沢北がバスケ雑誌の取材を終えて一之倉と住むマンションに帰宅したのはお昼を過ぎた頃だった。いつものように「ただいま〜!」と元気よく帰ってきた沢北をリビングで迎えた一之倉。座っているソファになだれ込んできた大きな身体を受け止めれば、へにゃりと表情を緩ませ重なった唇。その唇を割り差し込んだ舌を絡ませた。
と、ここまではいつもの流れであった。
「!!んんっ〜〜〜〜!!!」
沢北は勢いよく一之倉を押し返しすかさず距離を取った。そして触れていた唇を両手で覆って床に座り込んだ。
「どうしたの?」
いつもとは違う沢北に一之倉は切れ長の目を瞬かせて驚いている。
「どうしたもこうしたも!イチノさん一体何食べたんすか!!??」
痛い!辛い!!と半開きにした口ではぁはぁと短い息を繰り返す。その瞳には薄っすら膜が張られていた。
「あ〜そういやチャーハン食べた。激辛のやつ」
「はぁ!?キスが痛いくらいのチャーハンとかありえないんすけど!!」
沢北がまだヒーヒー言ってる傍で「すごくおいしかったよ」と笑っている一之倉は、辛いものが好きだ。水を飲もうとキッチンへ向かった沢北が目にしたのは唐辛子が描かれた黒いパッケージのレトルト食品。
「これ買ったんすか?」
1種類ではなくカレーや麻婆豆腐、ラーメンなど色んな種類があり、全部同じパッケージだったのでまとめて買ったと思われた。
「もらったんだよね。諸星に」
「誰っすか?」
その昔、試合で対戦したことがあるが記憶にないらしい。一之倉は説明も面倒になり「ツレ」とだけ告げた。まさかこの一之倉のツレが、ここにあるレトルト食品の感想を求め頻繁に連絡してくることなるなんて沢北は思いもよらなかった。
◇◇◇
「あ、そうだ。あれどうしたの?」
休日の昼下がり。テーブルを挟んで向かい合いテイクアウトのハンバーガーを頬張る森重が思い出したように訊ねた。
「あれ?」
「ほら、激辛のさ」
森重の言うこれは文字通り激辛を謳ったレトルト食品で、商品の広告をSNSで見た諸星がおいしそうだから買わないか?と言ってきたものだった。
「あんた辛いの好きだけど得意じゃないでしょ」
「得意じゃねーけど好きだからいけるだろ!だってどれもうまそうじゃん」
「好きにすればいいけど、オレは食べないよ」
「何だよそれ。じゃあ勝手に買うし、くれって言ってもやらねーからな!」
「言わないよ」
こんなやり取りがあり諸星は商品を購入した。
届いたその日に食べたチャーハンがあまりにも辛すぎて諸星は3分の1を食べた辺りで森重に助けを求めた。「だから言ったじゃん」と心底呆れた森重に諸星は返す言葉がなかった。捨てるわけにもいかず、水を飲みながら何とか激辛チャーハンを食べる諸星の顔は涙と汗と鼻水でべしょべしょになっていた。
「あんた今セックスしてるときと同じ顔してんね」
諸星は辛味の強さと森重の発言に口を半開きにしたまましばらく固まってしまった。そんな諸星をベッドに運びキスを交わした―――ところまではよかったのだが、その先へ進む手前で諸星が腹が痛いと言い出した。結局その日は辛さにあてられた諸星のせいで最後まで致すことはできなかった。あろうことかその後しばらく「ケツが壊れた!!」などと言い、セックスできない日々が続いたのだ。森重はお預けをくらい「だから言ったじゃん」と不満を漏らしながら残りをどうするのかと問うた。
「食べる」
「はぁ?」
「あんなことになっといて食べるとか頭おかしい」
「あ゙?食いもん粗末にすんなって教わらなかったのか?」
「それで腹とケツ壊してたら世話ないんだけど」
「お前セックスできねーから拗ねてんだろ。結局お前の頭ん中はセックスしかねーじゃん」
いつものやり取りではあったがそこまでの流れが良くなかった。その言われようにカチンときた森重は、そのまま押し倒して犯してやろうかとも思ったが、それだとまさに『セックスしかない』ことになってしまうのでやめた。そしてこれ以上の言い合いは何の意味もなさないので「………それでいいよ、もう」と話を打ち切ったのだ。
それからしばらく口を聞かない日々が続き、松本に愚痴を吐いた諸星は「それはどう考えてもお前が悪いだろ」と返り討ちにあった。冷静さを取り戻した諸星は、松本にそのレトルト食品をまとめて譲ると言ったが辛いものが得意ではないと丁重に断られた。代わりに一之倉が辛い物好きだという情報を貰った諸星は一之倉へ送りつけた。
「あれな。一之倉にあげた」
諸星はサイドメニューのポテトを口へ運んだ。
「ほら言わんこっちやない」
「だってあれのせいでオレら喧嘩んなったじゃねーか!」
「あれのせいというより諸星さんのせいだけどね」
「は?」
「どうせオレの頭の中はセックスしかないよ」
「違っ!そういうことじゃなくて、だな……」
「なに?」
「あれは…その…なんつーの…、言葉のあや…?」
しどろもどろになる諸星に「まぁあんたも似たようなもんだから別にいいけど」と意地悪な笑みを浮かべた森重は2つ目のハンバーガーにかぶりついた。
「はぁ!?」
「だってこれ食べたらするでしょ?」
「……まぁ、しなくはねぇ、けど…よ、」
恥ずかしさから逸らした視線。ほんの少し拗ねたように突き出した唇。心なしか速くなる食事のスピード。こういう仕草や態度が森重の性欲を衰えさせないところだと諸星自身は気づいていない。
「ほら結局あんたも同じ」
「うるせーよ」
◇◇◇
沢北が目を覚ますと隣にいるはずの一之倉の姿が見当たらない。こういう時はたいていベランダで煙草を吸っている。起き上がった沢北は落ちていたシャツを羽織り寝室を出た。風でカーテンが揺れているその向こうから一之倉の声が聞こえる。どうやら電話をしているようだ。静かに窓を開けると沢北に気づいた一之倉が軽く視線をよこし、煙草の火を消した。沢北は自分がやってきたのに楽しそうに話している一之倉にモヤモヤしながら後ろから抱きついた。するとここでようやく「沢北起きたから切るわ」と通話が終わった。
「何やってんの?」
高層マンションの最上階ならまだしも、ここは二階のベランダだ。道行く人がふと見上げれば目に入る場所である。そんなところでのスキンシップはいただけない。振り返った一之倉の表情から言わんとしていることはわかったが、そんなことよりも電話の相手が気になった。
「ツレ」
一之倉は交友関係が広く沢北の知らない“ツレ”がたくさんいる。一度それに対して不満を漏らしたら「仕事柄お前の方が知り合い多いと思うけど?」と返された。確かに知り合いはたくさんいるが“ツレ”と呼べる関係性ではない。そう伝えれば「同じようなもんだよ」と笑っていた。絶対同じじゃないのに。だけどその時は耳触りのいい甘い言葉に絆されてうやむやになった。ただそれからは一之倉が沢北の前で誰かと仲良くすることがほとんどなくなり、ここ最近は嫉妬することもなかった。
こういった醜くモヤモヤした感情は久しぶりだ。
「男?女?」
「男」
「誰?」
「諸星だよ」
沢北は諸星という名に聞き覚えがあった。
確か辛い食べ物を送ってきた人だ!
「あ!激辛男じゃん!」
「プッ…」
「えぇ!?違ったっすか?」
目をぱちくりさせていると、違わないけどネーミングセンスがないと笑われた。そこは問題ではないのに、だ。
「頻繁に連絡するほど仲良いんすか?」
ヤキモチを妬いています!とわかりやすく一之倉に抱きつく力を強くした。
「別に」
「やけに楽しそうでしたけど?」
むっと唇を突き出すのは拗ねているときの癖だ。
「食べた感想聞かれた」
「は?」
「だからキスが辛くて沢北に怒られたって伝えておいたよ」
「ちょっと!何でわざわざ言ってんすか!?」
「だって事実でしょ?」
一之倉は緩やかに口角を上げ、意地悪に笑った。
「それはそーですけど!それ言わなくてよくないすか!?しかも食べた感想じゃないし…」
「ちゃんと美味しかったって伝えたよ。そしたらさ、次食べたらまた感想聞かせろって言われた」
そもそも諸星は食べたくて買ったのだ。予想外の辛さに耐えきれず、捨てるのも忍びなくて一之倉に押し付ける形になった。味はとても気になる。だが一口くれと言えるほど近くにおらず、感想を求めるに至っていた。
「それ引き受けてないですよね?」
ね?と念を押すように抱きついたまま覗き込んだ。
「何で?」
「だって自分から放棄してイチノさんに押し付けたくせに感想欲しいとかわがままじゃん!」
肩に顎を乗せぷうっと頬を膨らます。
「ふ、ははっ!わがままって…どの口が言ってんの?」
「この口ですけど?」
こう言えばこの口をキスで塞いでくれることを知っていた。静かに目を閉じると一之倉の腕が沢北の首に掛けられチュッと触れただけの唇。物足りなくて沢北から舌を差し込めば、一之倉がフッと笑った気がした。
「……っ!!え、ちょ…なに!?」
一之倉から離れた沢北は自分の身に何が起こったのか瞬時には理解できなかった。ただ一之倉の口内がやたら熱く、差し込んだ舌先に電流が走ったみたいな衝撃を受けた。
「あー。沢北なかなか起きなかったから朝ご飯食べたんだよね」
「……まさか………」
「激辛カレー」
「イチノさん………」
朝カレーは珍しいことでもないが、あの激辛を朝から食べたなんてどうかしていると思った。そんな沢北をよそに、「スパイスが効いてて美味しかったけど、カレーはもう少し甘口が好きかな」と笑う一之倉に「ははっ…そーっすか…」と返した沢北の顔はやや引き攣っていた。
「もうキスはいいの?」
「オレ、イチノさんとのキスは好きですけど激辛のお裾分けはいらないっす」
「そっか。なら当分キスはお預けだね」
すうっと細くなる瞳と上がる口角。なぜこの人はこんなに意地悪なのか。
「何でそうなるんすか!?」
「だってオレ昼もあれ食べようと思ってるし」
「はぁ!?オレのいない時に食べてよ!!」
口元に手を当てくすくすと笑う一之倉は、「こないだのチャーハンはお前がいない時に食べたよ」と真っ当な答えを返してきた。その上次は麻婆豆腐にするか、パスタにするか、などと悩んでいる。
「イチノさんって意地悪ですよね」
「沢北ってわがままだよね」
一之倉は巻き付く沢北の腕を剥がして部屋に入るよう促した。納得いかない様子の沢北はすぐそこのソファに座りクッションを抱きしめる。
「何拗ねてんの?」
隣に腰を下ろした一之倉が沢北の肩を寄せる。
「…………」
「別に唇にキスできなくてもセックスはできるでしょ?」
「な、何言ってんすか!?そんな話してないじゃん!」
「そういうことじゃなかった?」
小首を傾げる姿こそサイズ感も相まって可愛らしいが、実際の一之倉はそんなことはない。
「じゃあ昼ご飯の前に一回する?」
沢北にすれば辛いものを控えてほしかったはずだが、覗き込んできた一之倉が「時間も経ったし今ならキスもできるよ」なんて微笑むから、まんまと絆された沢北は「するっす」とクッションを投げ捨てソファに身体を沈めた。
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