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織音
2025-08-11 20:44:39
16275文字
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淪落スル月夜ニテ
『シャーデンフロイデはもう要らないと、ひとりの人外によって齎されたそれは救済。或いは、愛』
希少な血液を持つが故に過酷な環境で生きてきた指揮官と、そんな指揮官を『食糧』として攫ったヴァンピールの贖い里の話。完全に癖。途中モブが少しだけ喋る。ハピエンを目指したつもり。これはハピエンですよね……?(ハピエン書かなさすぎて不安になるにんげんの図)
逃げ出した夜は、酷く綺麗な月夜だった。
どうやら今日は満月らしいと、研究員の誰かが話しているのを聞いた気がする。廊下の窓から見えた月は、とても綺麗な盈月だった。
青白い月明かりに照らされた無機質な白い檻に似た研究施設の廊下を赤く、誰かの命の色で染めながら歩いて行く。
――
それはまるで血染めの城。
ふらつく足取りで廊下を進む人間の患者衣には真新しい鮮血の赤と乾いた血の黒がこびりついていた。それは誰かの返り血であり、その人間の体から流れ出た血でもあった。
視界が貧血のせいでぐらぐらと揺れている。ああ、もう足を止めて休んでしまいたい。でも、もう少し遠くに行かなくては
……
。
研究室で自分に繋がれた点滴の管の先、点滴パックをぶら下げていたイルリガートル台だけが今、唯一の武器であり、自衛手段だった。右の手で棒の部分を握り、引き摺られたキャスターがカラカラと音を立てる。黒いキャスターも患者衣と同じように血に濡れ、幾つかは壊れてなくなっていた。
意味もなく振り返って、鮮烈な赤に染まった廊下を眺める。自分の血と酷く似た色をしたそれにきつく目を瞑った。
ずっと前から、この赤色が嫌いだった。
嫌になるほど見た赤色。白い無機質な床の上でやたら目立つその色が目に刺さるくらい痛くて苦しくて。
……
無為な思考に時間を割いている暇はない。
実験棟を抜けた先、深夜のエントランスには誰もいない。ただ異常事態を告げる警告音が一人で歌っていた。
「
……
うるさいな」
警告音を歌うスピーカーに不満一つだけを零して、外へ外へと一歩ずつ足を進める。
入口に鎮座する重い金属製の扉。不用心にも解錠されたままのそれを押し開けた、刹那。通り抜ける風の香りは消毒液のきつい香りでも、無機質な金属の香りでもない。僕の知る香りとは、全くの別物。
――
澄んだ、夜の香りだった。陽光を思わせるような温かみも生命の気配もない、冷たくてどこまでも深く肺を蝕んで、心地よく満たす香り。
夜は、こんな香りがするのか。
好奇心に駆られ、裸足のまま踏み出した地面は夜風のせいで酷く冷えていた。その冷たさが、夜風が。容赦なく体温を奪っていくのにも構わず遠くへとまた一歩足を進める。
夜にのみ息をする人間とは違う存在の視線と鼓膜を静かに揺らす葉擦れ、盈月の清らかな光。こんな綺麗な夜は初めてだった。
は、と体力の限界でそっと息を吐く。どれほど歩いたのだろう?歩いてきた道を振り返った視界の端で、幾つかの人影が揺れた。
恐らく、事態に気が付いた追手あたりだろう。研究所内でも何度か相手した部隊か
……
貴重な資源だからとこちらを殺さないように、無力化するように戦われたせいで酷く消耗していた。
あと、どれぐらい戦えるだろう?追手の人数は四人。最初に相手した数よりは幾らか多いが
……
一対一なら、まだ勝機はあるかもしれない。血に濡れたイルリガートル台をしっかりと握った。
――
僅か一瞬だけ、空間が『歪んだ』。
「
……
?」
ただの見間違い、或いは一時の幻。そう言い切ってしまえるほど些細な『歪み』。しかしそれが見えたのは確かだった。僕はじっと目を凝らした。
ようやく視界に捉えた、宙に浮かぶ青い亀裂。そこから響いた発砲音が静かな夜の帳を切り裂く。薬莢が跳ね、遠くで悲鳴のような音がした。立て続けに三発。まだかなり距離があるというのに、どれも正確に追手の急所を一撃で射抜いては、吹き上げた血潮が視界の端で地面を赤く染め上げていた。
――
何が、起きた?
状況を理解し、把握よりも先にすぐ耳許で知らない男の声がした。
「
……
貴方、違う匂いがしますね」
振り返ってもそこには誰の影もない。
「他の血が混ざっていても分かる
……
珍しい匂いですね。普通の血じゃない
……
もっと違う、特別な匂い」
違う、後ろじゃない。もっと、もっと遠い
……
『此処ではないところ』。
宵闇の、人間には知覚出来ない向こう側。パキパキと宙に浮かんだ青い亀裂が広がり、現れたのは革手袋に覆われた細く長い指。そこに宿るのは、死にも似た冷たさ。
「
――
君、は」
その身に纏う何処までも深い夜の気配。闇の中で一層輝く温度の無い朧花色の虹彩。引き結ばれた唇の向こう、先程一瞬だけ隙間から覗く鋭い牙。病的なまでに白く、今まで忌み嫌い続けた血の色とはかけ離れた色の肌。
宵闇と月明かりに愛され、ヴァンパイアの弱点たる陽光にも祝福された人外。半分だけ『人間』の部分を持つ
――
正真正銘のヴァンピール。
「こんな所、しかもこんな時間に人間が来るようなところではありませんよ。今日のような満月の夜は特に」
「
……
お気遣いどうも。ヴァンピールが何か
……
用でもあるの、こんなところに」
「こんなに騒がしい夜は珍しいので。様子を見に来ただけですが
……
」
その強靭そうな理性を宿した
……
酷く人間らしい朧花色の瞳に一瞬だけ、人外特有の渇きが見えたような気がした。
「貴方、稀血でしょう」
――
ああ、なんだ。
あの研究施設から必死に逃げ出したというのに、結局僕はこの血から逃れられないのか。
その瞬間、心の奥の、最も命に近いあたりで何か壊れかけていたものが、崩れた。それに伴って得体の知れない感覚が生にしがみつく本能を急速に蝕んでいく。蝕まれ、硝子のように砕けては破片となり消える。
それならば、と唯一の支えだったイルリガートル台を手放した。誰のものかも分からない血に濡れたそれががしゃんと音を立てて地に転がる。
同時に立っていられなくなって、座り込んだ。
「
……
この血が、欲しいなら
……
幾らでもあげるよ。好きなだけ
……
喰えばいい」
手に握ったイルリガートル台を振るって抵抗する気力も無かった。いや、抵抗したところでこの人外には敵わなかっただろう。
「随分、容易く命を投げ出すんですね」
唯一の武器を捨てた人間を、人外は物珍しそうに眺めていた。きっと今までこの人外が見てきた人間達には皆その命に価値があり、それを自覚して生きていた真っ当で綺麗な人間達だったのだろう。
「
……
命乞いをしてほしいなら、他を当たってくれ
……
抵抗も逃亡も
……
もう、疲れた」
逃亡の途中で出来た傷からは真っ赤な鮮血が流れ出し、皮膚を濡らしている。貧血も相まってか、もう立っていられなかった。
……
失血死、その三文字が頭を過ぎる。
このまま死んでしまいたい
……
叶うならば殺して欲しい。失血で緩やかに死ぬよりも先に。
強引に患者衣の首元を引っ張り、そこから覗いた自身の白い首筋を指差す。
「
……
早く、喰い殺してくれ」
利用されるしかなかったこの生を終わらせてくれと希う。価値の無い者のくせに人を殺し、白い檻から逃げ出した咎人を裁いてくれと、罪を乞うふりをして救済を求める。
「生きて、いたくない
……
」
どうか、死を頂戴。
此処が、終着点。この盈月の夜が最期。この際神だろうと人外だろうと人間だろうと、終わらせてくれるのなら誰だって良かった。
「
――
ならば、望み通りに」
死を宣告する冷たい口付けが落ちる。形の良い唇が開き白い牙が覗いた、瞬間。その白が首元を深く貫いた。
しかし、鋭い牙が肉を裂いて深く深く沈み込んでいるというのに、感じたのは脳髄まで満たす痛みではなく、甘やかで抗いがたい酩酊だった。
「
……
っ」
赤い雫が首を伝い、また患者衣を血の赤色で染める。忌み嫌った赤色とふわふわとした感覚に眉を寄せた。
こんな、痛みを誤魔化す為の甘さなど要らないのに。どうせなら痛みが欲しかった。痛くて苦しんで死ねたのなら、少しは生きていた意味も感じられた気がしたのに。
……
今更、そんなこともどうでもいいか。
人外の喉が上下する。ただでさえ残り少ない命が飲み干されていく。霞んでいく意識で死をもたらす存在の輪郭に縋る。そしてその鋭い牙が命を刈り取ってしまう、直前。
首元を突き刺していたそれが引き抜かれ、生温い舌にとめどなく流れ出ていた血が止められる。すぐそこまで近付いていた死の気配が遠ざかっていく。
「
――
どうし、て?」
殺すんじゃなかったのか。ぼんやりとした意識の中で戸惑いながら人外へ問う。
「
……
貴方の血は
……
今すぐ、喰い尽くしてしまうには少しばかり惜しいですね」
喰らいついた牙と口の端を赤く濡らして、人外は言った。先ほどと一切変わらない表情。その瞳だけに、満たされたような、恍惚そうな色を宿して。
「
――
生きていたくないのなら、僕の元へ来ませんか」
最期になるはずだった綺麗な盈月の夜に、差し出されたのは死を纏う冷たい手。この手を取れば、待ち望んだ死は遠のく。それは僕が望んでいるところではない、はずだったというのに。
躊躇うように伸ばした指先が、人外の指に触れる。伸ばした手を肯定と見做した人外は、微かに目を細め、静かな声でこちらに問う。
「
……
貴方、名前は?」
月明かりが照らした人外の姿を眺め、何故手を伸ばしてしまったのか、その手を取ってしまった理由も分からないまま。
僕は再び、夜の中で呼吸を始めた。
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ひゅう、と耳許で風を切る音がした。
近付いてくる硬い地面に、この身を打ちつけるまであと何秒だろう?加速度も加わって
……
いや、こんなこと計算する必要なんてない。
最期になるかもしれないというのにこんなことを考えているなんて、きっと走馬灯なんてものが無いせいかもしれない。この人生に大した思い出なんてものが無くて、どこまでも意味も価値も無かったのだと思い知ってしまうではないか。まあそれも、あと数秒でどうでも良くなる
――
上手に『死ねれば』の話だが。
瞼を閉じて一秒後。落ちた体に待ち望んだ骨を砕く衝撃も、冷たくなっていく末端の感覚も無い。
誰かに受け止められたような、衝撃を緩和されたような感覚だけが伝わってきた。
「
…………
また、死に損なった」
ため息混じりに開いた瞼の向こう。そこには無表情で僕を抱えた人外がこちらを覗き込んでいた。
「ため息をつきたいのはこちらなのですが
……
何度、自殺が未遂に終われば諦めてくれるのか教えて頂きたいですね」
「死ねるまでやる」
「非常に困ります」
困る、という言葉に一切耳を貸さないまま無理矢理腕から抜け出す。以前よりも少し高い崖から落ちてきたはずだが、こんなにも完璧に受け止められてしまうとは
……
今度はもう少し高いところを探そうか。諦めず次の手を考えているのがバレたのか、人外はため息をついた。
「本当に諦めが悪い人ですね」
「どうとでも言えば
……
毎回良いタイミングで来るね、君は」
「ご自分に首輪がついていることをお忘れですか」
革手袋に覆われた細く長い指先が優しく首元を撫で、金属の細いチェーンを掬い上げる。
「忘れてないよ。これがある限りは勝手に死ねないんでしょう?」
「貴方が『食糧』であることを了承している以上は」
ああ、そう、と無愛想に返事をした。
首にかかった首輪のような細いチェーン。ペンデュラムのように付けられているのは、空の薬莢だった。
どういう仕組みなのかは知らないが、これを着けている限りは生きているかだとか、大まかに何処にいるだとか、そういうものがこの人外に伝わるらしい。
あの月夜に贈られた首輪。それは僕にとって死を遠ざける呪いだった。
『
――
生きていたくないのなら、僕の元へ来ませんか』
恍惚そうな目で、そう言う人外。宵闇の中で輝く朧花色の虹彩は『食事』を終えたからか、先程よりも眩く輝いていた。
きっと、満たされた故の気紛れだったのだろう。この珍しい『食糧』を手元に置いておきたかったのだろう。
『貴方、名前は?』
差し伸べられた、死を纏う冷たい手。その手を取れば逃げないようにと軽々と抱きかかえられた。
『
……
ないよ、そんなもの。僕は
……
ただの被検体。管理番号しか
……
持ってない』
『名すら持たない被検体ですか。
……
これからは■■とでも呼びましょうか。呼び名がないよりはマシでしょう』
どんな名だろうが構わない。本来であれば、名前なんてものは僕の身に余るものだ。ただ
……
呼びやすいのなら、管理しやすいのなら、いくらでも『名前』というラベルを受け入れよう。
『勝手に、すれば
……
どう呼ばれようが、どうだっていい』
ただ、君のお気に召すまま。好きに呼んで、管理して。いつか殺して。人外はその言葉に静かに頷いた。
『
――
まずは眠った方が良いでしょう。話はそれからです』
ギリギリで意識を保っていたのは見透かされていたらしく、その言葉が夜の中に落ちた後からの記憶が一切ない。目が覚めれば人里から遠く隔絶された森の中。打ち捨てられ、寂れた建物の一室にいたというわけだ。
それからこの人外と交わしたのはいくつかの言葉と約束。
まず、人外が『リー』という名前であることと、好きに呼んで構わないということ。
ふたつめはこちらの普段の行動の一切を縛らないということ。その代わり、この『首輪』を着けておくことと、数週おきに彼の理性を蝕む渇き
――
ヴァンピールの本能を満たす為に『食事』としてこの身に流れる血を差し出す。これはある種の交換条件のようなものだ。
みっつめは互いに過剰に干渉しないこと。関わりは少なくするが、命の危機に瀕した場合にはその限りではないということ。お互いに情を持たないように距離を取る、というのが主な理由だろうが、あまりにも細やかな気遣いに、少なからず困惑はした。
リーにとっても死体を探して血を得たり、吸血を拒絶されないのは非常に楽らしく、実際に短ければほんの数分で終わってしまうようなものだ。
『
……
少なくとも、貴方のような被験体がいた施設よりはマシでしょう。自由にしていただいて構いませんので』
『随分、細かく気遣ってくれるんだね?それとも、食糧であることの他に、何か要求でも?』
『
……
別に、食糧であることを了承している以上、死なれても困ると思っただけです。人間は脆く、些細なことで命を落とす。特に貴方みたいな死にたがりは少し過保護なくらいで十分ですよ』
話は以上です、と扉の向こうに消えていくリーを見送ったのが、数ヶ月前のこと。
研究施設にいた頃と同様、血を利用されるというのは変わらないが、過酷な実験も、感覚が短すぎる採血もない。その上、今まで制限されていた行動も何一つ縛られない。思っていた以上にこの生活は快適だった。
まあ
……
時折こうやって自殺未遂を繰り返しては手を焼かせているが。
「
――
何処へ?」
歩き出した僕の背に投げかけられた問いに、指先で掬ったチェーンを揺らしながら答える。
「わざわざ聞く必要もないと思うんだけど。君はこれで場所分かるんだから」
ついてきたいなら勝手にして。それだけを残してリーに構わず歩を進める。
そろそろいなくなってもおかしくないが、まだいるだろうか
……
と覗き込んだ茂みの影。丸い瞳と目が合った。
「やあ、今日の気分はどうだい」
茂みに隠れ、寛いでいたのは黒い毛玉。ふわふわしたそれに腕を伸ばすとするり、と腕の中に入り込み返事のようににゃあと鳴いた。
「
――
猫?いや、これは
……
」
「これとは随分失礼な呼び方だな、同族狩り」
可愛らしい外見とは裏腹に無愛想な声。不思議そうな表情を浮かべていたリーは眉間に皺を寄せ、渋々これ呼びを改めた。
「
……
ケットシーですか。こんな所にいるなんて珍しいですね」
「死に場所探しに散歩してたら怪我してるところを見つけてね。見捨てておけなかっただけ」
「お人好しですね、こんな見ず知らずの毛玉を助けるなんて」
「好きに言えば。僕と違ってこの子は生きるべきだから」
ね、と毛玉に問い掛ければ、に、と短く鳴いた。
「ケットシーでも怪我をすることがあるんですね」
「俺たちをなんだと思ってるのか知らんが、このやたら気に障る物言いしかしない同族狩りがお前の飼い主か?」
「そ、僕みたいなのを拾っちゃう物好きなひとだよ」
「こんな奴に拾われるとは難儀だな。飼い主は選んだ方がいいぞ」
「引き裂かれたいんですか、この毛玉」
毛を逆立てて威嚇する毛玉といつもの数倍刺々しい言葉遣いのリーを見ていると、なんとなく同族嫌悪という言葉が浮かんで、喉奥で堪えていた笑いが抑えきれず零れてしまう。
「
……
ふふ」
「
……
なんですか」
「君も随分猫みたいだと思って」
そう言えば、目の前の二人は一緒にするなと言わんばかりの視線でこちらを見つめてくる。じとりとした雰囲気までよく似ていた。
「こんな同族狩りと一緒にするな、こんな奴と同じだなんてごめんだ」
「気に食わない毛玉ですが、その意見には同感ですね。こんなのと一緒にしないでください」
やはり、似ている。もう一度交互に見比べて、小さく笑う。
「
――
貴方も、笑うのですね」
「なんだ、笑ったところを見たことなかったのか。同族狩り」
「どうやら本当に引き裂かれたいようですね。黙っていてください」
毛玉はふん、と鼻を鳴らすと腕の中からすり抜けて華麗に着地する。そのまま茂みの方に向かう背に声をかければ、毛玉そのもののような存在がにゃあ、と返事をする。
「今日はもうのんびり過ごすさ。同族狩りに何かされたら来たら良い。恩返しくらいはしてやる」
「不要です。何かをするつもりも予定もありません」
随分食い気味に言うリーに、毛玉はもう一度鼻を鳴らす。
「それならちゃんと守っておけ。稀血ってのは狙われやすいからな」
「
……
言われなくても」
「
……
もしかしてこの稀血って君みたいなヴァンピール以外も欲しがるものなの?」
リーの返事を聞いて茂みの向こうに消えていく毛玉を見送りながら純粋な疑問をぶつける。リーはまさか知らなかったのかと言いたげな視線を寄越してくるが、こちとら研究施設に幽閉されてた身だ。詳しいことは知らない。
「まあ、貴方は人間ですし、知らなくても無理はないでしょうね
……
貴方が知らないだけで、珍しい血を欲しがる奴らはごまんといますよ」
なるほど、何度か襲われかけたのはそのせいかと呑気に納得してしまった。あまりの呑気さにリーは眉を顰めた、かと思えば誰もいないはずの方へ視線を向ける。しばらく眺めた後更に皺を深め、ため息をついた。
「不穏ですね
……
今日は帰りましょう。今の貴方には首輪がついてますし、基本襲われることはないと思いますが
……
注意はしてください」
人外だけにわかる何かがあるのだろう。その不穏さも一切感じ取れない人間はそれに従うしかない。それでもまだ心配なのか、振り返ってわざわざ言葉をかける。
「くれぐれも離れ過ぎないように」
「心配しなくても、変なところに行ったりなんかしないって
……
」
リーはどうでしょうねと幾らか表情を和らげ、またすぐ無表情に戻っては前を歩く。
……
まただ。どういう心境の変化か知らないが最近
……
更に些細なことまでこちらを気遣うようになった。
最初は単純に死なないように見ていただけだったはずだが、最近では些細なことを気遣って言葉をかけて、その無表情に見える顔にほんの僅かに安心そうな色を宿すのだ。特に面倒な訳でも無いし放っておいても構わない。
しかし
……
もし、余計な情を持ち始めてしまったとしたら?この、捕食者と被食者という関係を壊してしまうような感情を抱いてしまっているとしたら?そうなってしまったら
――
。
そこまで考えてそんなはずはないだろうと思い直す。何処まで行っても所詮は『食糧』でしかないのだ。きっと一時の気の迷いか何かでしかないのだろう。そう信じるように、その背を見遣る。
そう信じさせて欲しいという奥底の自分の声にさえ、気がつけないままで。
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あの日とよく似た、盈月の夜。眩い月光が打ち捨てられた建物の一室を照らす。
「
…………
」
互いに、言葉はない。首元に冷たい指が這い、人外特有の渇きに蝕まれた朧花色の虹彩が白い肌を捉える。
口付け、息をするように開かれた口から覗く牙が僅かに肌を掠める。そして、何度も貫くことを許した首元を抉られた。いつも通り痛みは全くなく、慣れた甘い酩酊だけが抉られた傷から広がり、生理的な涙が瞳に水膜を張って視界を覆う。何の感情も湧かない。自らの命の一部がその喉に飲み込まれていくのをただ感じるだけ。
何度か喉が上下し、最低限の食事を終えればすぐに首元から牙は引き抜かれる。傷口に生温い舌が這い、押し当てられれば存在したはずの傷は白い肌の表面から消えてしまった。
「終わりましたよ、簡単に手当てしましょうか」
「
……
いい、そのままで。表面は塞がってるし」
この治療を拒むやり取りも、もう何回目だろう。最初のうちは手当てしましょうなんて言わなかったはずだが。全部どうでも良いことだと、吸血しやすいように少しだけ広げたシャツのあわせを閉じる。
今日はどれぐらい吸われたのだろうか。そっと牙に貫かれた場所を撫でれば、リーが僕を呼んだ。
「
……
なに?」
「
……
いつも、痛くはありませんか」
痛くないか、というのは吸血の際だろうか。今更すぎる質問に、思わず首を傾げた。
「
……
すごく今更な質問じゃないか?別に痛くはないよ。痛くても構わないけれど」
「そういう訳ではなく」
じゃあいつの話だと理解できないままでいれば先程貫かれ、表面が塞がったばかりの首元を撫でられる。その手つきは、いつになく優しい。
「吸血の後
……
傷があった場所が痛んだりはしてませんか。僕には表面を塞ぐことしかできないので」
「別に、痛くなったりなんてしてない。いつもちゃんと良化してる」
「
……
なら、良いんです」
――
また、その目だ。
最近よく、その目をする。まるで何かを恐れているような
……
憂うような。そんな目をしている。こんな目を昔
……
何処かで見た。
「
……
なに、その目」
「その目、とは?」
目の前で揺れる瞳の既視感。見たのはいつだっただろうか。自分に向けられた目じゃない。誰かに向けていた目でもない。
「なんで、君が
……
」
――
ああ、そうだ思い出した。
これは鏡の向こうに見た自分の目だ。遠い昔、売られて研究施設に収容されてすぐの頃、子どもだった時の自分と同じ目をしている。
定期的に行われる採血、実験、休養。無理矢理生かされながら、到底人間を相手にしていると思えないような過酷な環境で、毎日毎日鏡越しの自分はそんな目をしていた。
ならば尚更、何故彼がそんな目をしているのだろう?
「君にとって、死んだってどうだって良い存在のはずだろう?」
所詮は『食糧』。幾らでも替えは効く存在なんだから。
ほんの僅か、自嘲するような冷たさすら伴ってそう言い放つ。稀血は確かに少ないだろうが、『食糧』ならば失うことを恐れる必要はない。何故かなんて、単純なことだ。
『食べれば』、いつかはなくなるただの消耗品。それに過ぎない存在なのだから。
「
……
僕には」
気のせいだろうか、今、ほんの僅かに
……
リーの声が揺らいだ気がした。
「
……
貴方を『食糧』として攫った僕には、貴方に生きていて欲しいと、願うことも許されないのでしょうか」
その言葉を告げられた一秒、息が止まるのにも似たような感覚を覚えた。静止した僅か一秒を破るように、リーは再び手を伸ばす。冷たい指先が触れ、反射的に拒絶しようとした僕の手を優しく包んだ。
「人外特有の渇き
――
今、僕のそれを満たせるのは貴方だけでしょう。ですが僕は
……
貴方に、渇きを満たして欲しいと望むよりも、生きていて欲しいと、望んで、います」
「っ、どう、して
……
そん、な」
思わず、リーの手を払い除けた。
「君にとって、僕はただの食糧だろう。その為に攫ったんだろう。それなら、そう扱うと決めたなら
……
最後まで
……
そう、扱って」
最後までただの『食糧』として扱って欲しかった
……
そう、信じさせて欲しかった。どうせ死ぬのなら、余計な希望も期待も抱きたくないのに。それを抱いてしまえば死ねなくなってしまうから。
「おかしく、なる
……
」
何もかもが狂って、おかしくなってしまう。これが僕だと信じ込んだものが崩れて壊れてしまう。
――
自分という存在に、価値があると錯覚してしまいそうになる。そんなはずは無いのに。
いつだって、誰の目も僕を見てはいなかった。誰もがこの身に流れる血だけを見ていた。利用価値があるだけの存在。今までずっと、希少な血液を生み出すだけの機械のように扱われてきた。
感情は不要だと思い知った。抗っても無駄で、ただ体を巡る命の赤色を奪われる為だけに存在しているのだと。死ぬことは許されず、無理やり生かされてはまた奪われることを許すよう強制された。
僕に、人間として生きる資格も価値もない。それがあの研究施設で知った自分の全てだった。それが僕の世界だった。
それなのに何故、君はそれを壊して僕を死から遠ざけようとする?
「
――
■■」
僕を呼ぶ声はあまりにも柔く、穏やかなものだった。
あの月夜で出会った時は、お互いになんの感情も抱いていなかったはずなのに。捕食者と被捕食者であり、死を齎す者と死を望む者。利害が一致していた、都合の良い食糧。それだけが僕達を繋げていた関係性のはずだった。
「なんで、なんで
……
喰い殺してって、言った、のに」
鋭く、肉を裂いて突き刺さる牙とその痛みを覆い隠して余りあるほどの甘い酩酊を無感情に受け入れ、この身に流れる命を、稀有な血を与える。それだけが僕達の関わりだったはずだった。目の前の人外ひとりに命の全てを捧げる。それで良かったはずだ。
――
それなのに。どうして?
「どうして
……
殺さないの」
どうしてそんなに優しい目で、僕を見る?
「そんな目で、見る、な
……
おかしくなりそうだ」
先程の恐れるような、憂うような目じゃない。今、リーが僕を見るその眼差しの意味を、そこに宿している感情を僕は知らない。何かがその意味を知ってはならないと警告している。知ってしまえば、理解してしまえば二度と戻れない。だから、触れてはならないと。
しかし同時に、例え二度と戻れないとしてもその意味を知らなくてはいけない
……
知りたい。そう思ってしまうのだ。そんな相反した感情にぐちゃぐちゃと掻き乱されては、思考が纏まらなくなる。
「■■」
もう一度、リーの声が僕を呼んだ。いつもの革手袋に包まれていない、白く長い指が髪を梳いて、優しく頰を包む。
「やめ、て
……
」
唇が、震える。
これを、受け入れてはいけない。これはきっと、僕を死から遠ざけるものだ。拒絶しなければならない。触れてはいけない。知ってはいけない。
「嫌だ
……
僕、は
……
」
死にたいだけ、その言葉は声となって零れ落ちてしまう前に、リーの腕に抱き留められ遮られてしまった。なんのつもりだと問いかけても返事はない。
「
……
離せ」
「いいえ、離しません」
「ッ離、せ
……
!」
どれほど抵抗してもその体を押し退けることも出来ない上に、ぎゅうと宥めるように強く抱きしめられる。分かりきっていたことだったが、やはり人間如きの力では敵わない。そう諦めて力無く床に手を投げ出した。
「もう嫌なんだよ
……
」
全部、君のせいでおかしくなってしまった。
本来であれば、あの逃げ出した月夜で全て終わるはずだった。何もかも置き去りにして呼吸を終わらせられるはずだったのに。今も無意味に全てを持ったまま呼吸をしている。
一体、いつになれば終わるんだ?
「
……
すみません」
それは何に対しての謝罪なのだろう。いつか殺すという約束を守れないこと?余計な情を抱いてしまったこと?分からない、知りたくない、知ってはいけない。しかし何も知らないでいることを、目の前の存在が許さなかった。
「
……
僕は、今まで奪うことしか出来なかった。ですから
……
貴方に、どんな言葉を掛ければ良いのか分かりません」
それならばいっそ、何も言わないままでいて欲しかった。何も言わないまま、ただ都合の良い食糧のまま死を待ち望んでいたかったのに。
「
……
痛かったですね、今まで」
どうして人間でない人外の君の方が、今まで出会った誰よりも優しい?
「ずっと、自分を殺し続けて」
誰にも認められず、愛されることもなく。ただ人形として生きることを望まれていたことが。
感じている痛み全てが誰にも理解されず、麻痺してしまうまで追い詰められては生きようとする気力さえも奪われて。
その言葉に、痛みが体を貫いた気がした。あの月夜に置き去りにしてきた痛みが鋭く、心臓の近くを突き刺す。
「
――
君が、知った風なこと、言うな
……
!」
誰一人にも触れさせなかった、今にも壊れてしまいそうな心の輪郭。強がりの仮面と無愛想な言葉、擦り切れるまで唱えた死にたがりの声で触れられまいと覆い隠した本来の繊細さ。たった今リーに触れられた心の輪郭は酷く脆く、人の心という形を保つのも限界なほど傷だらけだった。
「何も
……
知らない、くせに
……
痛い、なんて
……
」
何も知らない、当然だ。この痛みを一度でも彼に語ったことがあっただろうか。一度だって、この心を誰かに触れさせようとしただろうか。答えは、否。
それでもリーは僕の心に触れようと、拒絶されても僕を抱き留めた手を離さないままでいてくれて。計り知れないこの痛みを知ろうと歩み寄り、たった一片、たった一部だけでも和らげようとしてくれている。一歩でも、死から遠ざけるために。
――
それなのに、僕はその手を受け入れられないままで。
「ええ、僕は何も知りません。貴方はそれを語らない上に、僕は貴方を『食糧』として攫っただけの存在ですから」
「だったら、どうして何も知ろうとしないままでいてくれなかったんだよ
……
理解なんて、何一つ出来ないくせに」
「貴方の言う通り、貴方が感じ続けた痛みを僕が理解することなど叶わないでしょう。そもそも人間を理解することなど、僕たち人外には叶わない」
それでも、と真っ直ぐにリーは僕を見据える。
「それでも、望んでしまったんです。貴方のことを知りたい
……
何より、貴方という人間に生きていて欲しい、と」
……
人外という存在は、甘言を利用し、人を惑わしては害を為す。しかし、目の前の人外によって紡がれた言の葉はあまりにも真摯で、嘘だと言うにはどこか悲痛な願いを帯びていた。
今、リーが自らの本能に抗ってまで向けてくれているこの感情はなんだろう?これは、今まで触れたことがないもの。
あの施設で研究者達から垣間見た、平気で人を傷つける冷たい好奇心や興味でも、研究と為と大義を掲げて平然と人を利用して奪う悪意でも、常に向けられていた遠回しなシャーデンフロイデでもない。
むしろ『それ』はあたたかく、柔らかいものだった。
何故、こんなにも柔らかであたたかい感情が僕に向けられているのだろう?僕のような者に向けられるものではないと振り払おうとして、拒絶出来なかった。理由は、分からない。
まるで、眠る赤子を柔らかに包むような温もりだった。まだその腕に抱いていて欲しいと願ってしまうほどに心地よく、一度触れてしまえば容易く手放せないもの。指先で確かに触れてしまった、それは。
一生、無縁だと思い込んでいた、『愛』という感情だった。
「
――――
ぁ」
ぼろぼろと崩れるように、涙が零れた。
心の底で死を望み、芯までも凍えさせていた冷たさが、目の前の人外から与えられる何よりも『人間らしい愛』が齎した温かさに染め上げられていく。
「
……
どうして
……
今更
……
」
「そうですね、あまりにも今更です」
「
……
余計な情を持つと殺せなくなるって、知ってるはずだろう」
「ええ。ですから
……
今の僕に、貴方を殺す気などありませんよ。ただの食糧として扱う気もありません」
「
……
馬鹿みたい
……
食糧として攫ったくせに」
「確かに馬鹿みたいですね。
……
それでも、そう望んでしまった」
切れかかって、自ら絶とうとさえした世界と自分を繋ぐ糸。それは目の前のひとりによって丁寧に結び直され、再び繋がれた。
「君なら、僕を殺してくれると、思ってた」
この身に流れる命を飲み干して、奪って殺してくれると思っていた。何者にもなれないまま、名無しの命のまま終われると思っていた。それで、満足できたはずだったのに。
「でも
……
こんな、僕でも許されるなら」
未だに、僕に望むことが許されるのか分からない。
「
……
人間として、ここにいて良いって、言われたかった」
僕に縋ることが許されるだろうか。願うことが許されるだろうか。求めることが許されるだろうか。全て分からない。
「嘘だって構わないから、どんな形でも良いから、一度だけでも愛して、欲しかった
……
」
それでも目の前にしてしまった心の救済に、『愛』に。差し出された手を拒むことなど、できなかった。
「それを、君が、くれるの、なら」
この際、目の前にいるリーという存在が神だろうと人外だろうと人間だろうと、この無価値だと信じ込んだ僕に終止符を打ってくれるのならどんな存在だって良かった。
「お願い、まだ
……
抱いていて
……
」
僕が彼の背に回した手を拒まないことと、優しくこちらの背を撫でること。それが彼の返事だった。
抑えつける必要のなくなった全てが溢れる。涙に滲んだ声は次第に感情のままに落ちる泣き声に変わった。
温もりに縋ってしまった。離さないで欲しいと願ってしまった。まだ、その腕の中にいたいと求めてしまった
……
それを、叶えてくれた。
きっと、もう二度と戻れない。ひとり心を閉ざして死を望み続けた頃にはどう足掻いたって戻れないだろう。それでも、僕はこの手を取りたいと望んでしまった。
信じた全てが淪落していく、月夜。夜の底で差し伸べられた死を纏うはずの冷たい人外の手に、僕は生かされていた。
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「
――
■■」
静かな室内に、ひとりの人間を呼ぶ声だけが落ちる。
「何故、貴方に手を差し伸べてしまったのでしょうね」
今までだって、この命を保つために何人もの人間を喰ってきた。喰い殺してしまうことに躊躇いはなかった、ただの『食糧』だったのだから、死んだとしても何の感情も湧かなかった。替えが効く存在だったというのに。それなのに、どうしてこの人にはこんな情を抱いてしまったのだろう。
「不思議な人ですね、貴方は」
返事はない。ただ静かな呼吸が一つ、落ちるだけ。
多くの人間達に無意識的に向けられ、本来他人へと向けられているべき、シャーデンフロイデ。それを自らという存在に向けて、もう傷付く場所もないくらいぼろぼろの心を殺し、殺されていたひとりの人間は今、静かに腕の中に抱き留められていた。
「泣き疲れましたか」
泣いて泣いて、赤く腫らした目を閉じて眠る人間から、今までのような憂いも情を持たぬようにと遠ざけるためわざと演じ続けた無愛想さも感じられなかった。
「ようやく
……
受け入れてくれた」
不要な理屈も、信じ込んでいた無価値という虚構も全て取り払って、死に向かおうとしていた足を止めて、伸ばした手を受け入れてくれた。
「
……
貴方が、生きている」
自分の意思で死を拒んでくれたこの人が、どんな過去を持っているかはあまりよく知らない。しかし今までの言動からすれば
……
被験体として随分、厳しく『躾け』られたのだろう。
何度も何度も価値など無いと教えられ、自らもそう思い込むことで『死ぬことを許される理由』を数えては密かに安心感を得る
――
『生きる意味と価値』は無くとも、『死ぬ意味』なら余るほどにあるのだと。そうでなければ、死に瀕した時に『笑う』はずがないのだ。
あの月夜、初めて彼を喰った時
……
彼は近付く死の気配に、笑っていたのだ。
きっと本人でさえ気付いていないだろう。意識がゆっくりと霞み沈んでいく最中、口角を奇麗に歪めていたことを。
そうやって歪に染まった血の味は甘く、苦く、容易く中毒に陥ってしまうような蜜を騙る毒に酷く似た味がした。
――
それならば、今。『生きる意味と価値』を得たこの人の血はどんな味がするのだろうか。
先程、自らの鋭い牙を突き刺したその白い首を撫でながら、不意に触れた冷たい感覚に指を止める。
まるで首輪のようにその首に掛かっている細いチェーンを指先で手繰る。チェーンの先に付いているのは人外が持つ力を少しばかり込めた空の薬莢。この人が逃げてしまわないように、他の人外に取られないようにと付けた、正真正銘の『首輪』。
それを躊躇わずに、バキバキと片手で握り潰した。落ちた欠片が朽ちるように崩れ、影に溶けて消える。
こんなものはもう要らない。この人を一方的に縛り付ける理由はなくなったのだから。そしてふと、思いつく。
「
――
貴方に、新しい名前が必要ですね」
もう今の彼は名を持たない被検体でも、ただの『食糧』だった■■でもない。何に縛られることもない、ただひとりの人間なのだ。そんな彼に、相応しい名があるべきだろう。
人間達は名を付けることを命名と呼ぶ。実に言い得て妙な言葉だ。名前とは、多くの者達がその命を全うするまで名乗り続ける、命の名前。その命に贈られる名には祈りや願いが込められ、相応しい意味を持つ。時には先祖たる人間の名から名付けられることもあるらしい。
では、貴方にどんな名を贈ろう?
そんな悩みとは裏腹に、既に彼への一つの祈りを、頭の中に浮かべていた。
貴方が抱え続けたシャーデンフロイデを捨て去って生きていけるように、いつの日か
……
他でもない貴方自身が生きていたいと言えるように。
「
……
貴方というひとりの命へ、祝福を」
今まで、ずっと奪ってきた。暗い暗い夜の中、死という絶対的な静寂に包まれ、血塗られた道を歩いてきた
……
誰かの命に『生きてほしい』と祝福を与えることは、これが初めてになる。
「一片の光も差さない夜でも、迷わず歩ける導となるよう
……
この名を贈りましょう。新しい貴方の名前は
――
」
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