ひるね
2025-08-14 13:59:07
10911文字
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雨宿りの夜 – Eric’s Another Story /リー指(日本語版)

げんさん(@goshushin.bsky.social )のocskkエリックさんを書かせていただきました!😊
前作のバリスタリーの現パロ「Cafe Noir et Luneにようこそ – Eric’s Night」で、げんさんが描いてくださったイラストからアナザーストーリーを膨らませました。「もし雨が止まなかったら」ver.です。
げんさん、この度は快諾してくださってありがとうございました!🫶✨

「雨宿りの夜 – Cafe Noir et Luneにようこそ / Eric’s Another Story」


 閉店後の書店は、昼間の賑わいが遠くに去り、ひっそりと静まり返っていた。最後の照明を落とし扉を閉めると、濃い雨の匂いを含んだ夜気が頬を打つ。次の瞬間、容赦ない豪雨が全身を叩きつけた。
 傘を持たずに出てしまったことを、開口一番で悔やむ。朝はあんなに晴れていたのに。遅刻ぎりぎりで家を飛び出した私には、天気予報を確認する余裕などまるでなかった。
 街灯の光が、激しい雨に乱反射して白く滲む。アスファルトには幾重もの水輪が重なり、地面そのものが浅い川のように揺れていた。視界の輪郭は雨にかき消され、遠くのビルも灯りだけを残して煙るように霞んでいる。
 立ち尽くしたまま、どうにも動けずにいると――暗がりの中でひとつ、温かな光が滲んで見えた。
 カフェ「Noir et Lune(黒と月)」。営業時間はとうに過ぎているはずなのに、店内の奥から柔らかな明かりが漏れている。まるで、行き場を失くした自分を見つけてくれたかのように。
 吸い寄せられるように扉の前まで来ていた。そっと覗き込むと、薄明かりの中で作業する青年の姿が目に入る。

……リーさん」
 思わず声がこぼれる。けれどそれは、雨音にさらわれるほどの、かすかな響きだった。
 ――それなのに。
 リーがふと手を止め、ゆっくりと顔を上げた。ガラス越しに真っ直ぐこちらを見て、目を見開く。その視線がぶつかった瞬間、胸の奥がわずかに跳ねる。青年は迷いなく扉へと歩み寄り、静かに開いた。
……指揮官?」
 一瞬だけ、不思議な呼び方に胸がざわつく。けれどその響きには、なぜかどこか懐かしさが滲んでいた。
――エリックさん、大丈夫ですか?」
 すぐに言い直したリーにうながされるように、私は無言で頷き、そのまま差し出された手に触れた。
 温かな灯りの残る店内に招き入れられ、濡れた髪を払いながらそっと肩をすくめる。足元には雨の滴が落ちて、小さな水たまりができていた。カウンター奥の棚には白磁のカップが整然と並び、壁際の木製ラックにはインテリア雑誌や、ドライフラワーの束が静かに吊るされている。まだかすかに残る焙煎豆の香りが、外の冷たい雨気をやわらげていた。

「寒くないですか? 何か拭くものを……。少々お待ちください」
 そう言って奥に姿を消したリーは、程なくしてすぐに大きめのタオルとブランケットを抱えて戻ってきた。覆い被せるように私を拭き上げる仕草が、妙に丁寧で、くすぐったい。
 タオルを私に預けると、リーは手早くスマートフォンを操作した。雨粒が窓を叩く音は、先ほどよりも更に重く速くなっていた。
――エリックさん」
 小さく息を呑み、私の名前を呼ぶ。その声色には、わずかな緊張が混ざっていた。
「気象警報が出ています。……道路が冠水する恐れがあると」
「ッ、本当ですか!?」
 思わず覗き込むと、画面には交通情報アプリの通知が次々と表示されていた。『鉄道一部運休』『一部エリア冠水中』『タクシー配車集中により受付停止』の文字が並最び、最寄り駅からの路線も例外ではない。

「困りましたね、タクシーもダメなようです。これは歩いて帰るしか……
 そう口にしてみたものの、外から聞こえる雨音の激しさに、我ながら現実味がないと思う。
「近くに泊まれるところは……
 頭の中で地図を思い浮かべても、この時間に空いている宿などそう多くはない。
 呆然とタオルを握りしめたままの私に、リーがそっと目を向けた。青い瞳が一瞬だけ揺れ、何かを計るように私の表情を探る。ほんのわずかに躊躇いが過った気がしたが、次の瞬間には迷いを押し込めるように口を開いた。
「僕の住まいが……すぐ近くです」
 一瞬、意味が掴めず瞬きをする。言葉の意味が胸の奥で静かに形を取り始め――そして、ようやく理解が追いついた瞬間、
――えっ!?」
 声が裏返りそうになる。予想もしなかった提案に、思わず言葉を失う。
「このままでは、あなたが帰る手段がありません」
 そう続けた彼の声音には、静かな決意と、濡れた肩を案じる柔らかな響きがあった。強引さは微塵もなく、ただ私を気遣う思いが真っ直ぐに伝わってくる。駅へ向かうのは無謀だということは分かっていた。けれど、知り合って間もない人の家に――。躊躇いを抱えたまま、私は口を開いた。
「いえ、そんな……ご迷惑では」
「僕は――、嫌ではありません」
 リーはそう言って、私の視線を受け止めた。その青い瞳に映るのは、困っている私に向けられたまっすぐな誠意――。それだけのはずなのに、なぜだろう。胸の奥が、そっと疼く。どこかで、こんなふうに誰かに見つめられ、手を引かれた記憶があったような気がした。その記憶の残滓は霧の向こうにぼやけていて、輪郭を結ぶことはなかった。
 ――それでも、彼の隣に立つことは、ごく自然な選択のように思えた。
「本当にありがとうございます。……では、お言葉に甘えさせていただきます」
 そう告げると、リーは軽く頷き、カウンター奥へと歩いた。
「少しお待ちください。戸締まりをしてきます」
 照明を順に落とし、機器の電源を確認する。引き出しを閉める音や、戸締りを確認する気配が雨音の合間に紛れ込む。
 外からは、風を孕んだ雨がガラスを打ちつける低い轟きが続いている。その中で、店内の灯りは徐々に穏やかな陰影を帯び、空気がしっとりと落ち着いていく。
 やがて作業を終えたリーがこちらへ戻ってきた。雨脚を確かめるように一度外を見やってから、静かに頷いた。
「施錠はしておきますが、状況によってはまた戻るかもしれません」
 そう言って近くにあった傘を手に取る。
「これじゃ盾にもならなそうですが、一応持っていきます」
 わずかに口元を緩めたその言葉に、思わずクスリと笑ってしまった。

 ガラス扉のハンドルを引くと同時に、隙間から冷たい風と雨の匂いが一気に流れ込む。店の外は、驟雨で白く煙っていた。意を決して一歩踏み出した瞬間、横殴りの雨粒が容赦なく降りつける。リーは無言で傘を閉じ、私の腕を取った。
「行きましょう」
 短くそう告げた声に迷いはなく、私もただ頷いた。握られた腕に導かれるまま、雨の中へと駆け出す。瞬く間に全身がずぶ濡れになり、靴の中まで水が染み込んでいく。それでも、その温もりだけは、最後まで雨に奪われなかった。

 ☾

 エントランスの小さなオートロックを抜け、数段の階段を上がった先。リーが鍵を差し込み、短く音を立てて扉が開いた。
「こちらです。……足元が濡れているので気をつけて」
 中へ招き入れられ、靴を脱ぐ。閉じた扉の向こうで、雨音はすぐに壁一枚の向こうへ遠ざかり、室内には静けさと柔らかな灯りが広がった。

 外観は少し年季の入ったマンション。けれど中は、木目調とアイアンが調和した温かな空間だった。コンクリート打ちっぱなしの壁に、深みのある色の床。都会的な洗練さの中に、柔らかなラグや観葉植物が程よい生活感を添えている。奥のキッチンはステンレスの天板と白いタイル張りで、調理道具は壁に整然と掛けられ、まるで小さなアトリエのようだった。
 ふと視線を戻すと、リーが濡れた前髪を指で掻き上げていた。露わになった額に雨粒がひとつ滑り落ちる。長い睫毛に宿った滴が、震えるたびに光を散らした。頬を伝い落ちる雫。それはゆっくりと鎖骨のくぼみに吸い込まれていく。濡れたシャツが肌に貼り付き、肩から胸へ、さらに締まった腹筋の起伏をやわらかく浮かび上がらせていた。
 その姿は、ほんの一瞬なのに、視線を奪うには十分すぎた。見つめすぎてはいけないと分かっているのに、なぜか目が離せない。胸の奥がきゅっと詰まり、息をひとつのみ込んで、私は視線を逸らした。
 胸の奥でざわめく鼓動に、静まれと念じながら。

 リーは奥の棚からタオルを一枚抜き取り、歩み寄ってくる。
「これで、拭いてください」
 差し出されたタオルを受け取るとき、指先がかすかに触れた。ほんの一瞬のはずなのに、妙に長く感じられ、心臓が跳ねる。タオルの端から伝わるわずかな温もりが、頭から離れない。
 もう一度、私の手に収めるようにそっと押してくる仕草に、胸の奥がわずかに熱を帯びた。視線を落としてそれを隠すと、リーもまた、ほんのわずかに表情を和らげた。
「先にシャワーをどうぞ」
 落ち着いた声。その奥に、私を気遣う響きが滲んでいた。
「温まってください。着替えは……僕のもので構いませんか?」
 その言葉に、胸の奥がくすぐったくなった。知り合って間もないはずなのに、こうして自然に受け入れられることが、どうしようもなく嬉しかった。リーはリネンを整然と収めた奥の棚から、着替え一式と、まだ袋に入ったままの新品の下着を取り出す。誰かを迎える準備があったわけではない。それでもためらいなく私に差し出そうとしている。
……本当に、ありがとうございます」
 小さく礼を告げると、リーは頷き、視線を外して浴室の方へと手を示した。

 シャワーの熱で冷え切った身体がようやくほぐれたようだった。髪をタオルで拭いてから、リーから借りた白いシャツに袖を通す。柔らかな生地が肌に触れた瞬間、なぜか不思議な安心感に包まれた。
 脱衣所から出ると、ちょうど洗濯かごを片手に、着替えたリーが廊下の向こうから戻ってくる。前髪は整えられていたが、ところどころにまだ小さな水滴が残っていた。どうやら私の濡れた衣類を洗ってくれるらしい。視線がふとこちらに向き、その碧眼がわずかに見開かれる。
「お風呂、お借りしました。ありがとう」
 胸元で軽くシャツの前を押さえながら微笑む。少しだけ、空気が揺らいだ気がした。リーの喉仏がわずかに上下し、すぐにいつもの落ち着いた表情へと戻る。その短い変化を、私は見逃さなかった。
……いえ。少しでも温まっていただけたなら」
 そう言いながら、リーは視線を外し、洗濯かごを抱え直す。ほんのりと耳が赤くなっているのは気のせいだろうか。
「僕も軽く浴びてくるので……その、くつろいでいてください」
 言うが早いか、私から視線を外したまま足早に浴室へと引っ込んでいった。その背中を見送りながら、小さく笑みがこぼれる。あんな風に慌てた様子の彼を見るのは初めてだった。
 借りたシャツの袖口から、かすかに洗剤と彼の部屋の空気が混ざった匂いがする。胸の奥がくすぐったくなり、無意識に袖を指先でなぞった。外ではまだ雨が降り続いているはずなのに、この部屋の空気はやけに温かかった。

 ☾

 浴室の方から、一定のリズムで水音が響く。所在なく立っていても仕方ないと、私はリビングへ視線を巡らせた。木の床を歩くと、柔らかく沈み込むラグの感触がスリッパ越しに伝わる。壁際の棚には、幾何学的なモチーフの置物や、小さなフレームに収められたモノクロ写真が整然と並んでいる。写真の中の風景は、海辺や街角、工場の一角など、どれも人影がなく、静謐な空気を湛えていた。
 キッチンカウンターの上には、乾いたカップと、使い込まれたスチール製のミル。豆の入った瓶が一列に並び、手書きの小さなラベルには焙煎日と産地が記されている。几帳面な字だった。
 棚の一角には、コーヒーの産地や抽出法に関する専門書や雑誌が並び、その間に小さなノートが挟まっている。ふと見ると、仕入れの記録や新しいブレンドの試作メモが、細かい字でびっしりと書き込まれていた。
 まだ知り合ったばかりなのに――こういうところが、彼らしいと思ってしまう。指先でそっと背表紙をなぞる。耳を澄ますと、浴室の水音と一緒に、まるで遠い海のように絶え間なく波打つ雨音が聴こえる。
 ふと、胸の奥がきゅっと縮む。理由は分からない。けれど、ここにいることが、妙に自然に思えてしまう。彼の整った所作も、几帳面な字も、控えめな声も――どれも初めて見るはずなのに、懐かしい、と言いかけて飲み込む。言葉にしてしまったら、何かが溢れてしまう気がした。
 私はスリッパのつま先をラグに沈め、すうっと息を吸う。ミルに残った豆の香りと、洗い立ての布の匂いが混ざり合って、胸のざわめきをほんの少し落ち着かせた。

 浴室のドアが静かに開き、リーがタオルで首筋を押さえながらリビングへ戻ってきた。着替えたばかりのシャツはまだ湯気を含んでいた。すれ違った瞬間、ほのかな石鹸と柑橘の香りが鼻先をかすめる。
「寒くないですか?」
 肩越しにそう問われ、思わず「大丈夫」と返す。
 リーは小さく頷き、ちらとこちらを見やってから、そのままキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。
「ちょうど新メニューを試作しようと思っていたんです。店で仕込んだスープを、少し分けてもらってあります」

 ステンレスの小鍋に、琥珀色の鶏がらスープが注がれる。火にかけられると、やさしい香りが空気に広がり、コトコトと雨音に紛れて静かに息づくように部屋を満たしていく。リーの指先が迷いなく動く。ライスヌードルを湯にくぐらせる音、香草を刻む小気味よい音。そして、ふわりと広がる緑の香り。どれも五感に心地よく響く。
 店でコーヒーを淹れているときと同じ、無駄のない静かな所作。けれど、今は目の前で自分のためだけに動いているのだと思うと、自然と視線が離せなくなる。何かに気づいたように、リーの指先の動きがほんの少しだけ柔らかくなる。視線を合わせることはなかったが、その仕草の端々から、不思議とあたたかいものが滲む気がした。
 温めた丼にライスヌードルを入れ、スープを注ぐ。その上に、別皿に用意していた柔らかな鶏肉をほぐしてのせ、香草とライムを添える。
「味変用のチリソースもありますが、お付けしますか?」
――いえ、大丈夫です」
 私の予想通りの答えに、かすかに彼の口元が緩んだ気がした。
「さあ、出来ました」
 カウンターテーブルに丼が置かれる。湯気と一緒にスープの香りが立ち上り、私は思わず深く息を吸い込んだ。胃の奥まで温まりそうな、優しい匂いだった。
「試食していただくのは、あなたが第一号です」
 そう告げた彼の声が、湯気に紛れて柔らかく響いた。
「熱いうちにどうぞ」
 私は頷き、息を吹きかけてからそっとスープを口に運んでみる。やさしい塩味と鶏がらの深い旨味が広がり、香草の爽やかさがあとから追いかけてくる。喉を通る頃には、身体の奥までじんわりと温まっていくようだった。
……すごく、美味しい」
 思わずこぼれた声に、リーのまつ毛が一瞬だけ揺れる。返事はない。ただ、静かな青の瞳がどこか満ち足りたように細められていた。リーが自分の器と箸を手に、静かに席へと着いていた。彼は私の様子をちらりと見やり、小さく笑んでから、香草を沈めた麺をすくい上げる。
……いただきます」
 短くそう告げてスープを口に含む。その表情はいつものように落ち着いているのに、不思議と柔らかく見えた。じわりと、胸の奥が温まった。作ってくれるだけでも十分だったのに、こうして隣で同じものを食べてくれる――そのことが、思った以上に嬉しかった。

 気づけば、レンゲは何度も器の底をさらっていた。スープの最後の一滴まで飲み干し、深く息をつく。
……お口に合いましたか?」
 隣から静かな声がして顔を上げると、リーが箸を置き、こちらを見ていた。
「ええ。香草の香りがすごく立っていて……鶏の旨味も優しいのにしっかりしてる。麺もつるっとしていて、最後まで飽きませんでした」
 言葉を選びながら、素直に感じたことをそのまま伝える。
 リーは短く「ありがとうございます」と答えた。その口元がわずかに和らいで見えた。静かな喜びが、あたたかい湯気のようにそこに漂っている。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです。――あの、洗い物は私がやります」
 小さく頭を下げながら続けると、リーはわずかに首を傾げた。
「いえ、お客様にそんなことを」
「一宿一飯の恩ですから」
 軽く笑って立ち上がると、彼は一瞬ためらい、それから小さく「では、お願いします」と頷いた。

 シンクの前に立ち、スポンジを手に器を洗う。窓の外では、雨が音を立てて降り続いている。背後では、湯を沸かす控えめな気配と、何かを整える動作が感じられた。洗い終えた器を布巾で丁寧に拭き、元の場所に戻したところで、リーに呼ばれた。
「終わりましたか? こちらへどうぞ」
 声に促されリビングへ向かうと、ローテーブルの上にガラスのティーポットが置かれていた。淡い色の乾いた葉が湯の中で揺れ、黄金色の液体が少しずつ深みを増している。
「ハーブティーです。カモミールとレモンバームのブレンド。今夜は冷えますから」
 湯気とともにやわらかな香りが広がり、心までほどけていくようだった。
 リーはポットを軽く揺らし、茶葉の開き具合を確かめると、温めておいたカップに黄金色の液体を静かに注いだ。
……特別ですよ」
 ふいに小瓶を手に取り、琥珀色の蜂蜜をひと匙、そっと垂らす。甘い香りが重なり、部屋全体が優しい空気に包まれたようだった。湯気の向こうでカモミールの花がゆらゆらと揺れ、琥珀色の液面に反射した灯りが小さく瞬く。私はカップを受け取り、そっと口をつける。
……あ、美味しい」
 ほのかな甘みが舌に触れ、鼻に抜ける香りが静かに広がる。ハーブティーはあまり飲まないはずなのに、不思議とすっと体に染み込んでいくようだった。
「気に入っていただけたなら良かったです」
「これ、お店にはないですよね?」
「ええ。コーヒー専門と決めていますから」
「でも、フードメニューもあるのに……ハーブティーは置かないんですか?」
「そうですね……プロとして出すなら、きちんと納得できるレベルの味にしたい。でも紅茶やハーブティーは、僕の守備範囲からは外れるんです」
 そう言って、リーは小さく笑った。
「その代わり、カフェインや味が苦手な方でも楽しめるように、デカフェやアレンジメニューは揃えていますよ。ミルクやスパイスを加えたものとか」
「なるほど……。それなら、私はもう常連ですね」
「それは光栄です」
 リーの声が、ほんの少し柔らかくなった気がした。

 カップを置いたタイミングで、リーがふと窓の外へ視線を向けた。
……雨脚、少し弱まってきたようですね」
 立ち上がった彼は窓辺に歩み寄り、ポケットからスマートフォンを取り出す。画面を確かめ、警報が解除されたのを確認すると、ほっと息をついた。
「お店の方も、今夜は大丈夫そうです」
 安堵の色を含ませながら時計を見やり、私へと向き直る。
「夜も遅いですし……無理にお帰りになるより、ここで休まれた方が良いでしょう」
「でも……明日は休みですし、かえって私がいるとリーさんのお仕事に差し障るのでは」
 遠慮がちに告げると、リーは軽く首を振った。
「ご心配なく。僕も明日は遅番で午後からの勤務です。お客様を悪天候の中で帰す趣味はありません。それに――
 窓の外へ視線を戻す。街灯の下で、細い雨の筋がまだきらきらと降り続けている。
……外はまだ冷えます。今日は暖かい場所で休む方が賢明ですよ」
……それなら、せめてソファで」
「ベッドを使ってください」
「いえ、そこまでは……
「ソファは背もたれが低くて寝返りもしづらい。体を痛めます」
「でも――
「では、こうしましょう。交代で洗面所を使って、支度が終わった方から休む。それで自然に決めればいい」
 押しつけがましさはなく、しかし逃げ道を塞ぐようなやわらかな声だった。
「お茶の片付けは僕がしておきますから、先にどうぞ」
 そう促され、私は苦笑しながらうなずいた。洗面所で歯を磨き、顔を洗ってからリビングに戻る。タオルで水気を拭きながらソファへ向かい、クッションに腰を下ろした。
 ――あくまで私は「ここで寝るつもり」だった。
 膝にブランケットをかけ、背中をもたれに預けると、じんわりと温かさが広がっていく。数分だけのつもりが、だんだんとまぶたが重くなり、耳に心地よい雨のリズムが響いて、視界がふっと暗くなった――

 ☾

 やがて戻ってきたリーは、静まり返ったリビングで眠るエリックを見つけ、わずかに眉を和らげる。
……やはり、ソファでは落ち着かないでしょう」
 声をかけても反応はない。リーはそっとエリックを抱き上げた。
 浮遊感を感じてか、エリックの眉がわずかに動いた。
……まだ、起きてます……
 寝ぼけた声でそう呟き、指先がリーの服をぎゅっと掴む。言葉とは裏腹に、まぶたは閉じたまま、吐息は穏やかに落ち着いていた。
「ええ、起きてないですね」
 小さく笑みを落とし、肩越しに視線を流す。窓の外では、豪雨の勢いを失った雨粒が、街灯の光に砕けて濡れた舗道にやわらかくにじんでいた。リーはそのままベッドまでエリックを運び、ブランケットをかける。掴まれたままの手を振り解けず、諦めたように自分も腰を下ろした。

 窓越しの雨音が、室内に静かなリズムを刻む。ブランケットをそっと整えながら、リーはエリックの顔へ視線を落とした。額にかかった髪を指先で払い、そのわずかな感触の違いに気づく。記憶にあるより少し、痩せただろうか――そう思うと、自然に眦が緩んだ。

……僕の指揮官……。また、やっと逢えた」

 声は、眠る相手に届くか届かないかの微かなものだった。リーはゆっくりと掴まれたままの手を取り、甲へそっと唇を寄せる。
――おやすみなさい。どうか良い夢を」
 言葉は囁きに溶け、窓の向こうの雨音に紛れながら、静かな夜へと沈んでいった。

 ☾

 ふと、微かな寝返りの気配に目を覚ました。カーテン越しの街灯が、淡く溶けた琥珀色の光を横顔に落とし、その輪郭をひときわ際立たせている。
 そこには、静かな寝息を立てるリーがいた。呼吸は深くも浅くもなく、心地よい一定のリズムを刻んでいる。長い睫毛の影が頬にかかり、整った横顔を柔らかに灯りが撫でていた。微かに揺れる金の髪が薄闇の中でほのかに光を帯び、息づくたびに穏やかに波打っている。
 まるで夜の静寂の中に、小さな陽だまりが宿っているようだった。瞼の奥にまで染み込むような安らぎが、胸の内を静かに満たしていく。触れればほどけてしまいそうなその造形から、視線を離すことができなかった。
 ぼんやりとした視界の奥で――私はきっと、この人を知っている。そう思った。
 懐かしさや安心感だけではない、もっと深く胸を締め付ける感覚があった。届かなかった想いの名残。失われた時間の向こうから漂い出たかすかな欠片が、胸の奥をそっとかすめていく。

「リーさん……あなたは、誰ですか」

 小さく呟くと、瞼が重くなる。静かな雨音に溶けるように、意識はゆるやかに眠りの底へと沈んでいった。


 ☾


 瞼の裏に淡い光が差し込み、私はゆるく目を開けた。耳に届くのは、もうほとんど消えかけた雨の音と、外からかすかに聞こえる車の走行音。――隣にあったはずの温もりは、もうない。

……夢?」
 寝返りを打って視線を向けた先に、リーの姿はなかった。けれど、ここは見慣れない天井と、整然とした家具に囲まれた寝室。白いカーテンの向こうで、朝の光が柔らかく揺れている。
 現実感がゆっくりと戻ってくるにつれ、昨夜の断片が頭をよぎった。ソファで眠ってしまったこと。抱き上げられる感覚。寝ぼけながら掴んだ袖口の感触――その余韻が、胸の奥に説明のつかない熱がじんわりと残っていた。

 そっとベッドから抜け出し、廊下を抜けて音のする方へ足を運ぶ。キッチンから漂う香ばしい匂いに、胸の奥が緩んだ。そこには、見慣れた背中があった。
 音に気づいたのか、リーが振り返る。
……おはようございます。よく眠れましたか?」
 まだ寝ぼけ気味の頭でこくりと頷くと、テーブルの上には彩りの良いサラダ、ヨーグルト、湯気の立つミネストローネ。そして、リーの手元のフライパンでは、黄色いオムレツが形を整えられていく途中だった。
……すごい。ご馳走ですね」
「簡単なものばかりですよ。さあ、顔を洗ってきてください」
 にこりと笑うその顔に、一瞬見惚れ、慌てて洗面所に向かう。席に戻ると、リーはオムレツを丁寧に皿に移し、こちらに差し出した。
「熱いうちにどうぞ」
 フォークを入れると、ふわりと湯気が立ちのぼる。口に含めば、優しい塩味と具材の甘味が広がった。
……うん、とても美味しいです」
 相変わらず何の捻りもない、あまりに素朴過ぎる感想に、リーはわずかに口元を緩めた。
「それはよかった」

 しばらく穏やかな食事が続いた。フォークが皿に触れる小さな音と、カップから立ちのぼる湯気が、静かな部屋に柔らかく溶けていく。
「本当は朝一番に帰るつもりだったのに……朝食までお世話になってしまって」
「いえ、僕も朝食はしっかり食べる派なので、ついでです」
 陶器が軽く触れ合う音がして、短い沈黙がやさしく場を満たした。食事を終えかけた頃、リーの視線がふと窓の外へ向かう。白いカーテン越しに差す朝の光が、雨上がりの地面を淡く輝かせていた。

「昨日の豪雨が嘘のようですね。……僕の出勤時間まで少し余裕があります。もし宜しかったら、このあと少し歩きませんか。近くに美味しいパン屋があるんです」
 静かな誘いに、私は二つ返事で頷いた。
「いいですね。……でも、これ以上美味しいもの尽くしでは本当に太ってしまいそうです」
「その分、歩けば帳消しになります」
 リーの真顔に私は堪え切れず、小さく吹き出す。
「じゃあ、たくさん歩きましょう」
 笑みを交わしながらカップを置いた。
「案内はお任せします」
「ええ、もちろん」

 ☾

 ――この時の私は、まだ何も知らなかった。この「案内」が、必ずしも目的地へと真っ直ぐ導くものではないことを。けれど、不思議と不安はなかった。迷い道でさえ、きっと楽しい――そう思わせるだけの何かが、このリーという青年にはあった。

 窓の外では、雨粒を乗せた街路樹がやわらかく揺れている。雲間から差す光が路面に淡い虹色を映し、昨日の嵐が遠い出来事のように感じられた。

 今日という日に、静かに感謝する。
 私は席を立ち、カップを片手に彼の背を見つめる。窓辺に佇むその横顔は、朝の陽射しにやさしく包まれていた。
 その向こうに見えるのは、青く澄んだ空――

 ――この空の下で、彼と一緒に歩いてみたい。そう、強く心に思った。




 Fin.