史加
2025-08-12 22:53:14
2648文字
Public zzz(アキ悠)
 

夜明けは雪解けとひとしく訪れる

アキ悠/事後の話




 世間一般的に夜明けは希望の象徴のように扱われる傾向にある。明けない夜はないという言葉はしばしば絶望のただ中にいるひとのために、光あふれる明日が訪れるようにという祈りを込めて捧げられる。けれどそれは万人を救える便利なものでもない。少なくとも悠真には、夜明けに希望を見出せない日々を過ごした記憶がある。
 年に一度、自分の生まれた日がやってくるのがおそろしかったのと同じように、鬱屈とした気持ちで「明日」を迎えていた頃があった。朝日のまぶしさは喉元に突き付けられたナイフの切っ先の輝きのようであり、葉を濡らす朝露は流し方を忘れた涙のようだった。美しいはずの世界に死の気配ばかりを重ねてしまって、ままならない思いをしたあの日々は、まだ風化する気配も見せぬほど近いところにある。そもそも老い先を思えば、記憶が色褪せる経験なんて巨額のディニーを積んでも手に入れられない財宝に等しい。
 要するに、綺麗事の美しさなど自分には縁遠いものだと、諦めていた頃があった。
……はる、まさ?」
 芯のない声に呼ばれて、悠真は我に返る。薄明るくなり始めた部屋の、ぬくぬくと温かいベッドの中で、重たい瞼をなんとか持ち上げようとしているアキラの顔が見えた。いたずらに頬を撫でたり、唇を指でつついたり、そういったことは我慢していたのに起こしてしまったらしい。
 まだ寝てていいよ、と言おうとして、口を閉ざす。鼓膜のふるえが意識の覚醒を促してしまうおそれがあったからだ。代わりに微笑み、背中に腕を回してとん、とん、と優しく叩く。上手にひとを寝かしつける方法なんてもちろん悠真は知らないので、ただの真似事だ。けれど上手くいったようで、アキラはまたすぐに目を閉じて寝息を立て始めた。
 自分のものよりほんの少し高い体温を感じながら、悠真は少しずつ明るくなっていく部屋の中でアキラの寝顔を見つめる。夜闇の中に沈んでいた輪郭が浮かび上がり、銀色の髪がにぶく光って、唇の色付きが鮮やかになる。息苦しさも胸の痛みもない、優しい朝の訪れはまるで夢のようだ。けれど慣れない下半身の気だるさと鈍痛が紛れもない現実であることを知らしめる。
 夜の帳が静かに溶け、真新しい朝がやってくるこのひとときに安寧と幸福を覚える日が来るなど、悠真は想像もしていなかった。一日、一日と確実に砂時計の中の砂は落ちていき、ひとよりも短い命は終わりへと向かっていっているけれど、今の悠真の目には希望と喜びに満ちあふれた朝が映っている。
 あと何回、なんて無粋なことは考えない。ただはっきりと見えるようになったアキラの無防備な寝顔を目に焼き付ける。
 あの世にディニーは持っていけないけれど、今この瞬間悠真が全身で感じ取った幸福は鮮やかなまま、持っていけるはずだから。



 心臓と肺に病変を抱えていると言っても、対ホロウ六課に所属し斥候役としてホロウを駆け回る悠真は常人に比べると体力がある。時間を問わず緊急出動することも多いからか、意外にも惰眠を貪るタイプではないようで、アキラとリンの家に泊まりに来ても家主たちより早くに目を覚ましていることがほとんどだ。だから一緒に映画を観ているときは肩にもたれかかってきて居眠りなんかをするくせに、悠真の寝顔をきちんと見た記憶はアキラにはなかった。
 身体を交えた翌日でも、だいたい悠真は先に起きている。何事もなかったかのようにようにけろっとしていて、まあ具合を悪くしていないならいいかと、アキラもあんまり気に留めることはしない。腰が痛くって立てないんだよね〜、なんて軽口を言って甘えられたことはあるけれど、それも半分冗談のたわむれだ。アキラはきっと今、この世界に生きている誰よりも悠真に近いところにいるけれど、それでもまだ彼の心の最も奥深くに足を踏み入れるゆるしを得られてはいなかった。
 それは自分の臆病さゆえだと、そう思っていたのだが。
……珍しいな」
 すっかり明るくなった部屋の、心地よいベッドの中で目を覚ましたアキラの第一声だった。
 朝の光を受けてつやつやと輝く濡羽色の髪が、きめ細かく白い頬や目元に影を落としている。ぴったりと寄せ合わされた身体からは、規則正しく上下する胸の動きと穏やかな心音が伝わってくる。すう、すう、と静かな寝息を立てて眠る顔は、普段よりもいっそう幼く見えて、なんだかあどけない。
 明け方に一度、ぼんやりとだが目を覚ました記憶がある。あのとき確か悠真は起きていて、 まだ眠っていていいと言うように背を叩いてくるものだから、眠気に抗えずアキラは目覚めきることのないまま夢の世界へと逆戻りした。だから先に起きたとは言えない状況だ。けれどこうして悠真が二度寝をしているところに出くわすのも、アキラの腕の中で眠っているところをまじまじと見るのも、初めてのことだった。
 じんと胸の奥深くのやわいところが熱くなって、たまらない気持ちになる。踏み込むべきか否かを慎重に見計らってきた日々だったけれど、単にまだ深く暗い夜が明けていなかっただけなのだろう。
 アキラと出会う前の悠真がどんな思いで朝を迎えていたのかなんて、想像することしか出来ない。ただ、少なくとも普通のひとと同じように過ごせていなかったのだろうということだけは察することが出来る。
 限られた時間の中でいつ訪れるかもわからぬ夜明けを待つというのはもどかしく、胸の痛みを伴うものだが、これが誰かひとりを心より愛するということなのだろう。黎明は希望の象徴とされるが、きっと間違いじゃない。誰にだって等しく訪れる朝は、幸福を連れてきてくれる。
 喜びを噛み締めていると、不意に何かが光って見えた。瞼を飾る長い睫毛がしっとりと濡れて、珠のようなしずくがひとつ、眦から流れ落ちていく。
 一瞬、発作かと思ったが、そうではないようだった。ゆるく閉ざされた唇から苦悶の声がこぼれることも、眉間に深いしわが刻まれることもない。穏やかな顔をしたまま、閉ざされたひとみから涙だけが流れている。それは雪解けの水が滴り落ちるようだった。
……悠真」
 ひそめた声で、アキラは愛しい青年の名を紡ぐ。手を伸ばしてそっと涙を拭い、前髪をはらってかたちの良い額に口付けを落とす。
 ――これからは、こんな朝が何度もやってくるのかもしれない。
 だとしたら僕はそのたびに祈ろう。君の迎える明日が、どうか最後まで輝かしいままであるようにと。