小雨
2025-08-18 22:33:36
3274文字
Public おはなし
 

今夜は最高!!

モブ→面からのあた面です。

 今日は最高に運がいい!
 いや、はっきり言って俺は運がない方だった。給食の残ったデザートを取り合うじゃんけんでは必ず負け、ここ一番という勝負の日には足を折って入院し、受験の日にはインフルエンザを拾って後日再受験になり……ともかくそういう調子で人生を生きてきた。
 でも! 今日は! 違う!
「社長、大丈夫ですか?」
 俺はタクシーの後部座席に腰掛けながら、隣のシートで沈み込むように座っている美青年――うちの社長、面堂終太郎に話しかける。
「う〜ん……
「ちょっと飲みすぎちゃったんじゃないですか。二軒もはしごしましたもんね」
 そう、俺はなんと社長と参加したさるセミナーの帰り道に意気投合し、二人きりで居酒屋をはしごするというとんでもない僥倖に恵まれたのだった。
 仲間と別れ、二人になって一軒目の居酒屋に入った時点でだいぶ酔っ払っていた社長は、二軒目で日本酒を一杯呷った時点でもうほとんど潰れる寸前の状態になっていた。いつも凛々しい顔つきの面堂社長が、どこかあどけない表情に変わって「うちのタコがかわいくて……」と話し出したときは本当にかわいくてたまらなかった。おまけに平衡感覚も危うくなってきたらしい社長は、二杯目に口をつけながら隣の席に座っていた俺にふらりと寄りかかって、そのまま抱きついてきたのだった。
「しゃ、しゃちょう……
「きみは本当にあったかいなぁ……
 ぎゅっと背中に手を回しながら、社長はそのまま俺の肩に顎を載せてフフッと小さく笑う。その際に、社長の熱っぽい息が首元にかかって俺はすごくドキドキした。
 そのまま腕を回し返していいのか迷いながら、俺はそっとおちょこを机の上に戻した。社長は相変わらず俺をぎゅっと抱きしめている。
「あの……つかぬことを聞きますが」
「ん〜?」
「社長は……彼女さん、とか、そういう方は……いらっしゃるんですか?」
 社長は「かのじょ……?」と、少し悩んでから、またふふっと笑って答えた。
「かのじょはいないぞ!」
「あ、そうなんです、ね……
 俺はしどろもどろになって答える。その笑いは、なんだ、どういう意味だ。俺の意図をわかって答えてくれたのか。だとしたら、だとするなら、だ。
 これって、つまり、脈アリなのでは?
「社長……
 意を決して俺が腕を回し返そうとしたときだった。
「もう一杯飲む」
「あ、ちょっと社長、もう飲まないほうが……
 社長はするりと俺の腕から抜け出し、徳利からお猪口にまた透明な日本酒を注ぎ出すので、俺は慌てて止めた。今の時点でかなりぐでんぐでんに酔っているようだし、これ以上飲むと気持ち悪くなってしまうかもしれない。
「歩けなくなっちゃいますよ〜、あんまり飲むと」
「そ〜なったらきみが家まで送ってくれるんだろ?」
「えっ?」
「美味しいからまだ飲む……
 あ〜、飲んじゃった……。もうやめたほうがいいだろうに。いや、それより、いまの! やっぱり、そういうことなのか? 脈アリで、今夜、社長の自宅に行ってもいいってことなのか?
 つまりそれって、……そういう、ことだよな。
……
 今日、ちゃんとした下着だったろうか。いや、大丈夫、おろしたばかりのやつのはず。
 どきどきしながら、俺は社長の身体にそっと腕を回す。社長は嫌がらない。それどころか、へにゃっと甘えるように俺にもたれかかって、かすれた甘い声で言った。
「きみも、もっと飲まないのか?」
「じゃあ……もう一杯だけ」
 それより先は、念の為にやめておいた。
 そんなわけで、潰れる寸前まで飲みまくった社長からなんとか自宅の住所を聞き出して、肩を貸しながらどうにかタクシーに乗りこんだというわけだった。
「ふんふんふふ〜ん
 社長は目を瞑りながら、最近のヒット曲を口ずさんでいる。社長も、こういうポップな歌を聞くんだな、と意外に思った。
「社長は、声がきれいですね」
「そおか?」
「とってもお上手ですよ」
「ふん、当然だ」
 社長はふんぞり返って得意げになると、そのまま甘えるように俺の肩に頭を乗せた。俺は心臓が飛び跳ねてしまって、社長の長くてきれいな弧を描く睫毛を、形の良い鼻梁を、ふっくらとして柔らかそうな唇を、固まったまま見つめるしかなかった。
 ここがタクシーじゃなかったら、そのまま口付けてしまったのに。
 ほどなくして、港区のさる高層マンションの一つの前でタクシーは止まった。タクシー代くらいは俺が払えると思ったのだが、社長は「ぼくが払う」と言って聞かなかったので、そのまま任せることにして、俺は社長に肩を貸しながらふらふらとマンションに向かった。
 社長の鍵でオートロックをはずし、エレベーターに乗り込んで、ある高層階のボタンを押す。俺は社長の体温を感じながら、いよいよだと思ってドキドキしていた。
 憧れの人だった。手が届くはずないと思っていた。とても綺麗で純粋で、やさしい人。その人が今手の届くところにいて、あと少しで手に入るかもしれないと思うと、天にも昇る心地だった。
「着きましたよ、しゃちょう」
「うん……
 半分眠っているのか、あまり気のない返事で社長は答える。そこから社長の部屋まで、ほんのすこしの距離だった。
 おぼつかない手付きで鍵を外す社長を手伝って、扉を開ける。
 そのときだった。
「おい面堂! 今日は早めに帰ってくるって言ったじゃねーか、いつまで待たせ……、」
 部屋の中から走る音がしたと思ったら、扉に手をかけて、一人の男が現れた。
「え?」
「は?」
 俺と彼は見つめ合った。名も知らぬ男、面堂社長の部屋でずいぶんくつろいだ服装をしている男は、目を見開いたまま、俺と、俺に肩を借りてふにゃっと寄りかかっている面堂社長を交互に見た。
 そして彼は、すっと目を細めて低い声で言った。
「あんた、誰」
「え……っと、おれは、面堂社長の部下の――
「いや、いい。答えなくて」
 あまりにも予想外のことだった。まさか、ここで、他人に出会うとは。戸惑う俺のまえで、彼は静かに社長の方を指さした。
「こいつ、飲みすぎたの?」
「え、あ、ああ……そうなんだ。それでおれが家まで送ることになって」
「ふーん……
「もろぼし?」
 ここで社長がはっとしたように彼を見つめた。
「あれ……? なんで諸星が部屋に……?」
「はあ?」
 そこで見知らぬ男がいよいよ気を悪くしたようで、社長に詰め寄った。
「あのなあ! おまえが呼んだんだろ、今夜は仕事が早く終わりそ〜だからって! だいたい――
「諸星ぃ〜」
 男の話を全く聞かずに、社長はふらっとおれから離れて彼の方に歩み寄ると、そのままぎゅーっと抱きついた。
「そうか、ここにいたのかあ〜諸星〜」
「あのなあ〜……
 深くため息をついて、彼は社長の背中に腕を回して頭を撫でる。その慣れた手付きに俺はもうピンと来てしまった。
 これは……彼女はいないかもしれないが。これは……
 諸星、諸星、と甘えた声で彼に抱きつく社長を前に、俺はもう動けずただ立ち尽くすしかなかった。
「あ〜……じゃあ、そ〜ゆ〜ことなんで」
 彼はするっと社長の腰に手を回して抱き寄せながら、冷たい笑みを浮かべて扉に手をかける。
「どうも」
 バタン! 目と鼻の先で、必要以上に力強く閉められた扉を前に、俺はヘナヘナとその場に崩れ落ちた。
 はっきり言って俺は運がない方だった。給食の残ったデザートを取り合うじゃんけんでは必ず負け、ここ一番という勝負の日には足を折って入院し、受験の日にはインフルエンザを拾って後日再受験になり……ともかくそういう調子で人生を生きてきた。
 今日こそは、今日こそはその呪われた運勢から抜け出せると、ついさっきまではそう思っていたのに。
「は……はは……
 乾いた笑いが喉をついて出る。扉の向こうでわあわあと騒がしい言い合いが始まるのを遠く耳にしながら、俺はしばらく、その場を動けそうになかった。