ながひさありか
2025-08-12 02:12:40
10734文字
Public STR-Phaidei
 

The world is your oyster4

モーディスをかばって怪我をしたファイノンを見舞う話。
※やや流血と残虐な描写、独自設定色々。
 この話に出てくる「耳付き」はドロス人ではなく孤族の白狼猟群のような人たちです(参考:曜青新兵一般教養マニュアル:歩離猟群概説)

前回→R18 https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=25318462


「殿下!」
 妙な予感に顔を上げるのと、名を鋭く呼ばれたのは殆ど同時だった。しかし既にメデイモスの視界は鮮血のように赤いマントで遮られていて、そのままどんっ! と勢いよくぶつかって来た誰かに覆い被され、地面に体ごと倒される。
 一拍遅れで爆発音が連続で響き、瓦礫の落ちる音、びちゃりと水袋が弾け飛ぶな嫌な音が当たりに落ちる。ごうっ、と言う音と共に、熱風がマントの隙間から頬と髪を撫でていく。頭と体を覆っているマントに細かな金属が当たる音がし、兵士たちの呻き声が耳を劈いた。鼻先に髪と肌が燃える際のタンパク質特有の嫌な匂いがし、唇にもべたりと脂がまとわりつく感覚がした。弾け飛んだ脂肪だ。
 メデイモスはマントごと覆い被さってきた男に「離せ!」と暴れるが、渾身の力で抱きしめられていて身動きが取れない。そのくせ向こうからは返事もなく、嫌な予感がメデイモスの脳裏をよぎる。
 心臓が痛いほど跳ね、頭の芯が冷えていく感覚がした。乱れそうになる呼吸に冷静にならねば、と理性がけたたましく警鐘を鳴らし、体に刻まれた刻飾紋が焼けるように反応する。一瞬で脳が冷え、理性が戻ってくる感覚がしたが、体に刻まれた呪いの方が、自分を抱きしめている男より反応が遅いことに腹が立った。
「だから『耳付き』はちゃんと拘束しておけと言っただろう!」
 ケラウトルスの怒声が響き、殿下、と焦った声に続いて、師が息を呑む音がする。しかしメデイモス自身の手足の感覚には問題もなく、痛みもない。師が何を見てそのような反応をしたのか考える前に、視界を確保する必要があった。
「被害状況を確認しろ! 逃げた奴らはいないか?」「ぜ、全員死んでます!」「俺の足が」「おいしっかりしろ!」
 阿鼻叫喚の喧騒の中でもがき、ようやく力の抜けた拘束からメデイモスは抜け出した。慌てて体を覆っていたマントを外し、声が上擦らないように慎重に息を吸った。嫌な汗が背中を伝っている。
「おい、ファイノ——
 庇われた時から予感はしていた。衛生兵が慌ただしく飛んで来るのと同時に、ケラウトルスが「殿下、一旦本陣まで下がってください」とメデイモスの腕を掴んで立たせようとする。
 離せ。怒りに震える声で呟くメデイモスの腕をケラウトルスがもう一度強く掴む。腸が煮えくり返るような怒りと、体の中で血が煮え滾る感触に目の前がぐらぐらと揺れ、明滅している。身を焦がすように呪いが冷静になれと促して来るのが分かったが、怒りが呪いを上書きする方が早い。
「ご自分の立場を弁えなされ」
小さく、しかし鋭い声でケラウトルスが耳許で呟く。その通りだ、と唇を噛みしめる。
「お前たちは殿下を連れて後退しろ」
ケラウトルスは無理やり引きずり上げたメデイモスを兵士に預け、戦場を見回した。
白髪を真っ赤に染めたファイノンが、手足を投げ出して地に臥している。細かな金属片が軍服を突き破って体に突き刺さっているのが見えたが、幸いにも手足は吹き飛んでいないようだった。しかし、腹周りは焼け爛れた皮膚で赤黒く染まり、応急処置を施されてはいるものの地に大量の出血痕があった。
 メデイモスは兵士たちに護衛され、撤退する直前にファイノン、と呼びかけた。普段はどれほどの小声であっても耳聡く反応する男が、今はぴくりとも動かない。その場から動けないメデイモスをケラウトルスがもう一度怒鳴りつけ、無理やり馬車へと乗せる。
「まだ死んではいません。とにかく今はお下がりください」

   *

 治療が終わるまではけして入って来ないでください。
軍議の合間に報告に来た軍医にファイノンの状況を尋ねれば、聊か厳しい声が返って来ていた。しかし、止められなくとも結局、夜になるまでファイノンの休む病室を訪れることは叶わなかった。事後処理と軍議で夜まで体を開けられなかったからだ。
 今回は単なる「犯罪者」をクレムノスからオクヘイマへと輸送するだけの筈だった。輸送前の身体調査を怠ったのか、あるいはスパイがいたのか、捉えていた十人の「耳付き」——狐のような耳と尻尾を持っている人間だ——が全員が突然自爆特攻をしたため、甚大な被害が出ている。輸送関係者はすでに全員死んだか捕えられたかで、尋問も進めている。
 耳付きの彼らは先週、クレムノスの領地で強盗を働いて捕らえられたもの達で、調査の結果、そもそもはオクヘイマから逃亡した奴隷の一部だと言う事が判明している。何十年か前はクレムノス統治下の土地に住んでいた者たちだったが、その後オクヘイマの侵略と同時にクレムノスからオクヘイマへと領土が移行しており、現王オーリパンの代では耳付きとクレムノスの間に確執はない、はずだった。もしかするとオクヘイマと同盟関係にあるクレムノスは、彼らにとって共通の敵として認識されているのかもしれないが、それでもわざわざクレムノス側で自爆特攻をした理由は判然としない。
 オクヘイマとも損害について協議が必要だろうと結論が付き——王子の殺害未遂だと息巻く家臣たちを諫めるのに、メデイモスは苦心した、奴隷の管理体制に問題があるとオクヘイマに強く抗議する書簡をまとめることとなった。ここまで性急にことを進めることになったのは、先日のエイジリア遠征の不手際を「金織」に手酷く糾弾され、賠償を請求されたからだろう。

夜も更ける頃、メデイモスは王と側近の大臣や将達に後処理を任せ、ようやくファイノンの容態を見に病室へ向かうことにする。
 しかし、逸る心とは裏腹に、足取りは重かった。敵軍を前にしても縮んだことのない心臓は今にも潰れそうな程痛み、全力疾走をした後のように跳ねている。肌がちりちりと焼けるように痛むが、強制的に意識が切り替わるほどの力は発動しない。ここはもう戦場ではなく、一人でもない。だから呪いも聊か手を緩めているのだろう。
 嫌な汗が背中を伝うのを感じて足を止めると、若? とファイノンの代わりに、一日傍にいたケラウトルスが小さく声を上げた。
 メデイモスは震えそうになる息をどうにか押し殺して吐き、吸って、いや、と首を振る。
 万が一ファイノンの容体が急変すればすぐに教えろ、と医者たちには伝えていた。誰からも連絡が来ていないと言うことは、命に別状はないと言う何よりの証左だったが、それでも落ち着かない。
 そもそも、とメデイモスは冷や汗で濡れた冷たい自身の首にそっと触れ、繋がりは切れていない、と確かめる。
 奴隷契約が切れれば——王族奴隷に限り、それは基本的に奴隷の死を意味する———、主人にはそれがわかる。目を閉じてファイノンの感覚を手繰りよせる。確かに感覚は弱々しくはあったが、「魂」が繋がっている感覚がした。
「若、こう言う時こそ気丈に振る舞わねばなりません」
 足を止めて俯いたメデイモスを咎めるように、小さく、ケラウトルスが厳しい声を出した。背中に突き刺さる視線に「わかっている」とだけ返し、現実を確かめる為に歩を進めた。
 今まで戦場で何十何百何千もの兵を死なせもし、助けもし、帰還後に見送りもした。肩と胸に耀く星の数は死なせた者の命の重さでもある。それは、合同葬儀にも散々参列したメデイモスにはよくわかっていることだった。
自分や身近な者だけは常に五体満足に生きて帰れると言う幻想はとうの昔に捨てた筈だった。たまたま今日まで、自身もファイノンも命に関わるような怪我をしなかっただけで、運も命も永遠に続きはしない。そんなことはとっくにわかっていた筈なのに、何故か現実が受け入れ難い。
死ぬ覚悟はとうにできている。柔らかく温かな寝台の上で死ぬと言う幻想は、そもそもこの手に抱いたこともない。それなのに、どうしてあいつがこんなことに、と胸中で後悔と恐怖が渦巻いていた。傍に置かなければこんなことにはならなかっただろう。しかしファイノンを騎士にしなければ、この地獄のような現実で隣を歩んでくれるものもいなかった。
 見なければ現実にはならないかもしれない、と部屋へ戻りそうになる足を引きずるようにして、ようやく病室へ向かう。
 どうせ確認しなければ眠ることもできないだろう。だからせめて、病室でファイノンの容態を確かめた方が建設的だった。

「先ほど一瞬意識がお戻りになりましたが、まだ眠っています。声はかけても構いませんが、頭部を怪我されていますし、胸部や腹部の傷が開くかもしれませんので、揺さぶったりはなさらないでください」
 ファイノンにあてがわれた病室は膜のような結界で覆われていた。白衣にキャップ、マスクをつけた衛生兵から入室前に全身へ祝福消毒と説明を受けたメデイモスは頷き、疲弊した顔をする医師と兵士たちに「苦労をかけたな」と声をかける。
「傷は残りそうか」
「御安心下さい。火傷も含め、そちらは全て完璧に消えるかと。とは言えお顔も数日はかかります」
「消えるのであればいい」
 天幕の引かれたベッドで眠っているファイノンの傍にはワゴンが置かれており、水差しと薬瓶、銀の匙が置いてあった。
「では、我々はしばらく退出します。もし目が覚めて痛みを訴えるようであれば、こちらの薬を二匙飲ませてください」
 そう言って医者や看護師、祝福を授けていた衛生兵を含め、ケラウトルス以外の全員が退室した。
「お前も出て行け」
メデイモスは振り返らずに、ケラウトルスへ硬い声で命じる。
ケラウトルスはしばし何か考えるように黙していたが、やがて、「扉の前にいます」と首肯して退室した。
………………
 室内にメデイモスだけが残されても、ファイノンの呼吸すら殆ど聞こえてこなかった。静かだ。防音装置が室内に設置されているのだろう、と思いつつも、メデイモスは恐る恐る、境界を破るように薄い天幕に手を差し入れた。
隙間から身を滑り込ませた途端、小さく断続的な音と、ファイノンの呼吸が耳を打った。寝台のそばの椅子へ腰を下ろす。
……ファイノン」
 声をかけ、微かな灯りの下で顔を見た瞬間、メデイモスは眉を寄せ、唇を引き結んだ。
ファイノンは顔の半分にすっかり包帯を巻かれていた。色の悪い唇はカサついてひび割れ、血が滲んでいる。包帯の巻かれていない青白い頬にも微かに裂傷と火傷の痕があった。鮮血に染まっていた髪だけが綺麗に洗われ、新雪か冴え冴えとした月光のように、細い灯りすらも反射してきらきらと輝いていた。その歪さに、胸が詰まる思いがした。
焼け焦げた毛先はきっと全て切りそろえられたのだろう。いつもより少し髪が短くなっていることに気が付き、は、と震えた吐息が思わずメデイモスの喉から洩れた。
痛々しい姿に、メデイモスは自身が予想していたよりもショックを受けていることに気付いた。
 ファイノンの眠る姿を見下ろし、掠れた、殆ど喘鳴にも似た小さな声でメデイモスは名を呼んだ。
 完全には隠せない血の臭いが、消毒液の臭いを上回って室内に満ちていた。鼻が良くて困ることも助かることも今までに何度もあったが、ファイノンの血の臭いをこれほど強く感じたくはなかった。
申し訳程度に窓際には花が飾られていたが、室内の重苦しく冷えた空気と、消毒液と血の臭いを打ち消すほどの力は残念ながらない。香が焚かれていないのは、治療に支障があるからだろう。普段、眠る前に使えとファイノンに与えているものを持ち込んでも良いかは、明日以降にでも確かめようと決める。
 メデイモスは胸から腹部へと続く血の滲んだ包帯を見、柔らかく薄い布で覆われた腹から足先に視線を滑らせる。メデイモスはそっと布をめくろうとしたが、もしかすると寒がるかもしれない、と思い直し、腹の上に置かれていた手にそっと触れる。
 その手のあまりの冷たさに動揺した。閨で触れて来るこの男の手の熱さとは、あまりにも違いすぎる。心臓が痛いほど打つのを感じながら、指先から手を握り込んで摩り、ファイノン、と名を呼ぶ。普段であれば例え眠っていても目を覚ましてしまうのに、今夜は指先すら動かない。
…………………
 こんな風に、こちらからファイノンのそばにいてやるのはいつぶりだろうか。
きっと、ファイノンが騎士になる以前、鞭で彼を打って以来だろう。あれ以来、ファイノンはずっと「いい奴隷」で、わざわざメデイモスが罰を与える羽目にはならなかった。
 あの当時のファイノンは、たかが王子の気に入りの奴隷の一人だった。そのせいで、今ほど良い治療を受けさせてやれなかった。メデイモスは薄らと手のひらに鞭の痕の残る冷たい手を握り込んだまま、目を覚さないファイノンの顔を良く良く見てやろうと身を屈めて、顔を近づける。
目を閉じた青白い顔に恐ろしいものを感じ、ファイノン、とまた名を呼んだ。呼べばいつでも、この男は目を覚ます筈だった。それなのに目を覚さない。
 『繋がり』を示す首輪に視線を落とし、こんな時くらい外してやるべきか、と真剣に悩んだ。ファイノンの呼吸を妨げる要因ではなかったが、気持ちの問題だった。
 扉が叩かれ、返事を待たずに医師とケラウトルスが入室する。メデイモス様、と控えめに背に声がかけられた。
「ファイノン様は大丈夫ですから、殿下もお休みになった方が」
 遠慮がちに寝台に近づいてきた医師に言われたが「そばにいてやりたい」と首を振る。ケラウトルス医士たちに退室を促し、扉が完全に閉まると、メデイモスの座る寝台の傍へと近づいてくる。
「休める時に休むのも仕事だと散々指導してきた筈ですが」
 天幕の向こうから、ケラウトルスは咎めるように声を上げた。メデイモスは腹の上に置かれたファイノンの手を握ったまま振り返らない。
「こんな時に眠れると思うか?」
「若、厳しいことを言うようですが、どんな時でも眠れるようあなたを教育した筈です。例えゴルゴー様がお隠れになった夜であっても」
……………………こいつは俺の騎士だぞ。最早母上よりも、」
「あなたの代わりに傷つくのも死ぬのも騎士の仕事でしょう。確かに優秀で得難い戦士ではありますが、御身の尊さとは比べようもない。あなたがそんな態度を取れば取るほど、ファイノンの騎士としての価値も下がって行くことがまだわからないのですか?」
………………
 ケラウトルスの厳しい言葉に激しい反論がメデイモスの脳裏をよぎるが、老いた師の言葉は全てが正しかった。メデイモス自身、ただの奴隷であれば、戦士であれば、騎士であれば、ファイノンがこれほど傷ついたとしても、命があるだけで安堵しただろうとわかっていた。殺しても死にそうにない頑丈な男であることも。メデイモスは十分知っている。
「わかっている。わかってはいるが、もうしばらく傍にいてやりたいのだ。……二時間以内には戻る。お前は先に休め。ここに俺より強いものはいない」
 何故自身がこれほどまでに動揺しているのか、自分自身では答えが出ていたが、それをケラウトルスに吐露する気にはならなかった。
 背後で、ケラウトルスが盛大な溜息を零すのが聞こえた。
「わかりました。……二時間後、交代の兵士に声をかけさせます。その際には必ず部屋へお戻りください」
「ああ」
 ケラウトルスが今度こそ退室し、室内は再び静けさに包まれる。
 メデイモスはため息をつきながら膝の上に肘をつき、額に右手を当てると、ファイノン、と左手で手を握ったまま声をかける。
 体温をメデイモスから奪っていったファイノンの手は、先ほどよりも随分と暖かくなっていた。それなのに、青い瞳はおろか、優しく柔らかな声のひとつも呼びかけに返っては来ない。
 いつの間にかこの男が傍にいるのが当たり前になっていて、それを喪う想像をしてこなかったことをメデイモスはようやく自覚し、恐怖で心臓が氷つくような痛みを感じていた。目の前がぐらぐらと揺れている。今にもファイノンの肩を揺さぶり、頬を叩いて、起きろと怒鳴りつけてしまいたかった。
……ファイノン、我が騎士よ。いつまで惰眠を貪っているつもりだ?」
 俺を放って。
……こんな時くらい、優しく起こしてくれたっていいのに」
 けほ、と咳き込むのと同時に、ファイノンの胸が大きく上下した。
「ファイノン?」
「起き、」
 てるよ、と続く声は咳交じりで、酷く掠れていた。メデイモスは水差しを取ると、傍にあったガーゼに水を染み込ませてから、ファイノンの唇に添える。しばらく咳が続くのを黙って聞いていると、やがて、ふう、と大きく息を吐いたファイノンの体がぐったりと寝台に沈む。
「痛みは?」
「今はそれほど強くない、と思うけど、感覚が麻痺しているだけかも。……君の顔がよく見えないな、すっかり治るって説明された気がするのに」
 顔をメデイモスの方へ向けたファイノンは包帯でおおわれていない方の瞳を細め、顔を歪ませた。
メデイモスは細くついていた灯りを少しだけ強くすると、ファイノンに顔がよく見えるよう、身を屈ませる。
よかった、見えてる。心の底から安堵するようなため息をファイノンが吐き、メデイモスは唇の端を持ち上げた。
「完治には数日かかるそうだが、安心しろ、傷も残らないと聞いている。痛みが強くなれば言え、薬がそこにある」
「治るならいいか。……今はいつぐらいだろう。君、本当は眠る時間じゃないのか? それとも僕の目がおかしくて朝なのかな」
 ファイノンの声は薬のせいか、あるいはまだ意識が覚醒しきっていないからか、どこかふわふわとし、細く、夢の中を歩むようだった。会話が成立しているようなしていないような状態で、あまり長く彼の傍にいれば、無理をして喋らせてしまいそうだな、とメデイモスは思う。
ファイノンはいつだってメデイモスの呼びかけに応じる男で、だからこそ呼びかけに反応しないことに恐怖した。
「眠る前にお前の顔を見に来ただけだ、すぐに帰るぞ」
 フン、と憎まれ口を叩きながら、こんな時に果たして威厳を保とうとする意味があるか、と自問がメデイモスの胸中に浮かぶ。青い瞳がじっとメデイモスの本心を探るように見つめていることに気付き、なんだ? と眉を跳ね上げた。
「夢だったのかな。君が僕の名前を、何度も情熱的に呼んでくれていた気がするのに」
 腕を持ち上げようとして、いたた、とファイノンが呻く。メデイモスはそっとファイノンの手を握ってやり、薬がいるか、と声をかけるが、ファイノンはまだ我慢できるから、とそれを断る。
 ファイノンの指がゆっくり、僅かほど動いて、メデイモスの手を撫でようとする。優しい言葉をねだるような仕草に、メデイモスは細く息を吸う。
……朝までお前の傍にいようとしたが、ケラウトルスに『死んでもいないのに甘えたことをぬかすな』と叱られた」
「嘘だな。彼は僕が死んだって、って君には言うよ」
………………………………
 笑ったファイノンの表情に、メデイモスはあの男のことをよくわかっている、と鼻で笑ってやろうとしたが、そうしてやることはできなかった。笑みをつくろうとして失敗し、眉根が寄ってしまう。皮肉を口にしようとした唇が震え、喉がわななき、言葉として外には出てこない。
思わず、ファイノンの手を強く握りしめてしまい、痛みにだろう、ファイノンが小さく呻く。
「ごめん、自分のこととは言え今じゃなかった。すまないメデイモス、君を悲しませたいわけじゃない」
「いや……、」
 意味のない否定が口から洩れた瞬間、堪えていたものが決壊する。頬を熱い涙が流れて行くのが分かったが、それを拭うために手を動かすことができない。ファイノンの手を握りしめたまま俯き、気にするな、とようやくそれだけを零した。
「っう、あたた、クソ、本当にどこもかしこも痛いな……
「何をしている?」
 どう見ても無理やり起き上がろうとしているファイノンを慌てて諫め、寝ていろ、と背中をベッドにつけさせる。顔を見上げて来るファイノンの頬に涙が落ち、メデイモスは舌打ちをしながらようやく涙を指で弾いた。落ち着け、と頭の中で強く命じる。身を焦がすような痛みと共に、激情が休息になりを潜めて行く。
「せっかく起き上がろうとしたのに、寝かすなよ」
……なに?」
「君を抱きしめたかったんだ」
 拗ねた声で言うファイノンに、メデイモスは呆れて、脱力した。
「どこの馬鹿が傷を開くリスクを背負ってそんなことをする。少なくとも俺はさせん。治ってからにしろ」
「僕の今感じている痛みなんて、君の涙に比べたらどうってこともないさ。君が苦しんでいる方が辛い」
 再び起き上がろうと顔をしかめ、苦鳴を漏らすファイノンを叱りつけたが、メデイモスはこの男が目的を達成するまで言うことをきかないことをよく知っている。痛むぞ、と低く呟いてから、ファイノンの背に手を添え、起き上がるのを手伝ってやり、ファイノンの体を自らに寄りかからせた。背中を支えるために腕を回して肩を抱き寄せると、逆なんだけど、と不満そうに呟かれるが、その文句は流石に無視した。メデイモスの手に指先を添えるだけで精一杯のファイノンの手に、殆ど力が入っていなかったからだ。
 メデイモスに体を寄りかからせながら、ファイノンがなんとか顔と視線を上げる。
「辛い思いをさせてすまない。だけど、あれが最善の判断だったと君もわかっている筈だ。だから許して欲しい」
 僅かばかりの力で、甘えるようにファイノンがメデイモスの手を撫でる。低く掠れた声は不鮮明で、吹けば飛ぶように弱々しかった。普段、あれほど雄弁に回る舌と力強い声も今は疲弊し、片目だけの青い瞳にも疲労が滲んでいる。
もう、大人しく眠らせて、回復につとめさせるべきだった。ファイノンのことを大事に思うのであれば、今すぐに部屋を後にし、一人にさせるのが最善だと頭ではわかっている。それなのに、もしかすると心細いかもしれないだとか、俺がいた方が安心して休めるはずだ――そんな考えが抑えきれない。
…………………………お前を喪うかと思った」
 震える声で呟き、メデイモスはなるべく力を籠めずにファイノンを抱きしようと努力した。しかし、僅かな力でさえ痛みを感じるのか、ファイノンは眉を寄せ、顔を顰める。力を慌てて緩めようとすると、大丈夫、とファイノンが痛みを堪える声で呟く。
大丈夫なわけがないのはわかっているのに、今はどうしてもファイノンを離してやれない。命に別状はないとはっきり言われているのにも関わらず、離せば、二度と帰ってこないような気がして恐ろしかった。
情けなさと後悔で押し黙っていると、腕の中でファイノンが身じろぐ。
 顔がよく見えるよう位置を調整すると、何故か、ファイノンが嬉しそうに笑っている。どういう感情だ? 痛みで頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
 薬を飲んだ方がいい、と声をあげたメデイモスに、まだいいよ、とファイノンがそこだけは頑なに拒絶する。
「君を悲しませているのに、ごめん、君が僕のためにそんなに苦しんだり泣いたりしてくれたのかと思うと、嬉しくてどうにかなりそうだ」
……馬鹿が」
「馬鹿でいいよ。だからキスしてくれ。さっきから君にキスがしたいんだけど、体が動かなくてさ」
 立場を弁えろ、と普段ならこの男を叱りつけただろう。けれども、愛する男の痛々しい姿を前に、そこまで非情になることがメデイモスにはできなかった。
 なるべくファイノンに負担をかけないように顔を寄せると、青褪め、かさついて血の滲む唇にそっと唇を重ねた。いつもであればもっとして欲しそうに押し付けてきたり、優しく唇を食んだり、舐めたりしてくるのに、今夜はそうはならない。
「大丈夫。僕は死んでない。そうだろ?」
 唇を何度か触れ合わせていると、キスの合間に、殆ど吐息のような声でファイノンが囁いた。酷く眠たそうな、それでいて幸福そうな声だった。
わかっている。そう呟いて、今度こそファイノンを寝台に戻した。メデイモスは傷ついた体に触れないよに、慎重に顔を近づけると、覆いかぶさるようにして唇をもう一度重ねた。
……君、そんなに泣いたら枯れるよ。嬉しいけど、僕はもう大丈夫だから。と言うか意外と君って泣き虫なんだ。――こんなに長く傍にいるのに本当に知らなかった」
 嬉しそうに笑ったファイノンが、次の瞬間、痛みに顔を顰めながらメデイモスの頬に手を添えた。メデイモスは涙を拭おうとして失敗し続けているファイノンの手のひらに唇を寄せた。
「二度とこんな事態に陥るな」
「できる限り善処するよ」
「しないと誓え」
「君のために死ぬ覚悟はできてる。だから誓えない。ごめん。……でも君だって、僕が正しくあれることを望んでるだろ?」
 まっすぐなファイノンの言葉が、メデイモスの心の奥底に深く突き刺さる。あまりに正しい言葉で、だからこそ苦しい。感情と責務は切り離すべきだ。それができないのであれば、為政者を名乗ってはならないし、名乗りたくなくともメデイモスは己の立場を捨てることはできない。
 メデイモスは目を閉じ、ふーっ、と長く息を吐いた。脱力して椅子に座る姿を、ファイノンがじっと見つめているのが、強すぎる視線のせいで目を閉じていてもわかった。
……お前に言われるまでもない。騎士を解任されたくなければ、一日でも早く恢復しろ」
 そろそろ兵士が迎えにきてしまう時間だった。椅子から立ち上がり、よく休め、と声をかける。
「朝までそこにいてくれよ
 ファイノンの眠たそうな懇願が落ちる。そうしてやりたいのが本音だったが、どれほど目をかけている愛人だとしても、親族ではない男の傍に朝まで傍にいてやることはできない。
「また明日、様子を見に来る。だから早く寝ろ――おやすみ」
「君が夢の中に出てきてくれればいいのに……。また明日、おやすみ」
ファイノンはその言葉を最後に、瞼を完全に落として力を抜いた。メデイモスは己の機嫌のために彼に無理をさせてしまったことを恥じ、療養中はなるべくわがままを聞いてやるべきか、と考えた。
部屋を出て行く前に、もう一度ファイノンの顔を見下ろした。
……俺が夢に出てしまっては、お前は永遠に起きてこないだろう」
 だから、こうして現実で会ってやる。



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