シーカーフォンに入ってきたプッシュ通知に、オレは思わず唾を飲んだ。あぁ、すんごく美味しそう。この丸々とした形、たっぷりの粉砂糖、ライティングからは質感まで伝わってくる。きっと小麦と砂糖の甘い香りが、バターのコクが、舌に触れた瞬間脳に届いてこれ以上無い歓びが……!
「ちょっと、何ヨダレ垂らしてるんだい。だらしないなぁ」
「あっ、ごめんリーバル。けど見てよこれ」
弓の手入れをしているリーバルとの距離を詰めて、オレはシーカーフォンの画面を見せた。普段はオレへの対応が冷めているリーバルも、この新作ドーナツには目を奪われたらしい。オレは心を奪われているけど。
「へぇ、『ブルズアイ・ドーナツ』の新作か。熟成ヤギバターと厳選サトウキビを使用……。美味そうだけど、こんなの食べちゃったら飛べなくなるからねぇ」
「そっちには本店があるんでしょ? いいなぁ、リトの村」
「本店だから美味いってわけでもないんじゃない?」
そう言うと、手入れを済ませたリーバルはさっさと的の方へ戻っていった。
✽✽
呼ばれれば弓道をするし、剣道もする。水泳だってできるし、ボウリングもできちゃう。オレの放課後の仕事は、校内の部活動を転々としては助っ人になること。ひとつのことを極めるのも良いけど、好きなことをたくさん抱えて広く浅く楽しむのも悪くない。
……まあ、それを悪く言う人もいることにはいる。真剣に打ち込んでいる中、あちこちフラフラしている人間がちょこっと顔を出してくるだけなのが気に食わないのは当たり前だ。
でもオレを軽薄な人間だと思わないでほしい。オレにだって真剣に好きなことがひとつある。
「トルバドールリングと……あとポップファイブ……ピーチメルバリングも買っちゃお!」
トングをカチカチ鳴らしながら、陳列された輪っかの形をした幸せをトレイに移し置いていく。掴んだ時にあまりの柔らかさで生地が沈んだり、逆に重くてズッシリしていたり、種類によって色々だ。けどそれが、最終的には全部幸せに昇華される。
『ブルズアイ・ドーナツ』は、リトの村発祥のドーナツチェーン店だ。その昔、タバンタ焼きを焼くのが億劫になったリト族が生の生地を油で揚げたところ、なんとも筆舌に尽くしがたい美味なものになったのがその始まり。次第に中身を抜いて、生地だけを揚げるようになったとか。最初は円形をした平たいものだったらしいけれど、『的の真ん中に当たる』という縁起の良さを重視して、今の真ん中に穴が空いたものになった。弓の技術を磨くリト族らしい変化と言える。
オレはこのドーナツ屋が大好きだ。小さい頃から出かける度、親にここのドーナツを強請った。高校生になってからはアルバイトで稼いだお金を、ドーナツに注ぎ込んでいる。けれど、ただ消費しているわけじゃない。
「あっ、トルバドールリングのアイシングがちょっと色違うな。……うん、間違いない。こっちのほうがなんか美味しそうに見える」
会計をしてフードコートの席についたオレは、ドーナツと紅茶が載ったトレイの横に、ノートを開いた。これがオレの情熱の向く先。ブルズアイ・ドーナツの、研究ノートだ。
「色変えたの、いつからかな……。ちょっとわかんないかも……」
などと独り言ちつつ、ノートにアレコレと書き込んでいく。端から見れば、ドーナツを食べつつ試験勉強をしている、何の変哲もない男子高校生かもしれない。一頻りドーナツの外見の変化を捉えたところで、オレは「いただきます」と手を合わせて口に運んだ。
前歯で千切り、ゆっくりと咀嚼する。ホロホロと崩れるさっくりとした生地、甘いアイシングは優しくて、思わず頬が緩んだ。まるで詩(バラッド)のように、緩やかで穏やかな味。トルバドール(吟遊詩人)の名を与えられているだけはある。
「ん〜……美味しいッ……!」
その美味しさに、思わず顎が天を仰ぐ。こんなに幸せな時間があっていいのだろうか。いや、良いんだ。この幸せのために、オレは生きている。これが無ければ、オレには何も無いって思えるくらい。
「うわっ……すごい……」
頭上で聞こえた一言に、オレは思わず固まった。声からしてまだ子どもみたい。何に対して『すごい』と言われたのだろう。いちいちリアクションがうるさいオレの食べ方か、それとも引くほど書き込みのあるオレのノートか。どっちにせよ気まずい。オレはそのままドーナツを食べ続けることにした。
「ねぇ君、ここのドーナツ好きなの?」
君? 子どもにしては随分と対等にオレのことを見てくる。普通なら『お兄さん』とか、呼んでくると思うんだけどな……。
「『ボク』こそ、まい……」
迷子なの? オレはそう訊ねようとした。けれどそれはできなかった。顔を上げて視界に入ってきたのは、中学生くらいのリト族の男の子だった。
リト族は、中央ハイラルではあまり見ない。彼らの故郷は北西の寒冷地帯で、ふわふわの羽毛に熱がこもるという理由でこっちの方までは降りてこないわけだ。リト族が中央ハイラルで生活するには、住まいにそれなりの工夫が必要となる。つまり、都心部に当たるこの辺りにやって来れるのは余程の富裕層だけ。
よく見てみれば、その子が着ている制服も中央ハイラルでは有名な名門校のものだ。すごいお坊ちゃまなのかもしれない。
ちなみに弓道部のリーバルはスポーツ特待生で、学費は全額免除になっている。
「……君、誰?」
オレは咄嗟に言い直した。かなり怪訝そうな顔をしていたらしく、リトの男の子はアワアワと翼の手を顔の前で振った。
「あっ、ごめんね! 君がすんごくドーナツを美味しそうに食べてたから、つい……!」
「そ、そう?」
「うん。……ねぇ、ここに座ってもいい?」
リトの男の子は少し恥ずかしそうにしながらも、初対面のオレにあまり警戒していないようだった。……警戒していたら、最初から声なんてかけないか。
「別に、良い、けど……」
「本当!? ありがとう!」
リトの子はニコニコ笑って、よいしょと扱いづらそうな尾羽根を手で持ち上げてからオレの正面に座った。
最初は子どもだと思ったけど、座った時の等身がオレとほとんど変わりないことに気がつく。こんな時期だと、外の気温はリト族にとって暑くて堪らないはずなのに。
「自己紹介が遅れてゴメンね。オイラ、チューリっていうんだ。君は?」
「オレはリンク。毎日って言っても言いすぎじゃないくらい、ブルズアイドーナツに通ってるんだ」
「このノート、すごいね」
チューリはチラッとノートに視線を落としてそう言った。学校の友人にも親にも話していない趣味を褒められて、思わずニヤついてしまう。相手は初対面なのに。
「いやぁ、それほどでも……」
「こんなにドーナツに真剣な人、あんまり見たことないや。いつから好きなの?」
「いつから、って……保育園くらいの頃から?」
オレはポップファイブのレモン味をポンと口の中に放り込んだ。このモチモチの生地が堪らない。中に入っているレモン味の甘いフィリングはさっぱりしていて、その中に酸味と苦みが見え隠れしている。普段なら最後のひとつにとっておくけど、最初に食べるのも悪くない。むしろどんな順番で食べても良いように出来ているのだから、さすが老舗だ。
「一番好きなのってどれ?」
「一番……うーん……難しいなぁ……」
オレはブルズアイ・ドーナツの店先を眺めながら唸った。
昔からお世話になっているのは、シンプルなオールドファッション。サクサクと軽い食感、控えめな甘さ、なんとも絶妙なバランスで成り立っている神の食べ物。今でも大好きだ。
お惣菜系のパイも捨てがたい。幾層にも重なったパイ生地にはバターがたっぷり練り込まれている。中身はビーフシチューだったりカレーだったり、ベーコンポテトなこともある。しょっぱいものが食べられるのは嬉しい。
新作は毎回全種類制覇しているけど、その中で生き残っているものはそう多くない。すごく気に入ったけど、期間限定で無くなってしまったものもある。
けど、やっぱり。
「……タバンタ揚げ、かなぁ」
「へぇ! 甘いの好きそうなのに!」
チューリはびっくりして目を丸くした。確かに、オレの皿に並んでいるのは甘いものばかり。タバンタ揚げを選んでくるとは思わなかっただろう。
「やっぱブルズアイ・ドーナツの原点だからかな。でもそれ抜きにしても、あれは凄く美味しいよ。表面はカリカリで中はふわふわ。そこからキノコがたっぷり使われたホワイトソースが溢れてくるんだもん。美味しくないはずないよ」
「……そっか」
心做しか、チューリはなんだかとても嬉しそうだった。白い頬がほんのり赤くなっている。なんかイチゴ味がしそうだなぁ。
ふと、突然オレのシーカーフォンから通知音が鳴る。妹からの連絡だ。そういえば、今日は勉強を見てやる約束だった。新作ドーナツに心を奪われて、すっかり忘れていた。焦りが顔に出ていたのか、チューリが心配そうにしている。
「どうしたの?」
「家族から呼び出し。オレ、もう帰らなきゃ」
本当は慌てて掻き込むように食べるなんて性に合わない。けど今更持ち帰りもできないし、何より家族に知られたくない。
「ねぇ、また会ってもいい?」
チューリの言葉に、ドーナツを口に運ぶ手が止まった。
「オイラもドーナツが好きだから……リンクと、友達になりたいんだ」
シーカーフォンを握ったチューリの翼の手がキュッとする。ドーナツの話題で盛り上がれる相手ができるなんて、ヘタをすれば保育園以来。オレはワクワクしていた。一緒にドーナツを楽しめる友達ができる。それが現実になるなら、どれほど幸せかと思っていた。
「……連絡先、交換しても大丈夫?」
「! いいよ! もちろん!」
やったぁ! とチューリは翼を大きく上げて喜んだ。そんなに喜ばれるとちょっと恥ずかしいけど、オレも同じくらい嬉しい。
家族や級友との連絡を取るためのアプリに、チューリも追加する。チューリもオレのことを『ともだち』に加えてくれた。
「ありがとリンク。また会おうね!」
「あっ、じゃあさチューリ」
オレはピーチメルバリングの輪を丁寧にちぎって、その片方をチューリに差し出した。
「これ、まだ食べてなかったから……お近づきのしるしに半分こ」
「いいの?」
「いいの!」
もちゅ、とチューリの嘴がドーナツに食い込む。もちゅ、もちゅ、とドーナツはどんどんその体積を減らし、やがてチューリは全部食べてしまった。
「ごちそうさま! 今度オイラからお礼させて!」
「お礼なんてそんな……」
そうこうしている内に、妹から着信が来てしまった。オレは「ごめん、じゃあね!」とチューリに言って、大急ぎでトレイを持って返却。フードコートから出ていった。
✽✽
リンクの走り去る背中を見送りながら、チューリは一息ついた。
気づかれていなかった。彼にとって、自分たちは全くの初対面。そのことに強い安心感を抱く。
チューリは、リンクを長いこと見ていた。美味しそうにドーナツをほおばるリンクは、見ている方も幸せにさせてくれる。その姿にチューリは励まされてなかった。一口ひとくちを、あんなにも満面の笑みで食べているお客もそうそういない。それがチューリに自信をくれた。
それと同時に罪悪感も湧き上がってくる。
「坊ちゃん、そろそろお時間です」
「やめてよ、ここでそんな言い方」
自分の背後に立つリト族に、チューリはうんざりした顔で返した。
「あのハイリア人が、役に立つと?」
「きっとあの人なら、オイラと一緒にやってくれるよ」
確信はある。それでも、彼の純粋な気持ちを弄ぶように思えてならない。
「……リンク、ごめんね」
ブルズアイ・ドーナツの若き跡取りは、そう呟いた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.