syanpon
2025-08-12 06:40:41
8979文字
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揺らぐ陽炎さやけき青

オトスバ

 悪いことをすると人は地獄というものに堕ちるらしい。
 じゃあ、生まれ落ちた以前が地獄なのか、今の状況を地獄というのか男にはわからなかった。

 ついでに裏路地を抜けた瞬間に全く知らない土地に出てきてしまっている意味もわからなかった。とりあえず歩くしかないが家を出る前にテレビが局所的な異常気象、三十五度超えの熱帯夜だといっていたがそれは知らない場所になっても変わらないらしい。黒いスーツの中でじわりと汗をかく。

「オットー?」

 夜の住宅街の中、知っている声で知らないはずの己の名を呼ぶ音がポツリと響く。
 陽炎の揺れる中にその男は立っていた。

「オットー……か?なんか顔色悪いぞ。てかこんな暑いのになんでスーツ……
……はは」

 なんだほら、やっぱりここは地獄じゃないか。

 ぐらりと視界が歪む。
 夏の暑さとは違う温もりに抱き止められた気がした。
 
 きっと気のせいだろうけど。

***

「頭が痛い……
 オットーは渋面を隠しもせず、大きなため息をついた。隣でスバルはオットーのことを両手で仰いでみたりしてみたが手のひらから送られるささやかすぎる風は悩みの種を吹き飛ばすにはあまりにも微風すぎる。

「オットー大丈夫か? 夏バテ?」
「今のあんたが持ち込んできたこの状況にですよちくしょう!」

 オットーがダンダンと両足で地団駄を踏めばスバルはキョトンとした顔で現在の状況を再度口に出し、ミルクと砂糖を入れたコーヒーにしては真っ白な飲み物をくるくるとかき混ぜていたスプーンをオットーに突きつける。
 
「状況って言っても別の世界のオットーがこっちに迷い込んできちゃったからしばらく俺の家に泊めるってだけだけど」
「だけじゃないだけじゃ!」
「でもお前の家は家族いるだろ。俺の家、夏休みの間親どっちも旅行行ってていないし」
「え、聞いてませんけど。もしかしてこの男のために断ったとかじゃないですよね」

 オットーの知る限り菜月家は家族仲がいい。そんな両親がスバル1人残して旅行に行くとはあまり考えられず。オットーの眉間にさらに深い皺が寄る。その表情を見たスバルは大仰に肩をすくめて呆れ顔を返した。


「はぁ? 分かれよ」

 分かれよと言われても質問の答えになっていないじゃないかと彼に無言で話の続きを促せば途端モゴモゴと言葉を詰まらせる。かちゃかちゃと三人ぽっちの部屋に溶けきった水溶液をかき回す金属の音だけが響く。その些細な騒音に負けるほどの小さな声が搾り出される。
 
……オットーと夏休み一緒にいたいからだったんですけど」

「へ」
「お祭りとか、う、みとか、いきたいなって、思ってて……

 そこまで語って視線をふい、横にそらされる。髪の毛に隠されない耳まで真っ赤になっていて。
 つられてオットーの顔も赤く染まる。

「だから、別に無理してるとかじゃ、ない」
「そ、うですか」

……2人は恋人なんですか?」

 面映い沈黙を破ったのはこの話し合いの張本人であり部外者の男であった。言葉は質問の様相をしていたが返答を求める気はないようで出されたコーヒーを一口啜る。

 オットーがスバルの肩を抱き寄せて威嚇する。

……この人に手を出してみてください、八つ裂きにしてやりますから」
「おい現代日本でなんて物騒」
「恩人にそんなことしませんよ」

 もっとも、彼が信じてくれるかは別の問題ですが、と男がスバルに視線を向ける。その視線に気がついたスバルはパチリと大きく瞬きをした後笑って男の肩に腕を回して笑いかける。

「生きてる世界は違うけどお前もオットーなんだろ? なら大丈夫、お前は俺を傷つけないよ」

 不確実な信頼を向けられて今度は男が一つ、顰めっ面と共に瞬きをした。

***

 オットーが帰った後の室内はなんだか前よりも静かだ。なんとなくの距離を開けて隣に腰掛けている男にスバルは好奇心から語りかける。

「そっちのお前と俺ってどういう関係だったの」
…………同居人、ですかね」
「一緒住んでたのか」
「はい」
「付き合ってはないの」
「付き合ってはないですね」
「でも、じゃあ、あっちの俺はお前が急にいなくなってめちゃくちゃ心配してるだろうな」

 そうぽつりとこぼすと男はほんの少しだけ目を伏せた。

……どう、でしょうね」

 同居というものはお互いの価値観のすり合わせにも近い。だからこそ気を使うものだしスバルは一応客人である男に自室のベッドを貸し、自分は父親の部屋でも使おうかと考えていた。
 が、そう提案すると男はきょとんとした顔で首を傾げる。
 
「? 一緒に寝ないんですか?」
「え?」
「だから一緒に」
……添い寝ってこと?」
「まぁ」
「俺と、お前が?」
「はい、あちらの彼とそうしていたのでてっきりそういうものかと」
「なぁ知ってる? 今、真夏」
「そうですね……?」
「付き合ってなかったんだよな?」
「付き合ってないですね」
……
……すみません」

 ふい、と視線を逸らされる。ほんの少し眉を下げた表情、おそらく申し訳なさなんてものを感じているのだろう。
 恋人と瓜二つの男だが今スバルの脳裏に浮かんできたのはペットの飼い方の教本だ。ストレスを与えないようにできるだけ飼育環境はよせてあげましょうとかそういうやつ。
 この男だって表情は読めないけれど心の奥では寂しさと不安を抱えているかもしれない。もしもスバルが知らない世界に来てしまったら空元気でいろんなことをやらかす気がする。
 
「うーん、まあ冷房ついてるしいい、か? いいよ」
「いいんですか」
「なんで許可したら途端に疑うんだよ。それにオットーが俺に悪さするはずないしな」
「またそれだ」
眉を顰める男に負けないくらいの顰めっ面を返してやるとスバルはぐい、と男の腕を引っ張る。正直今日はもう疲れていた、だから早く眠りに付きたかった。
 睡眠は大事な人間の欲求なので。
 男をベッドサイドまで連れてきてスバルがさっさとベッドに潜り込めばオズオズとそれに続き、腰のあたりをぎゅうと抱きすくめられた。確かにこのくっつきかたは仲睦まじい恋人のそれではないななんて小さく息をついた。脳内のオットーが「浮気反対」と書かれた大きなプラカードを掲げている気もするが違うぞこれだきまくらバイトだから、ホームシック解消目的だからと言い訳をしてイマジナリーオットーを丸め込む。スバルの脳内の恋人はそんな粗雑な言い訳にまだ何か言いたげな表情、脳内オットーのくせに生意気だな。

「おやすみ」
……おやすみなさい」
 
 背中に伝わる温もりと心臓の鼓動、浅い呼吸の音は聞こえてくるが男が眠れているのかはわからない。

 眠れていればいいと、そう、思った。

***

 手に入らないものならば初めからいらない。
 すり抜けてしまうのならば全部手放してしまった方が楽だ。
 男にとって人生とは砂のようなものだった。すくってもすくっても手のひらから溢れていく砂のようなものであった。
 だから多くを望んではいけないし望まない。

 こぼれ落ちた時に流す涙なんてとうに枯れてしまったのだから。

「やっぱ一緒に住んでて一緒に寝てて付き合ってないってある?」
 雨が降っていた。
 全てを流し去るには弱く、気にしないというには嘘になる程の雨だ。
 みたいテレビも特になかったから好奇心のままに言葉を投げてみると淡々とした答えが返される。
 
「そう言われましても。僕、彼の名前だって知らないですし」
「は」
「名前も知らない人間と交際するなんてないでしょう?」
 名前も知らない人間と共に過ごしたり一緒に眠るのだってないと思ったが今のスバルの状況と全く同じのため黙っておくことにする。
「なんで一緒にいるんだよそれ……
「なんで、だったんでしょうね」
 男が何かを考えるように、思い返すように自身の唇に触れるのをみて、スバルはそっと視線を横にずらす。
 雨はしばらくやまなさそうだな、なんて思った。

 再会は別に運命でもなんでもなかった。
 お互いにただ濁った瞳を合わせ、下手くそな笑みの形を作った。
 何も持たない方が都合が良かった。からっぽ同士が隣にいたって満たされるものなど何もない。
 何もなくたって温もりはあるし、ないものを渇望してしまうあさましさだけはやめられなくて。いつの日か少年がベッドに潜り込んできたのを止めずにいればそれが習慣になった。
 朝目が覚めた時、死んだように眠る姿と全身を包み込まれる人肌の暖かさのアンバランスさに面食らったのを覚えている。
 いつの間にかお互いに相手が潜り込めるようにベッドの片側を開けて眠るようになった。1人きりで眠るにはいつの間にかベッドも大きいとさえ感じる。
 眠るために体温を分け合って、寝かしつけるために背中を貸した。寝顔を見たのは初めの一回きりだった。

 全部間違えた2人にとって地獄というのはなる程おあつらえ向き、無くしたものは過去の数々の過ちだってやり直せない。
 過去は所詮過去でしかない。終わった事にいつまでも目を向けていたって何かが変わるわけではないので。

***

 男が2人、喫茶店に向かい合って座っている。ランチタイムをとうにすぎた個人経営の店内は閑散としており、マグの底がソーサーに当たる音すら大きく響く。
 週に1回、こうして時間を作って定期的に顔を合わせている。スバルはこのことを知らないし双方知らせるつもりもない。
「あなたの帰り方、なんですが」
 オットーがカバンから何枚かの書類を取り出して男に手渡す。伝承、気象、呪いの類にまで書き連ねてあるそれに一通り目を通す。
「随分と確定じみた情報ですがどこから?」
……似たような筋から、とだけ」
それ以上の事情を話す気はないことをオットーの態度から察するとその書類と共に自身は使わないシュガーポットをオットーの方に寄せると怪訝な顔をして止められる。
「いや、僕もブラックです」
「ああ、すみません、つい」
 定位置に戻される砂糖壺を目で追いかけ、甘さなんてない声音でオットーは言葉を吐き出す。
 
――ナツキさんはあなたの知ってるナツキさんではないですよ」
 
 ゆめゆめ忘れるなと、視線を向けずにオットーはコーヒーを啜る。
 その言葉は男への忠告のようでいてどこか違う、まるで彼自身に語りかけているかのようであった。


***
 
『なんで、いやがんねえの』
 震える声に何も返せないまま、残響に後悔は落としたまま、男は彷徨っている。
 
 そのふれあいは1秒よりも長く、永遠よりも短かった。
 
「口付けをしたことはありますか」
 ソファに深く腰掛けていたスバルは突然投げかけられた言葉にずるりと体勢を崩した。静かな男だと思っていたが時々パーソナルスペースにドカドカ入り込んでデリカシーのない言葉を投げていく姿はなる程オットーだ。俺と恋バナでもしたいのだろうかなんて思いながら見つめ返すがその視線が何を思っているのかスバルにはとんとわからない。

 「あ、る、けど……
 
 そうぽしゃぽしゃと言葉を返す。
 キスは、好きだ。まるで壊れ物を扱うかのようにそうっと頬を挟まれる瞬間、手のひらから互いの熱を交換し合うあの時間が好きだ。
 初めの頃は恥ずかしくて強く目を瞑ってしまっていたが至近距離で見る青の瞳に興奮だろうか、血色が良くなったのかほんの少し緑にも煌めく、宝石を砕いて蜂蜜を一緒に溶かし煮詰めたような甘い視線にとらわれるのが好きだ。
 唇が重なる一瞬、スバルの全部はオットーのものになる。
 スバルが恋に落ちて、オットーが恋に落とされてしまったということを証明するぬくい熱の交換。スバルの頬を薄墨色の髪がなでる時、視界の端に銀の星を見る。

「て、か! なんでそんなこと気になるんだ、よ……

 男がくしゃくしゃの顔でスバルを見つめていた。唇に触れた後、ぐっとそれを噛み締める姿は痛々しい。
 
「あなたはいつも朗らかで、笑っていて……

 影が刺して顔を上げると男はスバルを見下ろすようにすぐそばに立っていた。
 ぐい、と乱暴な手つきで胸ぐらを掴みあげられる。
 掴み上げられたがどこか縋り付くようなそれにスバルの反応が一瞬遅れる。

 男の唇が重ねられそうになった瞬間、スバルはその顔面に思い切り頭突きをかまし突き飛ばす。

 反動でソファにひっくり返り男は床に尻餅をついた。立ち上がって昂った感情のままに怒鳴り散らす。それに被さるようにして男の掠れた、叫び慣れていない悲鳴が響く。
 
「馬鹿野郎! いきなりどうしたんだよ」
「わかってる! あんたはあの人じゃない! だから答えも持っていない! あの日どうして僕にキスしたのかなんてあの人しか知らないままだ!」

 赤く汚れた顔とは反対に両手はもとより血色の良くない肌がさらに白くなるほど握りしめられている。
 
 男は叫んでいた、叫んでいるのに涙ひとつ流さない。
 
 でも、それは確かに慟哭だった。
 
「どうしたら、じゃあどうしたら彼は、あの子はあなたみたいに笑えるんだ……

 自分の言動が矛盾に溢れたものであるということなんて初めからわかっていたのだ。
 わからないふりをして安寧に縋り、自分の手のひらにはまだ何ものっていないと嘯いて。
 だから口付け一つに何も返すことができなくて、こうして似た世界に迷い込んで彼の目の前から逃げ出した。

 あの少年のことよく知っているかと聞かれれば否であるしきっと彼だって男のことを知らない。
 だって名前さえ知らなくていいと、そう思っていたはずだったのだ。
 全部間違えて手放すことを恐れるくらいに引かれているのに知っているのはささやかな熱と疲れたように笑う自罰的な笑みだけだ。

 なんで彼が自分に口付けてきたのかの理由だって知らない。

 男は何も知らないままなのだ。
 
「なんだ。――そいつのこと好きなんじゃん」

 かるが故に、スバルから投げかけられた言葉の意味がわからず男はノロノロと顔をあげた。

 スバルは短い眉を顰めて男を呆れた顔で見つめていた。そこに先ほどまでの強い激情は見られない。
 その薄い唇が柔らかな弧を描く。

「大丈夫だよオットー」
 
 お前は幸せになれるよ、と昼の明星が根拠も無いだろうにささやいた。
 
「何を根拠に……
「俺が、お前に幸せになって欲しいから」

 近くのティッシュの箱を引き寄せてもう止まりかけた顔の汚れを乱暴な手つきで拭って、子供騙しのおまじないみたいに頼りない言葉を紡いでいく。

「大丈夫、お前は幸せになれるよオットー」
……
「お前のことを本当の意味で救ってやれるのは俺じゃないけれど」

 ニュースがいつかのように、数日後、記録的な熱帯夜になると報じていた。

***

 いつか男とスバルが出会った人通りの少ない住宅街の十字路。
 そこにスバルと男、少し遅れてオットーが合流していた。
 ゆらゆらと炎のようにゆらめく蜃気楼、あそこを通れば別れが来るとなんとなく本能が理解していた。
「帰るんだな」
「ええ、長い間お邪魔しました」
「本当にですよ。すごい蜃気楼……これで帰れなかったら嫌ですね」
「心配の声と身振りがあってないぞ」

 羽虫を払いのけるような動作をして早くいけと、別れの寂しさなんて全くなさげな恋人を横目で睨んでスバルは男に向き直る。
 前よりかほんの少し和らいだ、吹っ切れたような顔で男がスバルに微笑む。
 
「言われなくても帰りますよ。――寂しがりやさんが待っているので」
「はは、寂しがりのお前が1人じゃなくてよかったよ」
――ナツキさん」
「ん?」
 ぐい、と男の方に腕を引き寄せられる。男に傷つけられることなんて全く考えていないスバルはその動きに逆らわず身を任せてみれば頬にそっと口付けが落とされた。スバルが驚きで瞬きをする前にオットーの絶叫が響き渡る。
 
「はぁ!? お前何して……!」
 ポカンとした顔のスバルと怒りで顔を赤くするオットー、スバルを早々に解放して男はオットーに向かって足を進めた。ナヨナヨしいファイティングポーズで応戦しようとするその両腕をぎゅうとにぎり込んでやる。
 
「ふ、こっちの僕はよく騒ぐ」
 
 そうしてそのままオットーの口を塞ぐ。

 男は笑った。
 自嘲でもなんでもなく楽しそうに声を上げて笑っていた。
 春に咲く白木蓮の花のように今まで見てきた中でいっとう美しく男が微笑む。
 
「お互いファーストキスじゃなくてよかったですね!」
 
 炎のように陽炎が大きく揺らいで男を包み込む。

 次の瞬間、陽炎も、男も揺らぐ蜃気楼すら跡形もなく消えてしまっていた。
「行っちゃったな」
「ええ、最後にとんでもないことしていきやがって……
「オットーは?」
「?」
「オットーはちゃんと挨拶できたのか?」

 スバルの星を携える黒い瞳が真っ直ぐにオットーを見つめる。
 どうやら会えてない間の諸々がなんとなくバレてしまっているようだと頭を掻いてスバルに手を差しだす。
 
「そういうとこだけ聡いんだから」
 
 帰ってから話しましょうと2人、手を繋いで帰り道を歩く。
 
「あ、ドラッグストアだけ寄らせてください。イソジンうがい液買います」
「お前……

***

 世界の移動、なんて大それたものなのに帰還は一瞬で味気がない。見慣れた街並みをぐるりと見渡して男は手近にあったコンビニで新聞を一部購入する。どうやら男が消えて一週間ほどの時間が経っているようで思ったほど経っているのかそうではないのかの反応にほんの少しだけ困った。
 慣れ親しんだ道を歩いて自宅の鍵穴に鍵を差し込んで、回す。鍵が変えられていないことに安堵して体を中に滑り込ませた。

 男のよく知る男は1人ソファの真ん中で電気もつけずうずくまっていた。
 
……もう帰ってこないと思ったわ」

足を進めるが背中しか見えず、断られないことをいいことに男はスバルの隣に腰掛ける。
 
「ちょっと色々ありまして」
「ふーん」
 
困った、会話が続かない。暑さだけでない嫌な汗が男の頬を伝った。そうっと短く整えられた黒髪に触れると一瞬びくりと震えたもののそのままされるがままに撫でられている。

 そのまま覗き込むように少年の唇を塞いでやればガバリと縮こまっていた体がはね、パクパクと口を開け閉めしている。
 その表情だって男は今日初めて見たのだ。
 
「い、きなりなにすんの!?」
……オットー」
「は?」
「オットースーウェン、僕の名前です。……あなたの名前が知りたい」

 少年の頬に手を添えてまっすぐ、赤く染まっている表情を忘れないようにしながら言葉を口にする。
 ギュッと困ったように瞳が揺れてよく知る嘲るような口調に変わる。
 
「は、今更。いらないっていう共通見解じゃなかったか?死の商人」
 
「それ。僕はあなたに名前で呼んで欲しくてあなたのことを……名前で呼びたい」

……ナツキ、スバル」
 
「スバル」
「ん」
……ナツキさん」
「なんで呼び方はなれるんだよ!」
 
少年が怒って笑った。
 
あの男とは違う微笑みだった。あの男が太陽の元で咲く向日葵だとしたら彼のくしゃくしゃの笑顔は朝露に濡れた花弁のような、まだ咲き方を知らない蕾のままの下手くそな笑みだった。
 
「あのね、スバル……さん」
 きっと僕はあなたのその顔がずっと前から見たかったんです。

 このどうしようもない青年のことをずっと視界に収めていたいのに何故か瞬きを繰り返すたびに視界が歪んですがるように弱々しく男は少年の袖口をつかんだ。
 恐る恐るといった様子でスバルの腕が男に回され抱き寄せられる。それに甘えるように擦り寄ってぎゅうと男も抱きしめ返す。

「どこ、行ってたんだよ」
「ちょっと野暮用で……。連絡も取れずにすみません」
「別に、気にしてないし」
……そこは気にしてくださいよ」

 む、と男が抗議のために体を離せばスバルの両の瞳からぼたぼたと涙が溢れていてギョッとする。オロオロと震える指先で涙をぬぐえば本格的に泣きに入ったのかしゃくりあげられて男はほとほと困り果ててしまう。

「俺がき、キスとかしたからキモくなったのかなとか、思ったんだよ。連絡したくてもお前の連絡先なんて知らないしここで帰ってくるの待つしか、無理だし。だって、俺、お前のことなんもわかんねーんだもん」

「い、嫌だったら殴り飛ばしてますって」
「違うばか」
「え、え」
「なんかもっとあるだろ……
 
「え、す、好きです」 

 あんまりにも簡単に口から言葉が飛び出てきて男はパチリと目を瞬かせた。

……なんかそれも、早くね」
「注文が多い……

「俺の名前はナツキスバル、なんかお前のこと多分好きになっちゃったただの男だよ」
「僕は、オットー・スーウェン。……同じく困ったことにあなたに恋をしている愚かな男です」
 
 そのままもう一度男はスバルを腕の中に閉じ込めた。抱きしめているだけなのにもっと好きになってしまうような気がして今から体を離してしまうことがひどく惜しいと思った。
 こんなにも尊い存在だ、きっとオットー以外にも彼のことを好きになるものはたくさんいるに違いない。
 今1番腕の中の男のことを知らなくて、1番知りたいと渇望している。

 オットーの胸に幸せそうに、どこか遠慮がちに頬擦りする姿を見て今日何度目かの恋を自覚した。
 炎に身を焦がしたこの体が今度は焼けるような恋をしている。

「ねえ、ちゃんとキスがしたい」

 そうやって腕の中の恋が甘くねだって囁く。

 その星の瞬きの美しさを、オットーは生涯忘れないし、もう手放さない。