落ちていく。
剥き出しの心は重力に逆らうことなく、周りのすべてを振り切るように。
神様は、もしかしたら左利きだったのかもしれない。
人は理解できないものを恐ろしく思い、必死に理由を求めては名前をつけたがる。まるでそのときばかりは子供のように何故どうしてと、自らが求める答えばかりを急かす。
なぜなのか。どうしてなのか。気付けなかったのか。わからなかったのか。わかっているのか。なぜ。どうして、止まることができなかったのか。
そんなことは治とて知るわけもなく、知っていたところでどうにかなったのかと言われれば怪しい。無論、正面から問われてしまえば、否定することは難しく、それでも治はそんなものに応えてやるほど考えなしの子供ではとうになくなっていた。
へらりと面の皮一枚。貼り付けることは造作もない。何せ生業は接客業。それで飯を食わねばならず、嫌でも処世術くらいは必要に迫られ身についていく。心のない言葉を向けられようと、根も葉もない嫌味を投げられようと、応戦せずにいなして決して土俵に上がってなどやらない。上がる価値もないからだ。
男同士。
兄弟。
血のつながった家族。
遺伝子まで同じ双子。
なのにどうして。
人生でちらほらと接点ができた何人かの女と関係を持ち、治がそれらを維持しようとすれば、直球でなくとも似たような意味合いのセリフを吐かれたことは何度かあった。
なんで、わたしより宮くんと一緒に帰るの。
なんで、わたしと遊ぶよりも侑くんと遊ぶの。
なんで、わたしよりも兄弟とご飯を食べるの。
なんで、わたしとではなく彼と試験勉強をするの。
なんで、わたしよりも侑くんの食事や健康を気にするの。
なんで、わたしの家の鍵は持ち歩かないのに、双子の兄弟の合鍵は大事そうにキーケースにつけているの。
なんで、わたしといるのに侑さんの話ばかりするの。
なんで。なんで。なんで。
おかしい。なんで、わたしが一番じゃないの。
おかしい。
あなたが、双子の兄弟を誰より一番に置くのは、オカシイ──
何人かの人間にそれぞれを言われたが、治は一度も否定しなかった。
それもそうだと素直に思うからだったが、すると否定しないことが一番彼女らの逆鱗に触れるようで、そこまでいくと関係の維持に気力を割くことはなかなかに難しかった。
治とて暇ではない。限られた時間をどのように差配するかなど、自分に委ねられるべきで、けれど一番でないというが一番でないことの何がそんなに気に食わないのか、まるで理解できないと切り捨てるほど人でなしのつもりはなかった。
治くんのカノジョは、誰?
そう問われて『お前や』と治がいくら答えても、彼女たちは少しも納得しなかった。
関係を続けたり、続けなかったりを繰り返しながら、治は何人目かで自分にとって〝彼女〟というものの定義がおかしかったのだと気づく。
なにせ治は、この世の女の中で一番気を割いてやる女が〝彼女〟だと考えていた。だがこの世の女の中で一番だったところで、この世で誰より身も心も厭わずに自分の心臓のように欠かすことができない〝人間は〟と言われれば、そんなものはたったひとりだ。
それは不動で、治の世界の理であり、根幹に近しく、いっそそのものですらあったかもしれない。その根を揺るがすことなど彼女らには到底できるわけもなく、結果、彼女たちと治は最初から最後まで平行線を辿り、一度として交わらずにあちらから離脱していった。
当たり前だ。
侑と誰かを、並べられるわけがない。
踏みしめる場所が違うのなら、比べようもない。
ああ、なんて図々しい女ども。
反吐が出る。
綺麗なコンクリートの上を歩くお前たちに、泥濘に両足を突き刺した自分たちの、一体何が分かるというのか。
などとは吐き捨てず、当たり前に喉の奥に飲み込み、へらりと上っ面を貼り付けた治は「お前は悪くない。俺があかんねや」と最後には優しく悲しそうに謝る。すると大抵の女たちは言葉の刃を向けるのをやめて、離れていった。おりこうさんな女たち。無論、中には〝そうではない〟女が紛れることもあったが、残念ながら治はそういう星の下に生まれた。恵まれた造形。恵まれた体格。恵まれた才。そして遺伝子が同じである侑にも同じことが言えた。
「侑さん、なんやまた噂になってますね」
治が営む店でアルバイトとして働く男子学生が、閉店後の後片付けの最中に徐ろに話題に出す。
彼はややミーハーなところがあり、タブロイド気質だ。そうした話題に疎くはないが(それが片割れのことであっても)アンテナが高くない治より、よほど彼の方が情報の知得が早く、侑が世間を騒がせていると、決まって治が知るより先に教えてくれた。
上がっていた水道のハンドルを下げると、水飛沫がアルミシンクを叩く音が止んで、治は腰に巻きつけた前掛けで両手の水気を丁寧に取る。夜になると気温はいくばかに落ち着くが、それでも冷房を入れなくていい程ではない。
最近は一日中、冷房の効いた店内にいると体感が狂いそうになるのに、ひと度火を使えば汗ばむのだから夏はままならないが、冬と違い手が荒れないことだけは助かる。
最後に洗って水気を取った調理器具は、治が所定の場所にしまい、男子学生も似たタイミングで治が頼んでいた仕込みを終えた。それから奥の洗面台で丁寧に両手を洗って、明日店に出されるだろう下ごしらえ済みの材料が入った容器を業務用冷蔵庫にしまってくれる。
「今回はけっこうCMとかにも出てるフリーのアナウンサーなんですけど。この人です。ほら、インスタで侑さんとのこと匂わせてるとか言われて、燃えてますよ」
男子学生はキッチンの奥にあるスペースに置いてある荷物から自分のスマートフォンを持ってくると、自身のアカウントでSNSを治に見せてくれる。覗くと、確かに最近よくメディアで見かける女性の写真がアイコンになっているアカウントが、男との写真をアップしていた。
男の顔は絶妙に見切れているものの、治には鼻から舌の輪郭、口の形、首の太さや、着ているもので、すぐにそれが自分の双子の片割れだと治は特定できる。そしてそれは治だけでなく、長年応援しているファンも同じに違いない。
「あいつはまた、なにを燃やされとんねん」
「侑さんがSNSでこの日の服装わかる写真、あげとるんですよ。その写真、BJのチームメイトさんも写ってるんですけど、アナウンサーの方のはふたりっきりで腕くんるみたいに見える写真なんです。店長は今回もなんも聞いてないんですか?」
「おん。なーんも」
「したら、また勝手に女の方が匂わしとるんですかね。侑さんの気ぃ引きたいとか?」
「ははっ。相変わらず脇甘いよなぁ、アイツも」
「でも侑さん、悪くないですって。なんやいつも相手が一方的に盛り上がって、勝手にやっとることばっかやないですか」
「まぁ、な」
男子学生はスマートフォンで時刻を見るなりハッとした様子を見せる。彼を自宅近くまで運んでくれるバスは本数が少なく、逃したくないことも治は承知していた。もう仕込みはやってくれとるし上がりや、と促せば「掃除とかまだ出来てないとこあるのに、すんません」と深々と頭を下げると、礼儀正しくテキパキと身支度をして裏口から店を出て行った。掃除を残しているといっても、あとはテーブルを拭いたりゴミをまとめるだけだ。よく働いてくれる、少し軽いところはあるが根は真面目な学生。専門学校を出ても、しばらく続けたいと話してくれている。そんな善良な青年には、とても真実すべてなど──いや、真実の欠片とて言えやしなかった。
「おい、放火魔。邪魔すんで」
治が自身のキーケースから取り出した鍵は、自身のアパートのものではなかった。同じキーケースにぶら下がる、ディンプルキー。不動産会社から手渡された二本しかないその鍵の一本を、親ではなく治に渡してきた男のマンションに向かう治の足に躊躇いはなかった。
翌日の出勤が夕方からだということを差し引いても、今日は自宅以外に向かう場所などないはずだったが、それでも治は今夜このマンションに来なければならなかった。そうでもしなければ気が収まらない。そしてこのマンションに住む男は、こうして治の気を煽るようなボヤを定期的に起こす。
それでもただのボヤだからなのか、特にマンションの周辺に不審な人間の影はなく(ただし、いてもいなくても治は堂々と)エントランスを通り、エレベーターに乗って高層階へと登った。フロアの一番奥。少し動くだけで張り付くような湿気に首を汗ばませ、角部屋のドアをインターホンも鳴らさず解錠して押し入る。治の予想通り、そこには待っていましたとばかりに家主が玄関に立っていた。
開口一番「放火魔」と罵る治に、罵られた侑は満点だとでも言いたげに、目を細め、軽やかにフッフと笑んだ。
「なんやサム、今日は来んのちゃうかったん」
「どの面さげて。来ると思って待っとったくせして」
「そんなん上手いこといく思てへんて。サムが来んかったら俺が行くだけやしー」
「よお言うわ」
片割れは肯定もしなかったが、否定もしなかった。
それがまた小憎たらしくて、治はこれみよがしに嘆息してからドアに鍵をかける。
カチャリ。玄関に音が響いて、スニーカーを脱いだその途端。侑の大きな手が伸びてきて、治の身体を捉えた。
「あ
……」
溢した治の息はすぐに侑の口に飲み込まれた。
腰を抱きこまれ、もう片方の侑の手は、治の頸をくすぐりながらあっという間に黒髪の後頭部を固定する。こうなってしまうと、治はもう注がれる口づけから逃れられない。侑相手に、いまさら逃げも隠れもしないけれど。
(ここまできて、──逃げ場なんて、どこにも)
唇と唇が、互いにねっとりと挟みあいながら目まぐるしく角度を変えていく。何度も何度も、盛り上がっていく衝動のまま重ねれば、ふたりしてあっという間に芯を火照らせる。荒くなった息が甘く響いて。それが鼓膜をやらしく揺らせば、脳は条件反射でどろりと溶け出すのだ。
その手を侑の背筋に回して体重を委ねれば、侑は隙を見逃さないとばかりに太腿を治の足の間に入れ込むと、ぐりぐりと押し上げた。
股間を押されるたびに「あっ」と間抜けな声も押し出され舌を見せれば、待っていたとばかりに侑は目尻を下げる。そして、人より少し長い舌をぬるりと治の唇を割ってねじ込んだ。
始まるのは、まるで下半身のピストンのような蹂躙。性器の抜き差しを意図的に揶揄して、侑が自分の口内を荒らしていることは治も理解している。片割れの自分が相手になると、輪をかけてデリカシーを無くす男。けれど治はこういうときの侑を拒む方法を、もうすっかり忘れてしまった。
わざと湿った音を立てて。ぐちゃぐちゃと互いの唾液を混ぜ合わせて。口を縦に開けて重ね合い、飲み込ませて、飲み込ませられて。口端から溢した辺りで、侑は名残惜しそうに治の唇をちろりと撫でて、それからコンッと額を付け合わせる。自分が間抜けな顔をしている自覚のある治がすぐ俯こうとするけれど、額の接点だけでくいっと上を向かせた侑は、フッフと機嫌よく鼻と鼻の先端を擦り合わせる。
玄関のアンバーの灯りを反射する金茶の瞳に、自分だけが映るのを見つけて、治もまた鈍く瞳をきらめかせ歪めれば、侑はやはり配慮なく「準備は?」と囁いた。
「まだや」
「手伝おか?」
「ノンデリ野郎は、大人しくベッドで待っとけ」
「はぁーい」
高校生になってから店を構えてから少し経つ頃までは、治には途切れずに特定の相手がいた。来るものを拒まなかった。そしてそれは片割れである侑が先に始めたことでもあった。
責任転嫁するつもりもなければ、張り合うつもりでもない。
だが高校に入り、侑が最初の彼女を作った。それは〝そういうことなのだ〟と。侑が言わんとすることを、真正面から言われるまでもなく治は理解した。理解した、つもりでいた。自分たちの異質を異質と認め、そこから巣立ちたい。距離を取りたい。最初からそんな異質は存在しなかったことにしたい。人でなしの片割れは、珍しく真っ当な選択をしたのだと。
そう解釈したタイミングと、気づかないうちに己の中に生まれていた異質な感情を認知したタイミングは、ほぼ同時だった。
おかしくないように。
ダメだと言われないように。
自分たちは正しく双子の兄弟でいよう。
片割れがそう決めた。選んだ。それならばと。
侑から提示された答えに、それまで夏の淀んだ空気のようだった頭の中が、冬の晴れた日の空みたいにすっきりとしたのを、治はよく覚えている。
同時に澄み切った頭とは裏腹に、心の底に仄暗い泥々としたものがずしり横たわる感覚を覚えた治は、それこそが、自分を普通ではないナニカにしていたのだと気づいた。
侑が自分と明確に線を引き、その手はもう二度とこの手と繋がることはない。そう突きつけられたことで、ただの双子で、ただの兄弟である侑に向けていた恐ろしいモノの輪郭に、治はついに触れてしまったのだった。
恐ろしくて、治は意図的に目を逸らした。逸らし続けた。それが己の心を守る唯一と信じて。そのためなら心を偽造し、相手を選ばず、拒まず。誰かしらには隣にいてもらい、機会に恵まれればその身体を抱かせてもらうこともあった。侑が一人暮らしをしている年上の女の家に泊まってくると言えば、自分も「今日は親、おらんよ?」などと軽卒に誘ってくる女の自宅の敷居を、部活で流した汗もそのままに平気で跨いだ。
これでいい。自分たちは、これでいい。
このままずっと、誰にも何も言われないように。
言わせたりなんかしないように。
そうすれば、誰も自分たちを不用意に引き裂こうなんてことはしない。
少なくとも治は、ある時まではそう思っていた。
「な? ぴっかぴかの無罪やったろ?」
侑の寝室に置かれたベッドは、侑がいくら男性の平均身長を上回っていることを差し引いても男一人には過剰で、明らかに誰かと寝ることを想定している広さがあった。
リネンは肌触りよく、手入れもベッドメイクも丁寧にしてあるのは、なにも世間で噂されている件の女が入り込んでいるということもなく、他でもない侑自身によるものだった。もし仮にこのベッドに他の人間の手がひとつでも入れば、きっと治はすぐに気づいてしまうだろう。願わくばそんな場面に出くわしませんようにと祈るばかりだが、無論そんなことを胸の内で祈っていると侑に知られたら何をされるかわかったものではない。
喘ぎすぎてまだ整わない呼吸のままの治は、「散々抱かれて、咥え込んで確かめたんやから、俺がよそ見なんて一瞥もしてないことくらいわかったよな?」と笑う片割れに「たりめぇじゃチンカス」と罵倒したが、一度とろりと身も世もなく愉悦に溶かされてしまった身体では、まったく声に凄みをつけれない。
夜明け前と朝の、薄暗い狭間。
真っ裸でオフホワイトのシーツに転がる、いかつい身体付きをした男がふたりだけ。
冷房は冷えすぎるからと、除湿だけで動くエアコン。それでも裸で丁度いいくらい、じどりとした夏の夜の気温。淫らな跡が残るこのベッドの上には、柔らかい女の身体はひとつもなく。
「どこが無罪やねん、確信犯」
「あ。SNSの放火のほう?」
「自分で言うなや」
「フッフ、あれもなぁ。ふたりきりになんて一瞬もなっとらんのに、ちょーっとばかし腕組んでくるの好きなようにさせたら、勝手に舞い上がってよぉ踊ってくれたわ」
してくれた、と表現しているそれは、周到な計算のもとの誘導であることを意味した。そしてこうした目測を、侑は決して誤らない。正確な軌道を描き、どうぞとトスをあげて、打たせる。わかりやすい脇を緩めて、火種をわざとチラつかせてやれば、火の粉は面白いほどきっちりと〝必要な程度だけ〟降りかかる。
そうやって侑は、ぞっとするほど鮮やかな技巧で、さも「女との噂が絶えない」印象を世間に刷り込んでいく。自身は結果として潔白の身を維持して。片割れながら、とんでもない男だと思う。
だが思いこそすれ、それだけだ。
治にとってその善悪はどうでもいいことだったし、それよりもこの印象操作を利用して人の執着度合いをいちいち確かめてくることの方が余程言いたいことがあった。が、それらすべてをわかっていて、こうして侑の巣にやってきてしまう自分もまた同じ穴の狢ならぬ、同じ穴の狐だという自覚はある。苦味を潰すことしかできない。それがまた。
「ほんま癪に障る
……」
「そんなとろぉーんとしたツラと声で、えらい物騒やなぁ」
言いながら、汗で額に引っ付いた治の前髪をすくいあげてくる侑は、自分たちの出した白濁と汗とが肌にこびりつかせたまま身体を寄せてくると、治の耳元にキスを落とした。
ちゅ、と湿った音はやけに耳に響いて、そのまま薄い皮膚をちろりと舐められようものなら、まだ余韻が抜けない身体は、簡単に肌を粟立てる。
「言うたやろ? サムが来てくれへんかったら、俺が押しかけてたって。そんで、こうして確かめてたわ。お前、俺だけやんな?って」
耳に吹き込まれる息は湿っていて、生温くて、治の肚はすぐ侑を欲しがって痺れ出す。
この間には誰も入れてやるものかと、憤りながら焦がれて。
「俺は、
……お前と俺を引き裂こうとするもん全部黙らせるためなら、なんぼでも嘘ついて、思わせぶりして、お前以外のぜんぶを騙したる」
おかしいだなんて、誰にも言わせない。
文句なんか言わせない。
女がいるような素振りをして。
女と遊んでいるようなフリをして。
お前以外の目のすべてを欺いてみせる。だから。
「だからサムも俺と一緒に、みんなのこと、──裏切り続けてな?」
恐ろしい囁きに、でも治は怯えも憤りもしなかった。ただ、ようやく鎮まりかけていた下半身をまたどろりと蕩かし、そこからぞくぞくと愉悦が脊髄を這い上がっていく感覚に、治はうっとりと酔いしれる。
そして治の金灰色の瞳が、真夜中と朝の狭間の空明かりを瞬かせ揺れていたのに、また真夜中へと逆戻りする瞬間を、侑は見逃したりなどしない。
背格好がまったく同じとはいかなくなった逞しい身体が、治の上にのしかかる。降ろされる眼には、また男の衝動が鈍く灯っていて、治もまたそれを見逃すことなく焦らすように股を開いた。
焦らされた侑は、堪え性もなくすぐ治の膝を両手で押さえつけると、限界まで開かせてからその身体をあいだに割り込ませる。すっかり熱を取り戻した侑が、窄みにその先端をつければ、治の身体は待っていたとばかりに露骨にヒクついた。
男のくせに男の先端を貫かれるそこに添えられて興奮してしまう羞恥心よりも、これから与えられる熱への期待が、治の心と身体を支配していた。
治が「あつむ」と呼べば、侑は「おさむ」と応えて、楔は内側をめくり上げるように進む。
声にならない吐息を溢し、喉仏を反りもだえる治は、次には侑の熱で容赦なく揺すぶり回されることを思うと、乱れる動悸を止められなかった。
店を構えてしばらくして、治は恋人というものを作らなくなった。
なぜなら、偽造しなければ露呈するかもしれないと恐れる程だった劣情を、よりにもよって向けていた侑の手によって哀れにも暴かれたからだった。
その頃、侑はすでにプロのバレーボール選手として、そして日の丸を背負うアスリートとして世間からそれなりに認知されていた。本人もSNSを適度に動かし、本業への妨げにならないことを絶対としているため、逆に支障がなければメディアへの露出を断らなかった。
結果、その容姿と活躍が相まって、そのうちSNSで特定の相手がいる、いないという噂が勝手に流れだし、さらに同じ時期にインタビューか何かの仕事で同席した他の競技者の女性とツーショットを切り取られ、心のない拡散をされた。
その一部始終を、有名税とまでは言わないが多かれ少なかれあるのだろうと治は思っていたし、さほど驚きもしなかった。強いて言うなら、双子の片割れである自分にも、大なり小なりそうした騒ぎの火の粉くらいは降りかかるだろうから、適当にあしらえるようにイメージトレーニングでもしておくかとか、その程度の感想で。
「いつかツムも、ほんまに結婚したい人ができて、入籍しました!とか言って。ニュースになるんやろなぁ」
ふたりで閉店後のおにぎり宮の二階で晩酌しながら、そんなようなことを治が話をしたら、気付けば畳の上に押し倒されていた。
俺に結婚したい奴が、いつかできるなんて。お前はそんなことを、本気で思ってたのかと。
まるで肉食獣が喉を鳴らすように唸り、急に治のことを突き飛ばして、馬乗りになった。
それでも侑が先に、選んだから。
お前が、ただの双子の兄弟で、家族でいることを選んだから。
俺はただそれを尊重してやっただけだというのに。
思春期に無理やり蓋をし、奥底でなお燻ったまま、それでもどうにか墓まで抱えて行こうとしていたのは、他でもない侑がそれを望み、選んだと思ったからだ。
だのに、お前は。
憤りは軽く沸点を越え(そもそも治も沸点はそこまで高くないこともあり)、高校を卒業して以来の真剣な殴り合いになった。侑がプロのスポーツ選手となってからはどんなに腹が立っても上げながった拳を、治はこのときばかりは振り下ろすことを留まれず、侑も侑で酷い煽り様で、むしろそうして殴り合いまですることで治の本心を引き出す魂胆だった。
そんな侑の周到な意図に治が気がついたのは、殴り合いながらこれまで我慢に我慢を重ねていた侑への、許されない感情を洗いざらい吐き出したことで、侑が。
『周りにおかしいって言われんの怖がってたのはサムやんか。せやから俺は、
……怖がらせんようせな、治がどっか行ってまうと思った。
……なのに、そんなん嫌や。そんなん言うな』
と治の激情に自分の激情を叩きつけて、ぶつけて、まるで殴り合うみたいに激しく治を抱いた。強引に人の感情を剥き出しにさせ、本音を引きずり出した上で身体を開き、楔でひと思いに貫いたのだ。
周りを欺き、世間を偽れば、そばにいれると思った。
引き裂かれないと思った。
外野の声なんて自分にはどうでもよかったけれど。
それでお前が離れていくなら、どこまでも偽り、欺いてやろうと思った。
一晩の間に、治の内側を何度も蹂躙しながら、侑は喉から絞り出すように白状した。治が少し焦るほど、迷子の子供のような顔をして。
そんな片割れに「離れていかないで」「そばにいて」「他の奴との未来なんて祝福しないで」「割り込ませないで」「しぬまで諦めないで」「そのためにならなんだってするから」などと、まるで祈りのように囁かれ続けてしまえば、治もまた自分の気持ちを無理に押し込め、閉じ込めておくことはできなかった。
同じことを考えていたのだ。
世界も侑も欺けば、それで自分たちはずっと一緒にいられると思っていた。
けれど欺くためのゴールが治と侑とでは、僅かに異なっていた。その僅かな誤差の存在は、ふたりの思惑を無意味なものにする。
治は、侑が誰かひとりと添い遂げると決めて家族になっても、それでも世の中から引き裂かれるよりはマシだと考えていた。
侑は、他人に自分たちが引き裂かれることも許したくなければ、他人のものになることも許さなかった。
いつだって侑の方がほんの少しだけ欲張りで、傲慢で、勝ち気で、貪欲だった。
(そっからずっと、こんなふうに。とても人には話せんから、隠して。かくしつづけて。そんなわけありませんってツラして。ほら、この前もツムが女とウワサになってたやんかって、誤魔化すためにちょっとボヤ起こして。でもわかってるくせにオモロなくて。そんでコイツは俺がちゃんとオモロくなくて不機嫌かどうか、確かめて──)
朝が始まろうとしているのに、あまりに自分の身体が真夜中を引きずって、簡単に侑を受け入れて咥え込むから。そこまでするつもりはなかっただろう侑も結局、奥の奥まで捩じ込んで、普段は入ってこないだろうところまで入ってきた。
奥のさらに奥に入り込まれるのは初めてではないけれど、頻繁でもない。ひさしぶりに自分が自分でなくなるような恐ろしい感覚に、無意識に腰を引いて足掻いたけれど、そんなものは侑の支配欲をただ満たすだけだった。
そうやって、ひとしきりふたりで燥げば、流石に夜が明ける。
まだカーテンの隙間から差し込む日差しは低いけれど、気温が上がりだして慌てて除湿から冷房に切り替えたのは侑だ。なにせ治は指一本とて動かす気力が残っていなかった。
くたりと蕩ける。くしゃくしゃのシーツの上で、自分の輪郭を見失ったまま。それがまた気持ちよくて。
「なぁ、ツム」
「なんや、サム」
冷たくて心地良い風が、部屋の中をすぐに回って、ふたりの肌を冷やしていく。いつの間にか下着だけ身に着けた侑は、ベッドからずり落ちていたタオルケットを拾うと、溶けている治を包んで「どうした?」と首を傾げた。
カーテンが閉められて薄暗く涼しいこの部屋は、すっかり明るく暑い外の世界からは隔絶されたかのようで。
侑の匂いがするタオルケットに身を包んで丸まった治は、今この瞬間だけは侑が自分のすべてかのように思えたし、そんなことを一瞬でも思う自分が恐ろしいとも思った。
「
……こんなん、おかしい」
「
……」
「男のくせに、ツムのこと他の女にやりたないって思うのは、おかしい。俺が本気で手ぇ離したったらええだけや。ツムかて女が嫌いとちゃうのに」
「サム」
「俺らの間にはなんも生まれんねん。なんも。でもな、それだけなら誰もおかしいって責めたりなんかせえへん。みんながおかしいって、おぞましいもん見るように言うとしたらそれは、
……俺がお前の片割れやからや。
……なんでなん。好きでふたりで生まれてきたわけちゃうのに。ふたりにしたのは俺らちゃうのに、なんでふたりでおったらあかんねん。そのまま、ふたりでおりたいだけやのに。なぁ、なにがあかんのやろ。なにがそんなに
……」
独り言のように、ぽつりぽつりと溢していく言葉を、侑は無理に遮りも割り込みもせず、黙っ耳を傾けていた。
止めもせず。何言うてんねんと怒りもせず。静謐さを纏う侑は、ベッドで丸まる治がいきなり吐き出したものが、いきなりでもなんでもないことを理解していた。理解できてしまえるからこそ、柄にもなく黙って最後まで耳を傾けていた。ええよ、ぜんぶ言うて?と促すように、治の黒髪を上げながら額を撫でる。
せつないほど、やわらかい侑の手。
この男は、いつからこんなふうに撫でられるようになったのだろうと、目頭の辺りに熱を感じて治は瞼を閉じる。
ああ。でも。こんなふうに誰かを慈しむように撫でる手にしたのは、他の誰でもない自分だと。今だけは、思いたかった。
「ツム」
「うん
……?」
「フリだけに、しててな」
一歩でも踏み外せば、世の中から弾かれてしまう俺たちだけど。
それでも自分以外の誰かに、本気になったりしないで。どうか。
治が漏らせば、言い終わらないうちにまた口を塞がれた。うっとりと一度、二度、三度と角度をつけて挟みあって、唇の皮と皮を馴染ませる。気持ちよさそうに治が鼻を鳴らすと、侑はちゅうっと音を立てて離れて、ふにゃりとした治をタオルで包んだまま起き上がらせると、シーツの上に胡座をかいた自らの上に座らせ抱え込む。まるで小さな子供をあやすみたいに。
欺き続けなければ、ふたりきりでなんかいられない。
擬態の手を緩めた途端、あちらこちらから他の手が伸びてきて、自分たちを容赦なく引き裂くだろう。
けれど、もしこれまでは嘘だったことが、本当になってしまったら?
いつか本当に女のほうがいいと言い出されたら?
侑の計算され尽くされた偽りとわかっていて。治もその偽りを望んでいて。それでも、火の粉が降りかかる度に、沸々と胃を締め付けられるような切なさが生まれる。
覆水は盆にかえらない。
こぼれだした感情は、もうしまいこむことができない。
制御なんてできていない。
本当は、侑に女の影など見たくない。
生き物として正しく侑と番える、倫理に正しく侑と番える、ただそれだけの優位にさえ、治は嫉妬する自分を偽れない。
散々啼かされた、女の高くまろやかなものとは程遠い声で、自分の肚にたったいま吐精した男に願う。願いと呪いは紙一重かもしれないと思いながら。
愛しくて、いとしくて。でも自分から少しでも離れようとしたら、きっと治は世界ごと侑を呪うだろう。治と侑は半身だ。我慢ならないこともまた瓜二つに決まっていた。そうなると誤差はどこまで許容できるかの話であって、しかも今はもう我慢をするなと、無理やり蓋を開けられてしまっている。他でもない、他の誰にも譲ってやれない世界にたったひとりの片割れの手によって。
「サムがどんなにそっちのがええって頭ではわかってんのに、そんでも選ばれへんのやったら、俺かて選べるわけないやんか。なあ、サム。俺はな。誰に何言われようが、石投げられようが、なんぼ罵倒されようが、そんなんどうでもええねん。そんなことより俺は、お前がふわふわせんようにすんので忙しい。油断してると、なんやぐらぐらしてて、そんでも俺のこと離せないもんやから、迷子みたいに泣きそうなツラするし」
「
……やかましい。誰もそんなツラしてへんわ」
「俺が捕まえて離せないたったひとりが、俺のこと誰にもやりたくないて駄々こねて、迷子にならんように必死こいて手ぇ伸ばしてくれてんねん。
……俺は、それでええ」
治の身体を抱き込んで座り、侑は頬と頬を擦り寄せてどろりと囁く。
(そんなん嘘や。お前は、バレーがあれば生きていけるのに)
音には出さない。何故ならそれは治も同じことで、そっくりそのままブーメランとなり返ってくる。
本当は、互いを一番になどできない。
そういう性分で生まれた。
なのに己の半身に余所見をされることもまたどうしたって許せず、こうして火の粉を散らして世間をざわつかせるたびに、ごっこ遊びのような幼稚な手段で互いに確かめる。
よそ見してないよなと。
お前は俺のもので、俺はお前のものだと。
その魂に刻みつける。
たとえ、刻みすぎてその魂が傷だらけになっていたとしても。どうせ傷つき苦しむのなら、お前とがいい。
「サム」
「なんや、ツム」
「あいしてる」
家族で、兄弟で、遺伝子まで一緒の双子。
おかしいと言われる。
間違いと言われる。
それでも男同士で、血が濃くなる間違いなど起こりようもないのなら、もはや自分と片割れ以外の声など不要だと、俺たちは傷だらけになりながら恩着せがましい雑音は切り捨てて、生きていく。
「
……っ、なんでいま、そんなん言うん
……」
「
……サムは?」
泣きたくなるほど優しい声が、治の世界を今この瞬間だけを切り取るように閉じていく。
閉じられないとわかっているのに。まやかしだとわかっているのに。
なんて残酷な囁き。なんて残酷な拘束。
回された腕には力が込められて身じろぎもできないけれど、治はこの腕の中だけで傷つきたかったから丁度よかった。
苦しいほど抱きしめられて、こんなにもうれしい。
首筋を唇で撫でられて、傷だらけのままでも治の芯は火照っていく。
おちていく。
おちていく。
神様は、きっと左利きだろうけれど。
過ちで、罪で、罰だ。
罵られて。非難されて。拒絶されて。
誰にも理解されることはなく。
ああ、それでも自分たちはまったく構わなかった。
許されようなんて、思わない。
なぜなら許しを得るためには、引き裂かれなければならなくて。
それならいっそ、許されないままでよかった。
許されないままが、よかった。
邪魔などさせない。
余所見もさせない。
決して、誰の声も届かないように。
たとえ左利きの神様が、自分たちを許さなくても。
おちていく。
ふたりぼっちは、外の世界の愛情も同情も嫌悪も博愛も哀れみも、すべてから逃れるように落ちていく。
どこまでも。これまでも。これからも。
周りのすべてを、欺いて。
「ツム。おれも──
……あいしてる」
すべての人を、裏切って。