史加
2025-08-20 21:29:12
973文字
Public 原神(鍾タル)
 

記憶の中から見つめている

鍾タル/ヘッダー用に書いたSSS


※死ネタ





 太陽を望む花の群れが、熱をはらんだ風に煽られている。大きく揺らぐ影の隙間を縫うように、赤いストールがはたはたとなびいていた。
 これは白昼の夢だ。男はすぐに理解する。夢を夢と認識すればすぐに手のひらからこぼれ落ちていくことを知っていながらそうしたのは、星の数を数え上げるのに十分なほどの歳月を生きてもなおその肉体と魂が健全であることの証左と言えよう。
 黄金よりも鮮やかで、温もりを持つ花海の中、儚きものとして認識された青年はそれでも振り返る。振り返り、男を見て、抜けるような青空にも負けぬ笑顔を浮かべる。
「なんだ、まだ覚えていてくれたのかい? 忘れていいよって言ってあげたのに」
 不服を形づくる言葉を、心底嬉しそうに言う彼の器用さは、まるで本物のようだ。たとえこれがすべて己の記憶から生み落とされた幻影であると理解していても、そこに魂が宿っていると思えるほどに彼は変わっていない。変わらないように、覚え続けている。
 男は決して線引きを誤りはしない。一歩たりとも金色の花海へと踏み出すことなく、穏やかに微笑む。
「まだまだお前のことを忘れてやるつもりはない。忘れるときが来るとすれば、それはこの盤石が土に還る日だと、そう約束もした」
「ハハッ、そうだったね。律儀に約束を守り続けているなんて、ずいぶんと俺に似てきたじゃないか」
「さあ、それはどうだろうな」
「すっとぼけたって無駄だよ。ああ、それとも案外気付いていないのかな。あんたは手に入れられなかったと思い込んでいるようだけど――
 ざあ、と一陣の夏風が花海を駆け抜けた。
 思わず男は目を閉じる。頬を撫でる風の強さが、じっとりと肌の汗ばむ暑さが真昼の夢を貫いて、刹那の逢瀬に終止符を打つ。
 目を開けると、そこにもう金色の花海はなかった。太陽を仰ぎ見る花の姿も、青年の影も、どこにもない。代わりに手のひらから床へと落ちた本と、陽の光の当たる文机、開かれた窓の向こうに広がる港の活気が黄金のひとみに映り、現実を知らしめる。
 ――青年の言葉は風の音に掻き消されて、男には聞こえなかった。それでよかった。
 そうでなければきっとあの海に一歩、男は踏み出してしまっていただろう。かつて彼が生まれたこの季節はどうしたって、さびしくなってしまうから。