。何時間眠っていたのだろうか。掛け時計を見れば五時を過ぎていた。イチジクを食べたとはいえ、生気をからだの中でつくるのにはいささか——いや、かなり足りない。
 そう思った直後に腹が鳴った。
「失礼……。このあたりで食事できるところがあればよいのですが」
 夕食の時間は七時と覚えている。もっとも、植柾影子や来島たちがここにいれば、の話だが。
「私が寝ている間にどなたかきましたか?」
「きていないよ。誰も。でも中庭に誰かいたね」
「そうですか……。あまりにも、人気がないので」
 彼はふと中庭を見てから首をかたむけ、こういった。
「さみしい? 人間がいないと」
「いえ、そんなことは」
 それだけ答え、荷物をまとめた部屋の隅を見やる。
 スーツケースの中に、カロリーになるようなものは入っていただろうか。女の家まで歩いたが、飲食店らしい建物はなかったし、あの距離以上歩ける自信は今はなかった。
 時間をかけて立ち上がった。視界が揺れてはいるが、果実を口に含んだから先刻よりはましだ。
 それでもいつもよりはのろのろと歩き、スーツケースを開く。駅で買ったスナック菓子とパン、干し芋があった。手は迷いなく袋に入ったパンに伸び、開け口を両手で開ける。びり、と強い音をさせ、苺ジャムとマーガリンを塗ったコッペパンに齧りつく。ほぼ無意識に口を動かし、無意識に飲み込む。機械的に咀嚼を繰り返し、唾液とともに飲むのを繰り返す。甘酸っぱいジャムとマーガリンの味と甘いコッペパンの味を楽しむもなく、ただひたすらからだの中に放り込んだ。
 息を荒げながら、鞄の中に入れたままのペットボトルの水を一気に煽る。
 腹に何かがたまったのを、手をあてて確認する。
 満たされたとは思わないが、たしかにここに食物が入っている。そのうち生気が体内を巡るようになるだろう。十分とはいえないかもしれないけれど。
 それでも来島らがこない可能性もないわけではない。費用は前払いで支払ってはいるものの、どうも自分たちを歓迎していない空気をひしひしと感じる。
 どこまでいっても、ここではよそ者なのだろう。
 もっとも、彼らが自分たちのことをどう思っているかなど分からない。
 坐ったまま、動かずじっとしていると虫の声が聞こえてきた。それだけ静かだった。パンをひたすら食べていた時は気づかなかった。
「鈴虫でしょうか」
 昨日も聞こえていた。リイリイ、リイリイと羽を擦り合わせる音が聞こえる。
 ——人間では出せない音である。
 畳に手のひらを置き、袂から一枚、札を出した。
 宙でその札を翻すと鳥のように紙の羽を羽ばたかせ部屋の中を飛んだ。中庭にでる窓を開け、式神を外へ飛ばした。橙色の紙の鳥は夕方の空へ舞い上がる。
「周辺で異変があれば知らせてくれます」
 いく末を見ていた紫垂月頼宗は、青嵐の指先を見ていた。乾燥した爪、筋ばった指、ささくれしかないのだけれど。
 無意識に指を手のひらで握り、包む。
「君の手はええっと、なんていったかな……。ああ、そうだ。手妻のようだね」
 手品とはいわないところが彼らしいと思った。
「手妻ですか。ふふ、そうですね。符術もあるいは手妻かもしれません」
 妙におかしくなって、笑う。笑うと、腹の中に溜まったパンが栄養となって染み込んでいくようだった。
 両腕を伸ばして、彼の白いほおに触れる。そのまま互いのひたいを合わせた。少し、ひんやりとする。
「どうぞ」
 促すと、彼は生気をゆっくりと薄く、そしていつもより長い時間をかけて持っていった。
 パンひとつでは足りないのはわかるが、じきに夕食だ。何回も思うが、彼らがいればの話である。
 顔を離し、そっと息を吸う。
 彼女に「上に掛け合う」といった手前、約束は守らなければならない。純粋な神ではないが、約束を違えることは決して許さないだろう。
「例の……あの女性の件、天照に掛け合ってみます」
「そうだね。そうした方がいい。けど、もし上が首を縦に振らなかったらどうする?」
 彼はいじわるそうに青嵐の目を覗き込んだ。
 だが、その線ももちろん考えられる。天照は組織だ。その組織が一個人を優遇するだろうか。上が「それはそちらでなんとかしろ」といわれればどうにもならない。
 ヒトではないものの願いを叶えることは繋がりを持つということだ。契約と言われても否定はできない。
 ——そんな、重要な事態ではないことを願う。
 
 電話口の、いわゆる青嵐の「お上」は長考してはいたが、結果的に「足元を掬われぬように」、「恩を売ってもいいが、恩を着せないように」、「こちらに持ち込まぬように」、以上を守れるのならば彼女のいうとおり、妖魔を斬ってよいとのお達しだった。
 あの妖魔を斬るということは人間の皮を斬るということだ。自分にできるのか、分からない。が、しなければならない。シグルイのような妖魔もいるのだから。
 スマートフォンの液晶の熱がほおに移り、あつい。
「かしこまりました。では、そのように」
 最後に「くれぐれも無理はするな」と伝えられた。「今、お前の元教え子に睨まれている」とも。
 苦笑するしかなく、「いかようにもなさってください」と伝え、電話を切った。
「諸々条件はありましたが、おおかた予想通りです」
「斬ってもいいと」
「ええ」
「結構天照も融通きくんだね」
 彼はそういい、くすりと笑った。
 ——直後、靴箱の辺りから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「すみません! すみません! お夕食の時間が過ぎてしまって!」
 派手に片手で戸を開き、走ってやってきたのは来島だった。白いシャツが水びたしだ。
「来島さん、いらっしゃっていたのですか」
「はい。庭の木の剪定をしていたらいつの間にかこんな時間で」
「それはまた……お疲れさまです」
 机の上に膳を置きながら、彼は照れた笑いをした。
「先日の地酒、とても美味しかった。ありがとうございます」
「そうですか! よかった。俺もあれ好きなんですよね。あ、もしかして他の地酒のおねだりですか?」
「いえいえ」
 意味ありげに笑ってみせる。来島は嬉しそうに「俺の一番のおすすめを持ってきますね」といい、また慌ただしく出ていった。
「来島さんも外からきた方だったはずですが、妖魔の気配はありませんね」
 ボロが出ると思ったのですが、と呟いてから膳を見る。
 とうもろこしの豆腐、別皿でとろろが添えられた蕎麦、つみれと大根、昆布をやわらかくなるまで煮たもの、ブリの照り焼きと大根おろし。
 全て酒と合いそうな料理だ。
「いただきます」
 紫垂月頼宗は箸を運ぶ青嵐をじっと見つめている。
「さっきの食べ方より今のほうがいい」
 パンのことだろうか。意識が朦朧としていたからか、あまり覚えていない。が、がっつくような食べ方をしてしまっていたのだろう。
「お恥ずかしいかぎりです」
 ブリを箸先でほぐしながら口に運ぶ。甘しょっぱく、白米がほしくなったが冷たい蕎麦にもとても合う。
 そのあと来島が部屋に戻り、「とっておきです」とほがらかに笑いながら瓶を置いてまた帰っていった。
 彼は単純に気の良い青年のように思えた。
 ついでに食べ尽くした膳を持っていき、残ったのは昨日と同じ一升瓶一本と、コップ二つ。昨日の残りの酒はどうしようかと考えたが、結局手を出さずにあたらしい地酒を開けてしまった。
 コップに酒を注ぐ。透明で澄んだ清酒。昨日とは違いあのイチジクのような香りと甘さだった。
「美味しいですか?」
 今度はこちらから聞いてみる。彼はほほえんで「うん」と答えた。
「甘いね」
 続いてそういったので、今度は青嵐が笑う。
「紫垂月殿から頂いたイチジクと似た味です」
「へえ、こういう味なんだね。あの果実は」
 コップを眺めている彼の目はやさしいと思った。無垢なものを見るような、そんな顔をしている。紫垂月殿、と名前を呼ぶ。
 こちらに視線を向けるのを待ち、机に手をついてくちづけた。
 ただ、なんとなくくちづけたいと思ったのだ。人間の勝手な欲望に、彼は笑みで返した。