食事が運ばれてきた。あの女将ではなく、荷物を持ってくれた男衆だった。他に従業員はいないだろうかと思うが、言うべきことではない。
いまだ空は蒼黒い。紫垂月頼宗は窓べに坐っていた。くっきりとした輪郭が映っている。
赤みの強い肉のような鮪、つるつるとした、照明に反射した真っ白いイカ。青葉の匂いがする。あおさの味噌汁。丸ごと焼いた鮎。粒がたった白米。特産であるらしい蜜柑の寒天。
男衆はぽつりと「おかみさんは」と呟いた。
どうやら彼はここの従業員ではないようだ。植柾の親族かなにかかもしれないと、顔を見て思う。
「悪い人じゃないんです」
「……なにかを必死に守っているようにも見えました」
青嵐が答えると、男衆は目をきつくつむって、大きく頷いた。
「あの人は植柾さんのご子息の奥様です」
「彼女のお名前は?」
「植柾影子さんです。俺は影子さんの遠い親戚の来島といいます」
「来島さん。この周辺のことを伺ってもよろしいですか」
短く刈り上げた頭のかたちに添わせるように、来島という男の手のひらが申し訳なさそうに触れた。
「今日はこれから用事がありまして。明日、俺が朝食を持ってきますので、そのあとなどは」
「もちろん結構です。よろしくお願いいたします」
軽く頭を下げると、来島もおなじようにした。
「お膳は廊下に下げておいてください。後ほど取りにきます」
「はい」
来島は安堵したように微笑むと、仰々しく戸を開け、ゆっくりと締めた。ぱたん、と音がする。
「あの女将は自分から名乗らないと思っていたから助かった」
紫垂月頼宗が独り言のようにいい、視線を青嵐に移す。
「地酒をいただいたのでまずは一献、いかがですか」
一升瓶が一瓶。コップがふたつ。気遣ってくれたのだろう。彼は食事を好まないと事前に伝えてあったから。
コップに注ぐと、ふわりと柑橘の匂いがした。
「食事をいただきます。先に飲んでいてください」
「うん」
彼は注がれた日本酒を傾け、あおる。
刺身を箸で挟み、醤油を少しつけて口に入れた。味が濃いと思う。沖縄や東京の刺身とは少し違った。
食事を見守っている風でもなく、無関心そうでもなく、時折彼は箸を淡々と運ぶ青嵐を見ている。
自分だけ食事をしていることに罪悪感をしばらくはおぼえていた。今もほんの少し、おぼえている。けれどきっとともに酒を飲むときになれば、その感情もゆるやかになっていくのだろう。
食べつくし、茶を飲んでいると紫垂月頼宗は一升瓶を持ち上げて「飲もう」といった。この時を待っていたのだろうか。そうだったら待たせて申し訳ない想いにもなった。
コップに八分目注がれ、香りを嗅ぐ。やはり柑橘の匂いがした。口をつけ、ひと口飲み込む。
清々しい白ワインのような風味がした。
「美味しい?」
「ええ」
頷く。彼はほほえんだ。青嵐もおなじように笑む。
長方形の、木でしつらえた机の上には一升瓶とコップがふたつだけ。それ以外のものは今、必要なかった。
外は月が浮かんでいた。朧月、雲におおわれてぼんやりとした光が滲んでいる。
「どこへ行っても、月はおなじ」
コップに目を向け、手の中のそれをもてあそびながら呟いた。
「月はひとつしかありませんから」
「そうだね」
当たり前のことだ。地球から見る月はひとつしかないし、逆もまたおなじ。
自身にとってバディは紫垂月頼宗だけであるし、彼もまた——、いや、そうであってほしいと願うのはただのわがままだろうか。けれど今は、今だけは青嵐だけのバディなのだと言い聞かせる。
子どものような独占欲だけれど、いつか終わりがくるまで、たったひとりのバディでいさせてほしい。
リイリイと虫が鳴き始めた。
早めに風呂に入っていてよかったと思う。朝が早かったからか眠くなってきた。酒をとったのも理由かもしれない。時計を見るとまだ9時。子どものようだが、あの女を見てからというもの、ずっしりとした疲労が背中を覆っている。
ついてきてはいないが、この島のどこかに必ずいる。
「そろそろ休もうか」
酒はまだ少し残っているが、今日すべて飲み干すにはもったいない。彼がそういってくれたので、それに甘えさせてもらうことにする。
寝室に通じる襖を開けると、空気をふんだんに含んだ布団が並べられていた。
紺色の浴衣、黒い綿の帯を解けないように結び目を強くする。
寝室も広かった。窓もあるが、そこから見えるのは中庭だった。ひどく広い、長方形の中庭。古い松があり、池もある。苔むした岩にいきものの気配がする。目を凝らさなくとも見えたのは月が明るかったから。
窓の近くに屏風がたてられている。日本画のあわい色合い。藤が見事に咲き誇る絵画であった。そして草むらからちいさな蛙が見上げている。屏風をそっと撫でる。ざらりとした和紙だった。手を引き、布団の横に坐した。
「景色に水膜を張ったような絵だね」
吐息ほどの呟きに、青嵐はあごを上げた。
よく見るとこの絵は霞かかり、水滴が滴りそうだった。
「……おやすみなさい。紫垂月殿」
薄い毛布に潜り込む。となりで毛布をめくる音がする。そして、照明を落とした。
屏風は青嵐の顔の左側にあった。紫垂月頼宗に背中を向けると、屏風は顔のすぐそばに迫る。ぼんやりとそれを眺めた。疲れているのにまぶたを閉じるのが憚られた。
「主」、眠れないのかい」
夜はまだ深くはないのに、闇に溶けてしまうような静かな声だった。
はい、と応える。
「疲れすぎてしまうと、眠れないのかもしれません。眠るのにも、体力を使うから」
そういってから、からだを右に向けた。屏風に背を向ける。
「僕たちも眠るのに生気を使うのかな」
どうでしょう、と答えた。彼らは存在するだけで生気を必要とする。人間は、ものを食べなければ力が出ないし、眠らなければ疲弊する。そして性的な欲求がなければ人類は滅亡する。当たり前のことだが、ずいぶんと欲張りなことだと思う。
天井を見上げる紫垂月頼宗を暗闇の中から見つめる。 白く通った鼻梁、まつ毛に縁取られた目。不躾に見ていることに気づいて、枕に顔を埋めた。麻でもないのに、妙にさらさらとしている。
手が近い。すこし伸ばせば届くくらいには。
「紫垂月殿」
彼の顔がこちらに向いた。妙にふわついた頭。眠いのかもしれないと思う。すこししか横になっていないのに、からだは素直に睡眠を欲していた。
腕が重い。それでも持ち上げ、彼の長い髪をかき分けた。ほおに触れるとひとのような体温を感じた。けれど、自分は他の体温を知らない。
必要以上に触れるのも、触れられるのも避けていた。
自分の皮膚の上に、違う温度があることを恐れていた。けれど紫垂月頼宗に触れられるのは嬉しいと感じる。
この感情の名前はなんというのだろう。名前があるのならば、教えてほしい。するりと腕が彼のほおから離れる。
とうとう言葉を吐き終えることはなく、目を閉じた。
夢を見た。
喪服の女が白いパラソルを持ち、こちらに背を向けていた。暑さでその姿も揺らいでいる。蝉が鳴いているが、周辺に木々はない。ただ、霧がかかったような真っ白い場所に佇んでいた。
それが夢だったのか夢ではなかったのかわからなくなるほど、鮮明だった。
鮮明だからこそ夢だったと思ったのかもしれない。
目を覚ますと天井がぼやけて見えた。
ゆっくりと起き上がる。手探りで眼鏡を取り上げ、耳にかけた。
ふと息をつく。横を向くと紫垂月頼宗は目を閉じていた。まだ眠っているのだろう。
屏風を視界の端でみとめる。あわい藤の花、その下には草むらの中の蛙。蛙は藤を見上げ、どこか羨んでいるような顔をしていた。完全に覚醒していない頭で見たからかもしれない。
「おはよう」
布団の上から声がかかる。すぐに「おはようございます」と応えた。
背中が少々重いが、敷かれた布団にまだ慣れていないのだろう。ゆっくりと立ち上がって、窓を見る。まだ外は青く、薄暗い。ぼんやりと霞かかっている。あの夢のようだと思った。
「今日は来島さんに話を聞いたあと、人に会う予定です」
昨夜天照に業務連絡をし、緋鍔局員からとある人物を紹介された。彼らも彼らで同時期に調査をしてくれている。
帯を強めに締めた。ぎゅっ、と布が擦れる音が嫌に耳に響く。
「人?」
「はい。植柾の当主、ご本人に」
「へえ……」
彼はとくに驚くこともなく、ただ相槌を打った。
「お忙しい方だそうですが、時間を作ってくれたようです」
髪を適当に梳くと、慣れたやわらかい房が指の間をすべった。
「この辺りを取り仕切っている豪商、大地主。島民たちも頭の上がらない存在。それが植柾家のようです」
「そういえば昨日の……」
紫垂月頼宗がなにかを尋ねようとしたとき、部屋の戸を叩く音が聞こえてきた。来島だろうか。戸を引くと、膳をもった男が床に座っていた。
「朝食をお持ちしました」
来島だ。どこか落ち着かなさそうに、視線を彷徨わせている。
「ありがとうございます」
「あの、昨夜のことなんですが」
「はい。お話を聞かせてくださると……」
彼は安堵したように頷き、「召し上がったあと、またきます」といって慌ただしく背中を向けた。
膳を机に置くと、つい先ほど紫垂月頼宗がなにかを伝えようとしたことを思い出し、尋ねる。
「昨日、橋の先でなにかあったようだけど、とくに話題にならないなと思って」
「そうですね。来島さんも植柾さんもなにも……」
「なにか隠しているのかもね」
大きい島とはいえ、ここから近い場所での事件、あるいは事故だ。耳に届いてもおかしくはない。
植柾影子、彼女もどこかピリピリとしていた。なにも知らないということでもなさそうだ。
視線に促され、朝食を取る。
——おいしいとは思うが、なぜか食欲がわかなかった。
食事を終え、身なりを整えたころ来島が再び訪った。
机の真向かいに坐り、彼は一度深呼吸をした。どうやら緊張しているようだった。
「この辺りのことでしたね」
「はい」
「このあたりは全部、植柾さんの家の土地で、俺たちは住まわせてもらっているんです」
彼の言い回しに、妙な、そして神経質そうな感情を読み取れた。まるで彼らの気分を害してはいけないというような。
「植柾さんの家はどのくらい古いのですか」
「俺にもわからないくらい、ずーっと昔からあると聞きました」
五百年以上です、と付け加えた。
「来島さんはずっとこちらですか?」
「生まれは関東です。中学の頃こちらに引っ越してきました」
妖刀は必ず視界に入る場所に置いている。そのため、今は来島にも見えているのだろう。
「では昔話、というものを知りませんか」
「昔話……ですか。いくらでもあった気がしますが」
なにか考えるそぶりを見せたが、次に申し訳なさそうな顔をした。
「俺よりも近くに図書館があるのでそこで調べてもらった方が確実かと」
「そうですか。植柾のご当主も知っていらっしゃるでしょうか」
「ええ、それはもう。生き字引みたいな方ですから。え、会われるんですか?」
よく表情が変わる男性だと思う。頷くと短い髪をいじって「はあ」と呟いた。
「天照っていう組織は、すごいんですねぇ」
感嘆する来島に、あいまいに微笑んで見せると彼は妖刀を見た。
「ええと……紫垂月頼宗さん」
口を閉じていたとなりに坐る刀神が来島を見据える。美しい瞳が朝の澄んだ空気にゆらめいた。
「雲井青嵐さん」
彼はすこしかしこまって両手を膝に置く。
「このあたりはよく、人が死にます」
「昨日、警察が橋で交通規制をしていました」
「はい。亡くなったのは違う場所からきた人で、東京からきた方だとか」
「東京……」
「死ぬのはこの島以外の人間が多いのかい」
来島は背中を丸め、言いづらそうに「はい」と答えた。
「俺が覚えている昔話のひとつに、こういうのがあります。簡単にいうと、中州の外からきた男がつぎつぎに殺されてしまう話です」
中州とは、地名ではなく河川に土砂などが形成された島状のことだと分かった。
つまり、よそ者が殺されていくよくある昔話だ。
「昨日亡くなった方は一般人でしたか」
「一般人? ああ、えっと、そうですね。天照の方ではありません」
天照から派遣された刀遣いなら、すぐさま緋鍔局から連絡が入るだろう。
「犯人はまだ捕まっていません。過去の殺人事件は全員捕まっていますから、今回のもすぐ捕まるでしょうけど……」
「わかりました。聞かせていただきありがとうございます」
「いえ、お力になれたらいいんですが」
来島は白い歯を見せつつも恐縮したように笑い、立ち上がった。
「あ、お二人の滞在期間は一週間でしたよね」
「ええ。状況によって前後するかもしれませんが」
なにか、と尋ねようとするが、やめておく。来島は軽く頭を下げて退出した。
ふ、と空気が冷える。体は俊敏に太刀に手をかけた。
「……外部の人間が殺される。だから本部の人間が調査しろ、と。尻尾を掴ませるために」
嫌な空気が流れる。外からだ。紫垂月頼宗は中庭の方をちらと見た。
「主」
あくまで穏やかな声だった。が、いつもとは違う鋭さも聞いてとれた。
広いとはいえ、部屋の中で太刀を抜くことはできない。
ざり、と足を下げる。畳がまるでむき出しの湿った地面のように感じた。
着物の合わせに手をかける。黒猫がするりと出てきて、畳に立った。青嵐が降魔と名付けた式神は赤い首輪に下げた鈴を鳴らし、毛を逆立てた。
まるで手触りを感じられるような澱んだ空気は中庭の方へじりじりと去っていく。
「Y島には守り神でもいるようだね」
彼はそういった。
「外部の人間をすべて敵とみなすものが」
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