景生
3323文字
Public CP無し
 

こどもたち

※堂島家


 襖にぽっかりと大きく空いた穴を覗き込みながら、菜々子は冷や汗を流していた。——おかしい、何度見ても穴が空いている。一度身を引いて、目を逸らしてみても、振り返ればそこには破れた穴があった。
 夢であれば良いと願って目を瞑る。恐る恐る瞼を開くが、やはり無情な現実があるばかりで、無論、祈りの先にある都合の良い神々の手助けなど、一つも降りてこなかった。
 菜々子は穴から離れると、手に持っていた箒を忌々しそうに見つめた。そして点けっぱなしのテレビからジュネスのテーマソングが聞こえると、怒りの矛先はそこに向いた。
 そうだ、こんなものが流れるから私は踊ってしまい、持っていた箒で襖の紙を破ってしまったのだと、八つ当たりの念が彼女の幼い顔に浮かんだ。エブリデイ、ヤングライフ、ジュネス。軽快で暢気な女性の歌声が嫌でも耳に入ってくる。こちとらそんな悠長な時間を過ごせる場合じゃないのだと、一体誰のせいでこんなことになっているのだと、無神経なテレビの様子に菜々子は怒った。だが、怒ったところで何かが変わるわけではない。穴は開いたままだ。この時ばかりは大好きなジュネスが嫌いになりそうだった。
 外では父親が車を洗っている。もう二時間も経つので、そろそろ戻ってもいい頃合いだ。父親が戻る前に、この穴が見つかる前にどうにかしなければならない。
 菜々子は急いで階段を駆け上がると、二階にある従兄の部屋へこっそりと侵入し、折り紙の束を盗んで戻ってきた。なぜかは分からないが、彼が夜もすがら折り鶴を作っていたのを彼女は知っていたので、咄嗟に思い浮かんだのだ。
 テーブルに置いて広げ、白い折り紙の用紙を一枚取る。一緒に持ってきた液体のりを縁に塗ると、その面を裏にして、慎重に襖に宛てがった。
 そろそろと後ろへ下がる。菜々子は襖を眺めた。
 液体のりがじんわりと折り紙に広がって、妙な染みが浮かび上がっている。色も異なり、襖の材質と組み合わないそれは、明らかにそこだけ目立っていた。
 失敗だ。紛うことなき失敗だった。どうしてやる前に気付けなかったのかと、菜々子は追々後悔する。正方形に縁取られた異質な箇所から目を逸らすように、やるせなさに頭を抱えて唸った。
「どうした、菜々子」
 突然聞こえた声に菜々子はびくりと肩を上げた。いつの間にか、父親の堂島が洗車を終えて帰ってきていた。菜々子は恐る恐る振り向くと、声にならない声で、口をぱくぱくさせながら、何と言おうか混乱していた。
 父親が朝のニュースを見て点けっぱなしだったテレビのせいにしようか、壊れたままいつまでも新調しない掃除機のせいにしようか、そんな他責の逃避が喉元まで迫り上がる。
 けれど父親の真っ直ぐな瞳に見つめられて、菜々子は口元を強く噤んだ。情けないような、浅ましい言い訳の濁流が次第に落ち着きを取り戻してくる。自分が何と愚かしい言葉を口にしようとしたのか、彼女は子供ながらに理解したのだ。怒りと焦りは消えたが、やがて菜々子は自責の念に酷く落ち込んだ。
「お父さん、ごめんなさい」
 
 堂島は最初、娘が何を謝っているのか理解出来なかった。しかし背後の襖の、歪な修復跡が目に入って、なんだ、そういうことかと納得した。
 涙を浮かべながら萎縮する娘の頭を、堂島は撫でた。
「懐かしいな。菜々子が今よりも、もっと小さかった頃。この襖はぼろぼろだったんだ」
 菜々子は突然始まった話に、不思議そうに顔を上げた。それはきっと怒りを露わにするでもなく、悲しむのでもなく、ただ穏やかに微笑む父親の姿があったからだろう。
 堂島は彼女に昔話を始めた。まだ菜々子が一歳になって間もない、ようやくつかまり立ちを始めた小さな頃。菜々子はよくこの襖に悪戯をしていたそうだ。自分が床を這いずり回れるだけでなく、二本の足で立てるという事実が余程衝撃だったのか、幼い彼女は涎だらけの手で襖の紙を湿らせながら、奇声を上げて、歓喜にはしゃぎ回っていたという。
「家事をしていたお前のお母さんに、なぜちゃんと見ていなかったのかと、よく怒られていたよ」
 少し目を離した隙に、気が付けば襖を破壊していたと、堂島は笑う。何度貼り替えても湿った手でよれてしまい破られるので、菜々子がもう少し落ち着く歳になるまで、しばらく襖は壊れたままだったそうだ。
「あの頃のお前は、お父さんとお母さんに怒られても泣くどころか、小さい歯を見せて高笑いしててな。反省の色なんてちっともなかった」
 まあ、赤ん坊だったのだから、しょうがないな、と思い出しながらまたくすくす笑えば、菜々子は恥ずかしくなったのか、俯きがちに口を尖らせた。そんな彼女に堂島がまた頭を優しく撫でれば、菜々子はどんな表情をしたら良いのか分からないといったような仕草で、ぎこちない態度でその手を受け入れるように、照れた姿を見られまいとして、不器用に、必死にそれを隠してみせた。
……それが今じゃ、自分で直そうと努力したり、素直にごめんなさいと謝ることが出来るんだ」
 堂島は娘の顔をもう一度見ると、誇らしげな眼差しを向けた。
「大きくなったな、菜々子」
 昔の襖の傷は、もっと下にあった。撫でている頭はあの頃よりもずっと高い。あの一人じゃ何も出来なかった赤ん坊が、ただ目の前のものを壊すだけだった怪獣のような子が、今は箒を握り締めて父親の代わりに部屋を掃除している。この立派な姿を母親に見せることができたら、どれほど良いだろうか。どれほど喜んでくれるだろうか。彼女はこれからも、目を見張る成長をしていくのだろう。父親の瞳に刻まれるのは、愛しい年月の積み重ねだった。
……菜々子、今日は一緒に襖を貼り替えるか」
 そう言うと、菜々子は目を輝かせた。
「お父さん、ジュネス行こう、ジュネス!」

 それから後日の話である。
 夕食の後片付けをしていた鳴上が、とあるだらしのない、飲んだくれの若い刑事の寝転がった足に転けてしまい——派手に襖にぶつかった。大きな音を立てて盛大に倒れたので、堂島が血相を変えて慌てて駆け寄った。
「怪我は無いか、悠」
「ご、ごめんなさい、叔父さん」
 鳴上は菜々子と堂島が襖を直したばかりだと知っていたのだろう。彼は自分の身体よりも、襖を破壊してしまったことに対して、おろおろと、申し訳なさそうに謝罪した。
 そんなことよりも、と堂島は鳴上の無事を確認する。様子を見るに、大事には至らなかったようである。ほっと胸を撫で下ろすと、鳴上の手を引いて彼を立たせてやった。そうすると再びごめんなさいと謝られるので、怪我が無いなら何よりだ、気にするなと堂島は返事をした。それでもまだ鳴上は済まなそうで、その動揺に青白くなった顔が、一瞬、つい最近の光景と重なった。あまりにもあの時の菜々子と瓜二つの顔をするものだから、堂島はつい笑みが溢れた。
 首を傾げる鳴上を背に、堂島は居間で眠りこける自分の部下に近寄る。次の瞬間、勢いよく拳を振り下ろした。
「こんな邪魔なとこで寝てんじゃねえ、足立!」
 痛い、と足立が飛び起きる。その衝撃で彼の酔いは一瞬にして覚めたようだが、勿論、今の状況を把握出来ていないので、足立はただただ驚いた表情を見せていた。
 堂島の目の前には素っ頓狂な顔。子供のように幼げな目付きでこちらを見る足立に、堂島はついでに喰らえと言わんばかりに二発目の鉄拳を打ち込んでやった。そうすれば再び足立の悲鳴が、部屋中に響き渡った。
 彼は激痛に頭を押さえ、涙ながらに「僕が何したって言うんですか」と嘆いている。
 言い訳がましい彼の様子に堂島は一喝した。
「お前が一番年上だろうが、しっかりしろ!」
「いや、だから何の話ですか、もう!」
 この家には育ち盛りの子供が三人もいる。
 守るべき者が増えた堂島には手に余る財産だが、その並々ならぬ疲労は、どこかやり甲斐のような、居心地の良いものに包まれるような、懐かしいような——穏やかで、誰かが自分達を見て微笑むような、不思議な気配があった。
 襖の修復は、まだまだこれからも続くのだろう。