史加
2025-08-12 22:52:22
2307文字
Public zzz(アキ悠)
 

侵蝕

アキ悠/夏のふたりの話




 私物の多さが気にならないくらい整然と片付いている部屋に、鮮やかな黄色が一輪、普段は見ることのない色彩をもたらしている。お土産を買いに行くときに通りがかった花屋で売られているのを目にして、何となく買ってしまったのは数日前だったか。手渡すなりアキラは目の前で手際よく水揚げし、それから一輪挿しの花瓶がないことに気付いて、結局普段水を飲むのに使っているグラスを代用していた。あれからわざわざ買いに行ったのか、今はもう生活感のあるグラスではなく、専用の花器に活けられている。
 決して暇ではないはずなのにこまめに水を換え、毎日傷んだ茎を切り、手入れを欠かさずにしているのだろう。花弁は瑞々しく広がり、色褪せていく気配をまだ見せていない。エアコンの直風が当たる位置を避けて置かれた花瓶はたいそう大切にされているのだと、ほんの少し観察しただけでわかってしまう。仕事で洞察力を要求される役回りを任されているのもあってか、周囲のあらゆるものと気配に目がいくのはもう癖のようなものだけれど、今だけは鈍感なほうがよかったな、と胸のあたりを押さえた。
 アキラの部屋は階下と比べると少し室温が高い。けれど来客を迎える店舗スペースは、炎天下の中を歩いてきた客が涼みながらビデオを選べるよう冷房を存分に効かせていて寒いくらいなので、アキラの部屋の温度は長居するのにちょうど良いと言える。心臓と肺に爆弾を抱える身としても、この時期の冷房は気管支に障りやすく気をつけなければならないので、そういった意味でもアキラの部屋は快適だった。
 風下を避けると、自然と花の傍に座ることになる。太陽に焦がれる色をしたそれは綺麗で、悠真の目を楽しませてくれるものだけれど、やっぱり気恥ずかしい。
「待たせたね。アイスコーヒーでよかったかい」
 落ち着かない気分でいると、ようやく部屋の主がやってきた。ふたつのグラスになみなみと注がれているコーヒーの中で、からんと氷が涼しげな音を立てる。
「ありがと〜。ちょうど喉乾いてたんだよね」
 差し出されたそれをありがたく受け取って早速一口飲むと、深煎りの豆のコクのある苦味と香ばしいかおりが広がる。酸味のある浅煎りや中煎りの豆よりも苦味の強い深煎りのほうが悠真の好みで、いつだったか一緒にCOFF CAFEでコーヒーを飲んだときにそう話してから、遊びに来るたびに深煎りのコーヒーが出てくるようになった。最初に遊びに来たときに出されたコーヒーはもっと酸味が強かったのを覚えているし、遊びに来る友人に合わせて飲み物を豊富に揃えているわけでもないことも、知っている。
 喉元を滑り落ちていくコーヒーは冷たいのに、頬はじんわりと熱くなるばかりだった。当たり前のように悠真の隣に座ったアキラが同じようにグラスを傾ける。梅雨の時期くらいまではガムシロップやミルクを垂らしていたのに、今は悠真とおそろいだ。 慣れないで欲しいと思った苦味に、アキラはもう別の意味を添えて、受け入れている。
……アキラくんってさあ」
 口を開いた瞬間に、墓穴を掘ったなと思った。
「僕のことめちゃくちゃ好きだよねぇ」
 なぁんて、と茶化すように付け足したところで、誤魔化せるとも思っていない。
 グラスをテーブルの上に置いたアキラがやわらかく笑う気配がする。
「自覚してくれて嬉しいよ」
 鉢植えだったらきっと根腐れを起こしていただろうから切り花でよかったと、見つめた太陽に灼かれて茹だりそうな頭の中で思った。



 思い出は、なにも特別な形に押し込める必要がないものだと改めてアキラは知った。
 夏といえばバカンス。海水浴に夏祭り、花火。様々な行事が思い浮かぶし、そういった特別な時間をすきなひとと過ごせたら幸せだろうと、凡庸なことを思わない訳でもない。けれど何となく気分で、と渡された一輪の花をなるべく長持ちするよう手入れをする時間が日常に加わったり、前とは違うコーヒー豆を買って挽いたり、ここ数年放ったらかしにしていたエアコンのクリーニングに精を出したり、そういったささやかな思い出のほうが、ずっと尊くていとおしいと思う。
 日常に刻み込まれたささやかな変化がアキラの中で当たり前となることも、そしてその当たり前がまた失われることも、本当はとてつもなく贅沢で、幸せなことなのだと知ってしまった。だってどれも、生きていなければ得ることの出来ないものだからだ。
 すべてが彼の生きた証になる。
 あるいは、自分が彼と生きた証になる。
 その痕跡を自分の人生に残されるよろこびは、噛み締めたらきっと、深く苦い味がするのだろう。ふたりで過ごす時間が長くなって飲み慣れたブラックコーヒーのようだ。もしかするとこれから先、砂糖もガムシロップもミルクも入れていない漆黒の液体を飲むたびに、ちいさくも美しい思い出の数々に目を細めるようになるのかもしれない。
「ねえ」
 未だに鮮やかさを保つ花とともに並ぶ悠真が、おもむろにアキラの指に自分の指を絡めて擦り寄ってくる。その指先はアイスコーヒーの入っていたグラスの結露に濡れていて少しだけ冷たい。
「アキラくんもさ、自覚してよ」
 何の話かと、問うまでもなかった。
 ただもう少し分からせる必要はあるなと思って、絡まる指先を握り返し、じっとこちらを見つめてくる彼の唇にキスをした。
 自覚など言うまでもない。こうして悠真が取り繕うでもなく隣にいて、好き放題アキラに傷を残そうとしている。
 そのくらいゆるしてもらえていると知っているから、アキラだって容赦なく悠真を愛している。