猫澤
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序章 はじめまして、怪異


 ――斜陽。
 夜を待つばかりのスクランブル交差点は、家路を急ぐ人の波でさざめいていた。
 合間を縫うように横断歩道を渡って、少し拓けた軒先で足を止める。音の洪水。シブヤはいつも音に溢れている。ミクの電子広告、走り抜けるバス、点滅する信号機、そして見知らぬ誰かの話し声。
 そのどれもが、今は等しく夕焼けに染まっていた。
――今日のショーも大盛況だったな!」
 半歩ほど後ろを歩く類を振り返って、司は揚々と口角を上げてみせた。
 やや高い位置から司を見下ろした類は、その声にふと表情を和らげる。視線はすぐに逸らされたが、頷きがひとつ。前方を見据える類の瞳には密かに高揚が浮かんでいる。
「そうだね。以前から調整していた匂いつきシャボン玉の演出も好評だったし、これは大成功と言っていいんじゃないかな?」
「うむ! あの演出には子供達も跳んで喜んでいたぞ。オレも座長として鼻が高い! さすがはオレ達の演出家だな」
「お褒めに預かり光栄だね。だけど今回この演出でショーができたのは司くんが装置の使用許可を取ってくれたからだ。僕だけの功績じゃないよ」
「まあそう謙遜するな。謙虚な姿勢は悪くないが」
 ファミリー向けテーマパーク、フェニックスワンダーランド。
 その敷地の片隅の、小さな屋外ステージ――ワンダーステージが、司と類の主な活動場所だ。高校生であるふたりは放課後と、それから休日をめいっぱい使って日々ショーに明け暮れている。
 現在もまた、ワンダーステージでの公演の帰り道だった。小さな子供も楽しめる、おもちゃ箱をひっくり返すようなショー。準備期間から公演のさなかまで、調整に調整を重ねた甲斐あって――千秋楽は歓声と拍手に包まれて幕を下ろした。
 まだ、耳の奥に割れんばかりの喝采がこびりついている。夢へと向かう旅路の、たしかな手応えを感じている。
 だからこそ、と司は足を止め、小さく肩を落とした。
「次のショーは来月か……。久しぶりに期間が空いてしまうな」
 手応えを感じているからこそ、気持ちばかりが逸ってしまう。
「そうだねえ。晶介さんには『たまには高校生らしく友人との交流を深めてこい』なんて言われているけれど……司くんは何か予定はあるのかい?」
「そうだな……強いて挙げるなら、もうじき公開終了の映画を観に行きたいとは思っている。咲希の好きな俳優が出ているらしくてな」
「へえ、いいじゃないか。家族水入らずで楽しんでおいで」
「ああ。……類の方はどうなんだ?」
「僕? 僕は……今のところ特には……
 不自然に言葉尻が萎んでいく。それまで規則正しく鳴っていた類の足音もぴたりと止み、傍らのぬくもりがすっと離れる感覚に、司は訝しむようにして類を振り返った。
「類? どうした、急に立ち止まったりして」
 類は長身だ。道の真ん中で立ち止まると、それだけで通行人とぶつかりそうになってしまう。
 鬱陶しそうな視線を躱しながら類共々道の端へ身を寄せると、類は申し訳なさそうに眉を下げながらも、「いや、」と言い訳を零した。
 それでいて、視線は明らかに一点に夢中になりながら。
「ここにこんな道あったかなって思ってさ」
「うむ……?」
 長い指で指し示された先を、司は何気なく覗き込んだ。
 路地裏だ。薄暗く、先の見えない細い道が奥まで伸びている。
 背の高い建物の狭間は陽が射さず、司と類の足元にある日向と影が明確にふたつの世界を隔てていた。
 日暮れの――人の温度を感じるシブヤとはどこかかけ離れた光景。
 無意識のうちに生唾を飲み込む。異様な空気の冷たさ。なるほどたしかに、このような道に覚えがない。気に留めたことがない、が正しいかもしれなかった。なんせ幾度となく歩いた通りだ。
 不意に、微かな一陣の風が司の前髪を揺らした。形容しがたい不気味さを感じて、指で浮いた毛先を押さえる――そのすがら、類が一歩踏み出す。
「行ってみよう」
「ってオイ! 類!」
 だって、と類が振り返る。片頬だけ持ち上げて、飄々とした面持ちで。
「気になるじゃないか。大丈夫、ちょっと覗いてみるだけさ」
「まったくお前は……す〜ぐ好奇心に駆られよって……。知っているか? 好奇心は猫を殺すと言うらしいぞ」
「おやおや。好奇心はたしかにそそられているけれど、そう簡単に死ぬつもりはないから安心しておくれ」
 何も安心できる要素がない。と、司はあからさまに胡乱な眼差しを向けた。
 類が好奇心のかたまりであることを知っている。一方で、その好奇心こそが多彩な演出の発案に役立っていることも理解している。しかし一度気になりだしたらトコトン突き詰めないと気が済まないところは、困ったものだ。
 嘆息。行くしかないのだろう。現にもう、司が制止したところで聞く耳をもたないことは火を見るよりも明らかだ。そして大概、こうなったときに放っておけないのが司の性分だった。
 すでに闇の中へ溶け込みはじめている類の背中を追って駆け出す。
 橙と黒の境界線を、踏み越える。やわらかな黄昏は急速に遠ざかって、目が痛むほどの暗闇が司を迎合していた。
 先ほどは冷たく感じた空気が、どこか生温い。それがいっそう不気味に思えて、司は類の背中に張り付いた。いかにもな雰囲気だったのだ。高校生にもなって幽霊やおばけを熱心に信じているわけではないが、信じていないわけでもない。
……奥に行けば行くほどどんどん暗くなっていくね」
「足元には気をつけろよ。待っていろ、今スマホのライトを点ける……
「助かるよ」
 制服の尻ポケットからスマートフォンを取り出して、さっと画面に指を滑らせた。暗闇を照らす明かりは頼りないが、無いよりはずっとマシだと思える。
 しかし――少なくとも何かに躓くことはないだろう――と、足元ばかりを照らしていたのが仇になった。
「どわっ! い、行き止まりか! 危うく頭をぶつけてしまうところだった……!」
 咄嗟に腰を反らせて頭突きは回避したものの、バランスを崩して尻もちをついてしまった。痛む尻を摩りながらよろよろと起き上がる司を他所に、何がそんなに興味深いのか――行き止まりの壁をしげしげと見つめていた類が小さく声をあげる。
……あ。司くん、少し離れてみてくれ」
「ん……?」
 言われるまま、数歩下がって壁をライトで照らす。
 一見、なんの変哲もないコンクリートの塀だ。向こう側はやはり背の高いビルが建っていて、東京の狭い空をさらに狭めている。
 そうして見上げて、はた、と気がついた。この路地裏を囲むように建ち並ぶビルの壁に、窓がない。勝手口も、ない。
 む、と首を傾げる。
 まるで路地裏そのものから目を逸らしているかのような――いや、路地裏を、ないものをとしているような――
 得体の知れない悪寒。こういう勘は、昔からよく当たる方だった。
 不吉の予兆とでもいうのだろうか。やはり引き返そう、と司が類の袖口を引こうとした瞬間、それを避けるように、類は自身のスマホを取り出して壁を照らした。
「ほら、ここだよ」類の指先が壁を突く。
……なんだこれは。壁にラクガキ……?」
「神社の鳥居かな?」
「ほう。なるほど神社の鳥居……いやなぜ神社の鳥居の絵がこんな街中の路地裏に⁉︎」
 ストリートアートだとしてもミスマッチが過ぎるだろう。いや、司とてその分野に詳しいわけではないけれど。でも少なくとも、街の壁に描く題材ならもっと他にもあるはずだ。
 スプレー……ではない。ペンキだろうか。神社にあるものを彷彿とさせるほど、それは朱に近い赤に染められている。おそるおそると見つめる司の隣で、類もまた、真剣に鳥居を検分する。
 鳥居とは、神社の入り口に建てられるもの。神の世界と、人の世界の境界線。この壁に鳥居を描いた人物は、この先が神の世界であることを示しているのだろうか。
 ――そもそも、本当に〈人〉が描いたものなのだろうか?
「ますます不思議だねえ……興味深い――
「あ、おい、触るのは――!」
 司の指がカーディガンの裾を引くのも構わず、類はそっと指先で壁に触れた。
 刹那。ぐにゃりとコンクリートの塀の中へと指先が沈んでいく。
……っ⁉︎」
「ッ……類‼︎」
 反射で咄嗟に腕を引き抜こうとしたが、どうも塀の中で見えない何かに腕を掴まれている。
 おそらく、人の手の形をしている。もっと言えば、華奢な女性の手に感じた。しかし人並み外れて相当に力が強く、振り解けない。
 踏ん張ろうにもずるずると引き摺られ、ついには類の腕のみならず片足までも壁の中へと飲み込まれてしまった。
 それに悲鳴をあげたのは司の方だ。
「なんだこれは……⁉︎ 何が起きている……⁉︎ 類! いま助けるぞ‼︎」
「待つんだ司くん! それでは君まで、――
 司の手がまだ壁に飲まれていない類の腕を掴む。
 しかし、類がいくら引っ張っても微動だにしないのだ。司の腕力をもってしてもこの〈見えない何か〉の腕の力に敵うとは思えない。
 共倒れになってしまうよ、と言い掛けた類の口は、その頃にはすっかり壁の奥に沈み、揺らいだ双眸で司を映すことしかできなかった。
 体のほとんどが壁に飲まれた状態で、それでも、類は懸命に司の手を離そうとしている。
「類!」
 構うものかと司は類の腕を力の限り掴んだ。
 絶対に離さない。離してなどやらない。たとえ自分自身も巻き添えになって飲み込まれることになろうとも、目の前で類が攫われるのを指を咥えて見ているより遥かにマシだった。
 ローファーの底が、コンクリートの地面に擦れる。
 ずぶずぶと、類の腕を掴む司の両腕も飲み込まれていく。全体重を後ろにかけ、綱引きの要領で引っ張ろうと試みるが、なかなかどうして引き摺られる一方だ。
「くっ、ダメ、だ……! もう、踏ん張れん……!」
 手に、感触はある。見えないが、類はまだ、そこにいる。
 やがて司の額から汗が一滴、地面に落ちて。
「の、のわああああ――――⁉︎⁉︎⁉︎」
 ――ついに、司の体も鳥居の奥へと飲み込まれてしまった。


     序章 はじめまして、怪異


 ふと、青臭い草の匂いがした。
 しかしどうにも全身が鉛のように重たい。そのうえあらぬところを打つけてしまったのか、節々が鈍い痛みを訴えている。
 それでもどうにか気力だけで体を起こした司は、まだ脳震盪でくらくらと揺れる頭を押さえながら、おもむろに周囲を見渡した。
……イテテ……。ここは……? ハッ! 類! 類は無事か⁉︎」
「無事だよ、司くん」
「類……!」
 存外近くから返ってきた声に安堵する。
 振り返った先、同じように芝生の上に座り込む類は、髪こそ乱れていたものの大きな怪我はないように見える。緊張の糸が途切れて大きく肩を沈ませる司を見つめ、類は困ったような顔をしてみせた。
「まったく、君って人は……。どんな危険があるかもわからないのに、一緒になって飛び込んでくるなんて」
「どんな危険があるかもわからん場所に、類をひとりにしてはおけんだろう! それに……
「それに?」尋ねる類の声色は硬い。
「よくない予感がしたんだ。類の手を離したらもう二度とお前に会えなくなるような気がして」
「司くん……
 檸檬色の瞳がまるくなる。しかしすぐに眼差しは和らいで、類はそっと司の髪へと手を伸ばした。指通りをたしかめるような仕草に、司もまた、猫のように目を細める。
「すまない。まずは礼を言うべきだったね。助けようとしてくれてありがとう、司くん」
「! フッ、当然だ。なぜならオレはワンダーランズ×ショウタイムの座長にして、未来のスターになる男! 仲間の命を見捨てるような真似はせん!」
「ふふ。そうだね」
 まだ体の節々は痛むが、いつまでも座りっぱなしというわけにもいかない。合図こそなかったが、ふたりは示し合わせたようにゆっくりと立ち上がった。
 スラックスについた土を払い、身なりを整える。
 先に口を開いたのは類の方だった。
……さて、まずは現状を把握しよう。……いま僕達がいるのは、一見、ふつうの公園のようだね」
 住宅街に囲まれた公園はそれほど広くはなく、ぽつりぽつりと夕焼けに染まる遊具がいくつか並んでいる。
 ふたりの他に人はいない。そのせいか、どこか寂れた印象を受けた。
 気を失うまではたしかに路地裏にいたはずだ。ぞわ、と筆舌しがたい違和感が腹の底で渦巻く。何気なくスマホのディスプレイを覗いた類は、少しの自嘲と、微かな期待を滲ませて司を振り返った。
……スマホ、僕のは圏外になってしまっている。司くんは?」
……。オレも圏外だ」
「そうか……。この現実離れした物々しい雰囲気、もしかして無意識のうちにセカイに来ていたのかも、なんて思ったのだけれど……可能性は早々に潰えてしまったね」
 指を滑らせて幾度か叩いたあと、類はスマホの画面を司に見せた。音楽アプリのプレイリストだ。タイトルは舞台音楽から始まって、イージーリスニング、ミニラジオ、録音ボイスに環境音と節操がない。いかにも片付けが苦手な類らしいが、問題はそれよりも。
 ――『Untitled』がない。
 司は慌てて自身のスマホでアプリを開いた。しかし、やはりないのだ。再生し慣れたあの曲が――セカイに通じる鍵が。これまで何度もタップし、行き来したのだから今更間違うはずもない。
 しかし……なぜ?
「今、僕達が直面している問題はふたつ。ひとつは、ここがどこなのか見当もつかないこと。もしかするとシブヤですらないかもしれない」
「もうひとつは?」
……僕達ふたりとも、手荷物がスマホしかないことだね」
 ぐう、と司が唸る。それはたしかに大問題だった。
 今はまだ夕方だが、じきに夜が来る。帰り道がわからない以上、無事に一夜を明かすためにもどこか寝泊まりできる場所を探さなくてはならない。けれども司も類も、鞄を例の壁の外に置き去りにしてしまった。つまり、財布も学生証も手元にはない状況だ。
 電子マネーならば多少の残高があるが、頼りない。せいぜいコンビニで今夜の夕食を買える程度のものだろう。顔色から察するに類も同じようだ。困ったねえ、と眉尻を下げて笑う類を見上げ、司は肩を落とし、力なく相槌をうった。
 たとえば、交番を探して事情を説明すれば、今晩宿泊するあてにはなるかもしれない。あるいは、電波圏内を見つけて家族や知り合いに連絡するのもいいだろう。
 いずれにしてもまずはここがどこなのか知る必要がある。公園で立ち尽くしていても仕方がないと、ふたりはひとまず公園の出口に向かって歩き出した。
「セカイに避難もできないとなると……どうしようか」
「まあ、ないものを嘆いたところで現実は変わらん。日が落ちる前に人通りの多い道を探そうではないか」
「ああ――

――……もし……

「ん?」
 ――ふと。背後から掛けられた声に顔をあげる。
 女性の声だ。このあたりの住人だろうか。振り返ってまず一番に、ふたりの目には腰まで伸びた艶やかな黒髪が飛び込んだ。
 赤いトレンチコートを身に纏い、上品な身なりをしている。が、口元は不自然なほど大きなマスクで覆われており、そのためか表情はよく読み取れない。貧血気味なのだろうか――顔色はあまりよくないように見える。
 そして思いのほか背が高く、一瞬狼狽えてしまった。重度の猫背を直せば類と同じか、それ以上はありそうだ。
「もし……。お困りでしょうか……
「はい、実は道に迷ってしまいまして……
「まあ……たいへん。助けてさしあげましょうか?」
 願ってもない言葉に、司は不審を忘れ喜色を表情に浮かべる。
「それはとても助かる! ぜひとも――
「司くん。待って」
「む……
 ぜひともお願いしたい、と差し出しかけた司の手首をすかさず類が掴み、女性から強引に引き離した。
 滅多にはない類の行動が珍しく、司は訝しんで類を振り返る。類は――先ほどまでの穏やかな眼差しを潜め、その視線にどこか鋭さを含ませていた。――警戒、している?
……何か、様子がおかしい」
「何?」
 低い耳打ち。類の言葉をそのまま鵜呑みにするわけではないが、彼の観察眼は信用できるものだ。
 改めて女性の様子を窺う。すると女性は俯いたまま、ぶつぶつとマスクの下で言の葉を転がしはじめた。
「助けてさしあげましょう、*助けてさしあげましょう……助け、た、タスケ、助ケテ、あげル、ルルル、*」
 まるで壊れたスピーカーだ。ひどく耳障りな声が、耳朶を舐り、鼓膜を揺さぶる。
 思わず芝生の草を踏み潰すように半歩後退った。
……
……司くん」
「う、うむ。さすがのオレも、怪しさ満点だと思っているところだ」
「それはよかった。僕も同意見だよ」
 じりじりと間合いを詰める女性から、類を庇うように手で制す。
 現状、人数と性差のアドバンテージはこちらにある。しかしそれだけでは安心できないほどに、この場にはひりつく緊張感があった。
 ふと女性が口元のマスクに手をかける。何気なくその手つきを見つめて、そしてふたりは大きく目を見開いた。
*助けてさしあげるわ。あなた達の……タマシイとヒきカえに*
「なっ……!」
 青白い肌。瞳は虚ろで、濁っている。そしておそろしいことに、不気味に吊り上がった口角は耳まで不自然に裂けていた。
 その異様な姿は、そう、子供の頃に怪談などでよく聞いた――
「く……口裂け女……⁉︎」
「へえ……まさか実在するとはね」
「ゆゆゆ悠長なことを言っている場合か! 逃げるぞ!」
 もはや呑気に構えている余裕などない。一も二もなく、司は慌てて類の腕を掴んで公園を飛び出した。
 公園の周囲は見慣れぬ住宅街に囲まれている。
 四面楚歌にならないようなるべく広い道を選んで走る。……しかし、どうもおかしい。道ゆく人はおろか、車の通りもひとつもない――ふつうの、閑静な住宅街だ。だのになぜか、どこからか強い視線を感じる……
 あの女性のものではない。仕事柄人からの視線には聡い方だと自負しているが、ひとつふたつでは収まらない数の視線が、司と類に突き刺さっているのだ。
 なんだかまるで、街全体がふたりを監視しているかのような――
*ふふふ……ニがさない……*
「っ」
 女性の目的は定かではないが、明確な害意を感じた。あのトレンチコートの下に包丁を隠し持っていると聞いてもなんら不自然ではないほどに。
 逃げなければ。本能的にそう思うほど、焦りから足が縺れる。
*ねえ、あたしキレイ? キレイかしら……こぉんなに、お口がサけてしまっても?*
「ひっ……
 振り返ると女性はぐぱあ、と大きく口を開いてみせた。
 興奮しているのだろうか。唾液が糸を引き、赤い舌が蠢いている。催す嫌悪感をぐっと飲み込んで、司は負けん気を振り絞って地面を蹴った。
「ぬ……ぬおおおおおおおお‼︎‼︎‼︎ はあっ、はあっ……いったいどうなっているんだ!」
 闇雲に走っていてもよくないことはわかっている。地の利は向こうにある。しかし、足を止めてあっさり捕まるのは御免だ。
 せめて。どこか……コンビニのひとつでもあれば駆け込んで店員に助けを求められるかもしれない。口裂け女を相手にできることなどタカが知れているだろうが、現状を打破するにはそれしか今は思いつかなかった。
 はあ、はあと二人分の息が交互に弾む。それまでは黙って司に腕を引かれていた類だったが、いくつかの曲がり角を曲がったあたりで、神妙な面持ちのまま唐突に口を開いた。
…………司くん。ちょっと気になっていることがあるんだけれど……
「なんだ! 今じゃなきゃダメな話か⁉︎」
 もしや何か妙案が浮かんだのだろうか。一縷の望みをかけて問いかける。類はそれを受けて、コクリと力強く頷いた。
「口裂け女って単に口が裂けているだけで見た目はふつうの女性だろう? 彼女は魂と引き換えに僕達を助けると言うけれど、いったいどうやって人の魂なんてものを手に入れるつもりなのだろうかと思ってね。刃物で殺す? 体から魂を引き抜く? そもそも魂の定義とは? 僕達の体のどこに存在して、どうすれば抽出できるものなのか……ひょっとして彼女には何か特殊能力が隠されているのかな。よく魂の重さは二十一グラムと言われるけれど、それが本当かどうかは科学的に立証されていないというのも気になっていてね」
……知らん‼︎‼︎‼︎」
「そもそも僕達の魂を得て彼女にどんなメリットが? 単なる殺人衝動? それとも魂を得ることでエネルギーを得られる……食事のようなものなのかな。嗜好品という可能性も捨てきれないね。あるいは魂を吸収することでパワーアップできるのかも……ああっ、どうしよう、考えはじめたら止まらないよ……!」
「なあその話、ホントに今じゃなきゃダメか⁉︎」
 そういえば自分達がこんなところに迷い込むはめになった発端も類の迂闊な行動が始まりであったことを思い出した。本当に、一度好奇心にかられると手に負えない男だ。
 ぶつぶつと早口で何やら言っている類は思考に気を取られてどんどん走る速度が遅くなっている。何をやっているんだ、いいから走るのに集中しろ、と類の背中を押す。けれども当然、もたもたしているうちに口裂け女との間合いは狭まっていく。
*ふふふ……*
「くっ……ああもう、そんなことを言っているあいだに追いつかれてしまった! 逃げきれん……万事、休すか……!」
 口裂け女と正面から対峙しつつ、司は悔しさを滲ませて拳を握り締めた。
 しかしここで素直に諦めるわけにはいかない。
 武術の心得はまったくないが、取っ組み合いになった場合を想定して構える。まだ、まだ逃げるチャンスはあるはずだ。慎重に窺えば、相手の隙をつくことは十分できるはず……
……司くん。ここは僕が囮になるから、君は急いで逃げて助けを呼ぶんだ」
「なっ……バカを言うな! お前ひとり置いていけるか!」
 類の言葉にカッと頭が熱くなる。自己犠牲という言葉を、司は好かない。誰かの尊い犠牲の上で自分が助かってもまったくうれしくない。秤に掛けられるのが類の命であるならば尚更だ。
 苛立ちで歯を剥き出しにする司を横目に、類は困ったように、あるいは言い聞かせるように続ける。
「だけどあの女性……見るからに様子がおかしい。言葉が通じるとは思えないし……このままではふたり諸共仲良くお陀仏かもしれないよ」
「しかし……だからといって類を置いてひとりで逃げるなど――
 できるはずもないだろう、と言いかけたときだった。

――これはこれは。またずいぶんと珍妙なお客様ですね」

 司と類の上に影が重なる。頭上から降ってきた第三者の声に目を見開いて、司は勢いよく声のした方向を見上げた。
「⁉︎ 誰だ⁉︎」
 人がいる。屋根の上に、ふたり。
 夕暮れ時の薄暗さと逆光で表情はわからないが、背格好は自分達とそう変わらないように思える。
 揃いの唐傘――黒い……詰襟? 中学生だろうか。
 すると屋根の上で行儀悪く腰を落としていた少年が、堂々たる振る舞いでゆっくりと立ち上がった。
「ハーッハッハッハ! お前達、困っているようではないか! ここで助けてやらねば、探偵助手の名が廃ってしまうな!」
……? この声は……
「とうっ」
 一切の躊躇もなく屋根から飛び降りた少年に、司はギョッと目を開いた。咄嗟に受け止めようと体が動いてしまった司の手のひらを軽く足台にして、少年は華麗に――あるいは、口裂け女から司達を守るように――着地してみせる。
「よっ……と! お前達! さては人の子だな⁉︎」
 振り返ったその容姿を目の当たりにして、目を疑った。
 毛先にかけて淡く色づく髪。あんず色の瞳。服装がちがうことを除けば、その姿はあまりにも――天馬司そのものだったのだ。
「なっ……お、お、オレ――――⁉︎⁉︎⁉︎」
……ほう、驚きました。まさかワタヌキ以上にやかましい人の子が存在するとは」
「だれがやかましいって〜?」
「る、類! オレがさらにもうひとり増えたんだが⁉︎」
「増えたねえ」
 後から音もなく降りてきた少年もまた、どういうわけか司とまったく同じ見た目をしている。
 強いて司本人との違いを挙げるならば、その眼差しはどこか冷ややかで、不機嫌そうに口角は下がり、うまく表情を読み取れないところだろうか。
 そして奇妙なことに、少年達のどちらにも獣の耳と尾があった。
 所作の荒い少年には狸のような耳と尾が。物静かな少年には狐のような耳と尾が。時折左右に動いており、コスプレにしては相当精巧なつくりである。
 物静かな少年に噛みついていた狸耳の少年は、やれやれと腰に手を当て、改めて司と類のふたりに向き直った。
「まったく……そんなことより今はこいつらを助けてやらねばな! おい、お前達。ひとまず安全なところまで案内してやる! オレについてくるといい!」
「ついてくるといい、と言われてもな……。どうする、類」
……。こうしてこの場に留まっていても危険な状況に変わりはない。一か八か、彼らについて行ってみようか」
「だ、大丈夫なのか?」
「さあ……。確証はないけれど。でも……
 ――司くんと同じ顔をした彼らが悪者だとはどうしても思えなくてね。
 肩を竦めてみせる類を横目に、うむ、と司は小さく頷いた。
 たしかに異様な出で立ちではあるが、あの口裂け女のようにあからさまな嫌な感じはしない。味方……と判断するには早い気もするけれど、少なくとも今この場において敵ではないように思える。
 類の返事を気に入ったらしい少年は、その場で満足そうに目を細めた。笑い方まで司によく似ている。
「そっちの奴は話がわかるじゃないか。……ん? よく見たらお前、なんだかカミシロに……
「何をポンポコ駄弁っているのですか、ワタヌキ! 私が口裂け女を化かしているあいだに早くふたりをお連れなさい」
「へ〜い……。じゃ、気を取り直して――

――こっちだ! ついてきな、おふたりさん!」

     *

 上機嫌な鼻歌が耳朶をやわらかくなぞる。
 狸耳の少年が差す唐傘を眺めながら、司と類は彼の背を追ってひと気のない住宅街を道沿いに進んでいた。
 持ち主の気分でくるくると右へ左へ廻る様をぼうっと見つめていると、ふと、不意に視界が大きくひらける。
 ――一面の、赤。
 見渡す限り広く続く焼けた空だった。ぬるい風が吹き抜け、見下ろせば街並みはぽつぽつとオレンジの明かりを灯し、夜の刻を今か今かと待っている。
 そんな中、ひそひそと、耳元で姿の見えない何かの声がした。
 それだけではない。木々の不穏なざわめき。品定めするかのごとく、不躾に突き刺さる数多の視線。筆舌しがたい居心地の悪さを感じて、司は身を寄せるように類の傍らに立った。
……
「そうこわがらなくても大丈夫だ。ここはもう、アイツの縄張りだからな」
「縄張り……?」
 狸耳が、笑みを浮かべたまま唐傘を閉じる。高台から続く石階段を下り切って――また道なりに少し歩いた先で。着いたぞ、と少年は傍らの建物を指差した。
 二階建ての小さなビルだ。上の方に立て付けられた看板の文字は、一見日本語のようにも見えるが、なぜだか奇妙な形をしている。
 司は思わず眉間に皺を寄せ、目を皿のように細めた。
……なんだこれは。読めそうで絶妙に読めん……い、ほだ、ん、わ……?」
「鏡文字かな。文字が反転しているみたいだ。……ふむ。どうやら読む向きも、右から左のようだね」
「なるほど。では……『不思議探偵事務所』……『わんだほい』か……?」
 探偵事務所だというそのビルは、周りの風景に溶け込むようにごく自然に佇んでいる。二階のベランダ部分に洗濯物が吊るされているのを見るかぎり、おそらく一階が探偵事務所、二階は生活スペースとなっているのだろう。
 狸耳の少年は躊躇いなく門扉に手を掛け、ずかずかとビルの中へ入っていく。ここまできて置いていかれては敵わんと、司達もまた慌ててその背中を追いかけた。
「あるじ様ー! 言われたとおりふたりを連れてきましたよー!」
「おお、ワタヌキ。任務ご苦労! そしてようこそお二方、〈不思議探偵事務所わんだほい〉へ!」
 受付のいない玄関ホールを抜けた先。応接室と札のかけられた部屋で司達を待ち受けていたのは、ふたりの青年だった。
 どちらも朗らかで柔和な笑顔を浮かべ、そこはかとない歓迎ムードを感じ取る。片や詰襟、片やブレザーと系統こそちがうものの、学生服を身に纏っているからにはきっと年齢は自分達とそう変わらないのだろう。――しかし、今はそんなことよりも。
「オレはテンマ。ここの探偵の助手だ! そして――
「僕が、探偵のカミシロだよ。どうぞよろしく」
「お、オレどころか類も増えただと……⁉︎ いったいぜんたい、何がどうなっているんだあああ――!」
 驚くべきことに、挨拶をすべく一歩前に踏み出した少年は――狸耳の少年と同様に――司とほとんど同じ見た目をしていた。
 異なる点を挙げるとするならば、テンマは司ほど髪に癖がない。それから黒縁の眼鏡と、きちんと首元まで留められた学生服が利発そうな印象をもたらしている。
 一方で、行儀悪くデスクの端に腰掛け脚を組んでいる青年は、髪型こそちがうものの、見れば見るほど類とそっくりの顔貌をしている。
 そのうえ名前まで同じときたものだ。
 目を白黒とさせる司を見遣り、カミシロと名乗った青年は「フフ」と笑みを零した。……これまた引くほどに笑い方まで類にそっくりではないか。
「いやぁ、本当に珍しいお客様だ。まさか向こうの世界の僕達がやってくるなんてね」
「向こうの世界の僕……?」
「ああ。きちんと説明してあげたいところだけれど……そうだね、手短にというのは難しそうだ。どうぞ、ふたりとも席に掛けて。順を追って説明しよう。テンマくん、彼らにお茶を」
 カミシロの命を受けて、テンマと呼ばれた少年はうれしそうに顔を綻ばせた。
「承知した! 先日サキが持ってきたとっておきの茶葉があるんだ。とびきりおいしく淹れてくるから待っていてくれ!」
「どうぞお構いなく」
「ありがとう……と、自分と同じ顔をした相手に言うのは妙な気分になるな……
 いまだ状況は飲み込めないが、少なくとも彼らは自分達より訳知りのようだ。詳しく説明してくれるというのなら尚のこと、大人しく従うのが賢明だろう。
 促された来客用ソファーにふたり揃って腰を沈めると、カミシロも向かいの席に腰をおろし、長い脚を再び組んだ。
「さて――まずは無用な混乱を避けるためにも結論から話させてもらおうかな。……世の中には自分と同じ顔のそっくりさんが三人はいると言われているけれど、僕達は正真正銘、そっくりさんなんかではなく同一人物だよ。別世界軸のね」
「別世界軸?」
 食い気味に類が繰り返す。カミシロは微笑みを浮かべたまま小さく頷いて、ソファーの背もたれにゆっくりと体重を預けた。
 短く切り揃えられた紫陽花色の髪が、微かに揺れる。
「何から話そうかな……。端的に言ってしまうと、ここは君達のような人の子ではなく、妖怪がはびこる世界。そちらでの呼び名はわからないけれど――そうだね、〈あの世〉……ううん、〈隠り世〉というのが一番それらしいかもしれないね」
「かくりよ……
「あるいは〈裏世界〉かな。そしてこの辺り一帯の街を僕達は〈裏シブヤ〉と呼んでいるよ」
「裏……シブヤ? ふつうのシブヤではないのか? いや待て、それ以前に聞き捨てならん単語が……。妖怪だと⁉︎」
「そうさ。君達も道中に出会っただろう? 口が耳まで裂けた女性にね」
――!」
 刹那――司と類の脳裏に、先ほど目の当たりにした光景が蘇る。
 たしかに見た。到底ふつうの人とは思えない、ありえない大きさの口。ねばつく涎が糸を引き、鋭い歯牙を光らせ、野生の狼のように今にも噛み付かんとする姿を。
 正気を失ったあの濁った瞳は、忘れようとも簡単には忘れられそうにない……
「では、あれは……本物の……?」
 その問いには答えず、カミシロは優雅な所作で席を立って、木製のアンティークな棚からいくつか蔵書を取り出した。
 ずいぶんと劣化した紙を丁寧に捲り、あるページを司と類の前に差し出す。
 相変わらず文字は反転して読みづらいが、しかしそれよりも墨で描かれた絵に目を奪われる。百姓のような男が、小鬼のような生き物と共に畑を耕している――なんとも不思議な絵だった。
「その昔、あやかしと人の子は共に同じ世界で暮らしていてね。にわかに科学と呼ばれるものが発展するにつれ、世界は表と裏のふたつに分かたれたんだ。ひとつは君達が住んでいる人の子の世界。そしてもうひとつが、ここ……あやかしの世界」
 ほう、と司が短く息を零す。
「つまりここは……オレ達が普段暮らしている世界とは別の、いわゆる異世界? ということだな。考えようによってはセカイのようなものか……?」
「セカイ?」
「む、もしやお前達はセカイを知らないのか? こう……キラキラシャララ〜☆ となって、別の空間に飛ばされたりは……
……?」
 身振り手振りで説明しようとする司を熱心に見つめて、カミシロはぱちぱちと瞬きをしてみせた。口元に微笑みを浮かべてはいるが、表情を汲み取る限り、言葉の意味までは通じていないようだ。
 しかし改めてセカイがどういうものなのか伝えるのはなかなかに難しい。ああでもないこうでもないと言葉を選び損ねてはウンウン唸っていると、こそ、とそれまで口を閉ざしていた類が司の耳元にくちびるを寄せ、囁いた。
「どうやら、こちらの世界の僕達はセカイに行ったことがないみたいだね」
「ああ。顔は同じでも境遇はまったくの別のようだな……
 そういえばカミシロは自らを探偵だと名乗っていた。テンマも探偵助手であると。するとふたりはショーをしていないのだろうか。ショーとは無縁の道を歩む人生だなんて――司はこれまで想像だにしなかったから、なんだか変な感じだ。
 要するにここは一種のパラレルワールドなのだろう。
 天馬司と神代類が、人ではなくあやかしとして生まれ、ショーと出会わなかった平行世界――
「ということは、お前達も妖怪なんだな」
「ああ。僕も、そこにいるテンマくんも、れっきとしたあやかしだよ」
「むむ……なるほど……。いや、まったくわからん! セカイだの裏シブヤだのそうホイホイ異世界に飛ばされる経験が人生に何度もあってはたまらんのだが⁉︎」
「事実は小説よりも奇なりと言うけれど……フフ。今回もまたなかなかの珍体験だ。本当に、司くんと一緒にいると退屈しないよ」
「言ってる場合かー!」
 とにもかくにも。カミシロの言葉をそっくりそのまま信じるならば、司達はどうにかして元の世界に戻る方法を探る必要がある。
 セカイと現実世界を行き来する鍵は『Untitled』だ。もしかすると、こちらの世界にも同じような〈スイッチ〉があるのかもしれない。しかし現状、手掛かりらしい手掛かりは何も……
「はっ、そうだ……! 鳥居! カミシロ、この辺りに鳥居の絵が描かれた壁や塀に心当たりはないか⁉︎」
「鳥居の……?」
「僕達、元の世界で壁画の中に引き摺り込まれてね。それで気がついたらこちらの世界にいたのだけれど、壁画には鳥居が描かれていたんだよ」
……。いや、すまない。心当たりはないね」
「そうか……
 がっくりと大きく肩を落とす。とはいえ、簡単に望みを捨てるわけにもいかない。
 司には夢がある。世界を股に掛けるショースターとなって、人々を笑顔にするという――子供の頃からの大きな夢が。それをこんな道半ばで諦めたくはない。
 膝の上で拳を握り締める。土地勘もなければ身寄りもないが、それでも、ひとつずつ可能性を潰していけば――きっといつかは、元の世界に帰る手掛かりも得られると――今はそう信じるしかない。
 無論――とカミシロが努めて明るく口を開く。
「僕達も協力を惜しむつもりはないよ。同じ顔を持つ者同士、助け合おうじゃないか」
「か、カミシロ……!」
「ただ……ひとつだけ厄介なことがあってね……
 厄介なこと? と口を揃えて繰り返す。
 首を傾げる司と類を交互に見遣って、カミシロは「ああ」と少しだけ前のめりに話を続けた。
「困ったことに、禁忌とされているんだ。あやかしが、人の世へ干渉するのは」
「禁忌……
「歴史的に表沙汰にはされていないけれど、その昔、人間と妖怪達のあいだで醜い争いがあってね。それはいつしか大きな戦争になって……罪のない犠牲を嘆いた神様が、隠り世と現し世、ふたつの世界を繋ぐ門を固く閉ざして行き来できなくしてしまったんだよ」
 どうりで、と類が頷く。
 自分達が暮らしていた世界でも〈妖怪〉という名は知られているが、現代ではすっかり都市伝説だ。昔の人の妄想、あるいは何かを見間違えたのだろうと結論づけ、どれも空想上の生き物として扱われている。
 だが実際は妖怪は〈元から存在しない〉のではなく、〈別の世界に隔離され、干渉を許されなかった〉のだとしたら。――長い時間をかけて、妖怪という存在そのものが人々の記憶から薄れ風化されていったというのが正しいのか。
「とはいえ、元は同じ世界。神様も万能ではないからね。世界のあいだに綻びがあることはたしかだよ」
「それなら、その綻びを見つけることができれば……
「オレ達は元の世界へ帰れるというわけだな! ならばさっそくにでも綻び探しとやらに取り掛かろう。いくら休演期間とはいえ長期に渡りショーを休むわけにはいかないからな!」
 フフ、と類の口元が綻ぶ。
「君はこんな時でも、ショーの心配なんだね」
「当然だ。お前もだろう? 類!」
「もちろんさ。だけど気ばかり焦っても仕方ない。まずは方針が定まっただけでも良しとしようよ」
……とかいってお前は、この世界のことを調べたくて仕方がないだけでは?」
「フフフ。わかっちゃうかい?」
 まったく、と肩を落とす。今は大人しくソファーに座っているが、本心ではすぐにでもあちこち探索したくて仕方がないのだろう。
 神代類とはそういう男だ。未知に遭遇すると、隅々まで調べ尽くしたくてたまらない性分。どちらかといえば石橋は叩いてから全速前進渡るタイプの司とは真逆の性質なのである。
――ところで、人間‼︎」
「どわーっ⁉︎⁉︎⁉︎ きゅ、急に現れるんじゃない! びっくりするだろう!」
 突然背後から掛けられた声に飛び跳ねる。
 振り返れば、茶を淹れに下がっていたと思っていたテンマがいつの間にかそこに立っていた。テンマはほのかに湯気のたつ湯呑み茶碗を素早くテーブルに並べ、爛々と輝かせた瞳を司に向ける。
「ここで会ったのも何かの縁だ! ぜひともお前達の世界の話を聞かせてはくれないか⁉︎」
「オレ達の……世界?」
「そうとも! 聞けば人の世では文化と科学が著しく発展しているそうじゃないか!」
「おや。いったい誰に聞いたんだい?」
「人魂だ!」
 ひとだま。司の脳裏に青白い炎のイメージがぼんやりと浮かび上がる。喋るのか。人魂が。だがセカイでも木やら花やらぬいぐるみやら、あらゆるものが人語を解すからな……。と妙に納得しかけていると、それを訂正するようにテンマが口を開いた。
「お前達にもわかりやすく言うと――人魂とは死者の魂のことだな。幽霊みたいなものだ。オレ達あやかしは現し世に干渉できない分、そちらの世界のことは人魂達から聞くしか方法がなくてな……もしかすると少々情報が旧いかもしれないのだが――
 ほう、と相槌を打ちながら、司はふうふうと湯呑みの湯気を吹き飛ばした。ふちに口をつけ、ゆっくりと啜ろうとして……
「ええと、たしか……そう、〈どこでもドア〉! どこでもドアは本当に存在するのか⁉︎」
 ぶは、と思わず口に含んでいた茶を盛大に噴き出してしまった。
 慌ててポケットからハンカチを出して濡れたテーブルを素早く拭き取る。――な、何? なんて? どこでもドア?
「ドアを開くとあっという間に思った場所に繋がるのだろう? 超画期的スペシャルな発明ではないか!」
「いやまあ、それは知っているが……
「フフ。だけどさすがに、こちらの世界の科学もそこまでの進歩は遂げていないかな」
「な、何ぃ――⁉︎ ないのか……どこでもドア……。あったら移動が楽になるなと思っていたのに……
「あったらよかったんだけどねえ。残念ながら猫型ロボットもいないし、四次元ポッケもないよ」
 どうやらあやかしの彼らには人の世が相当ハイテクノロジーな世界であるという認識があるようだ。
 それに……。類は窓の外へと目を向ける。
 こちらの世界からはノスタルジックな印象を受ける。室内を見渡してみてもエアコンだとかパソコンだとか、そういった電化製品のたぐいは見当たらないし、外の街並みも古き良き商店街や瓦屋根などが並んでいるのだ。
 どうりで高台から見た夕焼けがやけに広く感じるわけだ。高層ビルがひとつもないのだから。
「どこでもドアはともかくとしても……人の子の技術の進化には僕も興味があるよ」
 そう言ってカミシロは手を組み合わせ、わずかに目線を落とした。
「実は君達のことを百目……この街の警備から報されてから、少しのあいだだけ、影から様子を見させてもらっていてね」
……は! まさかあの妙な視線はお前達のものだったのか……⁉︎」
「ああ、やっぱり気づいていたんだね」
 あの寂れた公園から、住宅街を駆ける中で感じていた視線。てっきり口裂け女の仲間のものとばかり思っていたが、あの正体はカミシロ達だったのか。
 眉尻を申し訳なさそうに下げて、カミシロが続ける。
「口裂け女に襲われているのを見て、テンマくんはすぐに助けに入るべきだと言っていたのだけれど……一応、裏シブヤの管理人として君達が何者なのかまず見極めなくてはいけなくて」
……ん? 裏シブヤの管理人……?」
 司が首を傾げると、すかさずテンマが口を開いた。
「そのままの意味だ。裏シブヤは、カミシロの庭のようなものでな。ここに住む皆が平和に暮らせるよう、毎日カミシロが直々に目を光らせているんだ」
「待て待て。急にスケールがでかくなって処理しきれん……。つまりカミシロはこの辺り一帯の権力者……? ということか?」
「有り体に言えば、そうなるね。封建制度における将軍の立場……といえばわかりやすいかな」
 いやまったくわからん。現代でいう知事のようなものだろうか。
 ちら、と隣に座る類の横顔を盗み見る。
 封建制度。御恩と奉公とやらを、中学の授業で学んだ記憶はあるが。類は――演出家という特性上、どちらかといえば将軍のように人の上に立つよりも、裏方や縁の下で大きく活躍する方だ。まあ、そうはいっても類はとんでもなく賢い人間だし――時代が時代ならば、智将となりうる素質はあるとは思うが……
「それで、君達がここに到着したとき……何か小さい装置を操作していただろう?」
 ああ、と類が閃いたように自身のスラックスのポケットを探る。
「もしかしてスマートフォンのことかな」
「なるほど。フォン、ということはあれは電話なのか……。見せてもらっても?」
「構わないよ。どうぞ」
 特に躊躇う素振りもなく類はカミシロにスマホを手渡した。
 しげしげと見つめているうちにスリープモードが解除されたのだろう。ぱっと点灯したディスプレイを見て、カミシロの後ろから覗き込んでいたテンマが驚嘆の声をあげる。
「おお! 光って絵が浮かんだぞ⁉︎」
「不思議だね。こんなに小さな箱で、いったいどういう仕組みなんだろう」
「ご希望とあれば、原理を説明することもできるよ」
「本当かい? それはぜひともお聞かせ願いたいね」
 カミシロの表情がにわかに明るむ。あの、大好きな玩具を手に入れた猫のような――爛々と瞳孔の開く表情は、司にもよく覚えがある。
 無意識に零れた苦笑と嘆息が、タイミングよくテンマの零したそれと重なった。
「同じ〈神代類〉だからか、あのふたりは気が合うようだな……
「これは話が長くなりそうだ……。茶のおかわりはいるか?」
「いただこう! ……ところで、スマホが普及していないとなるとお前達は普段どうやって連絡を取り合っているんだ? ガラパゴスというやつか?」
「ガラ……? いや、こっちにも電話があるにはあるのだが……
 テンマが指差した先。棚の上に黒いダイヤル式の受話器が置いてあるのを見つけて、司はぱちりと目を瞬かせた。
 黒電話――実物を目にするのははじめてだ。歴史の教科書や、古い映画に登場するのでしか見たことがない。
「そもそも電話自体、オレ達あやかしにとっては無用の長物でな」
「そうだね。低級のあやかしならまだしも、僕達は妖気を辿って念で会話できてしまうし……
「ぬう……。オレからすればその……妖気? とやらの方がすごいように思えるのだが、なるほどな……。こうして聞くとけっこう文化がちがうものなのだな……
「でも話を聞いて納得がいったよ。こっちでスマホの電波が通じないのも、『Untitled』がなくなってしまったのも、きっとその文化の違いが原因だろうね――この世界には、ミクくんがそもそも存在していないんだ」
……! そういうことか……
 ミクは元々、歌声合成ソフトウェア――電子の歌姫だ。スマホはおろかパソコンさえも存在しない世界では、そもそも生まれていない。
 ミクがいないから、セカイもまた、〈始まってすらいない〉。
 パズルのピースがひとつずつ揃ってきたところで、さて、とカミシロが手を打ち鳴らした。人好きのする笑みを浮かべて、司と類を交互に見つめる。
「こちらの世界については一通り説明できたかな。ひとまず慣れるまでは、この探偵事務所に身を置くといいよ。寝泊まりする場所が必要だろう? 客室でよければ提供しようじゃないか」
「んなっ……それは、正直とても助かるが……本当にいいのか?」
「もちろんだとも。――それにきっと、ここでなら君達も毎日刺激的に過ごせるんじゃないかな?」
 カミシロの含みのある微笑みに、司と類はぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「「……毎日刺激的に?」」