長い黒髪に丁寧にドライヤーを当ててゆく。本当はもっと良いドライヤーを使いたいのだが、安いビジネスホテルに備え付けられているものなど、その性能はたかが知れている。荷物になるので持ち歩くのもおかしな話で……と考えたところで唐突に景光は顔をしかめた。
「そもそもお前が買って持ち歩くべきなんじゃないのか」
ブラシでしっとりと濡れた黒髪を丁寧に解し、根元からドライヤーの温風を当てながら呟くと、その長髪の持ち主は一人掛けのソファで嫌味なほどに長い脚を組み新聞を広げながら顔を上げてグリーンアイズで景光を見た。
「何か言ったか?」
ドライヤーの音でよく聞こえなかったのだろう。聞き返して来た美丈夫……ライに対して今度は少し声のボリュームを上げて文句を言った。
「お前が、もっと良いドライヤーを買って持ち歩けば乾きも早いのに!」
安いドライヤーは音も煩い。それでも景光は彼の癖のない黒髪を傷めないよう丁寧にブラシで梳かしながら温風を当ててゆく。安っぽいシャンプーの香りがして、今だけは彼の体に染みついた煙草の匂いがしてこない。こんなシャンプーも似合わないな、と思った。
「ドライヤーなんて何を使っても一緒だろう」
グリーンアイズは景光に対する興味を失って再び新聞の紙面に落とされる。予想通りの答えに景光は苦笑し、大げさに肩をすくめた。
「ライ、お前自分で自分の髪乾かしたこと無いのかよ」
ここまで長く綺麗に伸ばしておいて、彼自身はそれを保つ気が殆ど感じられない。きっとホテルやセーフハウスに連れ込んだ女がいつも甲斐甲斐しく世話をしてくれるから保たれているのだろうなと思うとため息も出て来るというものだ。
「せっかくこんなに綺麗なんだからさあ」
ドライヤーの温風を当て続け、ブラシで根気強く絡まないように梳き続けているうちに指通りが滑らかになってきた。毛先に向かい、ドライヤーを当てる角度を変えてゆく。
「今はお前がやってくれるだろう、スコッチ」
当然、といった調子で背後に視線も寄越さないライは本当にふてぶてしい。
同じスナイパーと言うポジションでツーマンセルを組むことが最近は増えた。なんとなく、キャンティにはコルンといったようにセット扱いされ始めているような気がする。景光としては同じ時期にネームドとなったライと親交を深められる機会が与えられたことは、組織の情報を得るのに好都合だった。眼光鋭く、一見孤独を好むようなこの美しい男が意外と会話の出来る相手であるということも、人を寄せ付けないのではなく単に徹底的にマイペースなのだということを知れたのも収穫だと思っている。
ライのスナイパーとしての腕前は組織内で飛びぬけている。組織内どころか、きっと世界の名だたるスナイパーの中でも抜きん出ていると言っていい。その瞳の色や話し方、スキンシップの取り方を見る限り日系のミックスであることは明らかで、狙撃技術は軍仕込みなのではないかと景光は推測していた。
「お前が構わないからだよ。ここまで綺麗に伸ばしてるんだから、もったいない」
あらかた乾いたところでドライヤーを冷風に切り替える。ブラシに絡まないよう丁寧に梳きながら冷風を当てると、彼の黒い髪は艶を増してゆくようだった。
「男の髪に対して、レディのように扱うんだな君は」
わずかな揶揄を込めた低い声だった。兄とはまた違った意味で色気のある男の声だと思う。こんな揶揄いの言葉に〝スコッチ〟ならどう応えるだろうかと考える。
「男も女も関係ないさ、綺麗なものは丁重に扱わないと」
誰にでも分け隔てなく接する、少し軽薄で人当たりの良い男。男くさく、少しやんちゃ。景光の作り上げた〝スコッチ〟というキャラクターは友人の萩原と松田を少しだけモデルにしている。一から架空の人間を創造するよりもモデルがいた方が自分にとっては演じやすかったからだ。こんな時彼らならどう考え、どう答えるか。そんなふうに想像することですっかり会えなくなってしまった彼らとの細い糸のような繋がりを感じていたかったのかもしれない。
そういう裏社会には似合わないような男が、目に闇を湛えてスナイパーライフルを手にすれば〝ヤバい奴〟だと思われやすい。この組織の中ではそう思われていた方が動きやすかった。
「ホー、随分と博愛主義だ」
「はは、なるほど博愛主義か」
「それとも、自分の手で美しく整えてから壊すのが好きなのか」
「おいおい、俺を勝手にサイコパスにしないで欲しいな」
いつの間にか、彼とこうして軽口を叩き合えるようになっている。そして、〝スコッチ〟を組織のスナイパーであると知りながら背中を向けて髪に触れさせるようになった。きっかけは恐らく、ひと月ほど前にバーボンも含めたスリーマンセルでの任務の移動中に駅でライのきょうだいらしき子どもと出会ってしまってからだろう。ライ自身は組織の人間に身内を知られてしまったことに相当な焦りがあったとは思うが、切符を買って来るからとその子どもを任せてくれたのは、なんだか信頼されているようで嬉しかったのだ。
可愛い弟だな、と言ったらかなり微妙な表情を浮かべながら妹だと訂正されて謝ったりはしたものの、それ以降ライは景光に対し少し警戒心を解いてくれるようになっていた。
ドライヤーの冷風を毛先までしっかりあててブラシで丁寧に梳いていけば、引っ掛かりのない指通りの滑らかな美しい黒髪が整えられた。景光は一仕事終えた達成感に、ドライヤーの電源を落として何度もライの長い髪に指を通す。するすると流れる感触が心地いい。
「なあ、やっぱり良いドライヤーを買わないか? 乾かすまでに三十分以上かかったんだけど」
風量のあるそこそこ値段のするドライヤーであれば、乾かす時間が短縮されると同時に熱にあてられる時間が短くなる分髪の傷みも減るだろう。ここまで綺麗に整えた髪が、雑な管理で傷むのは何となく面白く無い。
ようやく景光を振り返ったライは、フッと空気の抜けるような笑みを浮かべてそのグリーンアイズを向けてくる。手にしていたドライヤーもブラシも奪われ、狭いビジネスホテルの室内であっという間に距離を詰められると胸を押されるがままにセミダブルのベッドに押し倒された。二人分の体重を受け、ベッドがギシリと悲鳴を上げる。
「俺、お前のスイッチがわかんないんだけど」
間近に迫るグリーンの瞳。そういえば、昔まだ長野にいた頃に博識な兄が言っていたことを思い出した。グリーンの瞳は、肉食獣の瞳の色だと。
丁寧に乾かしたばかりの黒髪が、景光の顔の横にさらさらと乾いた音を立てて落ちる。まるでカーテンみたいだ、と思った。黒い髪のカーテンで、外界から遮断されたような感覚。獰猛な目つきのわりにやけに丁寧な唇を甘んじて受けながら、彼のしなやかな背中に腕を回す。さらり、と触れた髪がやはり心地いい。
口腔をたっぷりと味わわれる。彼の舌はいつだって煙草の味がして苦い。組織に入る際に煙草を吸うようになったが、ヘビースモーカーでは無い景光の唇をライはいつだって甘いと揶揄った。
はくり、と酸素を求めるように喘ぎながらカーテンのように落ちる長い髪を掬い取り、ライの形の良い耳にかけてやる。視界が開け、室内の明かりで男の顔がよく見えるようになった。観察するように見下ろすグリーンアイズは、熱が燻っているのか、それとも冷静に冷え冷えとしているのか、景光には底が知れなくて分からない。ただ、なんとなく、悪い男ではないような気がしていた。
これは、ただの願望だろう。この男が自分と同じであれば良いのにという、そんな願望。そんなものを抱けばいつかきっと命取りになる。だから、今はただ考えず演じ切ることに集中しなければいけない。
「……うん、綺麗にしたものを自分で乱すのも、悪くないかも」
軽薄な言葉に、軽薄な笑み。せっかく整えた彼の髪をくしゃりと握り、顔を引き寄せて唇を強請る。仕事の時間までまだ余裕があるけれど、彼の髪を乾かすまでの三十分は計算に入れておかないといけないなと、再び黒いカーテンに囲われながら景光は思った。
了
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