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2025-08-11 23:48:55
3733文字
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お題:「ドライブ」

#ししさめワンドロワンライ 2025/08/09



 むらさめ、と、しみ込むような声で呼ばれて、村雨の意識は覚醒した。
 まだ少しぼんやりとした心地で、ぐっ、と首と肩に力を入れる。
 軽く動かすとコキコキと音がして、そして、身体を受け止めているのが車のシートであることを思い出した。
「着いたぞ」
 またたいて焦点を合わせたその先には、見慣れたエクステリアのポールライトが、夜の中に規則正しくぽつぽつと続いていた。
「ああ……
 認識している、ということを知らせる為に小さく声を出して、沈み込むようなシートの上で座り直す。
 左隣には、自ら熱を放つような大きな身体の気配があって、視線をやると、夜色の車内に青い目がこちらを見ていた。
……ありがとう」
 言いながらスマートフォンを取り出して、セキュリティアプリを起動させる――そして気取られぬようにすばやく時間を確認して、ここに帰ってくるまでの所要時間を計算した。
 ――やはり……遅れている。
 獅子神はこれまで何度も、村雨を送り届けてくれている。病院までこの車で迎えに来て、そして、村雨のこの自宅までそのまま送ってくれるのだ。
 病院を出る村雨は、いつも大抵激務に疲れ果てているので、助手席のこのシートに沈み込むと、そのままのように寝入ってしまう。他人の運転する車で眠ることなど、子ども時代の家族旅行以来の経験なのだが、獅子神の運転がよほど上手いのか、それとも他に理由があるのか――とにかく、気がつくと村雨はいつもこうして、自宅の門扉の前にたどり着いているのだった。
 問題はその時間である。
 信号や渋滞などの誤差もありはするのだろうが、病院からここまで要した時間がどうにも――長くなっているような気がするのだ。
 それも通常なら気づかない程度に、少しずつ――じりじりと少しずつ、到着時刻が遅くなっている。
 いつものように門扉が開いて、村雨が自宅の玄関に無事消えていくまで見送るつもりなのだろう。獅子神は村雨を見守ったまま、セキュリティアプリの操作を待っている。村雨は思考が外に漏れないように、なんでもない仕草で門扉を車内から操作した。
 ガラガラガラ、と門扉が左右に開いていく。
 獅子神の表情にあるのは村雨への穏やかな好意と、常にまとわりつく興味と、それから――こうして送り届けるときにわずかに漏れ出してくる、忍び笑いのような、他愛のない後ろめたさ。
 ――つまり何かを企んだが、悪意はない、ということだ。
 そこから推測できるのは、獅子神がこのちょっとしたドライブを、意図的に――少しずつ少しずつ、引き延ばしている、ということだ。
 ――何のために。
 村雨との「ドライブ」の時間が増えることで、獅子神に何らかのメリットが生じるとはとても思えない。ただ、この男の度しがたい人の好さなどを鑑みれば、もしかしたら――疲れている村雨を、そのまま寝かせておいてやろう、という気づかいであるのかもしれなかった。
 ――尋ねてみるべきか。
 そう思いながらも村雨は黙ってシートベルトを外し、助手席の扉を開けた。
「後ろ」
 獅子神が親指で後部座席を指す。
「弁当、あるからよ」
 帰宅してから食事を準備するのが大変だろう、などという理由で、獅子神はいつもこうして、保温容器につめた弁当を持たせてくれる。
 ……車をどこだかの店に停めて、村雨にテイクアウトを買わせるほうがたやすいのに。
 こちらを見上げる獅子神の、その表情、いかにも気安さを装った、ほんの少しのぎこちなさ――これだけ何度も繰り返してきてなお、「断られるかもしれない」という懸念が抜けていないらしい。
 ――臆病者め。
 なんとはない苛立ちを感じながら、村雨は後部座席の扉を開けて、そこに鎮座したトートバッグを取り上げる。
「ハッシュドビーフだぜ」
「そうか、楽しみだ」
 正直にそう答えると、獅子神はその整った顔で、ニヤリと笑ってみせる。
 ――私はなぜ問いたださない? この時間を壊すことを惜しんでいるとでもいうのか?
 この私が?
 内心に首をかしげながら、後部座席の扉を閉める。
「おやすみ、先生」
……ああ、おやすみ」
 いただきます。
 そうつけ加えて村雨は、助手席の扉も閉めた。
 車内の――獅子神の匂いが途絶えて、ひゅう、と車と自分の間を風が吹き抜ける。
 なんとなく口をへの字に曲げて、開いた門扉から中に入り――歩きながら一度振り返ると、運転席から獅子神が愛らしく笑うのが見えた。
 反射的に小さく手を振って、それから村雨は、トートバッグを両手に抱えてまた、玄関へと歩き出した。

   + + + + +

 むらさめ、と、しみ込むような声で呼ばれても、村雨の意識はおぼろだった。
……んん……
 起きたくない、とぐずる気持ちで身体を揺すると、なだめるように肩に手が置かれる。
 誰の手だ、そうだ、獅子神の手だ、と思ったときに、もう一度、むらさめ、とその声が呼んだ。
「疲れてんだろ、お前」
「んゃ……
 疲れてなんかいない。目を閉じたまま、そう口をへの字に曲げると、小さな笑声が聞こえた。
「そのまま寝てったらいいよ、オレの家で」
「んぁ……?」
「明日休みだろ」
 ――あなたのいえ?
 重い目蓋を無理やり上げて、細く開けた視界で左右を確認する。
 一度か二度ほど見たことがある――そう、これは獅子神邸の、屋内ガレージの景色だ。
「客室なら、すぐ寝れるようになってるから……風呂もメシも、起きてからにすりゃいい」
「んぅ……?」
 ――なぜ獅子神の家にいる……
 身体はしつこく眠りにつこうとする――が、これは別に、おかしな薬を盛られたというわけでもない、と村雨の理性は判断する。自分はただ眠いだけで、そして、眠ってもまったく問題ないのだと、なぜか脳が判断してしまっている。こんなところに運ばれるまで身体が目覚めようとしなかったのも、おそらくはそのためだ。
 慣れてしまっている――馴れてしまっている。
 獅子神の車の「ドライブ」で、そのまま安眠することに。
「眠てぇなら、このまま抱えて運べるけど」
「んん……
 ――それは……どうなんだ? 私はここで目を覚まし、家に帰ると言うべきでは……クソッ、なぜこうも私は眠っていようとする?
 村雨は片手を挙げて目を擦ろうとしかけ、眼鏡の存在を思い出した。獅子神の両手が丁寧に、つるに触れて眼鏡を外す。
「ここで寝てたいってんなら、エンジンかけとくけど」
「うう」
 私はもっとしゃんとすべきだ、という、己への叱咤を込めて小さくうなる。すると獅子神は何でもないことのように言った。
「お前らが急に泊まり込むなんてしょっちゅうだからな。最近はもう、いっつも客室の準備してんだよ」
「う……
 ――そうだったか?
 なら、それほど気色ばむことでもないのだろうか。
 カチリと音がして、シートベルトが外される。身体が少し楽になって溜息をつくと、脚に手が触れ、静かに靴が脱がされて――いっそう身体が自由を感じる。
 すると力強い腕が、ぐっ、と両腿をまとめて抱え込んだ。
「そのままでいいからな、……っと」
 身体が浮き上がり、獅子神のいい匂いがして、無意識に眼鏡をかばいながら、それでも――手を伸ばして、太い首っ玉にかじりつく。
 すでに扉は開けられていたのだろう。小さく揺れる身体は止まることがなく、すいすいと動いて、慣れた獅子神邸の空気に包まれていく。
 くてんと預けた額が、獅子神のすべすべした頬に当たり、村雨は急に――「もうなんでもいいか」という気分になった。
 ここで意識を失ったとて、目覚めて待っているのはこのいい匂いの男と、さっぱりする風呂と美味しい食事だ。
「はを……はをみがく……
「前にお前が使った歯ブラシ、そのままにしてあるから。好きに使いな」
「ん……
 ピピ、とセキュリティを通過する音、空気がまた変わって――客が自由に行き来する空間から、主の私的空間へと踏み込んだのだ。
 獅子神が立ち止まったのはその「ピピ」だけで――目蓋に当たる光が急に暗くなり、ふかふかした感覚の中に下ろされるまで、獅子神は一度もドアを開け閉めしなかった。
 ――この男は客室のドアまで開けっぱなしにしているのか?
 そんなことがふと気になったが、丁寧にボタンをゆるめ、ベルトを外す落ち着いた手つきの心地よさが、ささいな――と村雨は判断した――疑問もたやすく溶かしていく。
「ゆっくりおやすみ、せんせぇ」
 極めつけにその、身体の輪郭まで曖昧にさせるような声。村雨の顔は、ふかふかの枕にすっかり自分から埋まってしまう。
 髪を撫でる熱と質量――それは獅子神の大きな手だ。
 ――捕まった。
 なぜかその言葉が脳をよぎったが、熱と質量といい匂いが遠ざかると、そのことへの自分勝手な不満が、賢いはずのその脳をあっという間に占拠してしまう。
 ――ここは獅子神の家のベッドなのに、なぜ獅子神の匂いがしない。
 これは何かとても間違った状態だ――そう思いながら村雨の身体は、本格的な眠りの中へと弛緩していった。