もち粉
2025-08-13 23:17:25
7116文字
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影よ光に染めあがれ

カブミス
情緒回復しなかった系ミスさん

「『千の偽証を積み重ねれば、やがては影も光に染め上がる』と申します」
 ―――アロー『偽証の王国』第二幕より

 ***

レース越しに差し込む午後のやわらかな光が、寝台に横たわる老いた男の輪郭をあいまいに浮かび上がらせる。
まるで彼の命が世界に溶けていくようだった。

私は静かに椅子に腰掛けて、死にゆく男をじっと見つめている。

かつて黒々としなやかで、指に絡めるとぴょんと逃げた巻き毛は、今は指の間からすり抜けるように落ちた。みずみずしかった褐色の肌は乾き、痩せた手は力なく布の上に置かれている。

近頃は寝ている時間の方が長くなった。呼吸は浅く不規則で、起きていてもぼんやりと宙を見つめているばかりだ。
二百年を超える時を生きてきた私だが、思えば怪我や毒によるものではなく、寿命によってこの世に暇を告げる人間を間近で看取るのは初めてだった。

残された時間を惜しむかのように、この一週間私は夜も昼も片時もそばを離れていない。食事も喉を通らないことにして、心配した見舞客や使用人に促されたときのみ少量を口にした。彼を愛する伴侶ならばそうなるだろうという想定にしたがって。

数日のうちに男は息を引き取るだろう
間もなくこの茶番も終わる。誰も疑うことなく、偽証が真実へと染まりゆく。

男は私を愛していた。
自らの未熟さと愚かさ故に迷宮の主に身を落とし、たったひとつ残った欲も叶わずに、屍のように転がっていた私の手を取りこの世界に引き戻した。

男の腕を布団の中に戻してふと気づくと、男がうっすらと目を開けていた。かつては海の色とも空の色とも例えられ、多くの人から称賛を受けたその青い瞳がさまよい、やがてゆっくりと私を捉える。今は霧の湖の水底のような色だった。
男が本当は自分の目の色をあまり好きではなかったことを知っている。
それでも私は、その青い瞳に浮かぶ愛をよすがにここまで生きてきたのだった。

焦点の定まらない目でなんとか私を捉えると、今しがた布団にしまってやった手を震えながらこちらに延ばす。私はその手を己の両手で包み込み、やさしく声をかけてやった。

「ミスルンさん」
思いの外しっかりとした声が私を呼ぶ。最近は何事か喋ろうとしては噎せて咳き込んでばかりいたので、きちんと声を聞くのは久しぶりだった。
「ミスルンさん、顔をよく見せて」私は身を乗り出して顔を見せてやる。男は私の頬をその骨と皮ばかりになった手で撫でる。熱い手だった。熱が出ているのかもしれない。

「あなたは出会った時からちっとも変わらない」
「そんなことはない。私も歳を取った」

四百年を生きるエルフにとっても、四十有余年は短い月日ではない。

「そうですね、ずっと綺麗になった」

意識が混濁しているのかもしれない。髪に白いものが混じり始めたあたりから、私のことを年下のように扱うようになっていたのに、今は出会ったばかりの若い頃のように私に対して敬語を使う。

「ねぇ、ミスルンさん」
かつてのように呼びかけながら、四十年間変わらない優しい手つきで髪を撫でる。
「俺が死んだら、自由になっていいですよ」

――心臓が、凍りついたかと思った。

 ***

「愛してます」
「うん」

カブルーはキラキラと光る青い瞳で熱心に私を見つめて告げてくる。
若木のようにしなやかで、美しいカブルー。彼にこんな風に見つめられて愛を囁かれて、心をときめかせ頬を染めない娘はいないだろう。

対して私の心は、さざなみ一つ立ちはしなかった。

カブルーは私の反応を観察するようにじっと見ていたが、やがてかすかなため息をついて淋しげに笑った。

……すまない」 
「いいんですよ。ゆっくりやって行きましょう。いずれ貴方の心が誰かを求めるまでに回復した時に、それが俺なら嬉しいです」

悪魔が世界から消滅して以降、私はゆっくりと回復していった。一つずつ小さな欲を取り戻し、今では人の手を借りずとも大抵のことはできるようになった。
ここまで来るには多くの者に支えてもらった。実家の兄を始めとし、カナリア隊のかっての部下たち、メリニの市井の人々。そしてカブルー――彼の存在は特に大きかった。

彼はとても献身的だった。
迷宮の中、成り行きで六日間を共にすごしただけだというのに、その後も私に何くれとなく世話を焼く。
自分でうまく知覚できない私の身体の状態を私よりも理解し、感情が整理できない私の話を根気よく聞き必要な箇所を拾い上げる。
最初は生来面倒見がよく、世話好きなのかと思っていた。しかしどうやら、本来の彼はどちらかというと世話を焼かれる側であるらしい。
あるいは空っぽになった私の手を取って、私をこちら側へと引き戻したことに責任を感じているのかとも思い、気にする必要はないからお前の時間はお前の為に使えと言ったこともある。

彼は短命種なので、こんな厄介な長命種の世話を焼いていないで、短い人生を精一杯生きるべきだった。

だがカブルーは、自分がやりたくてやっている。他の誰にも私の世話を譲りたくない、私を愛しているという。
しかし性愛方面の私の欲は、回復することも新たに芽生えることもついぞなかった。

カブルーは諦めなかった。
折に触れて私に愛を伝えてくる。星の降る夜に、収穫祭の喧騒の裏側で、あるいはなんでもない朝に。いつも変わらぬまなざしで。

私はそんなカブルーに応えられない自分を歯がゆく思い、せめてこんな身体でよければ好きにしてくれと何度も差し出したが、そんなことをしなくていい、こうしているだけで充分だと抱きしめる以上の事をしてこない。
しかし彼も若く健康な男だ。時には寝台を抜け出し、一人そっと処理をしていることには気づいていた。
けれどどうしてやることもできはしない。私にできるのは眠ったふりをすることだけだった。

 ***

「観劇?」
「ええ、あくまで雑談ですけど、もっと国庫に余裕ができたら、いずれはメリニにも王立劇場とか欲しいってマルシルが話してて。でも俺考えてみたらお祭りの仮設舞台みたいのでしか劇って見たことがないんですよね。
来週カーカブルードで会議があるんで、ついでに一回ちゃんとした劇場でやる演劇を観てこようと思って」
「そうか」
「エルフの都は、結構劇場多いですよね。ミスルンさんも行ったことありますか? ミルシリルはあんまりそういうの好きじゃないみたいで、そういえば連れて行ってもらったことなかったです」
「若い時は劇場通いもしていたものだ。劇場は社交の場でもあるからな。ミルシリルは来ないだろう」
「それでですね、ボックス席が取れたんですよ。個人的に手配したから向こうの関係者との挨拶なんかもなしです。カーカブルードなら日帰り出来ますし、一緒に行きませんか?」
デートですよと片目をつぶるカブルーに了承の返事をしながら、私はかっての想い人の姿を思い出していた。

カーカブルードの大劇場は馬蹄形だった。舞台正面側のボックス席に通されたカブルーは、え? あっちのボックス席とか完全に舞台に対して横向きですよね。見えるんですか? と目を丸くしている。
「ボックス席は男女の出会いの場や密会にも使われる」
「劇なんて見てないじゃないですか」
「そんなものだ」
「劇場通いもしてたんでしたっけ?」
……開演するぞ」

演目は大作家アローの『偽証の王国』だった。
「千の偽証を積み重ねれば、やがては影も光に染め上がる」というセリフばかりが有名だが、あまり上演されないのでどんな話かは意外と知られておらず、主人公のセリフだと思われていることが多い。だが実際には役名もない端役の侍女のセリフである。

舞台の上で、死んだ王子に成り代わった平民が貴族の約束事も知らず、その場しのぎの嘘と偽証で切り抜けていくが、なぜか全てが上手く行き、周囲の支持を得てゆく。無知な平民と勝手に良いように誤解していく周囲とのコミカルな場面だ。

舞台の盛り上がりとはうらはらに、私の心は沈んでいった。
薄暗いボックス席で、かつて通ったエルフの都の劇場を思い出す。
舞台の上で明るいスポットライトを浴びた、教養も人徳も何もない偽王子に周囲は騙され、彼こそが王に相応しいと支持をする。
嘘で塗り固めて称賛を得る主人公の姿が、かつての内心の醜さを隠して「完璧な青年」を演じた卑小な自分に重なった――


舞台は二幕に進み、一人真実に気付いた正義の宰相が、偽王子の嘘を暴こうと奮闘する様子が描かれる。いまやすっかり偽王子の信奉者となった周囲は宰相の言葉を妄言と取り合わない。

夜の城のバルコニーで宰相が、侍女ひとりを伴いゴブレットを傾けている。

「今宵の月は格別に美しく輝いている。しかし、その光は自らのものではない。太陽の恩恵を受け、借り受けた光だというのにまるで己が王であるかのような顔をして夜空に君臨している」

「『千の偽証を積み重ねれば、やがては影も光に染め上がる』と申します。月が自ら輝くと、民は信じておりますれば」

スルスハ、駆け出しの女優だった彼女の初めてのセリフだった。
瞬間ライトが眩しくて、視界がぐんにゃりと歪んだ。舞台の上では宰相と侍女の掛け合いが続いているが、その声が遠くなり近くなる。

「嗚呼、愚かなる国民よ、偽りの王子に心酔し、その欺瞞に身を委ね、甘美なる夢を見続ける。だがいずれ夜が明ければ、月の輝きは消え去り、ただの暗き石へと成り果てる」


頭の中が冷たく引き絞られるようで、息がうまくできない。

「ミスルンさん?」
隣のカブルーが私の様子に気づいて小声で心配そうに呼んでくる。

「虚飾の王子、必ずやお前の偽証を、穢れた素性を、真実を、白日のもとに曝してやろう!
たとえこの身が狂気の徒と嘲られようとも!」
舞台の上で宰相役の役者が声を張り上げ、はったと客席をにらみ据える。その役者の青い瞳と目が合ったように感じた瞬間、私は意識を手放した。

「ミスルンさん!」
遠くでカブルーの声が、小さく聞こえる。


私が劇場の救護室で目覚めた時、カブルーは私のそばについていた。
「ずっとここにいたのか? 舞台をきちんと観るのは初めてだったんだろう?」
「いいんですよ、舞台なんかより貴方の方が大切です。体調が悪かったのに遠出させてしまってすみません。もう帰りましょう、続きはまた観る機会もあるでしょう」

帰りの馬車の中、せっかくわざわざカーカブルードまで来たのに、最後まで観なくて本当によかったのかと気にする私を気遣ってか、カブルーはことさら楽しげに話しかけて来た。

「途中までしか見れなかったけど、劇場の雰囲気は分かりましたしお芝居も面白かったですよ! 『千の偽証を積み重ねれば――』って有名なセリフですけど、このお芝居が出典だったんですね。もっと決めゼリフっぽいのかと思っていたら、意外とさらっと出てきて驚きました。
政治の勉強をしてるとこの言葉時々出てくるんです。情報をうまく撒けば、世論の誘導は可能だという意味だと思ってたけど、元の劇だとどっちかというと『その光は偽証を集めて出来ている』そしてその光を信じる者がいるって意味合いですね」

「そうだな。たとえ実態がただの暗い石の塊だろうと、表面を飾れば光って見える。だがしょせん偽証で築いた光など、本物に敵うことはない。太陽の光に晒されれば、ただの影だ」

カブルーは青い瞳でじっと私を見つめた。彼はいつもこんな風に私を理解しようと深く観察するかのように見つめてくる。

「ミスルンさん、昔の自分の事言ってますか?」


本当に聡い男だ。


……うーん、俺、思うんですけどね」
カブルーはためらうように言葉をえらんだ。
「ミスルンさん昔の自分のこと、上辺ばっかり取り繕った嫌なやつだったみたいに時々言うじゃないですか」
「事実その通りだった」
「いやでもね、その内面誰にも見せてないんでしょう? 表で優等生の顔をして、裏で誰かを虐げていたとかいうわけじゃなかったんでしょう?」
「そんなことはしていない」

それは「完璧な青年」に相応しい行動ではなかったから。

「それならあなたは、本当に『完璧な青年』でしたよ」
――?」
思わず息が詰まる。

「偽証にだって努力があったでしょう。本当は影なのに、努力によって光になったなら――その偽証こそが美しいと、俺は思います」

カブルーの手が私の手を包む。暖かい手だった。
目の奥が痛いほどに熱い。

影が、光を装い続けることに――意味があると?結局は光になりきることも出来ず、兄への劣等感と対抗心によって生まれた偽りの恋により、悪魔に付け込まれた愚かな私だが、偽証のかたまりに過ぎなかった過去の私を、彼は「美しい」と言ってくれた。

……そうか」
思わず顔をそらした。涙が胸の奥底からわきあがり視界を揺らす。いつも側にいる昔の自分の姿が見えない。まるで彼の手の熱で溶けてしまったようだった。

長い時を経て、私はようやく過去の自分が許されたように感じた。



その日から私は、カブルーを愛する演技を始めた。

「愛してます」
いつものカブルーの言葉に、今日はほんの少し返事を遅らせる。かすかに目をそらし、頬を赤らめてみせる。
……うん」

カブルーが帰ってしまう時、ついと袖を引いてみせる。カブルーが振り返ってその手を認めたら、パッと手を離し、自分でも不思議そうな顔をする。

カブルーを見つけたらどんなに遠くても目で追う。目が合えば驚いたように視線を逸らす。もっともこれはカブルーの方が私ばかり見ているのであまりうまくいかなかった。

徐々に徐々に、情緒が芽生えていくように見せかけていく。

やがて春のやわらかな夕暮れの光が消えゆき、花明かりが灯り始める中で私から愛を告げ、カブルーはその時初めて唇へのキスをくれた。


時は過ぎ、私たちは伴侶の契りを交わし、みなの前で終生変わらぬ愛を誓い合った。
それこそが偽証であったが、私はカブルーの良き伴侶として考えられる行動はなんでもやった。
昔の私は、あの日以降姿を見せなくなってしまったから、自分で考えて偽証の城をひとつひとつ積み上げていった。

そしてエルフにとっても少なからぬ時が過ぎ、今カブルーはこの世から去ろうとしている。

 ***

「四十年以上も俺に付き合わせてしまってごめんなさい。でも貴方とともに生きられて、俺の人生は幸せでした」

かつての輝きを失いつつあるその瞳が、それでも愛おしそうに私を見つめ、優しく髪を撫でながらカブルーの口から紡がれる言葉を私は信じらない思いで聞いていた。突如地面が崩れて、あの迷宮の深淵に落ちていくようだった。

呆けた私の頭を床の中から肩に抱き寄せる。

「俺が居なくなれば、貴方は自由だ」

顔の見えぬまま聞いたその言葉に、何かがゆっくりと背筋を這い登る。毒が染み込むようなその感覚に、思わず頭を起こして顔を見やる。
カブルーはほんの僅かに微笑んでいた。宰相時代、会心の一手を差した時のように。

「でもごめんなさい、あとちょっとだけ俺のものでいて」
肩に添えられたカブルーの手は、決して離れたくないと縋りつくようだった。

力尽きたようにまた眠りについたカブルーは、そのまま目覚めず、明け方に息を引き取った。


葬列の鐘が鳴る。メリニ国二代目宰相の葬儀は国葬となり、葬儀の全ては王宮の祭典部が取り仕切ってくれたので私は、ただ茫然自失しているだけでよかった。
傍目には、配偶者の死に打ちひしがれているように見えたことだろう。

だが私の頭に渦巻いていたのは、カブルーに私の浅はかな演技が見抜かれていたという衝撃だった。
ああカブルー、ではお前は私に愛されてはいないことを知りながら逝ったのか。私の偽証を知りながら、懸命にお前を愛するふりをする私を、哀れに思って騙されたふりをしていてくれたのか。
お前を淋しい国へひとりいかせてしまった。すまない。すまない。お前が私にくれるものに、返してやりたかっただけなんだ。
私の偽証を赦してくれたお前に、お前が私に求めてくれるものを返してやりたかっただけなんだ。最期にあんなことを言わせる気なんてなかった。すまない。
お前は私に自由になれと言った。ならば私は私の自由にしよう。

この演技を始めるきっかけとなった、あの観劇の日を思い出す。
途中で出てきてしまったから、お前はあの芝居の続きを知らないだろう?

あのバルコニーの場面の最後、侍女は去りゆく宰相の背中に投げかける。
「されど宰相さま、真実とはかようの月よりも美しいものでしょうか――?」
青い目の役者が演じた正義の宰相は、衆人環視の中で偽王子の正体を暴くが、すでに世間は偽証の繰り返しによってできた「真実」に染まっており、誰も耳を貸さない。彼は狂人として捕らえられる。

王子は宰相を処刑し、王位を手にいれる。以降王子を騙った平民は、自分が生まれつきの王族であったかのように自分でも思い込み振る舞い出す。

王国は偽りの王のもとに統治され、繁栄し、そこに真実を知るものは誰もいない。そんな結末だ。


宰相により私の偽証は暴かれた。だが宰相は死んだ。真実を知るものはもういない。私は私の残りの一生を掛けて、偽証を貫き通そう。私のお前への愛は真実となる。


私は、愛を知るのだ。