柚子子
2025-08-15 22:24:05
8329文字
Public Dog Days of Summer
 
1603620

Dog Days of Summer (6)


苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字 湿った夏の空気が頬を撫でていく。こめかみに汗の気配を感じ、指の節で拭う。昼間に比べれば気温は下がったものの、辺りにはまだ、昼間の熱が薄くただよっている。
 八月半ばすぎ、お盆休みも終わったとある日曜日。
 今日は黒尾と約束した、夏祭りの当日だ。
 時刻はもうじき十八時。改札を出て、私は駅に背を向けた。
 待ち合わせは駅前のコンビニにした。改札前は夏祭り客で混みあうので、少し離れたコンビニで涼みつつ待ち合わせにしようと、黒尾の方から提案してくれた。
 黒尾と待ち合わせしたコンビニが少し先に見えてきたところで、道の向こうから見慣れた長身が歩いてくるのに気が付いた。黒尾もこちらに気付いたらしい。ほんの一瞬、黒尾の歩みが止まる。私はかまわず、ずんずん突き進む。
 私がコンビニにたどり着くより、黒尾がコンビニ前を素通りして、私のところまでたどり着く方が早かった。足を止め、見上げる。黒尾は額にうっすら汗をかいていた。
「よ」
「よ」
 短い挨拶をかわすと、続く言葉もないままに、私と黒尾は無言でお互い見つめ合う。道の端に寄っているとはいえ、私たちのすぐそばを、ひっきりなしに通行人がすれ違っていく。
 先に沈黙を破ったのは、私ではなく黒尾だった。
「いや浴衣とか、聞いてなかった……!」
 大きな手のひらで顔の鼻から下を全部を覆うようにして、黒尾がぎゅっと目をつむった。私は内心でガッツポーズをする。黒尾のこのリアクションが見たくて、今日は気合いを入れて支度をしてきたのだ。
「びっくりした?」
「そりゃするわ。俺なんか何も考えずに、めちゃくちゃいつもの恰好してきたのに」
「男子はいいんじゃない?」
「それでも教えといてよ。こっちにも心の準備とかあるんだから」
「だって言わない方が黒尾喜ぶかなと思って」
「そりゃもう、どうもありがとうございますですけど」
「黒尾、喜んだ?」
「これが喜んでないように見えるのか!?」
「ううん、めっちゃ喜んでるように見える」
「そうだよ喜んでるよ悪いかよ」
「なんで怒ってんの」
「怒ってねーけどさぁ……。つーかちょっと、ちゃんと見ていい? ちょっとそこで気を付けしてくんない?」
「いいけど、あんま見られると恥ずかしいな」
「見せるために着てきたんだろ」
「身もふたもない言い方を……事実だけど……
「とりあえずそこでくるっと一回転、頼める?」
「そこまで」
「無理そうなら俺が苗字の周囲をぐるっと一周、ガン見しながら回るんだけど」
「怖すぎじゃん、やめてよ。傍から見たら変な儀式してる人たちでしかないよ」
「この際、儀式もやむなし」
「やむあるよ、やむあってよ」
 とはいえ黒尾がここまで喜んでくれるなら、私も頑張って支度をととのえてきた甲斐があったというもの。黒尾のことだ、絶対に女子の浴衣なんか好きに決まっていると、私はそう確信していた。水着よりも浴衣が好きというタイプなんだ、黒尾は。絶対そう。
 と、本当に私の周りを一周しかねない雰囲気だった黒尾が、不意にはっとした顔をする。
「ちょっと待った、おい、苗字、まずいかも」
「え、なに。どうした?」
「俺、女子と祭りに行くのなんかはじめてだぞ」
「あ、そうなの」
「そうなんだよ。だから当然、浴衣の女子のエスコートの仕方なんか、全然想像もつかん……!」
「そんなの普通でいいよ」
「普通? 普通ってなんだ!?」
「歩くペースちょっと合わせてくれるとか、そんな感じの。いつも黒尾がやってくれてること」
「鼻緒が切れたら即席で結んでやるとかか……!」
「いつもやってくれることでいいって言ってんじゃん! 急に一度もやったことないこと言わないで、びびるから」
「足が痛くなる前に休憩を提案するのは良しとされているよな!?」
「それはめちゃくちゃありがたい」
 良しとされているかは分からないけれど。というか良しとされているってなんなんだろう。
「なるほど、よしよし。つかめてきたぞ……
「うーん、気合いが空回りしそうな気配がぷんぷんしている」
 謎に意気込む黒尾は、明らかに過剰なほどに気合いが入っていた。黒尾は普段から、かなり自然に気遣いをしてくれている。だから本当に誇張ではなく、黒尾にとってのいつも通りにしてくれるだけで、こちらとしては十分すぎるほどにありがたいの。けれどあいにく、黒尾本人には伝わっていないようだった。
「いや本当、そんな神経質にならなくていいよ。浴衣なら毎年着てるから勝手は分かるし」
 念押しのようにそう伝える。と、なぜか黒尾がぴたりと固まった。
「え、毎年着てんの?」
「ん? そうだけど」
 きょとんとする黒尾に、こちらも首を傾げて答える。家の近所のお祭りに、小学校時代からの友達と参加するのが毎年の恒例行事だ。そのときに浴衣を着るのも、毎年の恒例になっている。
「なんだ、そうなのかよ……
「え、なに。なんでそんな露骨にがっかりしてんの」
「いや、だってそんな、俺のために可愛くして来てくれたのかと」
「そうだよ? 今年はね」
「え」
「そりゃそうでしょ。今年は黒尾のために着てきたよ。半分くらい」
「半分」
「もう半分は、自分が着たいから着てるだけ」
 そうでなければ、こんな暑苦しい恰好をするわけがない。黒尾を不意打ちで喜ばせようというモチベーションだけで着るには、浴衣はちょっと面倒くさすぎる。
 私は半歩、ずいと黒尾に詰め寄った。見上げると、黒尾はわずかに上体をのけぞらせた。不快だから距離をとろうとしたわけではないことは、黒尾のうっすら赤くなった顔を見れば一目瞭然だ。悪くないリアクションに、私は内心満足する。
 たしかに浴衣は自分が着たいから着てきたもの。けれど黒尾を驚かせたい、あわよくば可愛いと思ってもらいたいという気持ちだって、当然ながらしっかりある。黒尾のために浴衣を着たわけじゃないと思われるのは、それはそれで不本意だ。
「浴衣は毎年着てるけど、でも、浴衣で男子とお祭りに行くのは、私だって今年がはじめてだよ」
「お、おおう……
「どう? 喜んだ?」
「どういう質問だ」
「喜んだのかって聞いてるんですけど」
「はー、ったく。おかげさまで大喜びだよ。……おし、そろそろ行くか」
「ん、参りましょう」
 他人が聞いたらバカみたいな会話をやってから、私と黒尾は並んで歩き始めた。
 通りを行きかう人のなかには、私と同じように浴衣を着ている女子の姿もちらほら見える。誰の顔も一様に明るい。この雰囲気のなかにいるだけでも、十分に楽しい気分になってくる。
 隣を歩く黒尾を、私はそれとなく見上げた。私と同じように、黒尾も周囲を見回している。けれどその表情のなかに、普段とは違うぎこちなさのようなものを、私はたしかに感じ取っていた。
 出会いがしらから今まで、今日も今日とて私と黒尾は、これまでの二年と同じような会話をお約束みたいにやっている。けれど、その会話ひとつとっても、完全にいつも通りではない。黒尾だって当然、それくらいのことは察しているにちがいない。
 今の私と黒尾のあいだに流れる空気、交わす言葉は、これまでのくだらなさとは明らかに異なるものだ。緊張感にも似た空気が、絶えず張り詰めつづけている。
 胸がそわそわして落ち着かない。黒尾は「あっちぃなぁ」と明後日の方角に視線をやって、シャツの首元をぱたぱたさせている。落ち着かない気持ちなのは私だけではない……そう分かってはいるものの、私の胸は落ち着くどころか、余計にそわつきを増していくばかり。
 そうして胸をときめかせつつ歩くことしばし。ほどなく、私たちは夏祭りの会場に到着した。
 夏祭りの会場になっているのは、駅から続く繁華街のメインストリートだ。通りを抜けた先にある神社のあたりまで、さまざまな屋台がテントを並べている。昔ながらの商店や地域住民が屋台を出しているほか、すぐそばのビル街から複数の会社が大型のイベントを出店しているので、このあたりの夏祭りのなかでは一番規模が大きい。
 黒尾は去年も、部活のあとに部員と一緒に来たらしい。音駒から遠くないため、そういう生徒も結構多い。同級生に見られたら何か言われるだろうか。私と黒尾がいくら友達として仲良くしてきたといっても、さすがにこの状況を見られれば、それなりに噂は立つだろう。なにせ黒尾は目立つし、下級生からの人気もあるから。とはいえ私も黒尾も、もはやそんなことを気にする段階はとうに過ぎている。
 空は徐々に青みを帯びて、東から色を深くしていく。普段はこのあたりに来ることもないけれど、それでも今日は夏祭りとあって人出が多いのだということは、周囲を歩く夏祭り客の多さから容易に察せられる。
「黒尾と仲良くなって二年以上経つけど、こういう遊びってはじめてだね」
 両側に並び始めた屋台の文字を目で追いながら、私は黒尾に話しかけた。かき氷にからあげ、フルーツ飴に焼きそば。屋台の飲食物のにおいと人いきれが渾然一体となって、夏祭り特有のにおいがする。
「そもそも俺ら、今まで学校外でそんな会わなかったもんな」
「私は結構いつでも暇してるんだけどね。黒尾は部活があるから」
「その言い方だと、俺の部活がなかったら遊んでくれてたっぽく聞こえるな」
「実際そうだけど。でも部活なかったらって、絶対有り得ない仮定じゃん」
「それはそうだけど」
「だよね。黒尾が部活やんないの、ありえないよね」
「なんなら部活したさに学校来てる」
「知ってる。あ、ねえ、かき氷食べたくない?」
「一発目にかき氷ぃ? そういうのはもっと、腹にたまるもんを食ってからだろ」
「でもお腹いっぱいでかき氷食べたら絶対残すよ」
「そんときは俺が残り食うよ」
「黒尾はかき氷買わないの?」
「どうせ何か食べるなら、俺はもっと実体のあるもんが食いたい」
「かき氷を水分としてカウントしている人じゃん」
「かき氷の最後の方なんかほぼ甘い色水みたいなもんだろ」
「色水……。ちなみに黒尾は何色のかき氷が好き?」
「んー、しいていえば黄色だな。緑も結構」
「え、そうなんだ、意外。ていうか緑って何味? メロン?」
「抹茶あずき。苗字は?」
「んー、レインボー」
「おい。横着すなよ」
「じゃあ私も黄色」
「ま、べただよな」
 どうでもいい話を細長く続けながら、私と黒尾は一通りの屋台を見て回る。途中でベビーカステラとイカ焼き、焼きそばを買ってから、ひとまず手ごろなベンチに腰かけた。周りには私たちと同じように、買い込んできた食べ物を広げている人が目立つ。まだ日は沈み切っていないけれど、すでにビール片手に大騒ぎしている一団もあった。
「黒尾、カステラ食べる?」
「いいの?」
「いい。食べきれないし、全部食べたら甘いもの入らなくなりそう」
「カステラだって甘いもんでは」
「カステラは主食の部だから」
「知らんレギュレーションが適用されている」
 黒尾に竹串を渡す。ベビーカステラをひとつ、ぱくりと口に放り込んだ黒尾の顔を、私は見上げた。視線に気付いた黒尾と、目と目が合う。
「なんか、こういうの楽しいね」
 私が言うと、
……苗字さんが楽しそうで何よりですよ」
 口の中のものをきちんと飲み込んでから、黒尾がへらっと笑う。
「黒尾だって楽しいでしょ」
「まあね」
「つーかカステラ、結構ずしっと来るな……苗字これ全部食えるか? もうちょっともらったろうか」
「本当? 助かる」
「だよな。これ全部食ったら、苗字の食の細さじゃかき氷までたどり着けんだろうし」
 私の手にあったベビーカステラを、カップごとひょいと黒尾が取り上げる。「これ持ってて、食ってもいいよ」とイカ焼きを渡されたので、お言葉に甘えて端っこの方をちょっとだけもらった。
 黒尾は間接キスとか、回し飲み、回し食いをあんまり気にしない。いや、本当はものすごく気にしているのかもしれないけれど、少なくとも私の目には、そういうことをあまり気にしていないように見えていた。
 イカ焼きの切れ端を咀嚼しながら、ふと、これと似たようなことが昔あったことを思い出す。あれはたしか……
「あ、そうだ。思い出した」
「ん?」
 ひとりごちた私に、カステラを頬張る黒尾が顔を向けた。
「修学旅行のとき、黒尾と一緒に自由行動したじゃん。覚えてる?」
「さすがにそれは忘れない」
 黒尾が目を細めて笑う。そりゃあそうだろう、今にして思えばあのときすでに、黒尾は私のことを好きだったのだ。好きな女子と旅行先でふたりで自由行動したという思い出を、そうそう忘れられるはずもない。
 もっとも、それは私の方にも同じことが言えるのだけれど、それはともかく。
「あのときもさ、私が買い食いで食べたいものいろいろ買って、食べきれないぶんは全部黒尾がもらってくれたんだよね」
 当時のことをしみじみ思い返す。修学旅行では黒尾と一緒に名所や古刹を巡りつつ、ご当地グルメの食べ歩きにも精を出した。何せ一緒にいたのが黒尾だったので、ちょっとくらい買いすぎてもどうにかなるだろうと調子に乗ってしまったのだ。
「そういやそんなことあったな。お前、本当に計画性なく買い食いしようとするから」
「しかもふたりで回ってたから、他の子とシェアするとかもできなくてね」
「おかげであの後、ホテルの夕飯かなり苦しかった」
「え、そうだったんだ」
「さすがにな」
 苦笑する黒尾。その顔を見て、当時思ったのとまったく同じことを、今またもう一度実感する。
「私あのとき思ったんだよね」
「何を? こいつよく食べるなって?」
「それも思ったけど、なんていうか……黒尾の彼女になる子って、多分ものすごく幸せになれんだろうなって」
「ぶふっ」
 黒尾がいきなり噴き出した。ちょうどペットボトルの水を口に注いだ直後だったので、口に含んだ水の大半を吐き出してしまう。
「うわっ、汚っ!」
「わ、悪い」
 私たちの前に誰もいなくてよかった。さいわい黒尾の吐き出した水は地面を黒く濡らしただけ、悲惨な事態になることは免れた。黒尾のシャツには点々と水のあとが残っているので、まったくの無傷というわけではないけれど。
「もう、いきなり噴き出さないでよ」
「いや、でもお前、今のは苗字も悪いからな……
「なんでよ」
「逆になんでそんなこと今言うんだお前」
「だって今思い出したから」
「ったく、あんたって子はまったく、まったくですよ。まったく……
 かばんからミニタオルを取り出し、シャツの濡れたところをとんとんと叩いて拭う黒尾。ちゃんと清潔なタオルを持参しているのが黒尾っぽいよなぁ、と微妙に情けない黒尾の姿を見ながら考える。
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫……
「なんかごめんね、私が変なことを言ったばっかりに」
「さっきのあれを『変なこと』って言われるのも、それはそれでどうなんだって気がするけどな」
 黒尾がタオルをかばんにしまう。それから、ごほん、とわざとらしい咳払い。ぼんやりしていた焦点を黒尾の顔に合わせなおす。黒尾は私の顔を覗き込むと、わずかに目元を赤く染めて言った。
「つーか苗字の食い残しをもらっただけで、そこまでの高評価がいただけるもん?」
「大事なことじゃん。食べ物残したくないし、でも食べたいものは食べたいし」
「わんぱく食いしん坊が過ぎるな」
「わんぱく食いしん坊でいさせてくれるかどうかって、女子にとっては大事なことですよ」
「へえ、肝に銘じておくわ」
「これさえ銘じておけば間違いなしですよ」
「まあそれで言うと、さっき苗字が言ってたことは、実はちょっと間違ってんだよな」
「え? そうなの? どこら辺が間違ってた?」
 何の気なしに、私は黒尾に問いかける。その直後のこと──ほんの一瞬、本当にまばたきするほどの短い時間だけ、黒尾が言葉をためらった。多分それは、付き合いが長くなってきた私だから気付けたくらいの、本当にささやかな間だった。
 あ、と思う。けれど私が口を開くより先に、黒尾は言った。
「俺の彼女になる女の子は、多分じゃなくて絶対、ものすんごい幸せになること間違いなしだよ。なぜなら俺が、ものすんごい幸せにするから」
 それだけ言うと、黒尾はじっと、まるで何か求めるみたいな真剣さで、私のことを見つめた。私を見つめる黒尾の顔を、私もまたまじまじと見つめ返す。
 さっきまでとは明確に空気が違う。言葉の調子はあくまで軽くても、黒尾の瞳には隠しようのない真剣みが滲んでいる。ちょうど、そう、私にうっかり告白をしてしまった後のような目。そんな目を、黒尾はしていた。
 黒尾なりに何か覚悟を決めたのだと、茶化してはいけないやつなのだと思い知らせるような、そんな目。
 いつの間にか辺りはずいぶん暗くなりつつあった。それでも隣同士に座って見つめあっていれば、黒尾の表情は細かなところまでつぶさに観察できる。
 緊張してるな、と思った。私ではなく、黒尾がだ。
 目だけではない。よく見れば、黒尾の顔全体、身体全体が真剣みを帯びている。努めて軽妙な物言いをしているけれど、黒尾の全部に、隠しきれない緊張が貼りついている。
 今しがた黒尾が言った言葉を思い返せば、それだけの緊張も当然だろう。私は黒尾から告白された方。今の黒尾の言葉は、私を振り向かせるための、黒尾からのとどめの一撃に他ならない。
 きっともう、黒尾にも私の気持ちは伝わっている。いくらにぶちんな黒尾でも、ここまで露骨に態度と言葉で示しているのだから、さすがにいい加減察しているだろう。私が黒尾を好きであること。私たちは互いに、同じ気持ちを持ちよりあっているということ。
 私と黒尾の違うところは、たったひとつだ。
 黒尾はもう、自分の気持ちをはっきり言葉で私に明かしている。
 この期に及んで私はまだ、黒尾に肝心なところを伝えていなかった。察することができるように最大限の開示をしつつも、私はまだ、一番最後のカードは自分の手元に伏せたままにしている。
 もちろんそれは、黒尾からそうしてくれと言われているからだ。告白の返事は夏休み明けに。それまで何も言わなくていい、言わないでほしいと、他ならぬ黒尾から頼まれている。先ほどのとどめの一撃にしたって、夏休み明けまでに打てる手をすべて打とうという、黒尾の戦略だろうとは思う。今すぐどうこうしようという、そういうたぐいの言葉ではなかったはずだ。
 黒尾の思惑は分かっている。私はそれに乗っかって、黒尾の好き好きアピールを一身に受ける、それはもう楽しい夏休みを過ごせばいい──そのはずだった。それは黒尾の要求とも合致しているし、いわばWin-Winの関係といえた。
 だけど──
……彼女にならなくても、黒尾と一緒にいるの、私はずっと楽しかったけどね」
 ゆっくりと、私は素直な気持ちを言葉にする。隣でからになったベビーカステラのカップを盛った黒尾は、唐突な私の言葉にいささか面食らったようだった。
 もしかすると、面食らっただけでなく驚いてもいるのかもしれない。さっきの黒尾の言葉に対する返事としては、今の私の言葉はあまりふさわしいものではなかった。
「お、おう……? 苗字、そうなの?」
「うん。私は別に黒尾の彼女じゃない、今までもただの友達以外の何物でもなかったけど……、それでも今までずっと黒尾と一緒にいるだけでじゅうぶん楽しかったし、これ以上黒尾に幸せにしてほしいとか、そんなこと思ったことないし、……今もそんなふうには思ってはいないかな」
「ん? んん?」
 そのとき、会場アナウンスが花火の開始を、陽気な音楽とともに告げた。
 黒尾が私をまっすぐ見つめている。黒尾の三白眼気味の瞳が、戸惑うようにわずかに揺れていた。
 頭の中で今日の日付を思い出す。八月も半分が過ぎた。夏休みが明けるまで、それでもまだ二週間くらいはある。だからきっと黒尾は心の準備や覚悟なんてもの、全然済ませてはいないけれど。
「ねえ黒尾、夏休みももうすぐ終わるし、ちょっと早いけど、もう今、告白の返事していい?」
「え、今……っ、今かっ!?」
「あのね、黒尾」
「おい、ちょっ、待っ──」
「私も黒尾のこと、好きです」
 もうこれ以上、私の方が、夏の終わりを待ちきれなかった。