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しちろ
2025-08-15 19:40:11
16491文字
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LOM・連載主人公の短編
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栞一葉
男主人公と瑠璃と双子、女神戦で負けた男主の昔話。注!欠損・流血表現あり。16000字。
瑠璃がノックするよりも、玄関が開く方が早かった。
「待ってたよ、瑠璃の兄ちゃん」
いち早く来訪者の気配に気づいたらしい。双子が戸を開けて迎えてくれた。
「急にごめんなさい。それも、こんな雨の中来てもらっちゃって」
「いや、知らせてくれてよかったよ」
凍りつくような氷雨が降っていた。マイホームを囲む草原は一面、冷たく白いベールが降りたようになっている。
冷雨に長時間晒されて、瑠璃の身体は芯から冷えきっていたが、彼には些細なことだった。たっぷり雨を吸った砂のマントは、水気を叩いてから入り口のポールハンガーにかけさせてもらい、バドから乾いたタオルを借り受ける。
初春に入ってから、冷たい雨が続いていた。空気が冷え切っている。
瑠璃が身体を拭いている間に、コロナが手早く湯を沸かしてくれ、得意のハーブティーを淹れてくれた。椅子に腰かけると、慣れた仕草でカップとソーサーを並べてくれる。
瑠璃は今回、双子に呼ばれて来ている。彼らから、煌めきの都市の瑠璃と真珠姫宛てに手紙が届いたのが、数日前。どこかへ出かけたきり師が帰ってこない、との内容だった。
「まだ、戻ってないんだな」
家主がいる様子はない。
瑠璃が言うと、バドとコロナが口々に訴えた。
「そうなんだ。月はじめに『ちょっと出かけてくる』って言って、それっきり」
「連絡だってちっとも寄越さないし。シオンさんたら、せっかく瑠璃さんが来てくれたのに、どこ行っちゃったんだか」
瑠璃は、向かいにかかっているカレンダーを見た。月はじめということは、かれこれ半月は音沙汰なしということになる。
「アイツらしいと言えばアイツらしいが、困ったやつだぜ。留守を預かる方の身にもなれってんだ」
そうなんだよなぁ、とバドが下唇を突き出して同意する。
赤い羽根帽子と、大剣を一振りと、必要なアーティファクトをいくつかと。
双子の若い師は大した旅支度を整えることなく、まるで隣町に出かけるような気軽さでどこにでも行ってしまう。ふらりと出かけたと思えば、そのうちしれっとした顔で帰ってきて、その実、大事件に巻き込まれていたりとんでもないことをしでかしていたことが、かなりの確率であった。だから双子は、師の『ちょっと』は信用していないらしい。
「でも、師匠、あれでけっこう律儀でさ。帰る約束だけはきっちり守るんだよね」
「
……
そうか」
とかく浮世離れしている少年だけに、そういう話を聞くとちょっとだけ安心できる。
だが、すかさずコロナが、瑠璃をジト目で睨んだ。
「一度だけ、約束破りましたけど」
「うっ
……
」
それを言われると瑠璃は気まずい。珠魅が泣いた、嵐とオーロラの日のことだろう。
瑠璃が遠慮がちに謝ると、「冗談です」とコロナがつんと言った。やはり少し、根に持たれている。
「
……
で、今回は?」
「何も言わなかった」
バドとコロナは、呆れる瑠璃にかわるがわる説明してくれた。
出かけるとき、シオンは、双子に行き先を教えてくれることもあれば言わないこともあった。ただ、いずれの場合も、いつ頃帰るかは伝えてくれたし、約束した通りに帰ってきた。だから、バドもコロナも大して心配せずに待っていられた。しかし今回に限っては、どこへ行くともいつ帰るとも言わなかったのだという。
「おれたち、師匠が誰よりも強いことは知ってるよ。でもさ」
「心配なの。このまま帰ってこないんじゃないかって」
日ごと不安が膨らんだ双子は、師の仲間である瑠璃たちを頼ったのだった。知らせを受けた瑠璃はひとまずマイホームへ、都市に残った真珠姫は、少年の行方や情報を知る者がいないか探す手はずを整えてくれている。
「こんなことなら、行き先しっかり聞いとけばよかったわ。そうしたら、すぐに探しにいけたのに」
「いや、悪いのはアイツだよ。小さな弟子置いて、勝手に音信不通になっちまっ
……
」
瑠璃の台詞が途切れた。
双子の大きな耳がぴんと立つ。
三者同時に、ほとんど椅子を倒す勢いで立ち上がった。雨音とは違う、小さな物音。玄関の向こうからだ。
全員が息を吞む中、一呼吸の間を置いて、ドアが開いた。赤い羽根帽子がちらっと見えた。
「師匠! おかえ
……
」
破顔しかけた双子の顔が、一瞬のうちに凍りついた。
「
……
ただいま」
帰宅した彼は、頭からつま先までずぶ濡れだった。
ただし、真っ赤な鮮血で。雨混じりの血が流れては足元を濡らして、床にぽたぽた落ちた。
「
……
負けちゃった」
そこで限界がきたらしい。シオンの身体がぐらりと傾いた。
床に倒れこむ前に、蒼白で駆け寄った瑠璃が受け止める。
右側からの出血がとくにひどかった。腕が、付け根からなくなっていたせいで。
■■■
珠魅であろうが人間だろうが、感情を持つ生き物ならば、どうしようもなく感情が渦巻く場面が、人生のどこかにはかならずある。
瑠璃は明確に感情のふり幅が大きい方で、これまでの彼の珠魅生を振り返れば、宝石泥棒だの珠魅狩りだの、腹の立った出来事など数えれば枚挙に暇がないのだが、今回の一件は疑いなく最大級だった。
ほぼ奈落に落ちかけていた少年は、双子と瑠璃の献身的な看護と、本人の妙な運の良さと異常なしぶとさのおかげで、どうにか命を取り留めた。容体が落ち着いてからは、三人で順番に様子を見ている。なお今は瑠璃が担当している。
「この包帯、どうにかならない? 大げさなんだけど」
「ちっとも大げさじゃない。そのまましばらくマミーエイプしてろ。ったく、あのまま死ぬかと思ったぜ」
「うん、ごめん。心配かけて」
謝る当人、あまり反省していないように見える。
瑠璃は、腹立ち半分・安堵半分で顔をしかめた。そういう心境になれること自体、喜ばしくもあり腹立たしくもある。
なにしろ、今回の一件で瑠璃は思い知ってしまった。珠魅と人間の、生物としての違い。珠魅を癒す涙石は、人間にはただの石にすぎないこと。血を多く流せば、肉体を大きく傷つければ、人の命はたちまち危うくなる。不老長寿の珠魅に比して人間の寿命はあまりに短く、そしてあまりにもあっけなく死んでしまうのだ。
「って、おい、無理するな」
瑠璃が焦ったのは、シオンが肘をついて起き上がろうとしたからだ。
「平気。いい加減、すこしくらい起きないと」
「まだ早いと思うけどな。おとなしく寝とけって」
制止するが、聞きそうにない。
仕方なしに、瑠璃はろくに力の入らない上体を支えて起こしてやった。
「
……
だから言ったんだ」
海老のように折り曲げられたシオンの背中が、ぷるぷる震えている。
ひとしきり唸ったあと、シオンは大きく息を吐いて、ベッドボードに置かれたクッションに身体をうずめた。
「死ぬかと、思った
……
痛すぎて
……
」
「バカだろ、アンタ」
瑠璃は軽く首を振った。慰める気も起きない。つい数日前まで、冗談抜きに死ぬところだったのだ。
シオンの息が整った頃合いを見計らって、瑠璃は声をかけた。
「どこで何してたかしらんが
……
無茶したみたいだな」
「まあ
……
すこし」
シオンは何があったか話そうとしない。怪我人相手である。瑠璃は無理強いする気はなかった。寝間着の右袖は、通す腕がなくぺたんと潰れていて、顔の右半分は包帯の下だ。見るたびに瑠璃の核は軋む。
本音を言えば、シオンが珠魅であればと、瑠璃は何度か思ってしまった。腕も目も、人間は失えば二度と戻ってこない。つい最近まで、涙を失くした珠魅の儚さを嘆いていたのに、涙を取り戻した途端、こんな下賤な発想が生まれてくる。反吐が出る。
瑠璃の思考を見透かしたように、シオンがこんなことを言った。
「平気だよ。寝て起きれば戻る」
瑠璃が本気で睨んだのを見て、シオンは「冗談」と言った。
瑠璃は額を押さえて溜息をつく。なんだってコイツはこうなんだ。彼が目を覚ますまで、こちらはまるで生きた心地がしなかったのに。小さな双子は涙が涸れるまで泣いたのに。
「
……
いいか。アンタ、一人じゃないんだぞ。自分のことも考えてくれ。弟子はもちろん、オレや真珠や、他の連中だって、どれだけ心配していたか」
「わかってるよ」
たまりかねた瑠璃が説教するが、シオンは表情一つ変えない。
「わかってない。大体アンタ、いつもふらふら出かけちゃ計ったように危ない目に遭ってきやがって」
「俺を巻き込んだ主因なうえに、核割れてるのに黙ってうちから出ていった瑠璃に言われたくない」
「それらは重々悪かったが割れてない! まじめに聞け」
「聞いてるし巻き込まれたしお前は割れてた。誰がどう見ても完璧に割れてた」
「しつこいなアンタ」
喧嘩腰で怒鳴りかえしかけて、はたと思い当たる。
「
……
って、話を逸らすな!」
シオンは残った左目を細めて、瑠璃から顔を背けた。「チッ」て態度だ、絶対。
口の減らない少年はそれきり黙りこくってしまったが、やがてそっぽを向いたまま、ぼそりと言った。
「
……
わかってるよ。最低の師匠だって」
瑠璃はハッとしてシオンを見た。
こちらに背を向けているせいで、少年の表情は見えない。それでも、彼がふてくされて言ってるのではないと、空気でわかってしまった。彼は普段から、涼しい顔の裏でこんなことを考えていたのだろうか。
シオンはいつも、何も言わない。
彼は、悩みの大小に関わらず、道に迷う者たちに手を差し伸べ、陰になり日向になり助けてきた。瑠璃自身、彼に救われた。その一方で、彼が誰かに助けを求めたことは一度もなかった。
「大変な時に、いろいろ言って悪かった。
……
助かってくれて、良かった」
シオンは押し黙ったまま、微塵も動かない。
瑠璃がベッドサイドを離れて、テーブルに着こうとすると、かすれた声がした。
「水
……
もらえるかな」
ちょうど、テーブルの上に水差しが置いてある。コップに、半分ほど水を注いで渡してやった。
「落とすなよ」
子どもじゃあるまいし
……
と言いたげだったシオンが、瑠璃の懸念通りにコップを落としかけたのは、気づかないふりをしてやる。
ふと、壁掛けのカレンダーが目に留まった。
カレンダーは先月より一枚めくられ、月が変わっている。
カーテン越しに、うららかな春の日差しが差し込んでいた。窓際に置かれたサボテンが、さんさんと日光を浴びている。今頃、少年の弟子の子らは、師のためにと果樹園で収穫に精を出しているだろう。
寒い早春から一つ、季節が進んだ。
「ああ、そうだ。最近の、煌めきの都市な」
椅子を引きながら、瑠璃。
唐突にはじまった世間話に、シオンが顔を上げた。好奇心旺盛なサボテンが、ピクリと反応する。
椅子に腰かけた瑠璃は、彼らには構わず、一人で勝手にしゃべりだした。
「ルーベンスとディアナが正式に婚約したぜ。なにもそこまでせんでも
……
って周りは言ったんだが、ルーベンスのヤツ、パートナー選びの儀式からやり直したんだ。ディアナは嬉しそうだったけどな。蛍姫も、理由はわからんが近頃、妙に機嫌がいいんだよな。ちらっと見えただけだが、どこかで見たようなカード持ってた気がするんだが。エメロードは、ジオのお盆のところへ戻るとさ。都市に戻る前に魔法を学んでおきたいんだと。オレはどこがいいのかわからんがなぁ、あの、ヌヌなんたら~いうやかましいやつ」
瑠璃の独白をサボテンが興味津々に聞いている。シオンは、聞いているのかいないのかわからないような顔のまま、左手のコップを見つめていた。
瑠璃は気にすることなく話を続ける。
「騒動のあったガトは、司祭の家系が完全に途絶えたからな。この際、血統に寄らない、新しい体制を作るんだそうだ。オレは人間の宗教なんざ興味ないし、どうなるかは知らん。資金調達にニキータってデブ猫が協力するらしいが、どうなんだろうな? あとな、ドラグーンだっけか? 獣人姉弟のラルクとシエラにも会ったぜ。長年の仇がいなくなって身体がなまってしょうがないってんで、ときどき、オレやパールと手合わせしてる。それから、いつの間にか真珠が、やたら歌の上手いセイレーンやマーメイドと仲良くなっちまって
……
アイツの核、潮風に弱いくせにすぐ海に出かけようって
……
なんだ、シオン。変な顔して」
瑠璃はそこではじめて、シオンに視線を向けた。
無反応だったシオンが、いつの間にか瑠璃の方を向いて、ぽかんとしている。
「瑠璃、お前
……
ダナエやニキータや、ラルクやシエラや、エレ、か? どこで知り合ったんだ?」
「アンタしかいないだろう。出自も種族も立場もまるで違うオレたちの共通項なんて、そこだけだ」
「と言っても、俺は何もしていないけど」
「そう思ってるのはアンタだけだと思うぜ」
言いながら、瑠璃は、テーブルに放置されていた封筒を取り上げた。象牙色をした上質の封筒でなぜかくしゃくしゃ、封はすでに切られている。
「これ、なんだと思う?」
瑠璃は封筒のしわを広げると、シオンへ向けた。片目では見づらいのか、シオンは目を細めた。
「その印は
……
魔法学園?」
「あたり」
消印の下に描かれている紋はまさしく、ジオの魔法学園の校章である。
「校長直々で、バド宛にな。アンタが臥せってる間に届いたんだ。来学期から復学しないか、とさ。姉のコロナも一緒に。見習い魔法使いとは言え、賢人全員に会った功績って相当のものらしいな。オレには価値がよくわからんが」
瑠璃からすると、キレイごとばかり並べたてて何もしないマナの賢人など、役立たずで胡散臭い存在でしかない。
シオンは答えずに水を飲んでいる。
「よかったな。オマエ、こっそり弟子の学資金貯めてただろ」
シオンが、口に含んでいた水を吹き出した。
図星か
……
と、瑠璃は目を閉じ、しみじみと頷いた。
「
……
ふたりは、なんて?」
濡れた口を袖で拭いながら、シオンが訊ねてきた。口調は淡々としているが、うっすら動揺しているのが見てとれる。
「なんだ、気になるのか。そうかそうか」
「いいから、言えよ」
急かしてくる。らしくない。
瑠璃はちょっと息をついてから、なだめるようにゆっくり答えてやった。
「バドのヤツ、手紙に目を通すなりその場で破り捨てたんだぜ。バドもコロナも意識のないアンタにすがって大泣きして、そりゃあ大変だったんだ。おれたちはどこにもいかない、自分たちの師匠はこの人だってな。ずっと寝てたから気づかなかっただろ」
「
……
」
瑠璃は空の封筒を丸めると、ゴミ箱に投げ入れた。
「そういうことさ。困るんだぜ、アンタがいなくなったら」
シオンの返事はなかった。
しばらく黙り込んだあと、空になったコップを無言で瑠璃に返すと、ぎこちない動きで布団に潜り込んでしまった。
「なんだ、寝るのか?」
「
……
瑠璃の話が長いからだよ」
瑠璃はコップを水差しの隣に戻すと、小棚の引き出しを開けた。そこには、シオンが帰ってきたときに彼が持ち帰ってきた、あるものがしまってある。
訊かなければならなかった。
「木の葉」
瑠璃は葉の柄をつまんで、シオンの布団の上にひらりと落とした。
「アンタの帽子についてた」
それは、水が滴るようにつややかな青葉。
旅生活の長かった瑠璃でも、見たことがない種類だった。はじめのうちは、たまたま少年の頭にくっついてきたのだろうと気にも留めなかった。そもそも、怪我人相手で木の葉どころではなかった。たかが葉っぱ一枚、しかしなぜか捨てる気になれず、なんとなく放っておいただけだ。
おかしいと感じたのは、日数が経過してからである。何日経過しても一か月経っても、木の葉は生気に満ち溢れ、つややかで瑞々しかった。まるでマナの塊のようだと、魔力を持つ森人の双子は目をみはった。
「シオン。アンタ、なにかをずっと思い詰めてる。そこまでしてやらなければいけないことってなんだ」
「
……
たいしたことじゃない」
「つまり、やるべきことはあるわけか」
シオンは、後ろを向いたまま身じろぎもしない。
無言の背に向かって、瑠璃は語りかける。
「言いたくないのなら、無理にとは言わない。アンタはいつも、何も聞かずにオレたちを助けてくれた。だが
……
」
瑠璃の落とした葉は、少年の上で艶やかな色彩を保っている。一見ただの葉、しかし人の世の常識を超えた、なにか別の存在。
「できれば、教えてくれたらうれしい。アンタになにがあったのか、何をしようとしたのか。オレも真珠も、アンタの弟子も
……
アンタが今まで仲間にしてきた連中だって、きっと、同じ気持ちだと思う」
「
……
」
シオンが、後ろを向いたまま、ぼそりと言った。
「
……
さみしがり屋の女の子」
「え?」
「俺の腕を持っていったやつ」
■■■
しばらくのち、シオンは問題なく動ける程度には回復し、瑠璃は都市にいる真珠姫の元へ戻った。
あれきり、シオンはなにも話してくれていない。
本心では強引にでも聞きだしたかった瑠璃だが、今回ばかりはそうはしなかった。シオンは、いかにもわけありの瑠璃や真珠姫に対して、むりやり事情を聞きだすような真似はしなかった。黙って手を貸してくれた。だから今度は瑠璃が、彼が自分から話す気になるまで待ってやりたかった。
数か月が経過し、ファ・ディールのすべてが凪いでいるかのように、ひたすらに世情は穏やかだった。
その間、シオンは、マイホーム付近から出ることなく過ごしていたらしい。
ときどき、バドやコロナが手紙を寄越して近況を知らせてくれ、瑠璃と真珠姫から友人を訪問した。
一度だけ、シオンから荷物と手紙が届いたことがある。自宅の果樹園で採れた新鮮な果物ととともに、逆手でやっと書いたらしいたどたどしい字で、簡素な礼の言葉が添えられてあった。
強い日差しがじりじりと肌を焼く。
瑠璃は、切れ長の目を皿に細めて炎暑の天を仰ぎ、額に浮かんだ汗を、やはり汗ばんだ手の甲でぬぐった。砂のマントの内側に熱がこもっている。
季節は夏。このところマイホーム付近は天気に恵まれ、連日の晴天が続いていた。
青空に白い雲がわきたつ、初夏のある日。瑠璃は見舞いがてら、友人の家を訪れた。
草原に映える大樹は、遠くからでも良く見える。
砂埃の舞う街道を進み、次第にそれが近づいてくると、大樹が勢いよく枝葉を伸ばして生い茂り、一部では葉で重みを増した枝が、小さな家を半ば隠すように垂れ下がっているのがわかった。樹木の多い家である。間近になると、初夏に鳴く種類の蝉たちの声が、うるさいほどに聞こえてくる。
蝉の声のシャワーを浴びながら、瑠璃は家の前の乾いた小道を上がり、ドアを叩いた。
「おい、オレだ。瑠璃だ」
勝手知ったる他人の家、慣れた調子で呼ばわる。返事はない。
何度か声をかけたところで、ドアノブをひねってみた。開いている。
「お~い、誰かいないのか」
玄関の中へ首だけ差し入れるが、人の気配がない。果樹園にでもいるのだろうか。
と。向かって右手から、太鼓の音と唐突な異音、そして叫び声が上がった。
「わぁああああ! ちがうちがう! そっちじゃないって!」
「バッカね~! なにやってんのよ!」
「
……
牧場か」
ドアを閉め、そちらへ向かうことにする。
マイホームを母屋伝いに右に回ると、通称『ペット牧場』がある。牧場と名はついているが家畜はおらず、もっぱらバドの魔法の修練だの家主の剣術の稽古だのに使われていた。
牧場には、案の定、師弟三人の姿があった。
「あ、瑠璃さん!」
瑠璃の姿にいち早く気付いたコロナが、元気よく手を振ってくる。姉に続いて、牧場の真ん中に立っていたバドが威勢よく振り向いた。小型のドラムを抱えており、足元の地面が少し、掘り返されたようになっている。
「瑠璃の兄ちゃん! 来てたんだ!」
「よう、二人とも。元気そうだな。魔法の特訓か?」
「バドだけね。私はもうできたから、先生役です」
「センセイ~!? コロナったら、さっきからヤジ飛ばしてるだけじゃんか」
「そうだ、瑠璃さん、ここまで暑かったでしょ! 中で冷たいお茶淹れましょうか!」
「話聞けよ!」
相変わらず、仲がいいんだか悪いんだかの双子である。ケンカするほどなんとやらか。
瑠璃は穏やかに笑いかけると、二人の小さな頭に手を置いてなでてやった。
「いいや、オレにかまわず続けてくれ。邪魔して悪かったな」
ラピスの騎士に子ども扱いされて、姉のコロナはちょっと照れくさそうに、弟のバドは少し不本意そうな顔になった。しかし、すぐに小走りで元の位置につき、言われたとおりに訓練に戻っていった。
「師匠らしいことしてるじゃないか」
「まあ、一応」
牧場の小屋に歩み寄りながら、声をかける。
軒下の日陰になっている部分で、シオンが本片手に腰を下ろして涼んでいる。通す物のない白い羽織の右袖は風に揺れていて、傷ついて視力を失くした右目は少し伸びた前髪に隠れていた。
瑠璃は、座っているシオンの膝の上に、手持ちの包みを遠慮なく押しつけた。
「ほら、こないだオマエが送って寄越した、モモやメロンやさくらんぼの礼だ。ありがたく受け取っとけ」
「そんなの、わざわざいいのに
……
って、重っ」
「真珠やエメロードたちに持たされたんだ。渡さないでのこのこ帰ったら、アイツらに何言われるかわからん」
包みを開けたシオンがしかめ面になった。中身は奇怪な鉱物やら謎の工芸品やら珍しい食べ物やら、有志の珠魅たちが各々勝手に選んだ、種々雑多な品である。
……
もらった方は、ちょっぴり困るかもしれない。
シオンは口先では一応、礼を言い、それからボソッと呟いた。
「ところで、瑠璃。そこ、立たないほうがいいかも」
「は?」
突如、不自然な突風が瑠璃を襲った。
無防備だったところへ背後からまともに襲撃され、瑠璃は無様にすっ転びそうになってしまった。たたらを踏んだ背中に、細かい何かがビシバシ音を立て、当たっては落ちる。
「うわっ! な、なんだ!」
「ごめぇん、瑠璃の兄ちゃん!」
バドがどたばたと駆け寄ってくる。
目を吊り上げた瑠璃が振り返ると、バドがごめんごめんと手を合わせた。
まったく、とぼやきながら、瑠璃は傍らの友人をジト目で睨む。周囲には緑の木の葉が落ちており、瑠璃のマントにもたくさんくっついていた。
「シオン
……
オマエ、弟子をしっかり指導しろよ
……
」
「さっきは褒めたくせに」
マントを軽く振ると、緑の葉がバラバラと足元に落ちる。魔法で作られたもののようだ。
「ドリアードの魔法。力加減がうまくいかなくてさ。その、おれって天才だから、威力が出すぎちゃってね! えへへ
……
」
「なによぉ、見栄張っちゃって。バドのコントロールが悪いだけじゃないの」
「なにをっ!」
売り言葉に買い言葉になりかけたバドだったが、すぐに我に返った。瑠璃やシオンの視線が気になったようだ。居心地悪そうに頭を搔いている。
「ちぇ
……
そうなんだよなぁ。どうもうまくいかないんだ。サークル軌道のはずなのに」
元の立ち位置に戻りつつ、バドはドラムの縁を叩いたり、ひっくり返して裏をのぞいたりしはじめた。コロナが「楽器のせいじゃないと思うわ」と冷静に述べている。
「まあいいや、今度こそ、もう一度
……
!」
頬を紅潮させたバドが、鼻息荒く胸を反らした。ドラムを抱える腕に力が入る。めいっぱい息を吸い込み、今度こそ成功させるべく、大きく手を振り上げた。
「それ」
小屋の方から、ぼそっと声がした。
「それがよくない。気負いすぎ」
「え?」
バドとコロナが声の主に注目する。
双子の師が、汗ひとつかかない涼しい顔で手元の本を開いている。シオンの傍らに立っていた瑠璃は、物珍しそうに友人を見た。脇に置かれてある、瑠璃の持参した土産の袋から、カニがのそのそ這い出てくる。誰だ、手土産に生きたカニを入れた
珠魅
バカ
。
「バド。精霊魔法とは何か、答えてみろ」
「え、えっと」
いきなり問われて、バドがつまった。シオンの目の前を、カニが横切っていくのにも気づいていない。
「お前の持っている教本の、最初のページに書かれてある内容だ」
ヒントを出されたバドは、おそらく暑さからではない汗をかきながら必死に答えた。つまり、『精霊魔法は、魔法楽器に住まわせた精霊を触媒にし、大気に満ちたマナの波動と自分の波動を共鳴させて魔法を行使する方法である』
その通りとシオンが言ったのを見て、バドはほっとした表情になった。
瑠璃は、そんな師弟の様子を興味深く見ていた。シオンのことは、仲間や友人としてはよく知っているが、『師匠』としての姿を目の当たりにするのは、意外に初めてである。身近な者の普段見ない貌というものは、知るとちょっと面白い。
そんな瑠璃に気付いているのかいないのか、シオンは弟子に向かってつらつらと述べた。
「もしかしたら『触媒』という言い方が良くないのかもしれない。教本の内容は正しいけれど、大気のマナだの波動の共鳴だのいう前に押さえるべき点がある。バド。さっきはどんな気持ちで楽器を使っていた? その楽器はなんのために使うのか、なぜ魔法を使うために音を鳴らすのか、落ち着いてよく考えてみろ」
ドラムを抱えたまま、バドが空を見て考えはじめる。つられたコロナが同じように上を向いた。ファ・ディールの大気にはマナが満ちている
……
らしいが、魔法を使えない瑠璃には理解しにくい感覚ではある。シオンは黙って本の続きを読みだした。
しばらく考えていたバドは、正面に向き直り、ドラムを抱えなおした。先ほどまでの気ぜわしい様子と違い、表情は落ち着いている。
深呼吸を、ひとつ。
ドラムを真剣な目で見つめて、うなずいた。右手をおもむろに広げ、鼓面をリズミカルに叩いて、軽快に音を鳴らす。
「できた!」
バドが快哉を叫ぶのと、彼の周囲から緑色の風がわきあがったのは、まったく同時だった。
小さな魔法使いが使ったドリアードの魔法。マナで創られた木の葉が演舞するように踊り、真夏に心地よい風がバドを中心にあふれ出た。木の葉が瑠璃やシオンの方まで飛んできて、瑠璃のマントを大きくはためかせた。感心した瑠璃が尻上がりの口笛を吹く。
「へえ、やるじゃないか」
「やったじゃん、バド! なんで魔法が出る前に成功ってわかったの!?」
我がことのように喜ぶ姉に、バドが得意そうに鼻の下をこすって笑う。
「ドリアードに、『さっきまで無茶言ってごめん。おれがいい音鳴らすから、一緒に楽しく魔法を使おうぜ!』って話しかけてみたんだ。そしたら、なんか通じてさ! 発動する前からうまくいくのがわかった!」
「ぶー。それってもしかしたら、私の魔法より上手だわ! 悔しいけど」
「へへん、大魔法使いバド様の魔法はやっぱり違うな! コロナ、これからは天才のおれ様について来いよ!」
「バカ! 一度成功したくらいで調子に乗らないの! いくらマスターに教わったって、どうせまた、すぐに忘れるんだから」
「ねっ、師匠! どうですか! 今の、最高だったでしょ
……
って、見てないし!」
「私の話を聞きなさいよ、もうっ!」
瑠璃がここへ来た時とは、互いの態度がまるで逆である。
シオンは有頂天になっている弟子を褒めるでもなく、「今のを、忘れないうちにもう一度」と静かに命じた。案の定なのか危惧通りというべきか、お調子者が浮かれて放った二打目はてんで方向違いの場所に飛んでいき、「あーあー、自称大魔法使いサマはこれだから」とコロナが呆れている。
「
……
なあ」
成功と失敗を繰り返し、やいのやいのやり合う双子を眺めながら、瑠璃は隣に話しかけた。一見、無表情に見える友人の口元が、わずかにほころんでいた。
それを見て、瑠璃は思ったのだった。誰よりも自由で奔放に見えたシオンが、本当にしたかったこと。彼が過ごしたかった時間は、英雄としてのそれだったのだろうか。
「アンタ、本当は
……
旅、したくなかったんじゃないか」
シオンが意外そうな顔をした。本から顔を上げて、やっと瑠璃の方を見上げる。
「そんなふうに見えたかな」
「いや
……
」
瑠璃は、あえてシオンから視線を外した。双子の明るい歓声が、夏の空高くあがっている。
「
……
なんとなく、オレがそう思っただけだ」
春の頃、旅の目的を問うた時の、友人の無言の背中。
英雄と称されるほどに強く、家族にも友にも恵まれている彼なのに。
その後ろ姿は、世界の誰よりも孤独で淋しそうに見えた。
「あ~あ、瑠璃にバレるとか!」
やけにあっけらかんとした、開き直ったような声がした。
あまりにからっとしすぎていて、よそを向いていた瑠璃は一瞬、シオンの声だと気づかなかったほどだった。
瑠璃が驚いて見下ろすと、シオンが面倒くさそうに、仰向けに背中を倒した。シオンは開いた本を顔に乗せ、彼らしくない調子でなげやりに言った。
「そうだよ、俺は旅なんか嫌いだよ。人助けしながら思ってた。『会う奴どいつもこいつも我が儘だし、痛くて辛くて報われないことばっかりだ。金にもならないしやめちゃうか』」
「あのな」
瑠璃は思わずツッコんだ。そこまでぶっちゃけろとは言ってない。
「
……
なんて、悪いことばかりでもなかったよ。家族ができたし、瑠璃や真珠姫にも会えたしね。面白いと思うことも
……
けっこうあった」
言いつつ、本の下から、左目だけ覗かせる。貌の大半は本に隠れて表情は見えない。普段、澄ましている少年だけに、素直にこういうことを言われると、自分から訊ねた瑠璃も何と言ったものかわからない。
シオンは左肘をついて起き上がり、近くに落ちていた木の葉を拾いあげた。
バドが作ったドリアードの魔法。それをしおりがわりにページに挟んで、シオンは本を閉じた。
「瑠璃。俺
……
これから、なにができるだろうか」
閉じられた表紙に視線を落とし、ぽつりと言う。その姿は、どこにでもいる年相応の少年に見えた。
「ずっと、剣ばっかり握ってきたから。知らないんだ、他の生き方」
迷子になり、途方に暮れたような顔。
こんな頼りない表情をした仲間や人間を、瑠璃は今まで何人も見てきた。そのうちの幾人かは、シオンの隣で、彼と一緒に。そんな者たちの手を引き、あるいは一緒に歩いてやることで、シオンは未来へと導いてきた。けれど今は、彼自身が道を見失って、迷いの海に沈んでいるかのようだった。
「なんでもできるだろう、オマエなら。生まれてこの方、戦いしか知らなかったというなら、オレだってそうだった。でも、今はこうしてなんとかやっている」
「そうかな。俺はもう、大剣は握れないし、双剣も無理。弓は引けない。武器も楽器も作れなくなった」
「左が残ってるだろう。利き手じゃない? アンタ、器用なんだから、武器なんか選べばどうにかなる。武術でも魔法でも、人に教えるんだっていいんじゃないか。果樹園の野菜売ったっていいし、何か新しく商売はじめたっていい。顔だけはムダに広いんだ。伝手はいくらでもあるだろう」
思いつくまま、ずらずら並べ立てる。
瑠璃の雑な提案を聞くうち、次第にシオンの左目が胡散臭そうに細められた。
「
……
お前、他人事だと思って適当に言っているだろう」
「アンタならできそうだと思うから言ってるんだ。なにひとつやらんうちから諦めるなよ。なんならオレも手伝うぜ」
「瑠璃が?」
今度は、左目が丸くなった。
シオンはしばらく地面に視線を落として考え込み、真顔でぽつりと言った。
「仮に、瑠璃と店やったとして、客と瑠璃が店先で乱闘になる図しか思い浮かばない」
「アンタ、どんな場面を想像したんだ」
瑠璃からしても、この無愛想と店をやるなど、よく考えなくてもホラーでしかないが、言うだけはタダなのだから何でもいいだろう。
意外なことにシオンは笑ったり怒ったりはせず、真面目に考えているようだった。
「
……
そうだな。可能性は、いろいろあっていいのかも」
「お、やる気になったか」
「いろいろあっていいけど、瑠璃との店だけはやりたくない」
「安心しろ、オレも願い下げだ」
瑠璃はつんと顎を上げ、それからシオンを見下ろす。シオンは、お前が言ったくせにとでも言いたそうな、不満げな顔をしていた。それがやけに子どもっぽく、つい笑ってしまいそうになって、瑠璃は咳払いでごまかした。
バドの特訓は続いている。シオンが与えた助言の効果は出ているらしく、成功率は目に見えて上がっていた。お調子者の性格は置いておくとして、あの年齢で異才であることは間違いない。そして、バドが自分の師事するべき者を選んだ目もきっと、正しかったのだろう。
「アイツら、やっぱりジオに行かなくてよかったな。アンタの元で学べて」
瑠璃が言うと、シオンが頬をひきつらせた。余計なことを言われて怒ったのか照れているのか、よくわからない。
「なあ、シオン
……
聞いてもいいか。あの日、あったこと」
瑠璃は思わず、訊ねていた。シオンが帰ってきた、あの日のこと。
彼がどこで何をしていたのか。なにをしようとしていたのか、何をしなければならなかったのか。
シオンがまだ話せないのならば、瑠璃はいくらでも待つ気だった。
「
……
。それは
……
」
シオンは、一度は口ごもり、それから、何か言いかけた。
ひらり。
瑠璃とシオンのもとに、緑の木の葉が一枚、頭上から落ちてきた。
「なんだ、またか」
口をへの字に曲げた瑠璃が、葉柄をつまみ上げる。葉はつやつやと生命力にあふれ、水が滴るような鮮やかな緑色をしていた。
「これは、アンタの弟子の魔法
……
じゃないか。上の木か?」
葉を指でくるくる回して弄びつつ、瑠璃が大樹を見上げる。この樹から落ちたのか。
だが。
ひらひら。
はじめは一枚二枚、緑の落ち葉はまたたく間に増えて、まるで晴天の雨粒のように瑠璃やシオンや双子の上にひらひらと降り注いだ。
「なぜ、こんなに
……
枯れ葉が落ちるような季節か?」
自分で言っていて、オカシイと瑠璃は思った。そんなはずはない。夏の入りだ。落ち葉が降る季節ではない。
「へんね
……
木の病気とか、かなぁ? バドの魔法の失敗じゃないよね?」
「違うよ、さっきだって成功したの見ただろ」
双子がああでもないこうでもないと言い合っている。
ふいに瑠璃は手触りに違和感を覚え、手元に視線をやった。つまんでいた緑の葉が、瑠璃の手の中で急速に生気を失い、茶色く朽ちていく。
「なんだ、この葉
……
」
「
……
」
枯れ葉はカサカサに乾き、葉柄から折れて崩れて消えた。瑠璃が唖然とする隣で、シオンはどこか遠くの一点を凝視したまま、心を失くしたような顔をしていた。
「おい、シオン
……
アンタ、大丈夫か」
「え?
……
あ、ああ」
瑠璃に声を掛けられ、心ここにあらずだった左の目がふっと現実に戻ってくる。瑠璃は、シオンの見ていた方に目線を向けてみた。その方角──草原の向こうだが、特に何もない。
しかし、やはりその方向を気にしながら、シオンはこんなことを言った。
「瑠璃
……
今日はもう帰
……
いや、うちに泊まっていってくれないか」
「ん?」
「お前がいると
……
コロナとバドが喜ぶから」
あと、あのカニは責任もって瑠璃が喰えよ、とシオンはいつもの可愛げのない調子で、わざわざ付け足すかのように言った。
違和感はあった。
瑠璃は、シオンとはそれほど長い付き合いではない。せいぜい一、二年。それでも、彼の性格はそれなりに知っているつもりだった。こいつは、こんなことを言う奴ではない。
瑠璃に断る理由はなかったので、乞われるまま一泊することにした。
この時、瑠璃は、もっと深く追及すべきだったのだろう。
彼が何を考えていたのか。なにを見ていたのか。そして、なにを知っているのかを。
翌朝。
「瑠璃さん!」
瑠璃が泊まっていた書斎に、バドとコロナが駆け込んできた。
二人とも泣き顔で、バドの手には、ドリアードの魔法の葉を挟んだ本。コロナの方は、白い手紙。葉を栞代わりにした、読みかけの本の上に、置手紙があったという。
そして、家主の少年は家からいなくなっていた。とあるアーティファクトとともに。
「あのバカ! 旅なんか嫌いだって言ってたくせに!」
瑠璃はコロナから手紙をひったくるように受け取り、目を走らせた。
そこに書いてあったのは、謝罪の言葉。それから、今日の行き先。
利き手ではないから、なにもできない。昨日はあんなことを言っていたのに、逆手で書かれた文字は少しの歪みもなくきれいだった。
「マナの
……
聖域
……
」
瑠璃は手紙をぐしゃりと握りつぶした。マナの聖域に行く、ごめん、とそれだけの、相変わらず簡潔すぎる内容。
瑠璃の心にどうしようもなく怒りがわいた。これではあまりに不十分だ。なにしろ、瑠璃はまだ聞いていない。聖域に行く目的も、何が起きているのかも、シオンが今、何を謝っているのかも。腹が立った。けっして仲間を頼らない友人に。そして、悩み苦しむ友に、何もできない自分自身に。
「チクショウ
……
!」
吐き捨てた瑠璃の背後で、ひらり。
書斎の窓の向こうに、また、葉が一つ落ちた。
「瑠璃のお兄さん!」
コロナに指摘され、双子と連れ立って玄関を出たところで、三人は絶句した。
「全部、枯れてく
……
」
世界中の木々が、すべての草花が枯れ始めていた。枯れ落ち、茶色く朽ちた葉が、そこいらに山積みになっている。
身体をふるわせて怯えきった双子が、手を伸ばして瑠璃を頼ってきた。バカヤロウ、アイツは自分で言う通り、最低の師匠だ。本当に弟子の傍にいてやるべき時に限って、いないのだ。
小さな姉弟をマントのなかで抱き寄せてやりながら、瑠璃の脳裏に、都市にいるはずの、真珠姫とレディパールのことがよぎった。
世界が枯れ落ち、終わる間際、何もなかったはずの草原の向こう、瑠璃は空に浮かぶ大きな木が燃えるのを見たと思った。
■■■
私を求めてください。
私は愛です。
また、夢を見た。
愛を語る、大きな樹の夢。
シオンが目を醒ますと、見慣れた自室の天井が見えた。
夏の朝だ。天気は晴れ。朝は、風がすこし強く吹く日。
今日のことをひとつずつ思い起こしながら、シオンは『右腕』を持ち上げた。
傷一つない腕を、視力の良い両の眼ではっきり捉える。それを確認して、右腕で両目を覆った。
失くした腕も、失った光も、女神とともに燃え尽きた身体も。
かけがえのない家族も、心を許せる友も、『寝て起きれば元通り』
一見したところは、何でもない普通の朝の始まり。
けれども、今日は昨日の続きではない。
前に進みはじめた珠魅たちの町や断崖の町も、シオンの知らないところで生まれはじめていた新たな絆も、未来の大魔法使いにほんの一歩近づいた見習いも、なんだかんだ弟の夢を応援している優しい姉も、万のひとつくらいの確率でうるさい店員になっていたかもしれない珠魅の騎士も、ここにはいない。
きっと今頃、ラピスの騎士は田舎町で真珠の姫を探しまわり、小さな魔法使いの姉弟は、かぼちゃだらけの町外れで、悪戯をしようとたくらんでいることだろう。
シオンは大きくため息を吐き、ベッドを出た。
簡単に身支度を整えると、玄関わきに立てかけてある大剣を、傷一つない右手で取り上げる。
世界は枯れ落ち、マナの木のイメージはふたたび種へと還る。
種から芽吹き、若木となり、やがて大樹へ育っていく。育った大樹は、時がくれば枯れ落ちる。だからシオンは、その前に女神に会う。会って、ふたたび夢を見る。
剣を提げて玄関を出ると、生まれたての世界があった。また、はじめから育てなくては。大きく育てて、今度こそ。
「世界はイメージでできてるんだって。しってた?」
「
……
。
……
知ってる」
自宅の前にいる草人から、まだ積み上げていない積み木を受け取って。
「あの続き
……
読めなかったな」
弟子の魔法の葉を挟んだ、読みかけの本のことが、ふと頭をよぎった。
無人の牧場にしばし視線を向けて、少年は、誰もいない世界をまた一人、歩きはじめた。
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