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香坂
2025-08-11 16:49:44
4598文字
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ひろい世界を
メディウム:画家と暮らす庭師と、不自由貴族が夜の待ち合わせをする話。
※2024/6/9 にXで公開した話の修正ver.です。
※ssp公演の設定とは大きく異なります。
※庭師と貴族の間に恋愛感情の表明ともとれる描写があります。
陸の描く絵が、環は好きだ。
仕事を終えて帰宅すれば、一日中家にいた陸に出迎えてもらう。隣のマリーの家の羊が子羊を産んだとか、帰りに寄った果物屋でブルーベリーをまけてもらったとか、そんなたわいもない話で夕食を賑やかに過ごして、後片付けをすれば、あとはお互い好きに過ごす時間。
環は朝早くから出るので、あまり夜更かしはできないが、休みの前日に、陸の小さなアトリエに入り込んで、陸の絵を描く背中を眺めるのが環の楽しみだ。大人2人分の高さと、両手を広げても届かない大きなキャンバスに、夜な夜な絵具を乗せていく。一カ月前いきなり巨大なキャンバスを張り始めた陸に、ついに大口の依頼でも来たのかと興奮して聞いてみれば「これは売らないよ」と陸は笑った。日中は売り物用の絵を描くから、息抜きに描くのだと。流行りの裸婦像でも光の多い植物画でもない、陸は海を好んで描いていた。壁一面の青が見るたびに深まっていくことに、環は言いようのない喜びを覚える。
(
…
どこまでも飛んでいけそうな、空の色)
高価な青い絵の具を大胆に使って、迷いなく筆を置いていく様を見つめる。環の稼ぎはほとんど画材に消えいき、陸はいつもそれを気にするが、それが環の好きな絵に生まれ変われるなら、いくらでも働こうと思っている。
(あー
…
そろそろだ)
明け方まで見守っていたい気持ちはあるが。今晩はもう行かなくては。汚れを落とす替えの水を用意しておこうと、ランタンの横に水差しを置こうとしたら、キャンバスに顔を向けたままの陸から声をかけられた。
「環ーランタン持っていっていいよー」
今日新月でしょ、となんでもない風に続けられて、思わず水を溢しそうになる。
「
…
持っていったら、りっくん続き描けないじゃん」
「もう一個の方に油入れるよ」
「もったいねー」
「今週一枚売れたから平気だって」
週に一度、夜に環が外出していること。ずっとキャンバスに向かっているから気づかれていないと思っていたのに。
「なあ、いつから
…
?」
「え、最初っから。環はオレを何だと思ってるの」
「だって、ずっと集中して描いてっし」
「こんな狭い家で隠し事なんて無理だよ。どこ行ってるかまではわかんないけど」
「ごめん」
「いいって。いってらっしゃい」
アトリエを出ようとドアに向かった環に「あ、オレお腹空いちゃったから、お土産に甘いものがほしいな〜」と追い打ちがかかった。
「りっくんぜってえ知ってんじゃん!」
「知らないってば!ほら早く行きなよ!」
◇
日中はのんびり歩く通りを、夜は駆けて行く。いつも会える時間が限られているのだ。ー俺も、あの人も。すぐに仕事場である街一番の貴族宅に到着して、昼間でさえ環は通り抜けできない表門を過ぎて、裏庭直通の小さな門を目指す。夜は施錠されているそこは、今日だけは閂がされていない。ランタンの明かりを吹き消してしまえば、辺りは一面暗闇に包まれるが、目を閉じても歩けるくらいに、この庭の見取り図は体に叩き込んである。今が盛りの白バラの植え込みを通り過ぎて、庭師の休憩用にと建てられた小さな小屋─環が仕え始めた頃にできたものだ─に辿り着く。人々の声と夜を忘れるほどの明かりで賑やかな表の豪邸とは逆の、月明かりすら落ちない真っ暗闇に響く控えめなリュートの音色。小さな窓から微かな明かりが漏れていて、よかった、今日も間に合ったと安堵する。
鍵もないくらい簡素な木製のドアを覗くと、白髪の青年がリュートを爪弾いている。暗闇でも高価だとわかる、深い紫色で織られた絹を纏った青年は、ドアが開かれたことに気づいて顔を上げる。
「今日は来ないのかと思った」
「まさか。約束したじゃん」
週に一度の夜が更ける頃、庭に忍び込んでの貴族の青年との逢瀬。それも環の密かな楽しみだ。
◇
「─んで、今はすっげえデカいキャンバスに海描いてる」
「海?随分珍しいモチーフだね」
「なー、りっくんも直接見たことはないけど、いつか行ってみたいって」
「その絵、ぜひ見てみたいよ」
昼間の屋敷で見かけるときは、堅苦しく険しい顔をしているとこの多い彼──屋敷の主の一人息子である壮五は、ここで会う時は険がとれたように穏やかに笑う。彼が柔く笑う度に心が跳ねる意味を、環はまだ知らない。でも、陸の絵の話やなんてことのない街の風景を楽しそうに聞いてくれるから、もっとその顔を見たいと思って、環は今日もたくさん話す。
「ほんとにでっけーの。この小屋に収まんないくらい。
…
うちに来たら見せられるのに」
「僕はなかなか街を出歩けないからなあ。彼さえ良ければ言い値で買うのに、売らないなんてもったいない」
「もー、すぐお金で解決しようとする!あんたのそーゆーとこはきらい」
「嫌いなところだけ?」
ポロン、と日に当たって労働することのない、白く美しい指が、弦を弾いて先程の続きを奏でる。唇を尖らせていた環の口元も、優しい音色に徐々に緩んでゆく。
「あんたのリュートは、優しいから好き。聴いたことない曲ばっか弾いてるよな」
「
…
うん、僕の叔父が作った曲」
「そーなん?いー曲じゃん。俺は好き」
「ありがとう。
…
もう死んじゃったけどね」
「そっ、か
…
」
あ、しまった。一緒にいる間だけでも笑っていて欲しいのに、ほんの少し曇ってしまった表情に環の心も同じくらい暗くなる。何か、彼が喜んでくれるようなこと、そうだ!
「なあ、りっくん呼んでこの小屋の壁に絵描いてもらうのはどう?」
「えっ」
「りっくんも、いつか壁に直接描きたいなーって言ってたし」
「強引だなあ」
「いーじゃん。海でも空でもなんでも、あんたの好きなモチーフ描いてもらって」
「好きなモチーフ
…
」
「なんかねーの?」
「なんだろう
…
」
「あの屋敷んなか、いーっぱい絵も彫刻もあるんだろ?俺は見たことないけど」
「確かに芸術品は収集しているけど、全て父の采配だからね。著名な作家か、社交界で目を惹く華やかさかどうか
…
あの作品たちが自分の好みかどうかなんて、考えたこともなかったな」
「ふーん」
「
…
この叔父の曲も、あそこでは弾けないんだ」
「え、そうなん?こんないー曲なのに」
「叔父は有名じゃなかったから
…
」
たったそれだけで、あの屋敷からは外されてしまう。環には全部知らない世界だ。全部の植物の世話に一日かかるほど広い庭に、休憩のときにくれる多色の金平糖はとびっきり甘くて、夏は涼しげで光沢のある薄手の羽織りに、冬は綿の詰まった服を纏える彼。環の持っていない全てを持っているのに、貧しくても陸の絵が好きだと言える心が、彼には無いのだろうか。
「好きなものって、なんだろうな。僕には
…
」
そんな彼の言葉に、環は最初にこの小屋で壮五と出会ったときのことを思い返す。違う!彼にもきっとある。環はずっと覚えている。忘れ物を取りにこっそり忍び込んだ夜の庭で、この小屋で一人楽しげにリュートを弾いていた彼のことを。夜の楽しみが増えたあの日のことを。
「大丈夫」
「?」
「ちゃんと、ある。だってあんた、叔父さんの曲覚えてんじゃん」
「
…
!」
「なんでもいーじゃん。この小屋の中なら、あんたの自由だよ。好きな曲弾いて、好きなもんに囲まれてもいーじゃん」
蝋燭が燃え尽きる直前の、少し激しくなった明かりの勢いに照らされた頬に、雫が一筋伝っているのがわかった。あ、この人も泣いたりするんだ、と思っていると、突然強く抱きしめられた。
「うわ、ちょっ」
「ありがとう。大好き」
「だ
……
!?」
急に近くなった距離と言葉に、心臓が全力疾走した後のように激しくなる。変な汗が色んな所から噴き出して、壮五の名前の付けようがないくらい良い匂いと混ざらないか不安になる。何かが焦げるような、じりじりという音がする。胸の気持ちが焦げる音かと思ったら、小屋に据えた陶器のランタンに入れてあった蝋燭の芯が燃え尽きる音だった。煙を残して小屋の中は一気に暗くなる。
「きゅ、急にごめんね。もう戻らなくちゃ」
「あ、う、うん」
蝋燭に火が灯っている間だけ、壮五はほぼ毎晩開かれる舞踏会からほんの少し抜け出せる。離れた温度を名残惜しく思えば、闇に慣れた目でもわかるくらい真っ赤な顔をした壮五と目が合う。
「自分で言って照れてんの、ウケる」
「僕もびっくりしちゃって
…
君といると、調子が狂うなあ。自分が自分じゃないみたいだ」
「そう?今の方が、なんか自然な気ぃするけど」
おそらく自分も、彼と同じくらい赤くなっているのだろう。誤魔化すように茶化して「早く行かないとじゃん」と急かす。「うん、また来週ね」と言い残して壮五が小屋を去っていく。一人残された環は約束が続いたことに嬉しく思うのと同時に、未だに跳ねる心臓を押さえてしまう。
(好きなものはわかんないのに、俺には大好きって言えるんだ
…
)
加速する鼓動の意味を、環が知るのはまだもう少し先の話。
◇
「環!上見て」
「上?うぉっ!」
翌日の夕暮れ、買い出しに出かけた陸と環は、地面に落ちた大きな黒い影に大きな声を上げた。
「でっけえなあ、あれ名前なんだっけ、んーと」
「ほらあれじゃない?えーっと、あっ!」
「「飛行艇!!」」
ハモったー!と顔を見合わせて笑っていると、空を舞う飛行艇からチラシが降ってきた。合わせて遠くから賑やかな音楽と歌声も聞こえてくる。
─さあ、さあ!Twilight Troupeがやってくる!
一瞬のきらめきを連れてくる!
一夜限りの公演を、この街の皆さまへ!
「あれってもしかして、奇術芸団の飛行艇
…
!?」
無数に降ってくるチラシを背丈のある環が一枚掴み取る。
「
…
明日夕刻──広場にて。一夜限りの夢のショータイムをみなさんに、って」
「すごい!Twilight Troupeの公演が見られるなんて
…
御伽話の存在じゃなかったんだ
…
ねえ行こうよ環!」
「俺ら行けんの?」
「行けるよ!子供から老人まで、楽しいことはみんなのものなんだから!お金はほら、ジャッキーから前借りすればいけるって」
「あのじーさん、りっくんの絵ぼったくるから貸し作りたくねー」
「でも、こんなこと滅多にないし
…
」
真剣に考え込んだ陸の横で、環だって興味がないわけではないので必死に考える。夕刻なら仕事も終わっているし、あそこの広場なら遠出の難しい陸の体でも問題ない距離だ。
(
…
あ、そーだ)
「じゃあ俺が給金前借りしてくるよ、そっちのほーがマシ」
あの屋敷の主人、壮五の父親とは話すのさえ苦手だが、背に腹はかえられない。給金の交渉ともう一つ、─壮五を屋敷から連れ出す許可を。
(いや、許可なんかなくったって、俺はあの人を連れ出そう)
手の中にあるチラシを見つめる。あの夜、暗闇で見た涙に、小屋の中の自由だけじゃなくて、ほんとの自由ってやつも、見せてみたいって思ったんだ。
「だからさ、りっくん」
「んー?」
もう一人一緒に呼びたい人がいるんだ、と言ってみるだけなのにひどく緊張する。軽く吸い込んだ息が、震える。
飛行艇は陽が落ちるまで街中を旋回し続けていた。
自由への切符を空へと散らしながら。
Fin
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