千代里
2025-08-17 17:06:48
20102文字
Public ラハとエリンの話
 

明日へと続く約束

パッチ7.3のネタバレあり。7.3のシナリオが終わった後、トライヨラで過ごすラハとエリンの話。
冒頭の挿絵はぜろ様に描いていただきました。感謝…!!

 つ、とストローを口に含み、グラスの中の飲み物を吸い上げる。
 トライヨラの青空を映したような色のそれは、舌に乗るとほのかに果物の甘酸っぱさに変わる。それでいて、喉の奥に流れ込む頃にはさっぱりした味わいになるのだから不思議だ。
「美味しいでしょう、それ。新作なんですよ、外つ国から来た方にはそりゃもう大人気で!」
「はい、とっても美味しいです。すっきりしているから、暑くても飲みやすいですよ」
 店員のペルペル族は嬉しそうに笑いかけてはいるが、その視線は油断なく客の仕草を追っている。
 ドリンクを入れた器が持ちやすいか、飾りとして添えたハイビスカスの花の角度は魅力的に見えるか、氷の数は適切か。生馬の目を射抜くとまではいかずとも、流通を発達させることで、より人々に幸せを分かち合うという方針を掲げて行動するペルペル族の商人の視線は、ウルダハの商人に負けず劣らず厳しい。
 だからこそ、今この瞬間を存分に楽しまねば彼らに悪かろうと、エリンはストローに再び口をつけた。燦々と降り注ぐ太陽のおかげで渇きがちな喉が、甘酸っぱい冷たさで潤っていく。
「こうしていると、ようやく一息つけた感じがするなあ」
 片手にはドリンクを持ち、片手で庇を作って空を仰ぐミコッテ族の少女。身につけているものこそ、トライヨラではよく見かける民族衣装ではあるものの、この地に馴染んでいるように見えて、どこかまだ浮いているようにも見える彼女の名はグ・エリン。
 何を隠そう、トライヨラ連王国の新たな連王――コーナとウクラマトの友人であり、ここ数ヶ月混乱をもたらしていた、異なる世界の国――アレクサンドリア連王国に渦巻く陰謀の闇を払った張本人たちの一人である。
 アレクサンドリア連王国が一旦の落ち着きを見せたのを確かめてから、エリンは数日ぶりに戻ったトライヨラでのんびりと羽を伸ばしていた。
 もっとも、今日は一人で余暇を楽しんでいるわけではない。
「おーい、エリン!」
 呼びかける声に気がつき、エリンはストローから口を放し、声の主へと振り返る。

 抜けるような青空の下、走ってきたのは待ち人である青年――グ・ラハ・ティアだ。
「ラハ、おかえり……って、待って待って! そんなに走っちゃ、せっかくの料理を落としちゃうよ!」
 勢いよく走ってきたラハの両手には、屋台で買ってきたタコスがあった。彼の手から溢れんばかりのタコスを目にして、エリンは「ストップ!」と止まるように注意する。
 エリンに叱られて、歩調を緩めて恐る恐る歩み寄ってきたラハは、彼女の元に辿り着いてからゆっくりと一息をつく。
「ごめん。出来立てを届けた方がいいかと思ったら、焦ってしまって……
「落としちゃったら、そっちの方が悲しくなっちゃうよ。ええと、どこか食べるところ……
「ありますよ、あそこに、座って休める場所なら。いかがですか、どうせならドリンクももう一つ」
 素早く手近なベンチを案内しつつ、トロピカルジュースをもう一杯勧めてくる店員のペルペル族。抜け目ない彼に礼を言いつつ、勧め通りにジュースをもう一つ手にしてから、エリンたちは示されたベンチに腰を下ろした。
 大きく広がった木々が天然の庇になってくれるおかげで、トライヨラの日光も随分と和らいでいる。
「じゃあ、まずはこれ。今日は『タコスのチーちゃん』も、『シャバーブチェ』も人がいっぱいだったから、屋台で買ってきたんだ」
「じゃあ、どんな味かは食べるまでわからないってことだね」
 タコスは、トライヨラではしばしば見かける定番料理だ。たっぷり詰め込まれた具材を、トウモロコシを薄く伸ばして焼いたトルティーヤで巻いてかぶりつくのは、トライヨラの住人も観光客も必ず一度は体験するものである。
 野菜や肉、香草、時には果実などを詰め込んだ具材は、店の特色が一番よく出るので、同じタコスでも、店によって全く違う味になる場合もある。
 両手で持っていても溢れそうなほどに具材が詰め込まれたタコスを、エリンは落とさないように慎重に受け取る。代わりに、ラハはエリンが渡したドリンクを一息で半分ほど飲み干していた。
「やっぱり、こっちでは冷たい飲み物がいつもより美味しく感じるよ。さっき、パインジュースを飲ませてもらったところなのにな」
「あ、私のいない間にそんな美味しそうなものを飲んでたの?」
「通りすがりに勧められたんだよ。……襲撃があったときは、どうなるものかと思ったけれど、トライヨラの人たちは逞しいな」
 せっせと呼び込みを続ける屋台の主人たちを、ラハは眩しいものを見つめるかのように目を細める。
 トライヨラは、数ヶ月前に突如現れた異世界からの侵略者――アレクサンドリア連王国の前武王であり、トライヨラにおいては王子でもあったゾラージャが率いる軍勢により、奇襲を受け、甚大な被害を出していた。
 エリンの仲間たちや、他にも戦う力を持った者たちが彼らを助けるために立ち上がったものの、少なからぬ犠牲を出してしまった。今でも、屋台の柱や石柱に薄く残る弾痕が、あの日に起きたことを示している。
 しかし、そのような惨劇が少し前にあったとは思わせないほど、今のトライヨラは活気に満ちている。未来へと目を向ける前向きな姿に、トライヨラの住民が持つ強さを改めて示してもいた。
「二人の王が頑張っているからもあるだろうけれど、きっとこれまでもそういう苦難を乗り越えてきたんだと思うよ」
 話をしながら、エリンはタコスにかぶりつく。瑞々しい野菜は苦味よりも甘さを感じ、時々舌に触れる肉はぴりりとした甘辛さで自身を主張している。少し食べる角度を変えると、酸味が増えるのは、柑橘類の果汁をふりかけているからだろうか。
「私たちも負けていられないよね、ラハ」
「この前一息がついたって話をしたばかりなのに、もうあんたは次の冒険を考えているのか?」
「だって、トライヨラではまだゆっくり見ていないところがあるんだもの。もちろん、アレクサンドリアの方でもね」
「あんたには、じっと体を休める休憩よりも、そっちの方がいいのかもな」
 苦笑混じりではありながらも、ラハの瞳も続く冒険への期待も輝いていた。
 もし時間があるなら自分も連れて行ってほしい、という彼の気持ちは十分に伝わっているので、エリンもつられて微笑を浮かべる。
「でも、今日はちゃんとお休みの日にしてますから! ラハから、トライヨラで羽を伸ばそうってせっかく誘ってくれたんだもの」
 エリンの言う通り、今日の息抜きは元はラハが言い出したものである。公的な仕事以外で、何の憂いもなくトライヨラを満喫する機会はなかなか無かったため、先日の戦いを区切りとして、気晴らしをしようと誘われたのだ。
「実を言うと、少し迷っていたんだ。エリンは、もう少しソリューションナインにいようと思ってんじゃないかって。ほら、シェールやスフェーンたちともまだ話をしていたがっているように見えたから」
「二人ともちゃんと話はしたよ。ひと段落したあと、皆でバックルームの休憩室を使って打ち上げもしたんだ。シェールさん曰く『女子会』って言って、女の子だけで集まって美味しいものを食べたり飲んだりする会なんだって。アリゼーとクルルさんもきてたよ」
「えっ!?」
 二人から話を聞いていないのか、と言わんばかりのエリンに対し、ラハは目を丸くすることしかできなかった。もちろん、そんな話は聞いていない。
「本当は、大きな宿を借りて枕投げしたり、ベッドでごろごろしながら夜通しお話したりもするみたいだけど、夜更かしはあまり体によくないからって、眠くなった頃に解散になったの。スフェーンもシェールさんも、今は大事な時期だからね」
「そ、そうだったんだな……
 何だか置いてけぼりを喰らったような気持ちにもなったが、女性陣だけでないと力を抜けないこともあるのだろう。決して英雄と夜通し話ができるなんて羨ましい、などと思っていない、とラハが思っていたときだった。
「そうだ! 今度、夜更かしできるときは、ラハも誘うね。一緒に枕投げしてみたい」
「いや、待ってくれ。それは流石にちょっと」
 気持ちとしては嬉しいが、そのような場に意気揚々と参加しようものなら、アリゼーとクルルとおまけにヤ・シュトラといった女性陣から、ブリザドより冷たい視線を向けられるだろう。無邪気に枕投げに憧れを抱いている英雄には、「夜更かしは冒険に障るだろ」と適当に宥めておくラハなのだった。
「と、ともかく。今日の格好も、トライヨラに行くから、わざわざ準備してくれたのか?」
「うん、そうだよ。でも、準備したのは私じゃなくってね。前に、リビングメモリーから帰ってきたあと、ラマチが先王スフェーンを止めてくれたお礼にって、伝統的な装束を用意してくれたの。市販のでいいよって言ったのに、わざわざ一から仕立ててくれたんだ」
 エリンはタコスを持っていない方の手を胸にあて、どうかなと得意げに唇を吊り上げて見せる。
 赤を基調とした布地には、黄色や白、青などで染められた糸で幾何学模様に似た複雑な模様が織り込まれている。首の周りはゆったりとストールのように布が巻かれ、小さなコインに似た装飾が縫い付けられていた。
 見た目はチュニックに似ているが、布があるのは前後のみであり、脚部には伝統的な織模様の入ったスカートやズボンを合わせる作りになっている。横から見た時はまた異なる色合いとなるのを楽しむのが、トライヨラ流であるらしい。
 今日のエリンは真っ赤な上衣に、白地に鮮やかなオレンジが入ったズボンを合わせていた。こちらも、ウクラマトが用意して仕立てさせたものなのだろう。
「この土地に合わせて作られた服だからかな。着心地がいいだけじゃなくて、こんなにもお日様が元気なのに、涼しく感じるの。もしかして、ラハも着たことある?」
「いや、ないな。こっちに来て私服で過ごしたことはあるけれど、伝統衣装に袖を通した覚えはないはずだ」
「そういえば、来てからもあれこれ忙しかったものね」
 そもそも、エリンとラハでは、トライヨラ来訪の理由が異なる。
 トライヨラの王位継承戦の助っ人としてやってきた彼女とは異なり、ラハは継承戦の途中で見つけた鏡像世界の入り口の調査をするためにやってきたのだ。
 来訪の理由は半分以上仕事であり、先王スフェーンの暴走を収めた後も、不安定なソリューションナインの面々を支えたり、鏡像世界の入り口の調査を続けたりと、何かと忙しない日々を過ごしていた。
「暁の皆とトライヨラをぐるっと散策したときも、ラハたちは軽装に着替えていたけど、トライヨラの伝統的な衣装ではなかったよね。あの時の皆の格好も新鮮だったなあ」
「あの時は、サンクレッドたちと相談して動きやすい服を選んだんだ。息抜きをするのに、いつもの服はどうかってサンクレッドに言われたんだよ」
 我ながら少し遊びすぎたかとラハは振り返ったが、エリンには好評だったらしい。なお、その時のラハは、白地に鮮やかな色で南洋の植物を描いたシャツ――要するにアロハシャツのようなものを着ていた。
「息抜きをするのに、いつもの服はどうか……かあ」
 トライヨラ散策の思い出に思いを馳せていたラハは、不意にエリンの視線が自分に――正確には自分の衣服に向けられていることに気がついた。
「今日のラハの服は……普段通りだよね」
「まあ、この格好はトライヨラの気候にも適しているからな。あ、もちろん、ちゃんと毎日着替えているぞ。似た仕立ての服を何着か持ってきているってことで……
「それはもちろん分かっているんだけど、せっかく今日はラハと羽を伸ばす日なのに、普段通りの格好だなあって」
 そう言われると、うっと言葉に詰まってしまう。
 ラハとしては、遊ぶためだけにわざわざ着替える必要もなかろうと、普段着でやってきたのである。もっとも、もしエリンが同じことをしていたら、「今日ぐらいは私服に着替えたらどうか」などと言っていただろう。自分のこととなるとやや視野が狭くなるのは、第一世界で一人奮闘している頃から変わらないラハなのであった。
「ねえ、ラハ。この後、何か予定はあるの?」
「いや、特段決めているわけじゃないんだ。この辺りのビーチを散策したり、屋台を見て回った後は、夜ご飯のためにシャバーブチェの席を押さえておいたってぐらいかな。どこか行きたいところがあるのか?」
「それなら、まずは屋台でラハの服を見立てたいな」
 名案だと言わんばかりに、エリンは腕を組んで得意げな顔をしていた。
「でも、そんなことでいいのか? 今日は、あんたの息抜きの日だっていうのに」
「だって、羽を伸ばす日に普段着じゃ、ラハの仕事気分が抜けきらないでしょ。それに、私の息抜きの日であったとしても、ラハの息抜きの日でもあるんだから!」
 勢いよく言い切ったエリンは、善は急げと残ったタコスをぐいと口の中に押し込む。
 だが、小さな口で食べ切るには大きすぎたようで、むせこんだ彼女の背中を、ラハは何度か叩いてやったのだった。
 
 ***
 
「はい、いらっしゃい。え、トライヨラの伝統的な服が欲しい? そうかいそうかい。お兄さんはヘイザ・アロ族だね。じゃあ、そちらのお嬢さんとお揃いでこっちなんてどうだい? 。観光客にもトライヨラの住民にも大人気の一着だよ」
 ぐい、と差し出されたのは、布地こそ青いものの、隣にいるエリンと全く同じ仕立ての一着だった。それを眺めていたラハは、エリンの隣でお揃いの衣装に身を包んだ自分が立つ姿を想像し、
「うーん……できれば違う仕立てのものにしてもらえないか」
「何だい。お二人さん、恋人に見えたけど違うのかい」
 ぐいと身を詰めたマムージャ族の女性店員は、エリンとラハを見比べた後、ラハに小声で尋ねる。
 なお、エリンは今、装飾品売り場に並べられた指輪やネックレスをじっと眺めていた。
「いや、まあ、その……恋人、と言える関係ではあるのだろうけれど。全く同じ格好をしていたら、変な形でめだつかもしれないだろうから」
 ここはエオルゼアではないのだから、たとえ恋人と気づかれても問題はないはずだ。だが、なんだかんだでトライヨラでも顔が売れつつあるエリンが、人間関係について言及され、妙に意識する場面が増えてしまっても申し訳ないと思う。
 その結果、ラハはおそろいをやんわりと辞退したのだった。
「ふうん、そういうもんかねえ。どうせなら、もっとガツガツ行ったほうがいいよ、お兄さん。シャーローニ荒野から来ているヘイザ・アロ族の若いのは、嫁さん探しに積極的だからね。あんな綺麗な子なら、ほっといたらあっという間に攫われちまうよ」
 店員に促され、ちらりと見やった先には、別の屋台にいた褐色の肌のミコッテ族――ヘイザ・アロ族の若者が、店先を物色しているエリンを眺めていた。
 それとなく彼らの視線を遮るように立ち位置を変えていると、何やら生暖かい視線を店員から向けられてしまう。
 ラハが近づいたのに気がついたのか、エリンが顔を上げて、いそいそとこちらに近づいてきた。
「ラハ。もう決まったの?」
「いや、まだなんだ。トライヨラの装束は奥が深いなと思って、色々見せてもらっていたところさ」
 彼女にお揃いを勧められては断るに断れなくなると、ラハは渡されていた青い装束をそれとなく店員に返す。
「模様だけでも色々なものがあるよね。服だけじゃなくて、ポシェットとか首飾りにも模様が入った織物が使われているんだよ」
「お嬢さんはお目が高いね。服ばかり目に入っちまうけれど、うちは装飾品も力を入れているんだ。もちろん、布だってどこの店にも負けちゃいないよ」
 商売上手なマムージャ族の店員は、早速とばかりに幾つかの衣類を店先に並べ始める。
 ラハが置いた青の装束をこっそり隠してくれたのは、彼女なりの気遣いだろう。
「最近は、こっちみたいにゆったりとしたスタイルも人気だね。この上着は、細かく色と模様を変えて刺繍を入れてあるよ。最近は外つ国のファッションも取り入れるんだって、うちの姪御があれこれ考えてくれてね」
 店員が並べていったものは、どれもラハに合うような色味とサイズに絞られていた。たった数分しか目にしていないはずの客のサイズまで的確に把握できるのは、店員の目利きのなせる技だろう。
 ずらずらと並べられた衣類の山の中、ラハは目についたものを手に取り、広げてみる。
 見た目だけなら長袖のシャツに近いが、二枚の布を前で合わせるように縫い付けられており、どこか東方のキモノという伝統衣装を思わせるつくりとなっていた。
 布地は落ち着いた黒色だが、二の腕には細かい刺繍が施されており、袖には目の覚めるような鮮やかな赤の織物を合わせている。
「ラハ。それに合わせるなら、ズボンはこっちがいいんじゃない?」
「それならお客さん、せっかくだし試着していったらどうだい。気に入ったならそのまま着ていけばいいよ!」
 そうして勢いのある店員に圧倒されるまま、ラハは試着用の服とズボンを手に、屋台裏の天幕へと案内された。
 布一枚の向こうが外という、常とは異なる開放感を覚える天幕の内側で、着慣れている上着を脱ぎ、新たな服へと袖を通す。天幕を挟んだおかげで、大通りの雑踏が遠のき、束の間生まれた静寂に、何気なく息をついた時だった。
「お嬢さん。せっかくだから、彼氏さんにそれ、買ってもらったらどうだい。気になってたんだろう?」
「彼氏さんなんて、そんな。ラハとは、その……ちょっとだけ他の人より特別に仲良しだけです」
 照れながら答えているだろう。彼女の声は恥ずかしげではあったが、隠しきれない嬉しさが滲み出てた。
(こんな初々しい言葉を口にしているのが、先日はあんな強敵を倒していただなんて、誰も思わないだろうな)
 だからこそ、この時間は何よりも大事なのだ。
 英雄ではなく、ただの女の子としてエリンが羽を伸ばせる時間。その時間を何よりも望んでいる彼女の家族の横顔を思い出し、懐かしさに目を細めていると、
「ほら、指輪ならそんなに値段も高くないよ。なんならあの兄さんが服を買ってくれるなら、少しマケてもいいよ」
「あ……その……。指輪は、もう……つけていますから」
 それまであれこれ勧められて弱った様子ではあったものの、楽しげでもあったエリンの声音が、その瞬間、わずかに温度を変えた。
 どこかに痛みを思わせるその声は、まるで触れてはならない傷にうっかり触れてしまって、身を竦めたかのようだ。
「違う指輪をつけるってのも、たまにはいいと思うけどねえ。思い入れのあるものなのかい」
……はい。これ、大事な人からもらったものなんです」
 これまで見せていた少女らしい照れ笑いではなく、胸の奥に潜ませた大事な傷を抱えるかのような、郷愁の中に憂いを混ぜたような声。
 話を聞いて、ラハは思い出す。確かに、エリンはいつも左手の人差し指に同じ指輪をつけている。
 ラハは、その指輪の送り主を誰よりも知っている。
 なぜなら。
「彼女がつけている指輪……あれは、『私』が贈ったものだ」
 
 ◇◇◇
 
 それは、まだ第一世界にいる水晶公として自分が活動していた頃の話だ。
 アシエン・エメトセルクを退け、第一世界はついに真の意味での夜を取り戻した。
 闇の戦士という称号と共に感謝の念を送られたエリンであったが、激戦による疲労もあるだろうと、水晶公は彼女を一度原初世界へと送り返した。
 エリンは「お土産いっぱい持って、また来るからね」と名残惜しそうに水晶公の前から姿を消した。二つの世界の狭間を行き来するという前代未聞の移動を、ちょっとした旅行感覚で話をするのはあなたぐらいだろうと、苦笑をしながら送り出したものだ。
 その後、エリンは約束通り、いくつかの原初世界の土産――タタルが用意した冒険の必需品や食べ物――を片手に戻ってきたのだが。
「水晶公さん! また散らかしてるんですか!」
「いや、これは……んんっ、それよりも、私の知らない間に戻ってきていたのだな、闇の戦士殿」
 咳払いをして誤魔化す水晶公の発言に、エリンは口元をもごもごとまごつかせる。
「その呼び方、フードをかぶっている謎の人物であった水晶公さんならいざ知らず、今のあなたにされるのは、なんだか変な感じがするんだけど……ううん。それよりも!」
 ずかずかとエリンが足を踏み入れたのは、水晶公の私室の一つだ。
 第一世界に戻ってきたものの、いつもは出迎えてくれる水晶公が見つからず、彼を探してエリンは暫し塔の中をうろうろしていた。その時、彼に仕える兵士の一人であり、水晶公にとっては孫娘のようなものでもある女性――ライナに、「公なら朝からずっと私室に篭り切りなので、様子を見てきてください」と部屋の鍵と共に、この部屋に案内されたのであった。
「水晶公さん、こっちの部屋もひっくり返しているんですか」
「私とて、好きで散らかしているわけではないつもりだ。本を仕舞おうにも、本棚を塔の中に運ぶわけにもいかないから……やむなくこうなっているんだ。ここは、階層も高い。皆にそのような重労働をさせるわけには」
「だからって、散らかしていい理由にはならないと思います。ヤ・シュトラさんもそうですけれど、なんで研究をする人って皆本を山にした上で崩しちゃうんだろう」
 ぶつぶつ言いながら、エリンは本の山に埋もれていた水晶公を救出する。
 水晶公は部屋に入ってきたエリンに驚いて身じろぎしたと同時に、周囲にあった本の山を崩して、埋もれてしまっていたのだ。
「手伝いますから、一緒に片付けましょう。こっちの本はどこに置けばいいんですか?」
「いや、別にその辺りに適当に置いておいてもらえれば」
「水晶公さん」
……はい」
 漏れ聞こえた彼女の呟きによると、ヤ・シュトラや水晶公の部屋の散らかりぶりを聞いたタタルが、エリンに片付け術を仕込んでしまったらしい。
 エリンが第一世界から持ち帰ったお土産という名の荷物袋の惨状を見たのも、タタルに火をつけた契機だったようだ。
「『私がしっかりしなければ、暁の皆さんの部屋が早晩ぐっちゃぐちゃのしっちゃかめっちゃかになってしまいまっす! 冒険者さんも、ちゃーんと荷物を片付けるのでっすよ!』って怒られちゃったんだよね」
 片付けをしている間、ふっとエリンの言葉遣いが崩れるときがあった。
 今までは、正体不明の協力者でありクリスタリウムの統治者でもある水晶公に対して、エリンは丁寧な言葉遣いを心掛けていた。
 だが、その正体がかつてクリスタルタワーの調査のために肩を並べていたグ・ラハ・ティアと知ってからは、ふっとした時に彼女の言葉遣いが緩むことがあった。
(今の私が、あなたにそのように語りかけられるのは照れ臭いような、懐かしいような……なんだか妙な気分になるな)
 無理に水晶公としての仮面をつけていたわけではないが、ふとした時に三百年の時を遡って彼女に語りかけなくなるときもある。
 水晶公として生きた百年の重みと、グ・ラハ・ティアとして駆け抜けた数ヶ月の時。それらが交差して、言い難い胸の疼きが、水晶の奥に潜ませた心に淡く滲む。
「だから、水晶公さんのお部屋も、私がきちんと片付けましたってタタルさんに報告しないといけないの。あ、こっちの箱はどこに置けばいい?」
「それは、私が持とう。少し重たいだろうから」
 エリンが抱えようとした木箱を代わりに受け取り、水晶公は整然と並び直された本の山の端に移動させる。
 実は、机がわりに利用するので部屋の真ん中に置いておきたいと言ったら、また怒られてしまうだろう。机と椅子ぐらいなら部屋に持ちこむべきだろうかと、環境改善のために重い腰を上げようと、彼も漸く考え始めかけていた。
「この箱、中には何が入っているんですか」
「ミーン工芸館の皆から、新しい装備の試作品を見てほしいと頼まれていたんだ。闇の戦士殿のおかげで罪喰いの数はかなり減ったものの、まだ全てがいなくなったわけではない。それに、罪喰い以外の魔物も多く存在する」
 箱を開くと、中には丁寧に折り畳まれたローブや甲冑、短剣や盾などが並んでいた。
 細身の箱をもう一つ開くと、こちらには杖や長剣、槍などの長物が並んでいる。
「闇の戦士に、この世界の全てを押し付けるわけにはいかない。自分たちも戦う力を持とうと、装備の改善が工芸館の流行りの一つになっているらしい。もしよかったら、あなたもあとで立ち寄ってもらえないだろうか」
「わかりました。杖の使い心地なら、何かアドバイスできると思います」
 冒険者として、武器や防具という存在は何かと気になるのだろう。断りを入れてから、エリンがローブや杖に触れているのを見て、水晶公は目を細める。
 次の冒険に向けて、新しい装備に悩む姿。いかにも冒険者らしい彼女の横顔は、水晶公が百年の時を経て求め続けた光そのものだった。
 そんな彼女の横顔を見て、水晶公はそっと踵を返し、部屋の片隅に丁重に置いておいた荷物を開く。これだけは、本の山に埋もれさせないように注意していたのだ。
「闇の戦士殿。……いや、エリン。少し、いいだろうか」
 昔は何気なく呼びかけていた名だというのに、改めて口にすると舌まで水晶になったかのようにぎこちなさが残る。エリンも、普段とは違う呼ばれ方にぴんと耳を立て、おまけに尻尾もぶわりと膨らませていた。
「ど、どうしたの」
 普段通りを装おうとしているのだろうが、声の上擦りまでは隠せていない。だが、水晶公は敢えて知らぬ顔をして、そっとエリンに歩み寄る。
「実は、あなたへの贈り物を用意していたんだ。工芸館の皆が装備を作っているというのを聞いて、私もあなたへの感謝と……この先の冒険に役立つような品を用意したいと思って、工芸館の皆と共に……これを」
 何度も頭の中で予行演習をしたはずなのに、いざ本番となると、水晶に潜ませた胸が激しく鼓動しているのがわかる。塔が異常を検知して、この心臓まで水晶にしてしまわないかと不安になるほどに。
……ラハ?」
 緊張している様子が、具合が悪いと誤解したのだろうか。心配そうなエリンの声音に、なんでもないことを示すため、二、三咳払いを挟む。
「つ、つまり、この世界に光を取り戻したあなたに、私からお礼の品を贈らせてほしい」
「そんな、私、別に何かお礼にもらうようなことはしていないのに」
「いいや。百年間夜を知らなかった世界に、闇を取り戻してくれた。それは、十分に偉業と言えるものだ。誰かがそれを英雄ならば当たり前のことだと言っても、私はあなたは素晴らしいことをしたと讃え続けよう」
 彼女は英雄という称号に、自覚的『すぎる』きらいがある。
 英雄なのだから大変なのも当たり前だ、強大な敵を倒すのも当然だ――などと、そんな形で英雄の肩書きを背負わないでほしい。それは、水晶公が第八霊災で彼女が命を落としたと知ったときから、ずっと思っていたことだった。
「だから、これはクリスタリウムという街に夜を齎してくれたあなたへの、私からの感謝の品として、ぜひ受け取ってほしい」
 言いながら、水晶公はエリンの手に小さな箱を渡した。
 ベルベットを思わせる滑らかな起毛生地は、工芸館の皆が気合を入れて作ってくれたものだ。取り戻した夜の空を思わせる、濃い青の生地の箱のつなぎ目に指をかけたエリンは、恐る恐る箱を開く。
「わあ……すごく、綺麗……!」
 少女の口から思わずといった調子で飛び出した言葉に、水晶公は内心で拳を握りしめていた。工芸館の皆とデザインや素材も含めて、三日三晩討論した甲斐はあったと、万歳の声をあげたくなるが、ぐっと堪える。
「こんなに綺麗なもの、本当に貰っていいんですか?」
「ああ、勿論だとも。それに、その指輪はただ綺麗なだけではない。癒しの魔法を扱うあなたの補助になるように、素材も厳選している。必ず、あなたの冒険の役に立つと保証しよう」
「ありがとうございます、水晶公さん。大事にしますね」
 言いながら、エリンはさっそく指輪に手を伸ばし、左手の人差し指にはめる。白い球状の宝石をはめた細身の指輪は、一点の濁りもなく煌めき、エリンの指にしっくりとおさまっていた。
 しばらく指輪を右手の指先で撫でていたエリンは、はにかんだ笑みを見せながら、
「第一世界で手に入れたものを、原初世界に持ち帰れてよかったって、今心の底からそう思いました」
「たしかに。この世界からでたあと、指輪だけ取り残されてしまっては、せっかく用意したのにあなたの冒険についていくことはできなくなってしまうな」
「ふふ、そうですね。それに、もしそんなことがあったら、私の荷物まで置いていくことになりますから……きっと、大変なことになりますよ」
……あなたの荷物の中は、一体どうなっているか聞かない方がいいのだろうか」
 そんな他愛ない雑談に興じながら、水晶公は彼女の指先を見て、思う。
(たとえ、この私が原初世界のあなたの旅路についていくことができなかったとしても……あなたを見守っているという私の想いを、少しも連れて行ってくれるのならば……などと考えるのは、少々私情が入りすぎているか)
 一瞬芽生えた淡い感情を、水晶公はそっと胸の奥深くに仕舞う。今はただ、自分の敬愛する英雄が喜んでいる。そのことだけを、胸に焼き付けておこうと。
 
 ◇◇◇
 
「こっちの服と、あとはこっちのズボンだね。靴も一緒に買ってくれるのかい。それなら、おまけにこいつもつけてあげよう」
「流石におまけにしては多すぎないか。上着だけじゃなくて、ストールまでついているじゃないか。しかもそっちのは、オレというよりどっちかというとエリンのサイズじゃ……?」
 着替えを終えたラハは、元の服装には着替え直さず、そのままトライヨラ観光に繰り出そうとしていた。
 会計を済ませようと屋台の前に戻ってきたが、エリンは今この場にはいない。彼女は、知り合いを見つけたようで、少し離れた店先でヴィエラ族の麗人と会話を弾ませていた。
「それなら、値引きした上でお買い上げってことでもいいよ。トライヨラは、夜になると海風で少し冷えるからね。あのお嬢さんの格好じゃ、寒くなって震えあがっちまうだろう。だから、あの子の分の上着が必要じゃないかい」
「なるほど、そういうことか。たしかに、ここから少し離れたところには、高山地帯もあったものな」
 燦々と降り注ぐ日光が目立つため、トライヨラは始終温暖な印象があるが、夜になれば海から渡った風がひやりとした空気をもたらすこともある。
 エリンは外套や上着を持っていなかったので、店員が気を利かせてくれたようだ。
「寒がる相手にあったかい羽織ものをかければ、優しさも恋心に染み渡るってことさ。あたしも、昔旦那にしてもらって、一発で恋に落ちたものだよ」
……ま、まあ、風邪をひかないのは大事なことだからな、うん」
 妙に押しの強い店員に言われるままに、いくらか値引きして上着も購入しておく。それらを脱いだ服とまとめて、一つの袋にまとめていると、
「ところで、お兄さん。ちょっと聞いていいかい」
 今までのセールス文句とは異なる、何やら真剣みを帯びた声音にラハは手を止める。
――あのお嬢さんの指輪について、あんたは何か知っているのかい」
「あれは……まあ、うん。大事なものだってことは」
 渡したのは自分であって自分でないような過去の自分だから、誰よりもよく知っている。などと言うわけにもいかないので、ラハは適当な言葉で誤魔化した。
 すると、店員は硬い鱗の下の瞳をそっと伏せ、
「ひょっとして、渡した相手は、もう亡くなっているんじゃないかい」
――――
 その問いに、すぐには答えられなかった。それは事実であると同時に、そうではないとも言えることであるからだ。
 水晶公だったグ・ラハ・ティアは、確かに今も第一世界のクリスタルタワーに立ち、クリスタリウムを――あの世界を見守り続けている。
 だが、彼の記憶を受け継いだグ・ラハ・ティアはここにいる。そして、エリンもラハも、今ここにいる自分たちのこの瞬間を大事にしたいと決めた。お互いに気持ちを確かめ合い、特別な感情を持ち合うことを許しあったのだ。
 だが、それでも全てを完全に清算はできないのではないかと、ラハは思う。だから、彼女は指輪について問われたとき、痛みを残す声を発してしまったのではないか。
「お節介だってことは分かっているけれど、ね。あの子が、指輪を渡した相手に囚われているように見えちまって、何だか他人事に思えなかったんだよ」
 ラハが頷いたのを確かめてから、店員は続ける。
「あたしも、この前のドームから来た奴らの襲撃で、妹が……やられちまったんだ。もういい歳だけど、まだまだあたしと一緒に店を盛り上げていこうって話していた直後のことさ」
……そうだったのか」
「そんな暗い顔をしなさんな、お兄さん。確かに悲しいとは思ったさ。この際、店も畳んじまおうかと思った。あたしが服を仕立てて、妹が服につける装飾を作ったり、刺繍を入れていたのさ。あの子の入れた刺繍は、そりゃ評判がよかったものだよ」
 言われて、ラハは自分が今着ている服へと視線を落とす。彼のズボンにも、綺麗に磨かれた石を並べたベルトが巻かれていた。袖口に目をやれば、細やかな刺繍が幾重にも縫い込まれている。
「服を仕立てることしかできないあたしじゃ、もうやっていけないだろうって、すっかりやる気がなくなっちまったのさ。だけど、妹が遺した娘がね、あたしにこう言うんだ。『伯母さん。わたしはお母さんのやり方を覚えている。頑張って、お母さんのように綺麗な刺繍を入れて、皆が喜ぶ飾りを作ってみせる。だから、終わりにするのなんてやめようよ』ってね」
 そう言いながら、店員はラハに渡した外套を見やる。丁寧に縫い付けられたコイン状の装飾には、きっと彼女の姪御の血と汗と努力の結晶が詰まっているのだろう。
「別に、あたしは妹のことを忘れたわけじゃない。先に亡くなっちまった旦那や、妹の旦那のことも、みんなみんな覚えているさ。彼らとの思い出は、あたしたちを励ましてくれた。でも、あたしがこうして店を続けられたのは、あの姪っ子がああ言ってくれたおかげだと思っているのさ」
 一度言葉を区切ってから、マムージャ族の女店員は少し離れた場所にいるエリンを見やる。
「もし、あんたの大事な彼女が、いなくなった誰かにずっと囚われているのなら、それはちょっと悲しいことなんじゃないかって、気になっちまったのさ。あんたっていう、今あの子の隣にいる人がいるなら、そっちに目を向けた方がいいんじゃないか……ってね」
……ああ。あなたの言う通りだと、オレも思うよ」
 水晶公として生きたラハのことを、彼女は忘れたわけではない。とはいえ、始終悲しみに囚われているわけでもないだろう。
 けれども、彼が渡した指輪が、ふとしたときに喪失の痛みを思い出させるのなら。
……そのさきに続くものがあってもいいはずだ)
 渡してもらった服を抱え直してから、ふと視線が店先に並ぶ装飾品へと落ちる。
 その先にあったのは、まるでトライヨラの海を映しとったかのような、美しい色合いの石で作られた品々。きっと、先ほど話に出てきた店員の姪が作ったのだろう。
「これ、一つ貰ってもいいだろうか」
 何かを決めたようなラハの赤い瞳に、店員は大きな瞳を細めて「まいどあり」と頷いた。
 
 ***
 
 ラハとエリンのトライヨラ観光は、ラハが予定していたように順調に進んで行った。
 屋台をぶらついて、見慣れない食べ物を口にする。ソリューションナインにいる仲間たちへの土産を探し、あれがいいこれがいいと悩む。
 トライヨラでできた知り合いに挨拶をする場面もあれば、エリンがエオルゼアで知り合ったという人物に紹介されることもあった。エレゼン族のその青年は、好感の持てる丁寧な言葉遣いの人物だったが、親しげにエリンと話をしている姿を見て、一瞬ラハの尻尾が膨らんだのは、彼女には内緒だ。
 そうして、一通り観光を満喫し、シャバーブチェでとっておきのトライヨラ料理に舌鼓を打った。タコスだけがトライヨラの伝統料理ではないと言わんばかりに出された数種類もの料理は、空きっ腹を抱えた若者二人の胃をしっかりと満たしてくれた。
「最初に出してもらったバナナの飲み物、甘くておいしかったね」
「マムークに生えているバナナから作るって言っていたよな。あそこのバナナは青いのに、中身はあんなにまろやかな淡い色合いになるなんて驚きだったな」
 たっぷり満たされたお腹を抱えながら、ラハはエリンとシャバーブチェ近くにある浜辺をそぞろ歩いていた。食後の軽い運動といったところだ。夜になり観光客が少なくなったビーチは、波の音も相まってトライヨラとは思えないほどに落ち着いた空気に包まれていた。
「途中に出てきたシチューも美味しかったね。ムケッカ、だっけ?」
「そうそう。スパイスが効いていて、エオルゼアではウルダハの料理に少し近かったな。でもちょっとまろやかな感じもしたような……?」
「ココナッツミルクを使うって言ってたよ。だからスパイスの味を適度に抑えてくれていたのかも」
 今度、アルフィノたちにも食べてもらいたいとエリンは目を輝かせる。どうやら、暁の面々にも振る舞いたいほど美味だったようだ。
「それに、やっぱりタコスも美味かった! ロネークの肉を使ってるって言ってたな」
「デザートに出してくれたゼリーもおいしかったよ。アロエで作ってるから、あんなに綺麗な緑色になるのかな」
 森の果実とアロエを使ったゼリーと紹介されたそれは、一緒に出された果実の果肉の甘酸っぱさが特徴的だった。
 もっとも、それがブランチベアラ――ー幽鬼の如く青白い光を纏った、鳥のような見た目をした植物の魔物――から採取されたものと知っているものは、この中にはいなかった。
「こんなにトラル料理をじっくり食べたのは、久しぶりかも。今度は、皆も一緒に来て――っくしゅん」
 勢いよく両腕を上げていたエリンは、ぴゅうと吹き込んできた海風に肩を震わせ、小さくくしゃみをする。
「うう……少し冷えてきたね、ラハ。ラハは大丈夫?」
「ああ。オレは長袖だし、ストールも買っておいたから。ほら、あんたにはこっち」
 言いながら、ラハは用意周到な店員が用意してくれた外套を彼女へと羽織らせる。トライヨラの家々を思わせる鮮やかなイエローの生地に、先ほど話したアロエゼリーのようにぱっと目をひく緑の刺繍が施されていた。
「もしかして、買っておいてくれたの?」
「こういうこともあるんじゃないかって、あの屋台の店員さんが気を利かせてくれたんだよ。これなら、寒くないだろ?」
「うん。ありがとう、ラハ」
 外套に袖を通すと、鮮やかな赤の布地は見えなくなっていった。
 彼女の肌に映える色だったため、少し名残惜しさを覚えながらも、ラハもストールで自分の体を包む。
 外套の暖かさにほっとひと息をつくエリン。その傍らで、ラハは少しずつ高鳴る己の胸の動悸が聞こえないかと、内心ヒヤヒヤしていた。
「ラハ。何だか落ち着かない様子だけど、どうかしたの」
 前言撤回。妙に視線が泳いでいる様子は、ばっちりエリンに観測されていたらしい。
 意を決して、ラハはエリンへと向き直る。
「あのさ。その……指輪の、ことなんだが」
「指輪?」
……エリンが、今つけている指輪。店員さんが、話題に出した時、なんだか……あんたが、少し辛そうにしていたのが、聞こえたから。少し、気になっていたんだ」
 ラハの辿々しい言葉に、彼が何を言いたいか察したのだろう。エリンの色違いの瞳がゆっくりと見開かれる。
「それは……オレが――水晶公だった『私』が、あなたに贈ったものだってことは知っている。あのときの『私』は、原初世界の冒険に向かうあなたについて行けるかどうかも、まだはっきりと分からなかった。だから、せめて……その指輪だけもつれていってほしいと、共にあなたの旅路を見守らせてほしいと、そんな願いを託していたものでもあったんだ」
 我ながら勝手な重荷を持たせたものだと、ラハであり水晶公である自分は自嘲する。
「結果的に、オレは今こうして、エリンの隣にいる。他の誰にも渡さない、たった一つの特別な場所にオレがいてほしいって、他でもないあんたにそう願ってもらったんだ。その自覚もしている」
 外套に包まれて指先だけが見えているエリンの左手を――白い宝玉の指輪がはめられた手を、壊れものであるかのようにそっと手にとる。
「だからって、これはもう要らないなんてことは言わない。だけど、もしあんたがこの指輪を重荷に感じることがあったのなら……あの頃の『私』の願いはもう叶っているんだって、そのことは今の『オレ』から伝えさせて欲しい」
 そこまで言い切ってから、ラハはようやくエリンの瞳を見つめられた。彼女は驚いたように瞳を震わせ、一度指輪に視線を落とすと――ふ、と泣きそうな顔に笑みを引いた。
「大丈夫だよ、ラハ。私は、水晶公だったあなたのことを思い出して……あなたがいなくなったことを思い出して、悲しい気持ちになっていたわけじゃないから」
 ラハの掌の上で、白い石の指輪が、星灯りを受けて柔らかく光る。
……スフェーンが言っていたでしょう。『あなたが生きる始まりの朝に、大事な人たちの記憶が寄り添ってくれる。そうやって懸命に生きたあなたの記憶がまた、いつか誰かの朝に、そっと寄り添うから』って」
 エリンは、自分の指に何もはまっていない右手を重ねる。
……私の記憶は、水晶公として生きてきたあなたの朝に、寄り添えたかな」
――――!」
「それに、旅立って行った皆の記憶も、いつも私の隣にいてくれたんだなって。指輪を見ていたら、そんな風にいなくなった人たちの顔がいっぱい思い浮かんで、胸がいっぱいになってしまったの」
 記憶として、そっと背中に寄り添ってくれる数多の思い出。
 それは、決して悲しさで人々をうちのめすものではない。心を温めてくれるものであり、次に続く未来へと顔を上げるために必要なものだ。
……そうだったのか」
 英雄が背負ってきた『いなくなった者』の数は、ラハの想像をはるかに上回るだろう。それら全ての人間の温もりに背中をそっと押されて、エリンは立ち上がってきた。
 彼女が指輪を外さないと店員に答えたのは、その温もりを今も感じたいと、改めて思ったからかもしれない。
「ごめん。なんだか、オレが一人で空回りしてしまったみたいだ」
「ううん。きっと……皆のことを思い出して、なんだか悲しくなっていたのも本当だと思う。いなくなった人たちのことがね、ふっと胸に思い浮かぶ時もあるの。もちろん、必ずしも、この指輪が関係あるわけじゃないんだけど」
 だが、忘れられない棘として、時にちくりと心に刺さることはある。エリンは小さな声でそう呟いた。
「でも、同じくらい、彼らの思い出が私を満たしてくれるから。だから、私は大丈夫」
……そうか。だったら――やっぱり、オレはあんたにこれを渡したい」
 言いながら、ラハは小さな布製の箱を取り出した。トライヨラ独特の織模様の入った箱を、『今回は』開いたまま彼女に渡す。
「これって……
 中に収まっていたのは、翡翠を思わせる澄んだ青緑色の石がはまった指輪だ。ヨカフイ族の住まう山脈から取れる特別な鉱石を加工して作った、と店員は語っていた。
 偶然にも、指輪のデザインはエリンのはめているものによく似ていた。丸い石を包むような繊細な指輪の輪郭に、エリンの視線が釘付けになる。
「以前、水晶公の『私』が贈ったのは、あなたの無事を祈り、あなたの背中を見守るための指輪だった。だけど、これは――
 ラハは箱を自分に向け、自ら指輪を手に取り、エリンの右手を手にとる。何の指輪もはまっていない彼女の人差し指に、ラハはそっと青緑の指輪をはめた。
「これは、あんたの隣にいるオレが、この先に続く明日へあんたを連れていきたい――その約束のための指輪にしたいんだ」
 いなくなってしまった人が、今を生きる人の背中をそっと押すなのだとしたら。
 その隣にいる者は、手を取り、続く未来に向かって走っていこう。
 そんな思いを込めて、英雄の右手を取る手に少しばかり力を込める。
 エリンの瞳が、指輪へと落ち、再びラハの元へと戻る。何も言えずにいる彼女の様子に、ラハに一抹の焦りが生まれかけた。
「指輪を二つもつけるのが嫌だっていうのなら、もちろん外していてもいい。だけど、あんたには、隣にいてあんたを引っ張っていきたいって思っている人間がいるんだってこと、時には思い出してほしいんだ」
……うん。忘れたことなんてないよ、ラハ」
 漸く言葉を発したエリンは、ふと淡い微笑を浮かべる。
「ありがとう。すごく嬉しい」
 月並みなことしか言えなくてごめんね、とエリンは言うものの、そのありきたりな言葉がラハには何よりも嬉しかった。
「でも、こんな高そうなものを貰ってよかったの?」
「問題ないさ。それに、あんたは今回すごく頑張って、原初世界も、アレクサンドリア連王国も、このトライヨラ連王国だって守ってみせたんだ。少しぐらい、報酬があったっていいだろ?」
「でも、私、別に当たり前のことをしただけだから」
「あんなに頑張ったことが、当たり前なわけがないだろ。英雄だろうが、英雄じゃなかろうが、あんたはたくさんの人を救ったんだ。皆が英雄として当たり前だって言っても、オレはあんたはすごく頑張ったんだなって賞賛し続けるよ」
――!」
 その言葉は、かつて第一世界を救った英雄に向けた言葉と瓜二つだと、エリンにも伝わったのだろう。
(何度だって言ってやるさ。この星を救ったことも、この国を守ったことも、とってもすごいことなんだって)
 目を丸くしているエリンの手を引き、夜風から守るように彼女を抱きしめる。以前はできなかった『特別な隣』の特権は、この時ばかりは全力で利用させてもらう。
 慣れない接触で強張っていた彼女の体も、やがて緩やかに緊張が解け、恐る恐るラハの背へと腕を回していた。
 やがて、彼女の体がそっと震え始めた。寒さからではない。誰にも聞こえないように響かせた声は、見つめ直した『思い出』たちを想ってのことだろうか。
「エリン」
 呼びかけると、予想通り、少し濡れた色違いの双眸がこちらを見つめ返していた。
 すん、と鼻を鳴らしている彼女の頭を、何度か撫でる。少し気持ちが落ち着いたのか、一瞬乱れていた呼吸が落ち着いていくのがわかった。
「なに、ラハ」
――お疲れ様。よく頑張ったな」
 暁の面々もかけてくれた、ありきたりな、それでいて万感の思いを込めた労いの言葉。
 それを、再びラハは英雄へと送る。
 羽を伸ばしたあとは、再びまだ見ぬ明日へと羽ばたく彼女のために。
 その道標となるために、自分はここにいるのだと示すように。
 彼女の頬に手をかけ、顔を上に向けさせる。微かに開いた唇に、そっと自分のそれを重ねた。
 吹き渡る海風のせいか、それとも――彼女がこぼした涙のせいか。それは、いつもより、少ししょっぱいような気がした。
――ラハ」
「そろそろ宿に戻ろうか。体調を崩したら元も子もないからな」
「あのね、ラハ」
 彼女の手を引いて歩き出そうとしたラハは、呼び止められて内心どきりとしていた。
 勢いに任せてあのような行為をしたものの、もしや嫌だったのではないかと不安に心臓が爆発しそうになっていたところ、
「今日、同じ部屋に泊まっていってもらっても……いい? ほら、いつも二人部屋を使わせてもらっているから、寝台が余っているの。もう少し、今夜はラハと話をしたいん……だけど……
 エリンの声が尻すぼみになったのは、ラハはなぜか顔に手を当てて何かを耐えているような素振りを見せていたからだ。突如頭痛にでも襲われたのかと彼女が心配していると、
……うん。わかった。だけど、それ、絶対にオレ以外のやつには言うなよ」
「え、でもアリゼーとかクルルにはよく言うよ」
「その二人はいいんだ。いいから、クルルたちの言いつけをよーく守るように」
「う、うん……?」
 わかったようでわかっていなさそうな英雄を見ながら、ラハは「オレのいないところで、エリンを一人にしないように皆に言おう」と決意したのだった。
 
 その後。
 宿には到着したものの、歩き回って心地よい疲労に包まれた上に、トライヨラ名物をたっぷり味わってお腹も満ちていたエリンは、早々に寝台で眠りにつき、
「オレがいるからぐっすり眠れるっていうのなら、これもまた役得なんだろうな」
 と言いつつ、エリンに尻尾を握らせてやっていたのだった。
 英雄の安心し切った寝顔を見る特権。それもまた、自分だけが許された特別なのだろうと、青年は静かに瞼を閉じたのだった。