いを
2025-08-11 18:46:38
5198文字
Public 刀神
 

帰去来(Ⅲ)

青嵐
・紫垂月さん【Metol_P】
お借りしています。

 青い海と、青い山。故郷のものとは違うが、東京あちらのものよりは近しいと思った。一度、警察らがいる場所を振り返るも、じき渋滞は緩和されるようすだ。ゆるやかに車がこちら側に流れてくる。
 スマートフォンで、宿屋の位置を確認する。ここから歩いて三十分ほど。車ならば数分でたどり着くだろう。
「紫垂月殿、生気は十分ですか」
 彼は渡ってきた橋をじっと見つめていた。が、こちらに顔を向ける。影がくっきりとしていた。そのまま顔をこちらに寄せ、ささやく。
「あまり長くここにいない方がいいかもしれない」
……
 もっともだった。あの喪服の女が木の下に立っていたからだ。とっくにこちらに気づいているし、彼女はあきらかに誘おうとしている。白いパラソルに喪服という異様ないでたち。知らないふりをしようとも、新幹線ですれ違ったときから、もう遅い。だがこちらから話しかけようとも、どうなるか分からない。
 白い足袋は長い間歩くのにむかない。黒い足袋をはいた足を、人通りの多い道へと向けた。
 
 さわやかな柑橘の匂い。蜜柑の栽培が盛んだという。
 車がほぼ走っていない。もちろん、タクシーも少ないだろう。
「予約をすればよかったですね」
「まあ、仕方がない。少し歩こう」
 これくらいで根を上げるほど、足腰は衰えてはいないだろうというように、彼は笑った。
 そうして、青嵐の袂をついと引いた。さらうようにくちびるをあわせる。生気を少し吸ったようだった。
 思わず周りを見まわしたが、気にとめるようなひとはいない。ごほんと無理矢理咳払いをする。
「紫垂月殿。往来では、その」
「いいじゃないか。柑橘の匂いを嗅いだら満たされたくなった」
 楽しそうにくちびるを緩めるそのひとは、和ませようとしたのか、それとも単に正気が足りなかったのかは分からない。けれども肩に入っていた余計な力が抜けた気がした。
 直後、クラクションが2回、近くで鳴る。
 その方角を見やると、パトカーの窓からにゅっと体を乗り出して、先ほどの若い警官が手を振っていた。
「おや……
 彼は路肩に停め、手招きをするので向かう。
「さっきはすみません。先輩、いつもカッカしてて」
「いえ。お気になさらず」
「このへん、タクシー走っちょらんじゃろう」
 助手席に乗っていた男が笑った。浅黒い肌に、白い歯をしている。先ほどの現場で見なかった警官だ。
「乗りなさんせ。宿まで送ります」
……助かります」
 頭を下げ、「どこでお聞きになったんでしょう」と尋ねる。
 若いほうが「はあ」と眉根を下げた。
「島のええっと……山の方にいるお偉方からの依頼です」
植柾うえまささんっちゃ」
 隣の警官がいう。書類にあった名だ。
 そしてそのまま指で後部座席をさす。乗れということだろう。
「すみません。よろしくお願いします」
「その宿屋も植柾さんの息子が経営しているんですよ」
 若いほうが得意げに笑った。ふたりが乗り込むのを確認すると、ゆっくり動き出した。
「お名前を伺っても?」
 切り出すと同時に、助手席に乗った黒い男が「ああ!」と大袈裟に驚いた。
左柄さがら。こっちが土岐とき
 左柄という男の爪のあいだに、土が入り込んでいる。働き者の手だと思った。
「土岐は東京から来たけん、こっちの言葉は喋らん」
「ええ? そうですか? 結構移ったと思うんですけど」
「雲井さん……やったか。出身は?」 
「沖縄です。Y島よりずっと小さい離島でした」
「沖縄ですか。いいですねぇ。一度行ったことありますけど、綺麗だったな」
 青嵐はそっと目を細めて相槌の代わりとした。紫垂月頼宗はずっと外を見つめている。なにを見ているのか、——蜜柑畑だろうか。
「着きましたよ」
 いつの間にか車はなだらかな山あいについていた。大きな木が両脇に行儀よくたち、その奥には木造の門扉。扉は観音開きで開かれていた。奥に石畳が続く。なるほど、お偉方の植柾という人は、たいそうな器量らしい。本人ではなく、息子ときたのだから。
「ありがとうございました。左柄さん、土岐さん」
「植柾さんちは豪商やったや」
 パトカーを出たあと、耳打ちをするように左柄がいう。眉を顰めたような、かといっていけすかない、悪いものを見たようなようすでもない。
……心に留めておきます」
 荷物を取り出し、再び礼を伝える。ふたりは目礼をして、ガタガタとする道を去っていった。
「宿というのはここで間違いない?」
「そうですね。古宿上昌うえまさ。植柾さんの当て字で間違いなさそうです」
「そう」
 ざわ、と木々が揺れる。竹林もあるのか、遠くか近くで竹がしなって当たる音が聞こえてきた。
 他に客らしき人影は見あたらない。ただ、人間ではないものも一切、見えなかった。それこそ、不審に思うほどに。
「なにもない」
 ポツリとこぼす。独り言だ。誰かに拾われるまでもない。
 スーツケースの取手を握り、石畳の上をがたつかせながら歩いた。奥には立派な墨の太文字で、上昌と書かれている。玄関は門扉と同じく木造。横に広く、磨かれた床板が美しい。屏風が立てられた中央にひとり女性が坐っていた。髪は櫛形の簪でゆったりと結われ、こちらをみとめると白い頸が見えるほどに手をついた。白い半衿が眩しい。
「遠いところから、よくお越しくださいました」
 赤いくちびるが必要最低限に動く。着物が——黒い。いや漆黒ではない。濃い碧色。切れ長の目は、黒真珠のようだった。
「お世話になります。……あのお二人を手配してくださったのは」
「わたくしです」
 柔らかい笑みだが、これは踏み入るなというたぐいだ。これまで嫌というほど見てきた。
「お預かりします」
 彼女がそういうと、奥のほうからやってきた男衆がスーツケースを受け取る。青嵐の手の妖刀には、決して彼らは触れなかった。
「お部屋はこちらです」
 長く伸びる透かしの欄間のすぐ下には花瓶がかかり、実った橙色の実とみずみずしい葉が生けられていた。
 廊下は鏡のようによく磨かれている。ここにスーツケースなど転がしたら土まみれになってしまうだろう。
 女は立ち止まると、両手で戸を開けた。青嵐の家の戸とはちがい、いたみのないそれはすべらかに開いた。
「お夕飯は一九時から、ご朝食は八時からでございます。お風呂は部屋風呂ですので、ご自由に」
 的確に、そして必要なことのみをふたりに告げた。食事は今どき珍しく、部屋に持ってくる旨をつけ加えた。 起き上がり小法師のような仕草で立ち上がった彼女は青嵐、紫垂月頼宗を見つめ、そしてついと流れるように背けた。
「ほかのお客様はいらっしゃいません」
 後ろ姿でいい、足音を立てずに彼女は立ち去った。
 まるでふたりに言い聞かせるようなそぶり。男衆は靴箱のあたりにスーツケースを置き、頭を下げて同じ方角に歩いていった。無口なひとのようだった。
 ふうと息をつき、部屋を眺める。
「どうやらあまり歓迎されていないようです」
「そのようだね」
 けれどもそういった扱いには慣れている。都会の人間をよそ者扱いしているというより、ただ単に天照という組織を信用していないようだった。
「これは少々、難儀しそうです」
 まだなにもわからないから。そのことばを呑み、改めて部屋を見まわした。
 寝室はまた違う部屋のようだった。
 ——窓から、海は見えない。
 青い山々がゆったりと横たわっている。がらす窓に、ぼんやりと青嵐の姿が映った。
 ただ広い。ずいぶん、広い。部屋風呂といっていたから脱衣所があり、その向こうに湯船があるのだろう。
「紫垂月殿、お疲れのようでしたら寝室で休まれては」
「もう夕刻だ」
 空は茜色になり始めている。あれほどまでに濃かった空の青は黒くなり、身を潜めていた。
 蒼黒いから、窓にもよく映る。
 昼食は新幹線の中で早めにとった。腹が減ったかと問われれば、すこし、と回答するくらいの具合だ。
「主こそ休んだらどうだい。疲れた顔をしている」
 襦袢と着物が、重たい。まるで水分をふくんだようだ。
「今日は無事にここへ辿り着いただけでよしとしましょうか」
 天照へ業務連絡はしておくが、今座ったら根が張りそうだ。
 もともと、今日は移動して地盤を少々ととのえ、調査は明日からとスケジュール上なってはいる。挨拶を済ませ、数人とはいえ島の人間に顔を覚えてもらえたことで今日の任務は終了とする。
 ふっと苦笑した。
 十年、いや二十年前なら、これほどまで体力も気力も落ちていなかったであろうし、自分に甘くもなかった。
 ただ、必死だった。
 窓の外を見つめる自分。老いたと思う。空の色が余計青嵐をやつれさせて見せた。その後ろに紫垂月頼宗が立っている。
「夕食まで少し休みます」
 寝室には行かず、広い畳の部屋の座椅子に座る。机の上には茶と茶碗一式、申し訳程度の和菓子が盆の上に乗せられていた。
 紫垂月頼宗は外を見つめている。ここにきてから、よく外を見ていると思う。なにか見えるのか、それとも単に珍しい景色だからか——
「なにか、見えますか」
 そう思っていると、口をついて出ていた。
「空の色が違う。海の色も、花の色も、匂いも全て違う。ここは」
 僕たちが住んでいる場所と、という。不意に彼はことばを切った。そして、こう続ける。
「僕たちが住んでいる家と違う」
 ——うずくまるように坐っている男に、彼は子守唄をうたうように囁く。
 その言葉に今更、本当に今更、おなじ場所に住んでいることを噛み締めた。おなじ景色を見て、おなじ花の香りを嗅ぎ、おなじ酒を飲んだ。
 彼はほほえんでいる。いつものように。
「そうですね」
 ただ、ひとこと。それしかいえなかった。疲れていたからではなく、それ以上の言葉を持ち得なかったから。
 衣擦れの聞き慣れた音。
「私は」
 視線をすべらせ、妖刀を見る。彼の足もとが見えた。
「だれかとこうして過ごすことはありませんでした」
 家族はいた。だが、暗がりで見ていた人たちの顔も声も、青嵐に向いているようで、からだに押し込まれた何かを見、語りかけているようでならなかった。
 それでもさみしいとは思わなかった。最初からひとり、最後までひとりだったからだ。さみしいという感情を、もとから持っていなかったのかもしれない。
「誰かといるということは当たり前のようでいて、難しいものですね」
「自分以外の存在だから」
 彼はそういった。自分以外のものはやはり分からない存在なのだろう。長く、長く生きてきた彼でもそう思うのだろうか。
 盆の上の茶碗と菓子がひどくよそよそしく見えた。
 窓の外からひぐらしが鳴いているのが聞こえた。
「疲れているんだろう」
 穏やかな声。視線を下げたままでは、彼の表情までは分からない。声——声色だけしか。
「僕と出会った時は他人への興味なんて、あまりなかったのにね」
 人間は変わってしまうね。そういったのか、定かではない。
「不変ではありません。人間は。あなたがたも変わるかもしれない。……変わらないかも、しれない」
「人の心は移ろう」
 美しい目を見上げる。西陽が眩しい。逆光で、彼の顔が翳るけれど目だけはよく見えた。
 ゆっくりとほほえむ。
 そう、人の心は移ろう。刀神かれらもきっと。時間の流れとともに、移ろうのだろうか。長い時間をかけて、死んだおのれの隣人を忘れていくのだろうか。それもまた、変化だと思う。
「十年、二十年後、今より老いて」
 紫垂月頼宗はくちびるを結んでこちらを見下ろしている。
「役に立たなくなったとき、私は死にます」
 ——私が私を殺すのだ。
「それがさだめです」
 彼はなにも言わず、畳の上に坐った。
……それが君の、変わらないこと?」
「きっと」
 この刀神が自分のことをどう思っているのか分からない。嫌ってはいないであろうことは、わかっているけれど。
 白い手が手招くようにゆらめいた。陽炎のようだと思った。
 頭のうしろをゆるく掴まれ、引き寄せる。
「十年も二十年も同じさ。僕たちにとっては、あまりにあっという間だよ」
 耳元で囁かれたことば。時間というものは彼らにとって悲劇なのか喜劇なのか。そんなことさえただの人間である青嵐には分からない。
「あなたもいつか忘れてくださるでしょう」
 忘れないで。あなたの心の中を独占してしまいたい。そんな傲慢なことを願ってしまう前にこの生は終わっていくのかもしれない。少しずつ。
 ——ひどいことを言うね、青。
 紫垂月頼宗はそう呟いてくちびるをあわせた。
 
 生気は、昼間のように持っていってはくれなかった。