弟にとって姉は脅威である。特に年齢差がさほどない場合、幼い姉は赤ん坊の弟をぬいぐるみかおままごとの道具の一つとして扱い、弟はものごころつく前に「姉には逆らってはならない」と刷り込まれる。そしてその力関係は、弟が物理的に姉よりも大きくなったとしても、決して揺らがない。
そういうわけで、日本一のバスケ部の厳しいシゴキに耐えた屈強な身体を持ち合わせていようとも、オレは姉のおもちゃなのである。
姉に右手を拘束されている間に昼のニュースが終わり、テレビ画面が甲子園中継に切り替わった。今大会屈指の注目カードで、試合は八回を終えて二対一の接戦が続いている。画面の向こうの炎天下で白球を追う球児たちが皆年下なのだと思うと、なんだか不思議な気がした。
「あ、しくった」
炎天下とは正反対に冷房の効いた居間で、姉はオレの爪に熱心に絵を描いていた。甲子園から手元へと視線を向けると、お世辞にも上手いとは言えない猫の目がこちらを睨んでいる。
「まぁいっか」
姉は歪んだ猫の絵を修正することもなく次の指へと取り掛かった。後輩が相手であれば「まぁいっかじゃねぇよ」とドスの効いた声で言ってやるところだが、もちろん姉相手にそんなことを言えるわけがない。
「しっかしアンタ、なんでこんなに爪短いの? 塗りにくいじゃん」
「バスケするためだよ」
「アタシの練習のために伸ばしてよ」
横暴な理屈だが、姉は当然のごとく言ってのける。オレはもう抵抗する言葉も思い浮かばず、ただ天井を見上げた。もちろん手元は決して動かさないように、だ。そもそも大の男がネイルアートの練習台に甘んじている時点で、勝敗は決している。
「それにほら、野球のピッチャーだって、爪を保護するためにネイルする人けっこういるし。バスケ選手だってしてもいいんじゃない?」
「……透明の塗ってる選手は知ってるけど、猫を描いてる選手はいない」
「じゃあアンタが第一号だ」
ふふん、と鼻で笑って、姉はもう一匹の猫を描くため押し黙った。姉は真剣そのものだが、今度の猫も絶妙なブサイクさである。
「……これ、ちゃんと落としてくれるんだよな? オレ、夕方から人に会う約束してるんだけど」
「えーもったいないからこのまま行きなよ。人って、どうせ松本くんでしょ?」
ぴくりと手が震える。図星だった。手の震えは当然、姉にも伝わったはずだ。
「男はゴテゴテしたネイルする女が嫌い、みたいなこと言うけどさ、ゴテゴテしたネイルする男が嫌いとは聞かないし」
さっきより大きく、手が震える。姉はそんなオレの手を力強く握りしめて、猫の目にキラキラの石を載せた。
「もしそんなこと言うような男がいたら姉ちゃんがボコボコにしてやるから、安心しな」
姉の視線はオレの爪に注がれたままだ。オレは今度は潤んだ目を誤魔化すために、テレビ画面に視線を向けた。九回の裏、公立の星と呼ばれる高校の四番が、快音とともにサヨナラタイムリーを放つ。ベンチから選手たちが飛び出してくる。
そうだった。弟にとって姉は脅威であると同時に、もっとも頼りになる存在でもあるのだった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.