夜鷹純は食事への興味がない。どちらかと言えば食事という行為そのものが苦手である。会食に呼ばれた先で、出された皿に一口も手をつけずに終えたこともあるくらいだ。
そんな純ではあるが、恋人である司が食事をする光景を見るのは好んでいた。
司はドカ食いはしないが、美味しいものや好物を食べると表情に出るタイプだった。瞳がキラキラと輝き、頬が緩み、眦が柔らかくなる。口に出さずとも『美味しい!』と思っていると分かるのだ。
司は徹底的な節制とまでは言わずともある程度バランスを考えた食事を心がけているらしく、所謂嗜好品を口にしている頻度はそう高くない。その司がたまに買ってくるのが、ドーナツだった。一つか二つを買ってきて、もぐもぐと嬉しそうに頬張っている。
今日も今日とて『美味しくて幸せ!』と言いたげなオーラを撒き散らしながら、純から見れば大きく口を開けてドーナツに齧りついていた。
「それ、好きだよね」
純が話しかけてくるとは思っていなかったのか、司が軽く瞠目する。口の中のものを咀嚼し飲み込んでから、手に持っていたドーナツを純に見せるようにしてきた。
「ドーナツのことですか?」
「そう」
「食べ物の好みを聞かれた時にドーナツって答えるくらいには好きですね」
現役時代の純も、食の好みを問われたことがある。その全てを『特にない』で返答していたら、いつしか聞かれなくなったが。
人は会話のきっかけとして食について触れることが珍しくないらしい、と知ったのはいつだっただろうか。生きていく上で必要不可欠な行為だから無難な内容なのだろうな、と理解はしている。食事に興味が抱けない純相手には、どう頑張っても広がらない話題ではあるが。
「何がそんなに好きなの」
「何がって言われると理由は山ほどあるんですけど、そうだなあ……美味しいし、色々な味があって楽しいし、真ん中に穴があるのもユニークで、穴がないタイプもそれはそれで趣があって、シンプルなものには素朴な良さがあるし、限定でキャラの顔とかになってるのも可愛いし、有名パティシエ監修のちょっとお高いものも美味しいし、海外のチョコ感全開のドギツい色したチョコでコーティングされてるのもレアな感じするし」
一を聞いて十を知る、ではなく一を訊ねたら五十くらいが返ってきた。読書が趣味の司の語彙は多い。
よく喋るな、と感心しながら聞いていると、司がふと手に持ったままだったドーナツに視線を向けた。食べている途中だったそれは円の形ではなくちょうど半分くらいの大きさだ。半円を描く形は、弓張り月を思わせる。
「最近見て素敵だなあと思ったのは、ドーナツを半分にすると虹の形になる、って短歌ですね。俺はそんな素敵なものを食べてるんだなあって思うと、余計に好きの度合いが増したといいますか」
「そう」
それだけ褒め倒されれば作った人間も報われるだろうな、と。そう思った。
純が司にドーナツを好きな理由を訊いてから、幾許かの時が流れた。
今や純と司は帰る場所を同じくしていた。所謂同棲というものである。同棲に持ち込むまでは紆余曲折あったけれど、諸々あった結果として今は上手く回っている。
一人で暮らしていた頃には口にすることもなかった「ただいま」も「おかえり」も言い慣れて久しい。むしろ同棲開始したばかりの頃は、司の方が顔を赤くしたり青くしたりで些細な挨拶に対して大袈裟な反応をしていた。そんな司も、今では純に対してごく当たり前に「おかえりなさい」と言うようになっていた。
今までは単なる居住空間兼荷物置き場でしかなかった部屋に対して『我が家』という認識を抱くようになった。
そんなこんなで我が家への帰宅である。純の片手には、珍しく小さな紙袋が握られていた。
「ただいま。……司?」
玄関に靴があったのだからいるはずなのに、いつも聞こえてくる「おかえりなさい」がなかった。不審に思い眉を寄せた純がリビングに向かうと、司が珍しくソファでうたた寝をしていた。
純はソファまで歩み寄ると、司の顔が見える位置に腰を下ろした。伏せられた目の下に、うっすらと隈が出来ている。純は手を伸ばし、指の背でそっと司の隈をなぞった。
ここ最近、司が何やら浮かない顔をしているのは分かっていた。ため息が増えていると指摘した純に、司は苦笑いしてクラブでちょっと、ととだけ言っていた。
言い方から察するに、教え子の指導に関して問題が起きたのではなく、別件で何かあったらしい。ただでさえ教え子に対して全力投球している司だ、それ以外に煩わされるともなれば疲労が溜まるのもやむなしだろう。
純からすれば些末事であるような出来事であっても、司にとっては切り捨てられないことだったりする。考え方も価値観も違うと分かっているから、それ自体に文句を言うつもりはないけれど。
「君が損なわれるのは、腹立たしいな」
「んぅ……ぁ、じゅんさん?」
純の独り言が聞こえたのか、眠っていた司がうっすらと瞼を開けた。ゆっくりと瞬きをしながら純を呼んでくる声は、寝起きのせいかどこか舌足らずで幼く聞こえた。
「うん。ただいま」
「おかえりなさい……えっ今何時ですか?」
「八時回ったとこ」
うたた寝してしまったせいで時間が分からなくなったのだろう、目を丸くした司が慌てて起き上がった。
玄関を開ける前に確認していたおよその時間を告げると、安堵した顔でふにゃりとソファに背を預けている。
「あー、驚いた……」
「今日は早く寝て」
「そうします……」
「それから、これ」
言いながら、司の膝の上に紙袋を置いた。
司は不思議そうな顔で紙袋を見て、あ、と小さく口を開けた。司にとっては見慣れた柄だろうそれは、全国チェーンのドーナツ店の紙袋だった。
「おみやげ」
「これ、俺にですか」
「僕が帰ってくる場所にいるのは、司だけだよね」
「……はい」
純の言葉を聞いた司が、噛み締めるように頷いた。嬉しさと照れが半々ずつある、とでもいったところだろう。
純からすれば魅力のよく分からない、数百円の食べ物。それを司は、まるで唯一無二の宝物でも与えられたかのような表情で恭しく抱えている。
「……ねえ」
「はい?」
「僕一人じゃ一つは食べきれないから、虹の半分の半分だけちょうだい」
紙袋を指し示しながら言えば、司はぱちぱちと数回瞬きをして、それから。くしゃ、と泣き笑いの顔になって純の服の裾を引いてきた。
「あの、純さん、ハグしていいですか」
「いいよ」
頷いた純が腕を僅かに広げてみせると、司がそこに身を寄せてきた。二人ともソファに座ったままの姿勢だったから、ハグというよりもたれかかったに近い体勢ではあったけれど。
背中に回された腕と、頬を押し付けられた肩と。暖かいな、と思いながら間近にある司の髪に唇を寄せた。
「俺が言ったの、覚えててくれたんですね」
「うん」
「そんなに惚れ直させて、俺をどうしたいんですか……」
「年下の恋人を甘やかしたいだけだよ」
「ちょっともう純さんがカッコいいのは十分分かってますから追い討ちかけないでくださいってぇ……」
泣き言めいた口調で訴えながら、純の背中に回された腕の力は緩まない。遠慮のない力加減すら愛しい、なんて。純がそう噛み締めていることを、司はきっと知らないのだろう。
「ああもう……好き」
「うん。僕も好きだから問題ないね」
「だからぁ!」
純さんの破壊力がとどまることを知らなさすぎて怖い、とさめざめ言っている司の背を撫でながら、純は少し笑った。
「はい純さん、半分の半分です」
やがて落ち着いた司がハグを解き、いざドーナツを食べよう、という話になった。
虹を半分の半分にすれば、ほぼ幼児の一口サイズだ。誰かが見れば食べる意味あるのか、と問われそうなサイズのそれを、司は嬉しそうに手渡してくる。
「ん……甘いね」
司と恋人関係になってから純の食生活はほんの僅かだけ変わったものの、口にするのは基本的には少量かつ薄味のものがほとんどだ。
ドーナツのような甘味はあまり縁がなかったこともあってか、とにかく甘さが舌を支配する感覚だった。
「はい、すっごく美味しいです!」
にこにこと頷く司は、相変わらずきらきらと幸せそうな表情をしていて。
この顔が見られるのなら、何度でも虹を運んできてもいいな、と。
そんなことを考えたのだった。
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