猫澤
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一章 迷子のてけてけさん


 ふわふわと。淡く、やわく、ぬるい微睡みを揺蕩う。
「ぬ……ぐおお……
……くん。……さくん、起きて」
「ぬう……あと五分…………むにゃ……
 透き通ったあまい香り。花の匂いだ。ゆらゆらと不規則に体を揺さぶられ、司はむずがるように眉を顰めた。
 まだ……やわらかなシーツの海に溺れていたい。
 穏やかな声が耳朶をくすぐるが、朝と呼ぶには部屋の中は薄暗く、起きるような時間ではないはずだと手前勝手に結論つけた。存外、全身が休息を求めているのか、どうにもこの心地よさを手放し難くて仕方がなかったのだ。
 けれど、声の主はそれを許してはくれないらしい。
「司くん」
「ぬ」
 ぱちりと目蓋を持ち上げて、いの一番。視界いっぱいに飛び込んだ端正な顔立ちにヒュッと司の息が止まった。
 吐息がくちびるにかかる。それだけで眠気などは一瞬のうちに飛び去って、司は寝起きということすら忘れて悲鳴をあげる。
「ぬおおおお――⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎ る、類⁉︎」
「おはよう。起きたばかりなのに元気だねえ……
「すまない……だが寝起き早々お前の顔がドアップはだいぶ心臓に悪いぞ……!」
 おかげで掠れた喉がひっくり返ってしまった。
 ン、ン、と調子を整え、寝汚く垂れていた涎を手の甲で拭う。
 慌てふためく司をひとしきり愛おしげに見つめたあと、類は寝癖のついた髪に指を絡め、やさしく梳いた。
「というか……ここは……
 最低限の家具だけが敷かれた簡素な室内。閉め切ったカーテンの隙間から射し込む陽光は、すっかり茜色に染まっている。
 それから――窓から街の風景を見下ろして、司は微かに喉を震わせた。
 猫又。ろくろ首。人面犬に、垢舐め。当然のように道ゆく異形の者達。どうしてもぞっとしてしまう。司は幽霊やおばけを熱心に信じているわけではなかったが、こうして目の当たりにしてしまっては考えを改めざるをえなかった。
 あやかし達が暮らす世界、〈裏シブヤ〉。
 ――そしてその街角に座す〈不思議探偵事務所わんだほい〉。それが今、自分達が身を寄せている場所の名称である。。
「そうだ……。ここは妖怪がはびこる世界。オレ達が生きている世界とはまた別の平行世界で、なぜかオレ達はそこへ迷い込んでしまった」
 ああ、と類が頷く。
「そこで出会った僕達と瓜二つのあやかし――カミシロさんとテンマくんのご厚意で、この探偵事務所の客室にしばらく泊めさせてもらえることになったんだよね」
 類の身動ぎに合わせて、ぎし、とベッドの脚が軋む。その広い背中を横目に見つめ、司は小さく吐息を零した。
 ――聞けばこの事務所はカミシロの所有する物件で、二階の一室でカミシロ本人も寝泊まりしているらしい。他に居住者はおらず、敷地内に入る者といえば助手であるテンマと、その従者である狸と狐だけ。つまるところ、少なくともここに滞在するあいだは他のあやかしの目に触れることもなく、身の安全が保障されているというわけだ。
「あやかしの世界、か……
 昨晩、テンマとカミシロに見つけてもらえたのは幸運だった。
 司の脳裏に昨夜の出来事が蘇る。公園で最初に出会ったあやかし――口裂け女。相対した彼女からは明確な悪意や殺意、害意のようなものを感じた。
 執拗に魂を求める様子は、異常なまでに鬼気迫るものがあったように思う。思い出すだけで背筋が凍る。
 シーツを握りしめ、じっと司が俯いていると、怯えているように見えたのだろう。慰めるように類が肩をやさしく撫でた。
「大丈夫だよ。カミシロさんも言っていたように、元に戻る手段はきっとどこかに必ずある。問題は……手段を探そうにも、手ぶらで外を出歩くのは危険だということだね……
 類は困ったように眉尻を下げて窓の外へと視線を移した。
「現状、あの口裂け女のようなあやかしに襲われても僕達には身を守る手段がないし……護身用の武器を作るにも手持ちの工具が少しばかり心許ないな」
「むしろ、壁に引き摺り込まれているあの状況でよく工具を手放さなかったな」
「備えあれば憂いなしと言うだろう? 工具セットは常に肌身離さず持ち歩いているよ。こんなこともあろうかと、ってやつだね」
 ただ、妖怪相手に物理攻撃が効くかどうかわからないけれど――と類が付け加える。それに司は「ふむ」と曖昧に相槌を打った。
 テンマやカミシロには実体があったが、人魂なんてものも存在するくらいだ。武器を作ったところで一筋縄ではいかないかもしれない……
 ……前途多難だ。
 室内が夕焼けに染まって、司と類の影を長く伸ばしている。
 いわく、あやかしは夜行性で、日が高いうちは暗闇か影に潜んでいることが多いのだそうだ。ゆえにこちらの世界では日暮れからが事実上の〈朝〉となる。
 郷に入っては郷に従えというし、突然非日常に放り込まれて興奮していたのもあってか、昨夜は司達も夜明け頃にようやく寝ついた。くあ、と欠伸を噛み殺す。そのうち慣れるのかもしれないが、当分は時差ボケをしてしまいそうだ。
……でも本当に、君が無事でよかったよ」
 しみじみと零れ落ちた声を拾って類を振り返る。なんだか存外、弱々しい声色だった。
「類……
 司が窺うように類の瞳を見つめていると、類は片頬を持ち上げてなんでもない風を装いながら、――けれどその実、瞳の奥に哀愁を隠しつつ、言葉を重ねる。
「君の身に何か起きていたらと思うと……想像だけでも、心が張り裂けてしまいそうだから」
……大げさな奴め。だが……それは、オレも同じなんだぞ。類よ」
「司くん……
「類が壁に飲み込まれたときは、本当に生きた心地がしなかった。それに口裂け女に襲われたときも……。こうして無事でいてくれてよかった。本当にな……
 手でしっかり押さえていないと、あの瞬間の恐怖を思い出して震えてしまいそうだった。自分自身に危害が加わるよりもよっぽど、類が苦しい思いをする方が……耐えられない。
 司が微かに身動ぐ。シーツの擦れる音が、静かな室内に響く。
「好奇心もいいが、危ないことはしないでほしい。自分の身を犠牲にオレを生かそうとするのもやめてくれ。オレはもう、お前なしでは生きていけない体にされてしまったのだからな。きちんと責任はとってもらわねば困る!」
「おや……フフッ。責任か……
 少し大袈裟に言い過ぎただろうか。類は大きく目を見開いて、やがて噛み締めるように眼差しを和らげた。
 類の手がふらりと浮かんで、司の頬を軽く撫ぜる。
 ぬるい体温。壊れ物に触れるような仕草がこそばゆく、くすぐったいぞと苦言を呈せば――今度は両の手のひらで司の頬を包み込んだ。
 視線が絡まり合う。檸檬色の双眸に、司の色が混ざっていく。
「もちろん、この身が朽ち果てるまで、君と生涯を添い遂げる覚悟はできているよ。未来のスターと演出家としても……
 それから。
「恋人としてもね」
「! …………
……、」
 ゆっくりと。類の目蓋が下ろされる。長い睫毛だ、と見惚れるうちに鼻筋がぶつかって、くちびるに類の吐息が触れた。
(う……
 胸焼けしてしまいそうなほどのあまい雰囲気にはまだ慣れない。
 類と心を通わせて、絆を深めるうちに――いつしか仲間や友人同士といった肩書きに〈恋人〉が追加されて。いくつか季節が過ぎたというのに、類とキスする瞬間はいつも緊張してしまう。
 作法とか、定石とか、予習したものの全てが類の前では意味を為してくれないのだ。互いの呼吸を感じるたびに心臓はドラムロールまっしぐら。思考など、明確な輪郭を得る前に有耶無耶になってしまう。
 ただ、類のまっすぐな愛情は隔てなく受け止められる。それが何よりもうれしく、愛おしい。
 司がそっと類の背中に腕を回すと、類が微かに目を細めて微笑む。食むような口づけを飽きもせず繰り返すうちに、徐々に熱が高まって――ベッドに倒れ、司も負けじと類の頬やら耳やらにくちびるを押し当てていると――ふと、こちらに近づく軽快な足音に気がついた。
 次の瞬間、部屋のドアが容赦なく開け放たれる。
「お客人――! 朝食の用意が出来たぞー! って、あれ?」
「「……」」
 ひょこりと顔を覗かせる、狸耳の少年。たしか昨日は〈ワタヌキ〉とテンマに呼ばれていた気がする。
 少年はぱちぱちとあんず色の瞳を瞬かせ、ベッドの上の司と類を不思議そうに見つめたあと――はっと全てを察した様子で瞬く間に顔を赤らめた。
(お、おお……
 詮無い話ではあるが、自分と同じ顔が赤面しているというのはなかなかに奇妙な光景だ。どう声を掛けたものかと司が迷っていると、それよりも先に我に返った少年が土下座の勢いで頭を下げる。
「す、すすす、すまない――! まさか、む、むむむ睦み合いの最中だったとは!」
 ……ん?
「ん⁉︎ んなっ……む、睦み合い⁉︎」
「人の子というのはお盛んなんだな……! あるじ様が『ああ』だからすっかり油断してしまった……! オレのことは気にせずどうぞ続きを……あっでも朝ごはんできてるから早く下に降りてくるんだぞ⁉︎ あるじ様が待っているからな! では! さらば!」
「待っ……!」
 さんざん早口で捲し立てた少年は、司の言葉も待たずにドアを勢いよく閉めて立ち去ってしまった。
 唖然。何か妙な勘ぐりをされてしまった気がするが――それもあながち間違いでもないのだが、自身の名誉のために言っておくとキスより先のことをするつもりは毛頭なく――誤解だ、と弁解のために半端に伸ばした手が空を切る。
 ええと。これ、追いかけた方がいい、よな?
「待ってくれ、た、狸のオレ――!」
「フフッ。それじゃあ彼のお言葉に甘えて、もう少しだけイチャイチャしようか……♪」
「〜〜誰がするかあああああ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」


     一章 迷子のてけてけさん


「あるじ様〜! お客人ですが、今はしっぽりぽんぽこお取り込み中――
「ではなあああい!」
 ぐいぐい覆い被さる類の体を押し退けて。全速力で狸耳の少年を追いかけた司は、これまた全力で少年を羽交い締めにした。
 放っておけばあらぬ噂を立てられかねない。何かと周囲に噂されるのには慣れているが、未来のスターにかける期待とこれでは雲泥の差がある。というか、シンプルに恥ずかしい!
 ダイニングの入り口で組んず解れつ、狸耳の少年を押さえ込んでいると――ふと、突き刺さる冷ややかな視線に気がついた。
 艶やかな金の毛並み。頭上から狐耳を生やした少年が、不機嫌そうにこちらを見ている。
「やかましい……。人の子というものは黙っていられないのですか」
 明らかな侮蔑を含んだ視線。狸耳の方は――司に比べれば少々やんちゃな印象を受けるが、狐耳の少年はそれとはまるで真逆の冷徹な雰囲気を感じる。
(か、歓迎されていないようだな……
(どうやらそのようだね)
 とはいえ、昨日はこの少年が口裂け女を引きつけてくれたおかげで司も類も無事に逃げ出せたのだ。命の恩人も同然。ここはまず感謝の意を述べようと――司が一歩踏み出したときだった。
「こら、ヤコ。客人に向かってそういう態度はよろしくないぞ」
「あ、あるじ様……。ですがぁ〜……
 奥のキッチンからテンマが顔を出した途端に、ころりと狐耳の態度が変わった。とんでもない猫撫で声だ。思わず面食らう司の隣で、類が興味深そうに「へえ」と感嘆の声を漏らす。
「すさまじい態度の変わりようだねえ」
 先ほどまでの嫌悪を露わにした態度も、今の主人に媚びる態度も、どちらも普段の司はしない仕草で類の目には新鮮に映る。
(同じ顔でも性格まで同じとは限らないということかな。……いや)
 頭上に生える狐と狸の耳から察するに、彼らは化け狸と化け狐だろう。同じ顔といってもあくまでテンマの姿を借りているに過ぎず、本当の姿はおそらく別にあると思われる。
 さすがにどういう経緯があってテンマに化けているのかまでは不明だが――主従関係にあるようだし、考えられるとすれば、
(影武者……?)
……ううむ。ずいぶんとテンマに懐いているのだな。だがなんにせよ、お前達がオレ達の命の恩人であることには変わりない。ここで会ったのも何かの縁。せめて自己紹介くらいは聞いてくれ!」
 今度こそ一歩前に踏み出し、司が大きな身振りでポーズを決める。
 おっと、この前振りは。いつもの口上かな、と逆に半歩下がった類は、にこにこと笑顔を浮かべながらポケットの中のリモコンを押した。
――天翔けるペガサスと書き天馬! 世界を司ると書き司! 天馬司! 未来のスターになる男だッ」
 ぱんぱかぱーん。司の口上に合わせてファンファーレが鳴り響く。
 こんなこともあろうかとこっそり司のポケットに小型のサウンドマシンを忍ばせておいて正解だった。
「待て待て待て、なんだ今の愉快な音は。また類の仕業か⁉︎」
「僕は神代類。どうぞよろしくね」「聞けーい!」
……はあ」
「そしてお前はオレと同じ顔をしているくせに驚くほど愛想がないな……
 司がやれやれと肩を竦める。それが気に障ったのだろう。狐耳の少年はムッとした表情で、司と類を交互に睨みつけた。
「呆れているのです。わざわざ真名を明かすなど……
「まあいいんじゃないか? ふたりはあるじ様のお客人だ。義理は果たすべきだろ?」
…………野狐(ヤコ)。テンマ様にお仕えしている化け狐です」
「オレは和狸(ワタヌキ)! ヤコに同じく、テンマ様にお仕えする化け狸だ!」
「ワタヌキにヤコだな。まあなんだ……しばらくのあいだよろしく頼む」
「ふたりとも、昨日は世話になったね。あれもテンマくんとカミシロさんの指示だったのかい?」
 類が問いかけると、外方を向いた野狐の代わりに、和狸が大きく頷いた。
「そうだ。カミシロがとても大きな力の持ち主であることは昨日お前達も聞いただろう? 力ある者の義務として、カミシロは街の治安を守るために常に巡回をしているんだ」
「へえ。パトロールを……。探偵業に自警団も兼ねているのかな。それにしても、妖怪にも善悪の価値観があるんだねえ」
「善悪……。ううむ、少しちがうな。せざるを得ない理由があるから、そうしているだけだ。お前達は〈蠱毒〉を知っているか?」
 蠱毒。ふむ、と類は口元を指でなぞった。
 たしか、毒性のある生き物を壺に閉じ込めて殺し合いをさせ、最後に残った生き物の毒で強い呪いを生む呪術の一種だ。創作物を嗜む過程で知ったに過ぎず、また呪術に明るいわけでもないので聞きかじりだが……
 和狸は曖昧な反応を示す司と類を一瞥し、「端的にいうと」と話を続けた。
「あやかしは結構な縦社会でな。妖力の強い者が何事においても常に〈正しい〉。弱い者は強い者に付き従うか、魂を喰われて糧になるしかないのだ。しかしそんなことを続けていたら、蠱毒のようにいつしか手のつけられない混沌を生む。そうなることを防ぐため、あやかしの世には弱きを扶け強きを縛る自治体があるのだ」
 うむ、とテンマが頷く。
「そのうちのひとつが、カミシロ率いる『裏シブヤ百鬼夜行』だな」
「ひゃ、百鬼夜行……⁉︎ よくわからんが、名前だけ聞くとめちゃくちゃカッコいいではないか……!」
「ハーッハッハッハ! そうだろうそうだろう。何を隠そうオレもその百鬼夜行の仲間のひとり! うちのカミシロはすごいんだ。この辺りじゃ、あいつに匹敵する妖力の持ち主はまずいない!」
 我がことのように自慢げに語りながら、テンマは眼鏡の奥――陽だまりのような色合いのまるい瞳に司と類を映して、すうっと細めた。
「だからお前達も、今後どう行動するにせよ、極力裏シブヤを離れないようにするんだぞ。少なくともあいつの保護下にいるうちは安全だ。このオレが保障しよう」
……それはつまり、彼のテリトリー内なら出歩いても問題はないということかな?」
「む。なんだ、出歩きたいのか? あまりオススメはしないが……
 外は大勢のあやかしが彷徨いている。テンマ達はこの街を統べる者としての責務――あるいは、自分達と同じ顔の誼みとして司と類を友好的に匿っているが、他のあやかし達も皆そうだとは限らない。
 むしろ、昨日の口裂け女の反応がふつうだぞ、とテンマが念を押す。
 無論、司達とて危険は重々承知の上だ。しかしこのまま事務所の中で手をこまねいていても、元の世界に帰る手段には近づけない。
 押し黙る類の横で、司が焦って声を張り上げる。
「だが、こんな状況でじっとなどしていられん!」
「ううむ……。その気持ちはよくわかるとも。しかしだな……。非常に言いにくいが、妖力のない人の子は低級のあやかし相手でもまず敵わん。あやかしにとっては極上のご馳走が外を駆け回っているようなものだ……あまりに危険すぎる――

――いや、その心配はないよ、テンマくん。対策はきちんと練っているからね」

 ギイ、と音を立ててドアが開き、その場にいた全員が勢いよく振り返った。
 悠々と姿を現したのは、この家の主人であるカミシロだ。寝起きだろうか、髪のあちこちが重力に逆らって跳ねている。眠たげなまなことマイペースな欠伸には毒気を抜かれてしまう。
「カミシロ……珍しいな。普段はオレが起こしにいかないと起きてこないのに」
「ああ、あまり寝ていなくてね。ふたりにこれを作っていて……
「オレ達に?」
「そうとも。ふたりとも、手を出してもらえるかな」
 司は類と顔を見合わせ、素直に手を差し出した。
 ――ころん、と。カミシロから渡された小さな石のようなものをしげしげと検分する。
 なだらかな曲線に、中央に開けられた小さな穴。
「これは……」「勾玉……?」
 こうして直接目にするのは、小学生の夏休み自由研究で咲希と勾玉づくり体験会に参加して以来だ。
 懐かしいな、といろんな角度から眺める。すると、司の肩越しに見つめていたテンマが、すん、と鼻先を鳴らした。
……カミシロの匂いがするな」
「さすが察しがいいね。その名も〈妖怪なりきり勾玉〉だよ♪」
「妖怪なりきり勾玉……⁉︎」
「実はこの勾玉には僕の妖力がたっぷりと込められていてね。これを身につけているあいだは、あやかし達も君達が人の子だなんて疑いもしないだろうし、それどころか今テンマくんが反応したように『カミシロに縁がある』と恐れ慄くはずだよ」
 なるほど、と思わず感嘆の声をあげる。
 つまりこの勾玉を常時身につけておけば、人間だと怪しまれることなく裏シブヤの街を調査できるというわけだ。仮に勘づかれてしまったとしても、カミシロの縁者と知れば迂闊な手出しはされない。
 しかし「恐れ慄く」とは――カミシロはいったいどれほど強大なあやかしなのだろう。見た目は類とそう変わらないだけに、なんとも不思議な感じだ。
 何はともあれ。ぎゅっと勾玉を握りしめる。おかげで自由に外を出歩くことができる。
「助かるぞ、カミシロ!」
「フフ。どういたしまして。それから、これはただの助言だけれど……あやかしと対話をする際は極力目線を合わせないようにした方がいいかもしれないね」
「む。なぜだ?」
「あやかしにはそれぞれいろんな能力があるからさ。中には目を合わせただけで心を読み、操ろうとしてくる者もいる。サトリとか、白山坊とかね。用心するに越したことはないよ」
「ぬう……
 一口にあやかしと言っても、ずいぶんといろいろな特性があるようだ。なんの力ももたない人間の身からしてみれば、もはや超能力や異能力の域である。あやかしにとっては単なる個性の範疇なのかもしれないが……
 司がわずかに怯んだのに気がついて、テンマは「大丈夫だ」と安心させるようにその背を軽く叩いた。
「しっかり身分を隠せていればそう起こることではない。……そうだ。外に出るならついでにこれも忠告しておこう。先ほどはワタヌキとヤコ相手だったので口を挟まなかったが、こちらの世界ではなるべく真名は伏せた方がいい」
「先ほどもヤコが何やら言っていたな。真名とは……
「本名のことだね」すかさず類が答える。「自己紹介は控えた方がいいということかな」
「ああ。力の強い者ならば名を知られたところで影響はないが、弱い者は驚くほど簡単に心や体を乗っ取られてしまう。人の子ならば尚更だ」
「こ、心や体を……⁉︎ それは困るな……。外で名前を呼ぶのもリスクがあるではないか。いっそニックネームで呼び合うか?」
 思ってもみない司の提案に、類は檸檬色の瞳をきらりと輝かせ、「いいねえ」と含み笑いを浮かべてみせた。
「ためしに僕に何かニックネームをつけてみておくれよ」
「いやいきなり言われても」
「ほらほら司くん? なんでもいいよ」
 額に手を当てる。ずいぶんと楽しげな声色でコイツは。
 そうは言っても渾名の付け方などまったくわからん。そういうのはむしろ妹の咲希の得意分野で……
 そこまで考えて、はたと思い至った。咲希ならば類にどんな渾名をつけるだろうか。それを真似ればいいのでは?
 幼馴染みを「いっちゃん」「ほなちゃん」と呼んでいるから……
 ――「るいちゃん」とかか? いやいや、類は男だぞ。いくらなんでも可愛らしすぎる。「ちゃん」はナシだ。
「ぬう……ぬうう……。る……
「る?」
………………るいぴょん……?」
「ぴょん……
 ぱちり。類の長い睫毛が二度ほど瞬く。
 ぽかんと中途半端に開かれた口。しかしすぐに類の口角は吊り上がり、とうとう耐えきれずにその長躯を折り曲げた。
 あは、と堪えきれない笑みが断続的に漏れる。視界の端で揺れる紫陽花色の髪の房に、司は苦虫を噛んだような顔を浮かべた。笑いすぎだ。
「いやあ、なぜ数多ある選択肢の中でそのチョイスを……はあ、フフッ、やっぱり君は、興味深いね……
「やめろ、面白がるな爆笑するな! 単に咲希が最近ぴょん付けにハマっていたなと思い出しただけだっ」
「ぴょん、ぴょんねえ……そうなると、司くんは『つかぴょん』になるのかな? ふ、フフ……フフフ、かわいらしいじゃないか……あっはっは!」
「だから笑うな――‼︎」
 ひとしきり笑い転げて。類は目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、無理やり話を本筋へと戻した。
「冗談はさておき。ここは奇を衒わず、僕達の呼び名は〈座長〉と〈演出家〉にしておこうかな?」
「座長と演出家? ……君達は何か芸事の一座なのかい?」
「ああ、そういえばまだきちんと話していなかったね。僕達、普段はショーを生業にしているんだ」
 正確には――生業と呼ぶにはまだまだお互いに未熟だけれど。司も類も、今更人生とショーを切り離すことなんてできないのだから似たようなものだろう。
 カミシロはしばし口の中で「ショー」という言葉を転がしていたが、やがてふっと頬を緩め、表情を綻ばせた。
「面白いじゃないか。良ければ今度僕達にも見せておくれよ。君達のことは災難だと思うけれど、僕も向こうの世界への興味は尽きなくてね」
「もちろんいいとも‼︎」司の声が響き渡る。
「オレ達のショーを見たら、誰だってにこにこわんだほいになること間違いなし!」
「素敵なひとときと笑顔をお届けすると約束するよ」
「フフ。それは……とても楽しみだ」

     *

 さて。意外なことに、あやかしの食事は人間とそう変わらないらしい。
 炊き立てのごはんに目玉焼きと焼き鮭、トマトサラダ。それから麩の味噌汁と馴染みのある和食が並び、司は密かに胸を撫で下ろした。万が一にも人の生き血とかグロテスクな食卓が待っていたらどうしようかと思っていたところだ。
――ふう。朝食ありがとう。おいしかったよ」
 隣で箸を置いた類がにこやかに自身の腹を撫でる。
 さもお腹いっぱいです、という雰囲気を醸しているが、トマトサラダの鉢は一切箸をつけられた形跡がない。異世界でも偏食は変わらずか、と司は肩を落とした。もしこれであやかしが実はとんでもなくベジタリアンだったりしたら今頃どうするつもりだったんだか。
 主人を褒められて気をよくしたのだろう。和狸はぱっと表情を輝かせて、我がことのように自慢げに胸を張った。
「あるじ様が腕によりをかけて作られた朝食だからな! 美味くて当然だとも!」
 聞けばテンマと和狸、野狐の三人はこの家に住んでいるわけではなく、探偵助手と兼業で家事手伝いをするためにここまで通っているらしい。
 いわく、カミシロは放っておくと壊滅的に部屋が散らかる上、碌な睡眠と食事を摂ってくれないからだとか。生活習慣まで類とそっくりだ。
「それはそうと……気になっていたのだが。昨日の口裂け女はあの後どうなったんだ?」
「口裂け女の撃退方法をご存知ないのですか? 『ポマード』と三回唱えたら逃げ帰りましたよ」
「ポマード有効なのか⁉︎」
 口裂け女は、その名のとおり口の端が耳まで裂けた女性の怪異だ。
 通説――美醜に執着するあまり、出会った人間に『わたし、キレイ?』と問いかけ、綺麗だと答えるとマスクを外して裂けた口を見せながら襲いかかってくる。
 口裂け女を退けたければ、彼女の好物である〈べっこう飴〉を差し出すか、彼女が最も嫌う――自身の口を裂いた医師の整髪剤――〈ポマード〉と唱えるのが有効らしいが、どちらも眉唾な話だ。
 あくまで噂に過ぎないと捉えていたが……
「都市伝説などではなかったんだな……
「うむ。だけど油断するなよ! 倒したわけじゃないから、いつまた襲ってくるかもわからん!」
 そのとおりです、と野狐も頷く。
「口裂け女は低級霊ですし、カミシロ様の勾玉もあるので心配は無用でしょうが……。迂闊な行動は謹んだ方がよろしいかと」
「それには僕も同意見だよ」
「お前が言うなお前が」
 類の脇を肘で小突く。言われなくても、司は元より石橋は慎重に叩く派だ。その前にミクやえむや類が全力で駆け出してしまうから、結局いつもなあなあになってしまうだけで。
「まったく……
 ため息とともに食器を流し台に置く。
 軽く水に漬けていると――もうそろそろ探偵事務所を開く時間だというので、食後のお茶もそこそこに司達は一階の応接室へと移動することにした。
 窓際の席へと向かうさなか、ふとカミシロが思い出したように司達を振り返る。
「ところで……君達の今後の行動指針について、僕からひとつ提案があるのだけれど」
「提案?」
「ああ。実は――
 と、カミシロが言いかけたその瞬間に、バタン、と大きく応接室のドアが開かれる。そこへ息急き切らせて飛び込んできたのはテンマだった。
「カミシロー‼︎ お客様だッ‼︎」
……おや。噂をすればちょうどいいところに。どうぞ、入って」
 カミシロの合図を待って、テンマがドアを押さえ客人を迎え入れる。司はいったいどんなあやかしが来たのだろうかと身構えるが、しかし、いくら待てどもその姿は現れない。
 首を傾げていると――ふと、ずりずりと地面を這うような音がした。
 音は徐々に、確実にこちらに近づいている。例えるならそう、何か長い布のようなものを、ゆっくりと引き摺るような……
……? なんだ? この音は……
 怪訝そうに司が眉を顰めた、そのときだった。
「*失礼します……*」
 今にも消え入りそうなほど、か細い女性の声。この声の主こそ、テンマの言う〈お客様〉だろうと、ドアの方を見る。けれどもやはり、そこに人の姿はない。
 声はするのに姿が見えないとは……まさか透明人間というやつか? 一見何もないように見えるが、そこに人が立っているのだろうか。角度を変えたら輪郭くらいは見えるかもしれん、と腰を落としたり背伸びをしたりと忙しなく動き回る司の肩を、とんとんと類がやさしく叩いた。
 お行儀が悪かったか、とすぐさま自省するが、どうやらそうではないらしい。
「司くん。下だ」
「下? ――……なっ……!」
 促されるまま下を向いて、司は言葉を失った。
 そこには――床に這い蹲う長い黒髪の女性の姿があった。おぞましいことにその体はへそのあたりで真っ二つに分断しており、その先にあるはずの下半身が見当たらない。
 ずりずり、ずりずり……と彼女が地面を這うたびに、床が赤黒い染みのようなもので濡れていく。体の断面はワンピースで隠されているものの、見えないからこそ余計に想像を掻き立てられて。司はうっと込み上げるものをどうにか飲み込んだ。
……大丈夫かい」
「ああ、……問題ない。少し驚いただけだ」
 小さく咳払いして居住まいを直す。
 不思議な世界には耐性がついているものと、自分では思っていたが。普段はもっと――メルヘンな世界にいるばかりに、ショッキングなものには存外耐性がなかったことを思い知った。まだどくどくと心臓が脈打っている。しかしテンマもカミシロも狐狸のふたりも平然としているあたり、あやかしの世界ではこれも当たり前の光景なのだろう。
 テンマは女性が入室するのを待って、淡々と事務的に、揃えた指先を女性へと向けた。
「彼女はてけてけの可歩(カホ)さんだ。事務所の前で往生していたので声を掛けてみたところ、何やらカミシロに聞いてもらいたい悩みがあるとのこと」
「つまり仕事の依頼、ということだね。ではワタヌキくん、ヤコくん、彼女をソファーまで運んでおくれ。テンマくん、お茶の用意を」
「承知した!」「……ちっ。承知しました」
 ん? 聞き違いだろうか。
……ヤコの奴、今舌打ちしなかったか……?)
(舌打ちしていたねえ……
 ひそひそと類に耳打ちする傍らで、カミシロが困ったように肩を竦めてみせる。
「やれやれ。どうも狐の彼には嫌われているようでね。依頼者の前で見苦しい姿を見せてすまない」
「*いえ……*」
 和狸と野狐が『せーの』と掛け声をあげる。
 革製のソファーに座る――否、尻がないから載せられたが正しい――可歩と呼ばれた女性は、俯きがちに自身の長い前髪を手でそっと掻き分けた。
 濁った沼のような、生気のない瞳。瑞々しさを失ったくちびる。青白い肌に血が通っている様子はないが、汗をかいているのか髪は肌に貼り付いている。
 依頼者、とカミシロは彼女を呼んだ。そういえば――と建物に架けられた看板の文字を思い出す。
「ここは探偵事務所だったな」
「ああ。暇つぶし半分、半ば趣味ではじめたようなものなのだけれど……これが案外好評でね。特にテンマくんが助手になってからは評判もうなぎのぼりで、ありがたいことにとても繁盛しているよ」
「*ええ……。探偵さんの評判は、私もお隣ののっぺらぼうさんにお話を伺っていて。ぜひとも相談を聞いてもらえないかと思い、ここまで這ってきました……*」
「遠路はるばるご足労感謝する。いや、この場合ご腕労か? 粗茶ですまないが……
「*ありがとう*」
 テンマから受け取った湯呑みに口をつけて、可歩がひと息つく。
 その濁った瞳がチラと司と類に向けられた瞬間、もしや人間であることがバレたかと肝を冷やしたが――特に興味を示すこともなく、そのまま視線が逸れた。……バレたわけでは、ない?
 おお、と内心で感嘆の声をあげる。これがカミシロの言う勾玉パワーというやつか。
「それで、我々に聞いてほしい話とは?」
「*……*」
 カミシロの問いかけに、可歩は一瞬躊躇いの表情を見せた。
 目を伏せ、逡巡を重ねたのちに、静かにその口が開かれる。
「*……いないんです、私の半身が、どこにも*」
「半身? 失礼ですが、それはあなたの下半身のことでしょうか」
「*はい。今朝目が覚めたら忽然と姿を消していて……家中探してもどこにもいなくて……私、もう気が気でなくて……!*」
 顔を押さえ、ひどく狼狽した様子の可歩を見つめる。
 カミシロは感情の読めない表情のまま、なるほど、と小さく呟いた。その眼差しはどこか可歩を値踏みしているようにも見える。
「つまりあなたの依頼は行方不明になった下半身を見つけ出してほしい、と」
「*はい……。どうか、お願いします。可能な限り現金もお支払いします……。あの子がいないと、私、ダメなんです……*」
……
 すぐには応えず、カミシロは傍に控えるテンマに手を差し出した。
 テンマから手渡された資料の束を数枚捲って、口元を撫で、黙考する。
「どうするんだ、カミシロ」
「そうだねえ……
 月色の双眸が再び可歩に向けられる。ぴりっとした緊張感――身動ぎのひとつも許されないような、張り詰めた空気を感じ取って、司はごくりと生唾を飲み込んだ。
 ボーン、と壁掛けの時計が夕方の六時を報せる。夕暮れの重たい影が室内に伸びていく。
 時計の音が鳴り止むのを待ってから。カミシロはそれまでの真剣な表情から一変、そっと口角を持ち上げて相好を崩した。
……いいでしょう。そのご依頼、お受けします。ただ、ウチは少々特殊でして……
「*特殊、ですか?*」
「ええ。……お代は結構。その代わり、成功のあかつきにはあなたにも我々の傘下に入っていただきたい」
 それって、と可歩がおそるおそる呟く。
「*もしかして裏シブヤ百鬼夜行の……? でも私、これといって特技もなければ、妖力も高くありません……。いいんでしょうか……足手纏いでは……?*」
「そんなことありませんよ。僕の百鬼夜行に、足手纏いなあやかしなんていない。あなたはただ、僕が必要とした時に少しだけお手伝いしてくださればそれでいいんです」
「*……*」
 可歩の瞳が揺らぐ。
 床へと視線を彷徨わせ、彼女はどこか迷っている様子だった。
 司からしてみればカミシロの提案はかなりの破格――なにしろ依頼料はほとんどタダ同然だ――だと思うが、なぜ彼女は躊躇するのだろう。
 自分事に置き換えるとするならば……ワンダーランズ×ショウタイムを抜け、新たな劇団に加入しろと言われているようなもの……か? それならば可歩の浮かない表情も納得できるが――
 室内に再び沈黙が訪れる。しかし、カミシロにはもう結果などわかりきっているかのような余裕が見受けられた。優雅に足を組み、悠々とテンマの淹れた茶に口をつけている。
 ソファーの上で可歩の拳が音もなく握られる。やがて顔を上げた可歩の表情は、決意が固まっていた。
「*……わかりました。お願いします。早く……一刻も早くあの子を見つけないと……私達……*」
……交渉成立、ですね。さて、そこの座長くん、演出家くん? 先ほどの話の続きだけれど……良ければ君達にも僕の仕事を手伝ってほしい」
「むっ……⁉︎ お前達の……仕事を?」
 首を傾げると、カミシロは笑みをたたえて「そうとも」と大きく頷く。
「情報収集をするなら、当然街を見てまわるだろう? あてもなくぶらぶらと彷徨うより効率がいいと思わないかい?」
 そこですかさず待ったをかけたのはテンマだ。
「おい、カミシロ。そう言ってお前、単に事務所の人手不足を補いたいだけでは……
「フフ……
 意味深に口の端を持ち上げるカミシロをじとりと胡乱げに見つめて、テンマは仰々しく肩を竦めた。
「まったく。人手が足りんならオレ達の他にも助手を雇えばいいものを……
……そうだねえ。それは追々考えておくよ。それで、どうだろう。君達にとっても悪い話ではないと思うけれど」
「うーん……どう思う? 座長くん」
 類の透明な眼差しが司に向けられる。
 実際――自分達はこの街のことを何も知らない。
 昨日ざっと目にしただけでも、シブヤとは街の様子がまるでちがうのだ。都会の喧騒はなく、スマホもパソコンも使えない。おまけにここには、土地勘のない司と類がふたりいるだけ。友人達や仲間達、家族の手を借りることさえできない。――虱潰しに調査するには途方がなさすぎる。
 それに、と司は可歩へと目を向けた。
「うむ……。オレは大いに構わないぞ! カミシロの言うことも一理あるが、何より困っている人を放ってはおけん!」
……うん、僕も同意見だ」
 司の回答を聞いて、類も満足げに頷く。
 ワンダーランズ×ショウタイムのモットーは、関わる全ての人が笑顔になるショーをする、だ。
 目の前に表情を曇らせている誰かがいるのなら、笑顔になる手助けをしたい。それはたとえ相手が人間でもあやかしでも、はたまた宇宙人とかでも変わらないし、変えるつもりもない。
――どうやらこちらも交渉成立のようだね。それじゃあ僕はこのまま事務所に残って百目達から情報を集めよう。現地ではテンマくん、彼らのサポートをよろしく頼むよ」
「やれやれ。……承知した」
 テンマはため息を零しながら、眼鏡のテンプルを指で持ち上げた。
 彼はまだ事務所の人手不足に一言物申したい様子だが、当のカミシロはどこ吹く風だ。
 まあ、わからなくもないね、と見守っていた類は密かに苦笑する。
 本人に自覚があるかはさておき――ここにはテンマに加え、狐狸のふたりと、たいへん〈僕好み〉な空間が出来上がっている。
 言うなればまさに両手に花。カミシロが異世界の自分自身なら、きっとプライベートな空間には自分の好きなものしか置きたくないだろうし。仲間と認めたえむや寧々ならともかく――人手不足解消のためだけに、他人を招き入れることはしないだろう。
 ……そういえば、この世界にも彼女達――えむと寧々のふたりは存在するのだろうか。
 類がふと顔を上げると、タイミングよく、ぱちっとカミシロと目線がかち合った。
 自分と瓜二つの月色の双眸。その透明な瞳をすっと細めて、カミシロは改めて可歩と向き直る。
 そしてゆっくりとその手を彼女の前へ差し出し、微笑みかけた。
 毒気のない、人好きのする笑みを装って。

――では、てけてけさん。改めて――詳しいお話をお聞かせ願えますか?」

     *

「*――〈てけてけ〉とは、失った下半身を求めて彷徨う亡霊の総称です*」
 和狸に抱えられながら、てけてけ――可歩は静かにそう語った。
 茜さす裏シブヤ商店街。石レンガの道を疎らに歩きながら、可歩のか細い声に耳を傾ける。
 そのすがら、道ゆくあやかし達と度々すれ違っているものの、誰ひとりとして司と類の正体に気がつく様子はない。カミシロから渡された勾玉の効果は十分だな――と司が周囲を見渡す横で、可歩はぽつぽつと話を続ける。
「*私はその中でも運良く自分の下半身を見つけることができた〈てけてけ〉なんです。私が〈てけてけ〉として目覚めたとき、あの子も〈とことこ〉というあやかしになっていて……*」
 本当に幸運なことだったと思います、と可歩は噛み締めるように呟く。
 てけてけという怪異の名称は司も少しだけ聞き齧ったことがあった。あれはたしか小学校の――朝の読書の時間に読んだ本に載っていたのだったか。
 下半身のないてけてけは地を這いながら、大きな鎌を振り回して相手の体を真っ二つに切断しようとするのだ。そして下半身を奪って自分のものにしてしまう。子供ながらになんて邪悪なのだろうと恐れたものだった。
 しかし目の前にいる可歩からはそんな邪悪さのカケラも感じられない。たしかにぱっと見の印象は大層ショッキングではあるが、内臓が飛び散っているわけでもないし、切断面はワンピースの裾で隠されている。肌の青白さだけが心配を煽るが、それだけだ。
「*とことこだから〈トウコちゃん〉。それがあの子の名前です。私が名付けました。元は自分の足なのでちょっとおかしな話ですけれど……今はもう、唯一無二の家族みたいなものですから*」
「家族か……
 眉尻を下げ、司が呟く。文字どおり、自らの半身を失うというのは――やはり想像を絶する辛さであったに違いない。
 可歩の両腕は擦り傷とあざだらけで、きっと探偵事務所まで這っていくのも相当にたいへんだったことだろう。それでも、自らの体を犠牲にしてでも、可歩は救いを求めた。たったひとりの家族の安否を知るために。その気持ちは司にも共感できるものがある。
 それにしても不思議なものだ、と司は可歩の腹部を見遣る。
 あやかしに人の理屈を当てはめること自体がおかしいのかもしれないが、可歩とトウコが元はひとりの人間だったとして――切断された位置的に、脳も心臓も可歩の方にある。トウコ側にあるのは、せいぜい腸と膀胱、あとは子宮ぐらいのものだろうか。
「普段、トウコさんとはどう意思疎通を?」
「*……お察しのとおり、会話などのコミュニケーションはできませんし、トウコちゃんには目もありませんから、筆談もできません。なので普段は……お互いの肌に指で直接文字を書いています*」
「ほう。指で……ぬおう⁉︎」
 それまで可歩の話を真剣な表情で聞いていた司だったが、突然背中を虫が這うような感覚を覚え、素っ頓狂な声をあげた。
 司が勢いよく振り返ると、類がにやにやと口元に意地のわるい笑みを浮かべている。
「おい……演出家! これはいったいなんのイタズラだ!」
「いやあ、試してみようと思ってね。座長くん、いま僕がなんて書いたかわかったかい?」
……む? 何か書いたのか? まったくわからん。もう一度頼む」
 くるりと類に背中を向ける。すると、すぐさま類の指が司の背中にぐるぐると円を描いた。なんだ、川……? うずまき……
「正解は『爆発して♡』でした」
「わかるか!」
 せめて平仮名にしろ、と肘で類の脇を小突いた。その様子を横で眺めていた可歩が、小さくくすくすと笑みを零す。
「こんなコミュニケーションを毎日とは……苦労されているんですね」
「*ふふ。もう慣れてます。トウコちゃんもきっとそう*」
「やはり元が同じ人間だから、お互いが思っていることもわかるものなのだろうか」
「*そうかもしれません。あ……でも、トウコちゃんにもちゃんと私とは別の人格があるんですよ*」
……別の人格?」
 類が尋ね返すと、可歩は「はい」と微かに顎を引いて頷いた。
「*私、自分で言うのもなんですが、結構どん臭いんです。おかしいですよね、てけてけなのに……。でもトウコちゃんはちがうんです。とっても足が速くて、いつも元気いっぱいで……それから、ちょっぴり短気で危なっかしいところもあって……*」
「たしかに、その点あなたはとても慎重な性格をしているように見えますね」
「*はい……。おそろしいんです。私の決断が、何か取り返しのつかないことになってしまったらと思うと……。どうしても、体が竦んでしまって*」
 自嘲的な可歩の笑みを後目に、司は静かに閉口した。
 たしかに、何かを決断するということは難しい。司自身幾度となく悩んだ経験がある。選ぶべき宝箱と、捨てがたい宝箱。どちらかひとつしか得られないとして、果たして選んだ後に後悔はないのか。未練はないのか。
「*トウコちゃんは、好奇心のかたまりみたいな子です。ほんとうに、ちっちゃい子供みたい。危ないからあんまり遠いところへは行っちゃだめだよって何度も言って聞かせていたのに……。ああ、どうしてこんなことになってしまったの。あの子がもし事故にでも遭ってたりしたら。私……*」
「カホさん……
 顔を両手で覆って可歩が俯く。居ても立っても居られず――司は励ますように、可歩の肩をやさしく叩いた。
「大丈夫だ。必ずやオレ達がトウコさんを見つけ出してみせよう!」
……しかし、そうは言っても裏シブヤはかなり広いぞ。ある程度行き先に目星をつけねば、闇雲に探しても時間が過ぎるばかりだろう。――座長に演出家。お前達ならどうする?」
 テンマの問いかけに、類は口元に手を当てた。
「そうだねえ……」と呟き、可歩と向き直る。
「僕なら、まずはふたりに縁ある場所に絞るかな」

     *

「*ここがヒトツメ神社です。辺鄙なところにありますが、祭事には人が賑わう大社があって、このあたりでは有名なんですよ。特に縁結びや子宝祈願にご利益があって……*」
 そして裏シブヤで目覚めた可歩が、はじめてトウコと出会った場所でもあるという。
 境内に足を踏み入れた一行は、しげしげと三者三様に辺りを見回した。
「思っていたよりもずいぶんと広いな」
「おや。座長くん、見てごらん。男性器だ」
「ほう。男性器……男性器⁉︎⁉︎⁉︎」
……を、模した石像のようだね。子宝祈願にこれを撫でるといいみたいだ」
 社の側にある、赤ん坊ほどの大きさの――陰茎を模した石像を類が躊躇なく撫でる。
 石でできているとはいえ、亀頭も雁首もしっかり表現されていて妙にリアルだ。なんとも複雑な気持ちで類の手を見つめていると、「司くんも撫でるかい?」と差し出されて思わず丁重に断った。
 神様だって困るだろう。物理的に子を孕めないカップルに子宝を祈願されたとて……
「それにしても妖怪も子供を産むんだな」
 あやかしの世にこうして縁結び神社が存在するということは、あやかしも人並みに恋をして結ばれ、子宝を望むことがあるということなのだろう。
 だがその姿形はあやかしの種によってもさまざまだ。テンマとカミシロのように人の姿をしているならばともかく、たとえばぬりかべや一反木綿といった無機物の形をしたあやかしなどは望んで繁殖できるものなのだろうか。
 司が首を傾げていると、砂利道を行きすがらテンマが振り返った。
「どうも、コウノトリが運んでくるらしいぞ」
「赤ん坊を⁉︎ コウノトリがか⁉︎」
「狐狸の里ではそう聞いているが。なんだ、人の子はちがうのか?」
 もちろんちがうのだが、明け透けに説明するには気恥ずかしさが勝り、司は返す言葉に詰まってしまった。
 不意に、ぽんと右肩を叩かれる。和狸だ。
「すまない、座長。その、狐狸の里であるじ様と……あるじ様の妹君であるサキ様はたいそうな箱入りでな。みな我が子のように可愛がるあまり、俗っぽい知識にはすっかり疎いまま成長されてしまって……
 気まずそうな表情のまま、和狸が続ける。
「先の質問だが、オレが答えよう。――まず大前提、あやかしには三通りの生まれ方がある。強い念や言霊を糧にして生まれる場合と、亡霊が妖力を得てあやかしと成る場合。それからあやかし同士の繁殖行動によって生まれる場合だな」
 ぬりかべのような無機物の妖怪は、強い念や言霊が宿って生まれるため繁殖行動を必要としない。口裂け女や、可歩のような〈てけてけ〉などは、元は亡霊だ。
 それでいうと――。類はテンマの背を見遣り、ふむ、と頷いた。彼やカミシロはあやかし同士の繁殖によって生まれたあやかしということか。
(それにしても……こちらの〈司くん〉も純粋無垢なんだねえ……
 和狸はテンマを箱入りだと言うが、類もまた、司を時折箱入りだと感じることがある。
 ショーに一筋すぎて年頃の男の子にしては色事にとんと疎いのだ。別世界の同一人物同士、そういうところも似通っているものなのかもしれない。
 そういえば――司とはじめて一夜を共にすることになった日は、類なりに選択を間違えてしまわないよう、かなり慎重になったものだった。
 決して無理強いはせず、司の心と体の安全を最優先に、けれど重荷にならないように、あわよくば次回に繋げられるように……
 そのくせ司は平気で類を煽るのだ。考えることが多過ぎて細部に気が回らず、後になって反省する点も多かった。もちろんしっかりリベンジはさせてもらったけれど。
「いやあ……、カミシロさんも苦労するねえ」
……? なぜここでカミシロの名が出てくる……?」
 しみじみと呟く類に、テンマは「わけがわからん」といった様子で片眉を持ち上げた。今は知らなくてもいいことだ。ここで類がまだ透明な彼を染め上げてしまうのは、カミシロにも申し訳ないので。


 ヒトツメ神社にトウコらしい人影はなかったため、一行はもうひとつの心当たり――ヨロイヅカ病院を訪れることにした。
「これは……
「なんとも曰くありそうな雰囲気だねえ……
 宵闇の中でひっそりと物静かに佇む病院は、全体的に薄暗く、どんよりと鬱屈した空気を纏っている。
 病院なのだから当然かもしれないが――それにしたってあまりにも活気がない。院内を歩く妖怪達はみな俯き、とぼとぼと右往左往するばかり。照明が切れかかっているのか、パチパチと不規則に点滅しているのも不気味さを増長させていた。
「受付でトウコさんらしき人物はいなかったか聞いてこよう。お前達はここで待っていてくれ」
「わ、わかった」
 受付へと小走りで向かうテンマの後ろ姿を見つめる。
 ……鼻を掠める、病院の匂い。ざわざわと肌を這うような感覚に、司は無意識に自らの腕を摩った。
……
「座長くん? なんだか落ち着かない様子だけれど大丈夫かい?」
「あ、ああ。すまない。どうも病院は昔を思い出してしまって」
 今でこそ医師に全快のお墨付きをもらえているが――妹の咲希は生まれつき体が弱く、昔は入退院を繰り返していた。
 かかりつけの町医者では満足な治療ができないからと、紹介された大きな病院はシブヤから遠く離れていて……。司はよく、咲希が寂しくないようにと見舞いに行ったものだった。
 電車に揺られているあいだは、いつも己の未熟さが歯痒くて仕方がなかった。
 どんなに足繁く病室に通ったとしても、咲希の孤独を癒せるわけではない。本当はいつだって、ずっと傍についていてあげたい。咲希が抱える苦しみを、ほんの少しでも肩代わりしてあげたかった。
 咲希を失うかもしれない不安が、おそろしくてたまらなかった。
 病院では、どうしたって当時の記憶が蘇る。
 もう、大丈夫なのにな。咲希はすっかり元気になって、毎日楽しそうに青春を謳歌している。自分が歩みたい道を見つけて、前へ進みはじめている。司が手を引いてやらずとも平気なのだ。
 兄としては、ほんの少し寂しく思う気持ちもあるけれど。
「*――お兄ちゃん*」
……いかん、咲希のことを考えていたからか幻聴まで聞こえてきてしまった……
 あまりナーバスになるものではないな、とこめかみを押さえて首を振る。
 少し、疲れが溜まっているのかもしれない。細く息をつき、そして閉じていた目を開くと――ふと、左手にひやりとしたものが触れた。
「*お兄ちゃんも、どこかお体わるいの?*」
――む⁉︎ げ、幻聴ではない⁉︎ 君は……
 ひやりとしたものの正体は、少女の手だった。年は小学校低学年くらいだろうか。金糸の髪をゆるく束ね、まるい瞳で司を見上げている。手のひらは紅葉のように小さく、不用意に握り返せばうっかり潰してしまいそうなほど、儚い。
 少女は無表情のまま。司の顔をじっと見つめて、再び口を開いた。
「*あのね、わたしもね、お体わるくて入院してるの*」
「そうか……。早く良くなるといいな」
 難しいことだとわかっていても、年端もいかない幼い子供が病魔に苦しめられているというのは――心が痛む。
 少しは気休めになるかと、司は少女の頭を撫でようとして――しかし、その手は空を切り、少女の体をすり抜けていった。
「なっ……
……座長くん? さっきから誰と話しているんだい?」
「あ……いや、ここに入院しているという少女が……
 司の肩越しに、傍に立っていた類が覗き込む。一瞬、類に気を取られた司だったが、再度少女に視線を向けると――そこには、すでに少女の姿はなく。ただ何もない空間がぽつりとあるだけだった。
……い、いない」
……いないねえ」
 幽霊……だったのだろうか。
 それならば、あの少女は生前、病気が快復することはなくそのまま亡くなってしまったのかもしれない。そして今もなお、魂が病院に縛られているのだとしたら。それは……。嫌な想像が巡って、どくん、と心臓が音を立てる。
 少女に触れられた左手を握りしめる。あの少女は――かつての咲希が、迎えていたかもしれない姿だった。
 すっかり黙り込んでしまった司の肩を、類が気遣わしげに抱く。
 大丈夫だ、とやさしく振り解けば。類は何か言いたげな顔をして、けれども曖昧に微笑んだまま、そっと手を下ろした。
――お前達。待たせてすまないな。受付で確認してもらったのだが、トウコさんらしき人は誰も見ていないそうだ」
「そうか……。カホさん、他にトウコさんの行方に心当たりはないだろうか?」
 ヒトツメ神社も外れ、ヨロイヅカ病院も外れとなると、やはり次は可歩達の自宅周辺を捜索するのがいいだろうか。
 司が可歩を振り返ると、可歩は濁った碧色の瞳を下ろして、しばしの逡巡を挟み――小さく口を開いた。
「*もうひとつだけ、行ってみたい場所があります*」

     *

……裏シブヤ駅……
 反転する駅名を見上げ、司はぽつりと呟いた。
 ヨロイヅカ病院から裏シブヤ駅まで徒歩十五分。それほど遠い距離ではなかったが、空はすでに濃紺の闇に包まれていた。
 司達の世界では帰宅ラッシュで混み合う時間帯にもかかわらず、周囲を見渡す限りほかのあやかしは見当たらない。活動時間が異なるゆえか――いや、そもそもあやかしって電車通勤するのか?
 司が首を傾げていると、少し遅れてテンマが司達の元へと合流した。
「てけてけさんには裏でワタヌキ達と共に待つよう伝えておいた。きっとトラウマもあるだろうからな」
「それがいい。しかしまさか、カホさんの体が真っ二つになってしまった原因が電車に轢かれたからとは……
 いわゆる人身事故だ。自殺……なのだろうか。それとも不慮の事故で……? いずれにしても、体がふたつになるほどだ。凄惨な現場であったことは、想像に容易い。
 駅の構内を注意深く見渡しながら、テンマを先頭に少しずつ進んでいく。
 構内は薄暗く、やはり自分達の他に利用者はいない。ぱちぱちと気味悪く点滅する電灯を見上げ、ひそかに眉を顰める。ヨロイヅカ病院といい裏シブヤ駅といい、電球交換できるあやかしはおらんのか。
 はあ、と重いため息が零れてしまった。構内を降りて駅のホームに立てば、生ぬるい風が吹き抜け、不気味な風鳴りがそこかしこで犇めいた。
 線路を一瞥する。
 可歩は、ここで。電車に轢かれ、――命を落とした。
 何も言わないままじっと立ち尽くす。すると、寄り添うように類が傍らに立った。
……大丈夫かい。顔色が悪いようだけれど」
……。問題ない。いったいどれほどの痛みだっただろうと、つい想像をめぐらせてしまっただけだ」
「司くん……
 檸檬色の瞳が司を見下ろす。
 慰めるように類の指先が頬に触れて、すぐに離れた。
「ふつうは、痛みを感じる隙もなく即死だろうね」
「そうか。……それがいいこととは、言い難いがな……
 それはそうと、ここにもトウコはいないようだ。
 残念だが一度戻って可歩達と合流すべきか――と、テンマを振り返る。しかしテンマはじっと頭上の発車標を睨みつけたまま、なぜか微動だにともしない。
 まるで何かを警戒しているかのような、ただならない雰囲気に司と類も表情を険しくさせる。
「テンマ?」「どうかしたのかい?」
……。おかしい。どうも妙だ。やけに閑散とし過ぎている……
「普段からこうではないと?」
「ああ。いつもならもっと妖怪達が犇いているはずだが……
 ――その、刹那。
 ぐわりと突然脳を鷲掴みにされる感覚を覚えて、司は思わず自身の頭を押さえた。
……ぐっ、う……⁉︎」
 頭の中を無遠慮にかき混ぜられているかのような不快感と目眩。
 胃の中のものを嘔吐いてしまいそうになるのを必死に堪え、前屈みになりながらも周囲を見渡す。
 ホームに異変はない。しかし司のみならず、テンマと類も、それぞれ頭を押さえて苦しげに呻いている。
 ――リン、と。状況に不釣り合いな、軽やかな鈴の音。聞き覚えがある。どこで耳にしたのだったか。
……っ! るい、」
 揺らぐ視界。痛いほどの耳鳴り。意識が遠のきそうになるのを、何度も踏ん張って、類に一心不乱と手を伸ばした。あと少し。もう少しで指先が類のカーディガンに触れる。
 しかし爪の先が掠めたその瞬間。――プラグをコンセントから強引に抜いたかのように――司の意識は、ぶつりと途絶えた。

     *

……ハッ!」
 意識が急浮上した司が最初に目にしたのは、天井でゆらゆらと所在なく揺れる吊り革だった。
 次いで、ガタンゴトンと規則的に電車が走る音を認識する。
「ここは……電車の中か……?」
 気怠い体をゆっくりと起こし、まだ混乱する頭を手で押さえた。
 断片的ではあるが、気を失う前の状況がにわかに蘇る。……そうだ、たしか駅のホームで突然頭が痛くなって……
――目が覚めたか」
「テンマ! それに類も……オレ達はいったい……
 声のした方向を振り返れば、先に目覚めていたらしいテンマと類が並んで立っていた。ふたりとも無事であることを確認して安堵の息を漏らす。
 気を失っているあいだに、もしやテンマ達が自分を電車に乗せたのかとも思ったが――そんな司の考えを打ち消すように、テンマは静かに首を左右に振った。
「オレも状況がまったくわからん! オレと演出家はほとんど同時に目を覚ましたのだが、その時にはすでに、三人ともこの電車の中で倒れていた」
「な、なんだと……⁉︎」
 腕を組み、電車の外へ視線を向けながら。類が口を開く。
「ちなみに、かれこれ体感二十分は経過しているけれど……今のところ、電車が停まる様子はないね」
「まさかずっと走り続けているというのか? 一駅も停まらずに?」
「そのようだな」
 見たところふつうの電車に見えるが、急行ということだろうか。
 車内の電子掲示板は黒く消灯したままで、行き先はおろか、次に停まる駅もわからない。
……いったい、どこへ向かっているんだ、この電車は……
 車窓から見える街並みは暗く、明かりのひとつも見えない。
 ぞわ、と悪寒がして、司は無意識に自身の腕を摩った。
「座長が目を覚ますまで、オレと演出家で他の車両も見て回ったが、他に乗客はいなかった。唯一人の気配がする車掌室は鍵がかかっていて入れん。とにもかくにも、停車するまでオレ達にできることはなさそうだな――
 諦観まじりにテンマが吐き出した、その瞬間。明るい車内チャイムがスピーカーから流れ出し、三人は同時に顔を上げた。
「む。これは……
「停車のアナウンスかな。ずいぶんとタイミングがいいね」
 類がスピーカーを見上げる。示し合わせることもなく耳を欹てれば、程なくして、小さなノイズとともに慌ただしい車掌の声が車内に響き渡った。
『*本日もご乗車〜まことにありがとうございまぁす〜。次は〜キサラギ〜……キサラギ駅でございまぁす〜……*』
 キサラギ……? 聞いたことのない駅名だ。
……キサラギ駅、だと……? まさか、そんな……
 小首を傾げる司の傍らでテンマは青ざめ、表情を険しくさせた。
 慌てて車窓へと駆け寄り、力任せに窓を開ける。途端に舞い込む生ぬるい夜風。靡く髪を押さえ、司は困惑の声をあげた。
「な、なんだ……? キサラギとやらは、裏シブヤから結構遠いのか?」
「遠いどころの話ではない! キサラギ駅の向こうは――黄泉だ!」
「よ、よみ?」
 聞き慣れない単語を耳にするとつい隣にいる類を頼ってしまう。
 縋るように類を見上げると、司の視線に気がついた類が、困ったように片眉を持ち上げてみせた。
……つまり、あの世、だね」
「あの世……あの世⁉︎ な、な、な、なんだって〜〜⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」


 電車が完全に停車するのを待ってから、司達は急ぎ駅のホームへと降り立った。
 草葉の匂いが鼻腔を掠める。
 改札を抜けた先の構内は小さく、きっぷ売り場と、こぢんまりとした売店がひとつあるだけだった。無人駅ではなさそうだが、駅員はおろか、他に人の気配は感じられない。
「いったい何がどうなっているんだ……! オレ達は裏シブヤ駅にいたのではなかったのか⁉︎」
 じっとりと湿った重たい空気が肌に張り付く。
 耳元を掠める虫の羽音に、司は嫌悪感を露わにして類の後ろに身を寄せた。類の体を盾にする司のことなど気にも留めずに、類は背後のキサラギ駅を肩越しに振り返る。
「ここがキサラギ駅……。あの世にもっとも近い駅、というわりに、結構、辺りはふつうの田舎だね」
 そうだな、と頷いた。周囲は閑散とした住宅と畑があるばかりで、ぽつぽつと道を照らす街灯だけがその存在を主張している。
 畑の側に立つ案山子を横目に、司は人知れずごくりと唾を飲み込んだ。一見なんの変哲もない風景でも不気味に思えてしまうのは、夜闇が視野を狭めているせいか、あるいはこの線路が黄泉路と知っているからか。
 しかし困ったな、とテンマが呟く。
「キサラギ駅発の電車はヨミ駅行きのみだし、ここから裏シブヤまでどうやって帰ったものか……
「徒歩では難しい距離なのかい?」
「そもそもの界層が異なるからな。あやかしならば手段はいくらでもあるが、お前達人の子では……
……むう……。いや、困る、非常に困るぞ……! カホさんの依頼もまだ解決していないというのに!」
「まあそう急くな。オレも今打開策を考えている……! くっ……こんな時、カミシロがいれば話は早かったのだが」
「カミシロさん?」
 類が鸚鵡返しにすると、テンマは類を一瞥し、「ああ……」と小さく顎を引いて頷いた。
「黄泉の国の門番に、裏シブヤ百鬼夜行に連盟する鬼がいる。彼らは亡者が迷わず黄泉入りするための案内役も担っていてな。カミシロが頼めば、裏シブヤと繋がる門を使わせてもらえるはずだ」
「ほう。すごいではないか! ではなんとかしてうまく交渉できれば……!」
「残念だが、そう簡単にはいかない。以前、オレも自由に使わせてもらえないかと門番に頼み込んだことがあるのだが、素気なく断られてしまってな……
……テンマくん、どこでもドアに未練がありすぎるねぇ」
 フフ、と類が笑う。それから静かに目を伏せ、指の関節で自身のくちびるをなぞった。類に自覚があるかはわからないが、司は知っている。これは深く思考を巡らせているときの類の癖だ。
……。そういうことなら、これを上手く役立てないかな?」
「これ……?」
 おもむろに。類が腰に提げていたものを取り出す。テンマとふたり覗き込んで、「あっ」と同時に声をあげた。
「そうか勾玉か! たしかにこいつにはカミシロの妖力がたっぷり込められている! これがあれば、地獄の門番達を上手く欺けるかもしれん……
 カミシロの言葉ならば従う門番。そしてカミシロの匂いが染みついた勾玉と、カミシロと顔が瓜二つの類。
 門番達が、類をカミシロ本人だと勘違いしてくれれば――きっと、裏シブヤへと繋がる門を開けてくれるはずだ。
 三人は目を合わせ、示し合わせるように頷き合った。
「危険は伴うが、やってみる価値はあるな。……よし。一か八か、こいつに賭けてみようではないか!」

     *

――やあ、久しぶりだね。牛頭(ごず)、馬頭(めず)」
 月明かりの下。類が声をかけると、門前に立っていたふたりの鬼はハッと目を見開いた。
「*カミシロ様……!*」
「*ゴ無沙汰シテオリマスナ。本日ハ何故斯様ナ処マデ?*」
「いやなに、視察を兼ねたちょっとした散歩さ。同じ百鬼夜行の仲間達の顔を、たまには見に行こうと思ってね」
 つらつらと不自然なく類が続ける。事前に打ち合わせたとおりの台詞だ。司は類の後ろに控えながら、目の前に聳え立つ大きな門を盗み見た。
 これが、地獄の門……
 石造りの扉に、人の顔の彫刻が施されている。青白く光るトーチによって影が妖しく揺らめき、それがいっそう、醸し出される禍々しさに拍車をかけていた。
 この門の先に黄泉の国がある。死者の魂が輪廻転生の手続きをするまでの――宿泊所のようなものだとテンマは言っていた。
 死者か門番しか地獄の門を潜ることは許されず、すなわち、この先の地に足を踏み入れることは――生者にとっては死も同然であると。
「*……*」
 門番――牛頭と馬頭は、類とテンマ、そして司を順番に見遣り、すっと目を細めた。舐めるような視線が居心地悪く、ごくりと固唾を呑んで動向を窺う。
 司の背筋を冷たい汗が流れていく。
 長い沈黙だった。思わず勘繰ってしまうほどの。如何せん、頭が牛と馬であるため表情を読み取りづらい。体も人の何倍も大きく、もし腕を掴まれでもしたら――きっと抵抗もできず簡単に折られてしまうだろう。筋力だとか、もはやそんな次元の話ではなく。
 しかしそんな司の心配は杞憂だったようで、沈黙を貫いていた鬼達は、やがて類に向かってその巨体を折り、恭しく跪いた。
「*アア、オデ達モ、オ会イシタイト思ッテオリマシタ……*」
「*カミシロ様ノタメナラバ、我ガ身ヲモ砕ク覚悟ハ出来テオリマスゾ*」
 地べたを這うような低い声。だがその口ぶりは好意的だ。どうやら上手く騙せたようだ――内心でほっと安堵の息をつく。
 三人の作戦はこうだった。
 カミシロの力が込められた勾玉で、類がカミシロのふりをする。そして地獄の門番達に、裏シブヤへと繋がる門を開けてもらうのだ。牛頭も馬頭も裏シブヤ百鬼夜行に連盟する鬼であり、カミシロを深く慕っている。カミシロが相手ならばある程度融通してくれるはずだというのが、テンマの見解だった。
 屈強な体に、刃毀れした厳つい斧。並の人間ならば恐れをなして逃げ出す迫力だが、こちらも命が懸かっている。類は細く息を吐き出したあと、畏怖の感情などおくびも出さず、口元に微笑みを浮かべてみせた。
「ありがとう。頼りにしているよ。ところで、今日はこの後なるべく早く帰って休みたいと思っているのだけれど……
「*! ソレナラバ、スグニ休メル部屋ヲコチラデ用意シマショウ*」
「ああいや、そこまでの気遣いは無用だよ。手っ取り早く裏シブヤまで帰れるような〈近道〉だけ教えてくれないかな」
「*近道……?*」
 ジロリと牛頭と馬頭が類に訝しげな視線を向ける。
「*オ言葉デスガ、カミシロ様。貴方様程ノチカラノ持チ主ナラバ、我々ガ知恵ヲオ貸シセズトモ一瞬デ帰レルノデハアリマセンカ?*」
「*ヨモヤ……オチカラガ弱マッタ、ナドト言ウコトモアリマスマイ*」
……!」
 腹の底がびりびりと重く震えるほどの圧力。息をすることすら忘れてしまいそうな気迫に、司はわずかに後ずさった。
 疑われている。もしも類がカミシロに扮していると知れば、カミシロを慕う門番達の怒りを買うことになるだろう。あれほど屈強な存在が怒り狂ったら、司達では太刀打ちなどできるはずもない。
 テンマは危険を感じたらすぐに逃げろと言っていたが、逃げ出したところで、この体格差だ。無事に奴らを撒けるものか……
 ぐるぐると焦燥が渦巻く。呼吸の仕方が、思い出せない。空気がぴたりと喉に張り付いている。どうすれば。どうすればいい。
 再び訪れた沈黙。それを先に破ったのは、テンマだった。
「たしかに、カミシロとオレだけならばすぐに帰れるだろうが――
「*……テンマ様*」
「今日は、オレのかわいい狐狸も一緒なのでな。こいつはまだカミシロの強すぎる妖気に器が耐えられん」
……っ」
 テンマに肩を抱かれ、司の瞳が揺らぐ。
 そうだ。ここで臆してはいられない。司が下手に動けば、余計に門番達に怪しまれてしまうだろう。そうすれば自分はもちろんのこと、類にも危険が及ぶ。
 そんなことには絶対にさせられんと、司はどうにか踏ん張ってみせた。決死の覚悟で牛頭と馬頭を見上げる。
 大丈夫、大丈夫だ――……自分はただ、あの狐狸達を演じればいい。

――牛頭、馬頭」

……類?)
 逸る心音を遮って。ふと、類の静かな声が辺りに凛と響き渡った。
「まさかと思うけれど……僕達を疑っている、なんてことはないよね」
「*!*」
 刹那、一帯にぴりっとした緊張が走る。
 普段の温和な類とは似ても似付かない、固く、威圧感のある声音。この状況でも背筋を伸ばし、堂々と立つ姿に驚く。
 類は……ワンダーランズ×ショウタイムの演出家だ。しかし、時には役者として司と共に舞台に立つこともある。自身の立ち振る舞いが相手にどう映るのか、研究し、実践するだけの実力をもっている。
「*……*」
……
「*……滅相モ、ゴザイマセヌ。過ギタ発言ヲオ許シクダサイ……*」
 深くこうべを垂れた門番達を見つめ、今度こそ司は小さく息をついた。これまでさまざまな役を演じてきたが、これほど緊張したのは今回がはじめてだ。
 馬頭が、すっと腕を持ち上げ指をさす。その先へと視線を向けると、暗闇にほのかに提灯の明かりが点々と浮かぶのが見えた。
「*コノ先ノ闇市場ヲ抜ケタ先ニ、小サナ鳥居ガゴザイマス。鳥居ニ触レ、言霊ヲ念ジレバ、裏シブヤマデノ門ガ開クデショウ*」
「ほう。なんと念じればいいんだ?」
 問い掛けるテンマを馬頭が振り返る。やはり感情の読めない眼差しで、馬頭は一度目を伏せた。
「*……世界ハ*」

「*世界ハ、マダ始マッテスライナイ、ト*」

     *

「おお……! ようやく戻ってこられたぞ、裏シブヤ駅……!」
 牛頭と馬頭に教えられた鳥居を抜けた先。次元の狭間から放り出されるようにして再び駅のホームへと降り立った司は、無事に裏シブヤへと戻ってこられた安堵を吐息に乗せて零した。
 三人が地に足をつけるとともに、背後にあった鳥居は瞬く間に霧散していく。少しだけ――セカイを行き来するときと感覚が似ている気がした。
「いやあ、なかなかにスリリングな体験だったね」
「本当にな……! 馬頭に疑いの眼差しを向けられた時はどうしようかと思ったぞ……!」
「危機一髪だったな。牛頭と馬頭はおつむはそんなに……だが、妙に勘が鋭い上にどちらもトンデモなく馬鹿力なんだ。……正直、戦いになっていたら勝ち目はなかった」
 たしかにあの巨体に攻撃を仕掛けられたらひとたまりもない。
 司も類も、歴戦の戦士などではなく――ただの、どこにでもいる一般の高校生だ。さまざまな役を演じてきたとて演技でしかなく、あの刃毀れした大きな斧を一閃でも振り回されていたら今頃司の体は可歩のように真っ二つになっていたことだろう。……うむ、五体満足あることに感謝しなくては。
「なんにせよ、窮地を切り抜けられて何よりだ。演出家も、ナイスフォローだった」
「ありがとう。でもあの時の僕は、司くんの身に危害が及ぶのではと必死だっただけさ」
「類……
 同じだ。司自身も、あのときは類が危険に晒されるのではないかと、必死に考えを巡らせていた。
 類も、そうだったのか。司が類の顔を見上げると、司の視線に気がついた類は、微かに目尻を下げて表情を和らげた。
「ふふ……――さて、無事一難去ったことだし、ひとまずカホさん達と合流しようじゃないか」
 振り出しには戻ってしまったが、命あっての物種だ。
 今も駅前で待っているであろう可歩達と落ち合うため、三人がそれぞれ踵を返した――そのときだった。
……ん?」
「どうした?」
「いや……ううむ、気のせいか? 向こうのホームで……
 テンマが眼鏡を浮かせ、じっと目を皿のようにして向かいのホームを見つめる。何かあるのかと司と類もその肩越しに視線を向ければ。
 何か……ゆらゆらと、蠢いている? 白い……あれは、脚か?
……下半身がサンバを踊っているように見えるのだが」
「「……」」
 サンバ。そう言われるとたしかに、腰を揺らしてリズムよく足踏みしているようにも――……というか。
「あっ、あいつではないか⁉︎ カホさんの下半身! トウコさん!」
「興味深いね。なぜ駅のホームでサンバを……
「あれではてけてけでもとことこでもなく、まるでクネクネさんだな」
「いや言ってる場合か⁉︎ 早く捕まえるぞ! ここまできて逃げられては敵わん! うおおおおおお……!」
「あ、待て座長!」
 言うなり、司は持ち前の瞬発力で階段を駆け上がり、全速でトウコのいる四番線のホームへと降りた。慌ててテンマと類もその背中を追いかける。両手を広げ、司がトウコに飛び掛かった――と思った矢先。
「*……!*」
 司に気づいたトウコはすかさずサンバのステップを止め、低く腰を落として屈み込んだ。
「*! ! !*」
 そして力強く両足で地面を蹴り、飛び上がって揃えた爪先を司に向ける。司は反射的に体を翻し、間一髪でトウコの攻撃を避けた。
 まさかこんな場面でえむやミク達に散々飛びつかれてきた経験が活きるとは。
「ぬわあああ⁉︎ あっぶな、……ど、ドロップキックかましてきたぞこいつ⁉︎」
「やはりか。かなり凶暴になっている。迂闊に近づくと危険だ!」
「座長くん……。いきなり知らない人が捕まえようとしてきたら、そりゃあ誰でも警戒するに決まってるじゃないか……
「くっ……正論すぎて何も反論できん……!」
 事前に聞いていたとおり、トウコは可歩とはまったくちがう性格のようだ。好戦的で素早く、そして迷いも容赦もない。しかしここで彼女を逃しては、今日一日の大捜索を棒に振るようなものだ。
「どうする、三人で回り込むか……? しかしあの強烈なキックを喰らったらたまったものでは……
「ぬうう……
 じりじりと。互いの距離を測りつつ、やはり危険を承知で飛び掛かるしかないか――と思い切った、その刹那。
 司の胸元で、キン、と勾玉が反応を示した。類も何かを感じ取ったのだろう。腰のベルトに提げたままの勾玉を取り出し、トウコと勾玉とを交互に見遣る。
 ――……くん。テンマくん、聞こえるかい?』
「! その声、カミシロか⁉︎」
 ハッとテンマが顔を上げて片耳に手を当てた。
 明瞭ではない、ややノイズ混じりのカミシロの声は、どういう仕組みか司と類の耳にも届いている。もしやこれが昨日話していたあやかしのテレパシーだろうか。だがなぜ妖力のない自分達にも……
 そこまで考えて、ハッとする。これも勾玉の力だろうか?
 テンマの声を聞いたカミシロは、やや温度を取り戻した声色で静かに「そうだよ」と続けた。
 ――『よかった。突然君の妖気を感じなくなったかと思えば、思念も全然通じないものだから……いったい何事かと』
「すまん! 少々立て込んでいた! というか今も取り込み中だが――
 不意に、司の視界の端で影が揺らめく。
 トウコだ。カミシロの声にテンマの意識が向いているのを、チャンスとみたのだろう。先ほどと同じように低く姿勢を落とし、飛び掛からんとするトウコに、司は慌てて声を張り上げた。
「テンマ! 危ない!」
「ぬ、ぬおおお⁉︎ か、間一髪……
「すれすれだったね」
 テンマもまた、持ち前の反射神経でトウコの攻撃を避ける。ついでに足を引っ掛け転ばせられたらよかったのだが、テンマの動きを読んだトウコが跳んで躱してしまった。
 彼女は視覚からの情報を得ることはできないはずなのに、どういうわけか勘が鋭い上にとんでもなくすばしっこい。くそ、とテンマが低く悪態をつく。
 ――『ふむ……。テンマくん、少し君の眼を借りるよ』
「むっ……
 ぴく、と身動いで。一度伏せた目蓋を、テンマが再び持ち上げる。
 テンマの瞳を目にした司は、思わず小さく息を呑んだ。自分と揃いの琥珀色ではなく、月の色を宿している。類――否、あれはカミシロの眼だ。
 ――……おや。なるほど、とことこさんを見つけたんだね。さすがテンマくんだ』
「ふ、フフン……そうだろうそうだろう……。だが見てのとおり、暴れ回っていて手の施しようがないんだッ……
 ――『〈てけてけ〉と〈とことこ〉は存在が表裏一体だからね。共に在ってようやく魂の均衡が保たれる……逆に、離れ離れだと凶暴化してしまうのさ。長いあいだてけてけさんの傍を離れているうちに我を忘れてしまったんじゃないかな』
「何……⁉︎ それでは彼女は……
 ――『大丈夫、見たところまだ完全には堕ちていないようだ。ここにてけてけさんを連れてくれば自ずと落ち着いてくれるはずだよ』
「なるほど……。それならば!」
 テンマが再び目を閉じる。陽だまりの双眸を取り戻したテンマは、駅前の方角を振り返って大きく息を吸い込んだ。
「ワタヌキ! ヤコ! 聞こえるか⁉︎ カホさんを今すぐ三番ホームまで連れてこーい!」
 ――『ぬあ! 合点承知! 行くぞヤコ!』
 ――……あるじ様のご命令なら仕方ありませんね』
 今度はどこからともなく和狸と野狐の声がする。便利なものだな、と思わず感心していると、「呆けている場合ではないぞ」とテンマは司と類を交互に見つめ、揚々と口角を上げてみせた。
「カホさんが到着するまでオレ達でトウコさんを押さえるぞ!」
「うむ。文字どおり足止めというわけだなっ……!」
「うまいこと言うねえ。……ん、足……?」
 はた、と類が立ち止まる。
 ぼんやりと何やら考え込む仕草で虚空を見つめたかと思えば、にやりと悪い顔をして。
……そうだ。それなら僕にいい案があるよ」
「ほう。言ってみろ!」
「フフッ、簡単さ。相手は足。それなら……

「いくら妖怪といえど、――足裏は弱点なのではないかな?」

     *
     
 ♯ ある恵まれない少女のはなし

 私の人生は、あらかじめ決められたレールの上を走る電車のようでした。
 幼い頃に父親はギャンブルで多額の借金を置いて蒸発。女手ひとつで私を育てていた母親も、新しい恋人ができて私の存在が疎ましくなったのでしょう。三日に一度。週に一度。月に一度。それから、ぱたりと母親は家に帰らなくなりました。
 中学を卒業するまでは、母方の祖母が私を養ってくれました。祖母はとてもやさしい人でしたが、足を悪くしていて、雨の日なんかは寝たきりになることも多かった。
 朝早くに家を出て新聞配達。昼は学校に行って、放課後はまっすぐ家に帰って家事をする。お金もなくて、いつもみすぼらしい格好。いつまで経っても垢抜けず、引っ込み思案で、冗句のひとつも言えなくて……そんな私に、友人ができるわけもなくて。私はただ生きるための、それだけのための日々で青春を浪費していました。
 中学を卒業してからは、祖母の伝手で町工場に雇われることになりました。そこで出会った殿方に、私は恋をして――そして、結ばれたのです。奇跡だと思いました。これまでの不幸がすべて報われるような、そんな気さえしていました。この人のためなら、私はなんだってできる。この人と家族になって、今度こそ幸せな家庭を築きあげるんだと本気で信じていたのです。
 私のお腹に子供が宿るまでは。
 妊娠を知った途端、あの人は私を捨てました。私に愛などなかったのだと、ただ私が可哀想で、不憫だったから。だから相手をしてやっていたのだと、彼はそう冷たく私に言い放ちました。
 それからの毎日は殊更によく覚えていません。虚ろで、また必死に生きるための毎日。いつも心にはぽっかりと大きな穴が開いていた気がします。それでもどうにか乗り越えてこれたのは、他でもない、お腹の子がいたからでした。
 ある冬の、猛吹雪の夜。ずいぶん膨らんだお腹を撫でて、私は独り、駅のホームに立っていました。祖母が倒れたと報されて、急ぎ実家へと帰る道すがらでした。
 掠れた子守唄を、真白な雪が攫ってゆく。先日の検診では、お腹の子は順調に育っていて、もう性別もわかるとお医者さまに言われました。女の子だけれど、きっと彼に似てやんちゃなのね。お腹を何度もぽこぽこと蹴って、元気いっぱい。
 ああ――本当に愛しい。
 この子は私の薄暗い人生の燈(ともしび)。この子がいるなら、他にどんな不幸があろうとも平気だと思えました。たとえあの人が認知しなくても。たったひとりでも。この子が幸せであったなら。
 だけど、ダメでした。私の軽率な判断が、いつだって簡単に人生を狂わせてしまう。
 ――どん、と突然背後から衝撃を受けて。その瞬間、私の体はなす術もなく前に傾きました。
(え……?)
 咄嗟に振り返ると、私がさっきまで立っていたところに、目深に帽子を被った男の人がいました。見間違えるはずもありません。彼は、私がかつて愛した人。愛しいこの子の――
 ――……閃光。
 電車の音が、遠ざかっていきます。真白な雪が攫ってゆく。千切れた私とこの子のすべてを。
 赤黒く、薄汚く、しがみついて生きた証を。

     *

「*トウコちゃんっ……*」
「ああ、カホさん。ちょうどよかった」
 和狸に抱えられ、裏シブヤ駅のホームに到着した可歩を――類は颯爽と振り返った。
「トウコさん、捕獲しましたよ。――この自走型マッサージマシーンでね‼︎」
「じ……
「「「自走型マッサージマシーン……?」」」
 綺麗に揃えられた指の先。地面に転がる女性の下半身――燈子を見下ろし、ぱちぱちと和狸と野狐、そして可歩は目を瞬かせた。
 じたばたと暴れる燈子は、なぜか足にまるいフラスコ状の機械をつけている。そのせいか立ち上がることも歩くことも叶わず、なす術なく固い地面に転がるしかないようだった。
「*……ッ! ……ッ!*」
……私にはトウコ様が妙な機械を装着して悶絶しているように見えるのですが」
「どうも内臓がないからかツボ押しの効果が薄くてね。急遽擽りモードに変更したところ、このとおりというわけさ」
 手持ちのツールが少なくて困ったよ、と大して困ってもなさそうな顔で笑う類を横目に、司が乾いた笑みをもらす。毎度のことながら、即席でこのような機械を作ってしまえる類の技術には驚かされるばかりだ。
「*トウコちゃん……! トウコちゃん! ああ、よかった……!*」
 和狸の腕から抜け出し、可歩は地面を這いずって燈子の体を強く抱きしめた。
 はじめは暴れていた燈子も、可歩の存在に気がついたのだろう。
 次第に宙を蹴る足は落ち着きを取り戻し、いつしか大人しく可歩の抱擁を受け入れていた。
 澱んだ沼のような色をしていた可歩の瞳にはようやく光が戻り、はらはらといくつも涙が溢れては零れ落ちていく。
 美しいな、と司はその滴の軌跡を静かに見守っていた。まるで生まれたばかりの赤子を抱く母のような。そんな、深い慈愛に満ち溢れた情景だった。
「*皆さん、本当にありがとうございますっ……おかげで私達、悪鬼にならずに済みます。本当に、なんとお礼を言ったらいいか……!*」
……悪鬼?」
 不思議そうに零れ落ちた類の問いには、和狸が答えた。
「悪鬼とはなんらかの事情で自我を失ってしまったあやかしの成れの果てだ。あやかしは精神や体に強い負荷がかかると、自身の妖力を削っておそろしい怪物となることがあってな」
……一度悪鬼になるともう手がつけられん。消費した妖力を補うために周囲のあやかしを無差別に食い散らかすし、自我が戻る保証もない。……よって、もれなく百鬼夜行によって処理される」
 処理、と司は口の中で呟いた。
 テンマは淡々としているが――実際、彼らにとっては掃除や片付けとそう変わりないのかもしれないが――それはつまり……殺す、と同義なのではないだろうか。
 悪鬼というものがどれほどおそろしいものなのか知らないが、深く追及してしまえば何かが揺らいでしまう気がして――司は開きかけたくちびるをそっと閉ざした。
「もしカホさんかトウコさんのどちらか、あるいはその両方が悪鬼になったとしたら、……カミシロが直々に始末することになっていただろうな」
……それは……なんだか、後味の悪い話だね」
 ですが、と可歩が遮る。
「*皆さんのおかげで最悪の事態は免れました。このご恩は、この身が消滅するまで忘れません……!*」
「そう気を張らなくてもいい。オレ達は探偵として、依頼をこなしたに過ぎん。何はともあれ……これで一件落着だ」
 白みはじめた空を見上げ、テンマが相好を崩す。
 いつの間にか一夜が明けようとしていた。長い夜だった。永遠にも思えるほどに。
「さて、もうじき朝がくる。――帰るとするか。不思議探偵事務所へ」

     *

「やあみんな。無事に依頼を達成できたようだね」
 探偵事務所へと戻った司達を一瞥し、デスクを立ったカミシロは柔和な微笑みを浮かべた。
 読みかけらしい書類を適当に放って、ぐっと伸びをする姿はまるで猫のようだ。
「先ほどてけてけさんからお礼の連絡があったよ。それから、今後有事の際には彼女も僕達の百鬼夜行に加わる、とも」
「そいつは良かったが……なんとも珍妙な事件だったな」
「まったくだ。今日一日だけでも驚くことが山ほどあったぞ……
 テンマの言葉に同意を示し、司は大きく肩を落とした。
 本当に、おそろしく密度の濃い一日だった。ショーをするときの緊張感とはまったく別の、命の危機すら感じる張り詰めた空気。やはり、鳥居に飲み込まれたあの瞬間――類を追いかけた自分の判断は正しかったとすら思う。
 それにしても……黄泉、か。
 現世でも黄泉の国という名は耳にしたことがある。
 漠然と死者の国というイメージがあるばかりだが、巨大な地獄の門――あの先にはいったいどんな景色が広がっていたのだろう。
 地獄と呼ぶほどだ。やはり死屍累々、目を背けたくなるような凄惨な光景だろうか。できれば……生きているうちはせめて、お目にかかりたくはないものだ。
……テンマくんから報告を受けているよ。たいへんだったねえ。まさかキサラギ駅に迷い込むとは」
 労る風を装いつつも、その声音にはほんの僅かに揶揄が含まれていた。初日から波乱万丈の連続で、きっとカミシロにとっても想定外だったのだろう。幸先がいいのか悪いのか、まったく先が思いやられる。
「座長くん、演出家くん。一日歩き回って疲れただろう。今日はもう部屋に戻って休んだ方がいいんじゃないかな」
「たしかにくたくただ。ここはひとつ、お言葉に甘えるとするか」
「そうだね」
 壁掛けの時計を見上げる。短針はもうじき四を指そうとしている。
 夜明けが近い。いいかげん、もう眠気が限界だった。ソファーに腰掛けたら最後、五秒で意識を手放せる自信がある。だからこそ座らずに立っていたくらいだ。
「こう見えてうちは結構繁盛しているからな。明日からもどんどん依頼は舞い込んでくるだろう! 元の世界へ戻る手掛かりを探すためにも、お前達にはびしばし働いてもらうから――休めるときにしっかり休むといい。食事は後でワタヌキ達に持って行かせよう」
「ああ、助かるよ」
 類の手が伸びて、司の右肩を軽く叩いた。部屋に戻ろう、と言外に促す類に頷いてみせて、テンマとカミシロを振り返る。
「それでは、また明日!」「おやすみ」
 ――ぱたん、と静かに閉まったドアを見つめ、二人分の温度が下がった室内で。テンマは目を伏せ、微かに俯いた。
……何か物言いたげな顔だね」
 目敏いカミシロの指摘に、視線だけを持ち上げる。
 カミシロはふっと鼻で笑って、客用ソファーに腰を下ろした。すかした態度は相変わらずだ。一方でテンマは半端に立ち尽くしたまま、カミシロの顔を窺うようにじっと見つめていた。
「本当に珍妙な事件だった。トウコさんが突然失踪した理由も結局わからずじまいだが……
 陽だまりを宿した瞳を窓に移す。
 薄闇を徐々に溶かす裏シブヤは、もうじき朝の訪れとともに眠りにつく。もう何百年も、この世界は単調な生活を繰り返している。
……本来、オレ達あやかしがあのような形でキサラギ駅に迷い込むことはない。その先の終点……黄泉は亡者のための国だからな。禊ぎ、清らかな魂を輪廻転生させる……人の子のために黄泉はある。いざなわれる理由がない」
……
……だが、裏シブヤ駅で、ひどい頭痛があった。このオレが意識をなくしてしまうほどの頭痛が……。それにあの鈴の音……
……鈴の音?」
 興味を示したカミシロを振り返り、頷く。
 あれを司と類も耳にしたかは定かではない。しかしテンマは薄れゆく意識の中でもはっきりと、澄んだ音色を聞いたのだ。
「まるで『こっちだよ』と誘っているようだった。オレ達は……いや、あのふたりは……いったい誰にいざなわれたというのか……
 人為的な工作があったことは間違いない。けれども何のために、何が目的でそうしたのかが不透明なままだ。
 こちらの世界に人の子である司と類がいることを知っているのは、テンマとカミシロ、それから狐狸のふたりだけだ。――たったひとり、口裂け女を除いては。
 だが……あの低級霊にテンマを陥れるほどの力はない。この中でテンマを出し抜ける者がいるとすれば、それは。
「『ルイ』……お前は何か知っているんじゃないか。だってお前は……
……。残念ながら、君が期待しているほどのことは何も知らないよ」
 訝しげに眉を寄せるテンマを横目に、カミシロは「そう怒らないでおくれ」と小さく笑みを浮かべてみせた。
「ただ、あの子達は確実に、招ばれてここにいる。それだけは間違いないだろうね」
 ソファーの背もたれに体を預けて、カミシロが息をつく。
 見上げた天井の木目。あやかしの世というものは、往々にしてあの木目のようだ。連綿と続く、変わり映えのしない毎日。そんな世界に今、変化が訪れようとしている。
――世界はまだ始まってすらいない……。フフッ……面白いじゃないか。異界の地より訪れし彼らが導くのは、果たして楽園か災厄か……ぜひともこの目で見届けたいね」
……悪趣味な奴め」
「刺激を求めているのは君だって同じだろう? 『ツカサくん』」
 ぴくりとテンマが片眉を持ち上げる。うっすらと頬に朱を浮かべながらも、どこか不満げな顔をする彼のことは後目にして、カミシロは立ち上がり、窓辺へと足先を向けた。
 陽が昇り、事務所をにわかに照らしはじめる。あやかしにとっては眩しすぎるほどの、天照の目覚め。無味乾燥な一日の終わり。
 テンマとカミシロ、ふたりの影が、音もなく長く伸びていく。
「胸高鳴らせ、心踊る……僕はそんな体験がしたいと思っているよ。いつだって……、ね」

「ここは本当に……退屈な世界だから――――