守り神、と胸中で呟く。守り神とは一般的に外敵から身内を守る神だ。そうだとしたら真っ当な守り神なのだろう。自分の仕事を純粋にこなしている神だ。
部屋の中も中庭も、もう静かだった。降魔は部屋の周りをぐるぐると回っている。そうさせているのは青嵐だった。いち早く異常を知らさせるためだ。
太刀をいつも以上にそばに置き、いつでも抜けるようにした。中庭の広い池に、蛇が泳いでいた。
そろそろ植柾に会わなければならない。太刀を持ちながら腰を上げた。降魔は歩くのをやめ、指で丸を作ると姿を消した。
「よく躾られている」
紫垂月頼宗は式神と分かった上で喉の奥で、微かに笑った。
「紫垂月殿の言うことも聞くようにしてあります」
万が一のことがありますからと続ける。
「万が一、ね」
彼は納得いったように頷き、靴箱のほうに向かった。青嵐も続いて廊下にでる。昨日と同じく、鏡のように天井や壁を反射していた。
最低限の荷物と太刀。それだけで事足りるが、土産ものなどは持ってきていない。植柾当主に会おうが会うまいが、平等でなければならない。
植柾の家はここから歩いていける距離で、この宿からおよそ五分ほどで着くと聞いた。一応スマートフォンで調べたが、その住所は山の中を指しており、らちもあかなかった。
宿の外に出る。緑の濃い匂いがした。昨夜雨でも降ったのか、土が少々湿っている。山の向こうは薄く淡い雲がゆっくりとくだっていた。
だいたいの位置は聞いている。山道だが整備されている道で、遭難することはなさそうだ。
草履の裏を泥だらけにしながら道を歩く。蝉の鳴き声が左右から聞こえてきた。
前を見上げるようにして顔を上げると、茅葺きの屋根がわずかに見えた。
草履がずる、と滑る。地下足袋の方が良かったかもしれないと今更思う。草履が慣れているとはいえ。
ゆったりとした坂道を登り終えると、植柾の屋敷は建っていた。
茅葺きの屋根の前には宿の門よりも二回りほど大きいものが建っている。扉は開かれていた。一目で母屋とわかる屋敷の出入り口に少女が佇んでいる。赤い着物を着ており、肩揚げされているものだった。まだ小学生にはなっていない少女のようだ。
黒目がちの目をこちらにじっと向けている。青嵐は帽子とサングラスをとり、礼をした。
「おはようございます。天照本部から参りました雲井青嵐、こちらが紫垂月頼宗と申します。あなたは——」
「おじいちゃん」
少女は妙に赤いくちびるを開けて、おじいちゃん、と叫んだ。
黒い髪を背中まで伸ばした少女は屋敷に駆け足で入っていってしまった。
「植柾さんのお孫さんでしょうか」
勝手に入るわけにはいかず、大きな扉の前で待っていると老人が出てきた。着物を着た、御大、と呼ぶにふさわしい顔立ちをしている。先ほどと同じように頭を下げた。
「植柾國雪という。ようこそ天照のお二人。どうぞ、こちらへ」
手を差し伸べる植柾國雪は杖をつき、足を引きずりながら屋敷に上がった。
「主」
紫垂月頼宗がそっと耳打ちをする。
門の向こう側——坂の前にあの女が立っている。白いパラソルで顔を隠してはいるが、こちらを見ているのは違いなかった。
「こちらへは入ってこられないのかもしれません」
この屋敷に何らかの力が働いていることは分かった。
「悪いものかそうでないものか、まだ見極められませんね」
先ほどから頭痛がする。喉を動かすたびにうなじのあたりが軋んだ。
体調が悪いだけで足踏みをしていられない。
屋敷の中に足を踏み入れる。直後、ずしりと覆い被さるなにかを感じた。降魔を出すべきか迷うが、今は植柾の機嫌を損ねることは避けるべきか。
座敷に案内され、植柾國雪は座椅子に座った。下座に座布団が用意されてあったので、断ってから座る。
「本部の要請とあれば、断れないからね」
國雪はそういい、ほがらかに笑った。冷や汗がこめかみに滲む。
——守りが薄いとはこういうことだ。
病原体に勝つための免疫がない。だからこそ先手を打つことでやり過ごしてきた。が、ここはあまりよくない。先に手を打つための材料さえなかったのだ。
「どうかしたかね。顔色がずいぶんと悪い」
膝に置いた手が着物の生地にしわを作る。
「こちらに、神はいらっしゃいますか」
そううめくように尋ねる。
「いや……神、と言うにはあまりに無知で苛烈です」
國雪の顔が緩んだ。不気味な微笑みだと感じた。あまりに白い笑みであった。
紫垂月頼宗の姿がブレる。彼は己の刀を取り上げ、青嵐の腕を掴み持たせた。刀遣いの矜持か、重たい腕はそれでも太刀を握りしめる。
どっ、どっ、と、心臓が痛むほど脈打つ。同じように、呼吸が荒い。
國雪の目を霞む視界で見上げる。
老人の白目に黒く細い、棒状の虫のような——何かがよぎった。
おのれの上半身さえ支えられない。太刀を抱えたまま、紫垂月頼宗の異能を使う。
朧月に満開の藤棚が座敷を覆った。いつもながら、素晴らしい夢のような景色であった。
「ここを出よう、主」
——招いたのはこのためだったか。
外部の人間が誰であろうと関係ない。橋を渡る前から植柾は見ていた。青嵐のことを。
今まで会った島外の人間は土岐と来島。2人ともこの地で生きられているのはなぜか。来島は血縁がこの島にいたという。なら、土岐は——。
気づくと木陰にいた。風に揺れる梢が見える。
「主」
紫垂月頼宗の、ととのった顔がこちらを覗いた。頭痛は少し引いたものの、倦怠感がある。
「私の、」
わたしの価値。そう言いたかったが、口が乾いて出てきたのは乾いた呼吸音だった。
価値などない。だが役に立たないということが何よりも恐ろしい。そこに価値を見出すことはしない。ひどい矛盾だ。
唾液で口の中を湿らせ、蒸した土に手をついて起き上がる。喉が渇く。ひどく。
「情けないところを……お見せして」
霊力が強いといえど、思考し、理解し、そして大元を叩く術。それが青嵐の強みであり、弱みである。先に情報があればいくらでも自身を守る術を考えられたが——情報とはやはり武器であるし、防具でもあるのだ。
「なにか見えた?」
「植柾國雪。彼は人間ではない。彼の周りの方々は気づいていないようですが」
「肉体は人間のようだったけど」
「氏は人間の皮を被った妖魔です」
神かと問うた青嵐に笑いかけた、あれ。その笑みが、過去に見た神とあまりにも——違った。
「彼はおそらく既に何らかの形で亡くなっている」
「人間に成り代わっているということだね」
「ええ」
何を考えてそうなったのかわからない。けれど必ず理由があるはずだ。
じわじわと滲む汗で心地が悪い。手首でひたいを拭う。
「着物が土まみれになってしまったね」
彼が笑う。そうですねと自身も笑う。妖刀は紫垂月頼宗が持っていた。彼はやはり刀の神なのだなと思う。
乾き始めた地面に手をつき、揺れる視界を気にしないことにして、ゆっくりと立ち上がった。
「……」
坂の下に喪服の女が立っていた。陽炎のように、ゆらゆらとその姿が揺れている。宿にも、植柾の屋敷にも入ってこなかった女だが、新幹線や道ばたにはいた。
白いパラソルがゆっくりと下された。
はじめて、女の顔を見た。白粉を塗り、赤い紅をしている。切れ長の目が印象的だった。——植柾影子を思い出させるような。
パラソルの先を地面に置き、優美な手つきでそれを閉じた。
「いらっしゃい」
彼女の声はひどく涼やかで、この場だけ鍾乳洞の中にいるような冷たさを感じた。
坂の下にいるというのに、よく通る声だ。
「……いきものではないけど、理性はあるようだ」
彼はぽつりと呟いた。そして、青嵐の判断を待つように口を閉ざす。
「やみくもに調べまわっても時間の無駄ですね。それに、彼女の声……」
「どうかした?」
どこかで、聞いたような。そう言おうとしたが、やめておいた。
「いえ。……今なら話を聞けるかもしれません」
彼は頷き、ゆっくりと坂を下った。
「貴女は……」
彼女は意外と背丈があり、青嵐より数センチ低い場所に顔がある。
白いかんばせが緩み、微笑む。
「わたくしの名などたいしたことではございません」
やはり心地の良い、冷えた声だった。
「けれどわたくしはあなたのことをよぉく知っておりますよ。さあ、いらっしゃい。わたくしのすみかに案内します」
名も知らせぬまま、彼女はこちらに背を向けた。
となりに立つ紫垂月頼宗を見る。警戒している様子も特に見受けられない。青嵐自身も彼女自体に敵意はないと感じ、彼に「行きましょう」と促した。
——いま思うと、彼女がまとう懐かしい空気がそうさせたのかもしれない。
三人とも、足を止めずひたすら緩やかな坂道を下る。宿はとっくに通り過ぎてしまった。近くから潮のにおいがしてくる。海は、もうこの辺りだっただろうか。
彼女が立ち止まったのはちいさな家だった。いや家、というよりも小屋といった方がよいだろうか。
全体的に茶色く、凹凸のある土壁のような色をしている。
その家の横に朽ちたちいさな鳥居が建っていた。
「おあがり」
彼女はパラソルを玄関の傘立てに置き、手招きをした。玄関に入ると外見とは見紛うほどの美しさだった。
たしかに古いけれど、古いなりの美しさというものがある。飴色の廊下、白く塗られた——おそらく漆喰の壁。よく手入れをされているようだ。ただ色合いはひどくどんよりとしている。花などは見られなかった。
通されたのはちいさな茶室。
床の間を見ると墨で描かれた南天と、それを啄む小鳥の掛け軸がかけられ、花はブラックベリーのような、赤黒い実が生けられている。
茶庭と思わしき庭が視線の先に広がっていた。さらさらときれいな川が流れている。茶釜を沸かす炉が隅のほうに置かれており、茶室にしては小さいが、三人座るにはちょうどいい広さであった。
「お茶を点ててあげようにも、ここはわたくしの離れでね。炉以外、茶道具がないのよ」
厚い絹の着物を着ていても、汗が一滴たりとも流れていない。やはり生きてはいないものなのだろう。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないかな」
紫垂月頼宗が女の目を見ながら、くちびるを開いた。
「君は、誰?」
有無を言わさない声色だった。
黒い目玉が笑うように細められ、虹彩が鈍る。よく見ると彼女の目は橙——いや、琥珀のような色だ。
「あなたがたも分かっておりましょう。わたくしは生きておりません。生きたこともございません。前はここから離れた離島に住み着いてはいましたが、数十年ほど前に移ったのです」
彼女は髪をまとめた銀細工の簪に手をやりながら庭を眺めた。
「人間の言葉でいうところの、神——のようなものよ」
刀神でも妖魔でもないひとならざる存在。目で見えるものだけがこの世にいるわけではないことを、青嵐は嫌と言うほど見てきた。
「新幹線でもお見かけしました」
「ああ、あれはね。わたくしこう見えてハイカラなのよ。電車、新幹線、バスだって乗るの。お代は払えないけれどね。人間のお金ってとっても恐ろしいですもの」
流暢に、そして悪びれもなく語る。おそらく彼女は常人には見えない——か、見えても問題なく、存在しないことになっているのだろう。
「時折、遊びに行っているのです」
「それは……、器用なことで」
「なぜ僕たちのあとを?」
「お分かりでしょう。この地に住む妖魔を退治していただきたいの」
天照のお仕事ですものね。彼女は微笑みながら言う。
「神である貴女が手を出せないほどの妖魔なのですか」
「神のようなもの、よ。わたくし、今はあくまで招くだけの存在だから」
となりに座す紫垂月頼宗の表情はうかがえない。ただゆったりと、彼女を見つめている。
喪服の女は青白い手を膝に置き、目を伏せた。
「あれがわたくしのもとに来たのは5年前。その時に植柾は死んだのよ。殺された。あの妖魔に」
「私たちが今回派遣されたのは調査のためであって、妖魔を斬ることではありません」
ただ今の植柾が妖魔であるなら、放っておく理由もない。外部からきた人間を殺害する事件の犯人が捕まっていても、詳細は知らない。植柾に成り代わった妖魔が糸を引いている線もある。一度犯人が捕まり、その後も続いているのなら尚更だ。模倣犯となるには、理由がない。
「その調査に協力していただけるのなら、上とかけ合います」
彼女はその言葉を待っていたのか、赤いくちびるで弧を描いた。
「懸命な判断ね。あなた、植柾に近づくことすらままならないんですもの。わたくしも屋敷の中には入れないけれど、情報の調達は得意なのよ」
全て見抜いていたようだった。情報はあればあるほどよい。植柾の家に入ってから、あの体たらく。同じ轍は踏まない。
「道は覚えたでしょう。明日の昼、またいらっしゃい」
——かならず、くるのよ。
彼女はそう念を押した。
家から出て空を見上げる。太陽が翳り、雲が空を覆っていた。女とは門の前で別れた。
「面倒なこと捉えるか、幸運だったと捉えるか」
宿への道を戻りながら、ひとりごちる。となりを歩く彼は「君のことを知っているふうだったね」といった。
「どこかで会ったのか……私は覚えていませんが」
「人間は忘れてしまうね。そして僕たちも忘れる。君たちは寿命が短いぶん、記憶に占める時間が長いのかもしれないけど」
梢が空に網を張るように見える。
忘れる。人間は忘れる生きものだし、刀神も忘れてしまう。時間とともに。
「残酷だね。時間というものには僕たちも、君たちも逆らえない」
「私は」
草履で土を踏みしめながら願うように呟く。
「最期のときまで、あなたを忘れません」
十年、二十年、と胸中で繰り返す。
「君がいなくなるときは僕も覚えているよ。きっとね」
「そのときの私はあたらしく覚えることもできません」
「死ぬということは、そういうことなんだろう」
なにもできない。触れることも、ことばを交わすことも。なにも。
「君は、生まれ変わりを信じる?」
彼の不意になにかを思い出したような問いに、青嵐は目を伏せた。
「いいえ」
私は信じません。
その声が蝉と鳥の鳴き声にかき消されたように感じて、伝えられたかどうか不明だった。
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