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ねぶくろ
2025-08-09 20:26:04
3796文字
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Skeb
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適温
Skebにて納品した作品です。
こほ、と喉の奥が引き攣るようにして咳が出る。
六角
むすみ
哲平
てっぺい
は顎の下に引っ掛けていたマスクを引き上げて、口元を覆った。断続的な衝動が肺を震わせて、不快感が喉の奥から這い上がる。いつもの発作だ、とすぐに理解して、顔をしかめた。こほこほ、といくつか咳を重ねて、身を震わせる。肌に突き刺さるような冷気を辿って、六角は天井付近に設置されたエアコンを見上げた。
六角たちが勤める高校では、全館の空調を一括で管理している。職員室の室温は、授業をしている他の教室に合わせてか、肌寒いくらいに設定されていた。席を立って操作盤を見ても、単なる教員に過ぎない六角には操作の心得も権限もない。
操作盤の前で立ち尽くしていれば、肌が粟立つ感覚と共に、軽い悪寒に襲われた。腕をさすって、そのまま職員室を後にする。向かう先は、保健室だ。
廊下に出れば、リノリウム張りの床に反射した陽光に目を焼かれた。咄嗟に顔を背けて、廊下の端に寄りながら歩みを進める。窓越しに鼓膜を震わせる蝉しぐれは旺盛で、夏の盛りが迫っていることがわかった。日の光に温められているせいか、職員室よりは快適な廊下の温度に安堵しつつ、慣れた道筋を辿る。角を曲がり、階段を降りれば、すぐに保健室の扉が姿を現した。『在室中』という札の掛かった引き戸に手を掛け、ノックもなしに戸を開ける。
「お邪魔します」
六角が声をかけて室内を覗き込めば、デスクでPCに向かっていた養護教諭、
神薙
かんなぎ
千景
ちかげ
がこちらを振り向いた。日の下で活発に活動するタイプではないからか、こんな季節でも涼しげな色白の肌に、同じく白い白衣が良く似合っている。彼は六角を認めると、「六角先生」と、耳に馴染んだ優しげな声で名前を呼んだ。眼鏡ごしの視線がやわらいで、彼がゆるやかに首をかしげる。
「授業時間ですよね。体調、悪いんですか?」
ほんのりと西の訛りが混ざったイントネーション。一つひとつの言葉を丁寧に選び取るようなゆっくりとした発声に、釣られてこちらの言葉も穏やかになるのを感じながら、六角はマスクの下で口角を持ち上げた。
「今は空きコマです。大したことじゃないんですけど、職員室がちょっと寒くて
……
。次の授業まで、ここにいてもいいですか?」
尋ねれば、彼は「それはもちろん。一応、熱とか測りましょうか」と席を立った。戸棚から体温計を取り出して、設定を済ませてからそれを手渡して来る。「座ってください」と、体調不良の生徒たちが休むためのソファを勧められて、遠慮なく腰を落ち着けた。体温計を脇に挟んで、ソファに身を沈める。
中庭に面した保健室は、窓が多いせいか職員室よりも室温が高い。床に落ちた陽射しの優しさに目を細めて、六角はゆっくりと瞼を閉ざした。生ぬるく茹った室温は快適で、低く唸るクーラーの風も、突き刺さるようだった職員室とは比べ物にならないほど穏やかだ。守られているような感覚に、強張っていた体が弛緩する。やわらかな泥に足を取られるような、そんな眠りに誘われて、六角は意識を手放した。
「六角先生、チャイム鳴りますよ」
不意に肩を揺らされて、眠りから引き上げられる。一瞬、自分がどこにいるのか、今が何をするべき時間なのかが曖昧になって、六角は呆然とした。
こちらを覗き込む神薙の顔を、間抜けな顔で見返して、──すぐに、授業に向かわなければ、と記憶を取り戻す。六角が弾かれたように時計を見るのと同時に、廊下からは授業終了を告げるチャイムが聞こえてきた。ざわざわと、教室から声の塊が溢れ出す。廊下に響く生徒たちの声に急き立てられて、六角は慌ててソファから立ち上がった。眠っていたせいか、重たさの残る体でドアまで向かい、部屋を出る直前に、神薙を振り返る。
「すみません、バタバタしてしまって
……
。ありがとうございました、また今度ちゃんとお礼させてください」
「ええよ、仕事ですから気にせんで。
……
ほら、もう行かないと遅刻しますよ」
呆れたように背を押す言葉に頷いて、戸を開ける。六角はそのまま、振り返ることもなく化学室へと向かった。
* * *
「六角先生、一緒に帰りませんか?」
声を掛けられて、採点作業をしていた六角は、「え、」と間の抜けた声を上げた。
放課後の職員室は、昼間よりも人口密度が高く、人の気配に満ちている。授業を終え、生徒たちが帰った後の時間は、雑務をこなす絶好のタイミングだ。翌日以降の授業準備をしたり、小テストの採点をしたり、はたまた参加した勉強会の報告書を作成したり、とやることは尽きない。
頭痛を堪え、目を細めて小テストの採点をしていた六角に声をかけてきたのは、神薙だった。彼は既に白衣を脱いで、帰る支度を整えている。呆然とした顔で彼を見上げて、「かえる」と意味を理解できないまま彼の言葉を繰り返した。神薙は、「一緒にどうですか」と、常と変わらぬ穏やかな声で言葉を重ねた。
「
……
、先生って、電車でしたっけ?」
「いえ、僕は車です。だから、駅まで送りますよ」
ありがたい申し出に、先ほどから続いている頭痛が鋭さを増して存在を主張する。小テストの採点は明日の朝に回して、今日はもう帰ってしまえ。そう囁く自分の声に、六角は「
……
、えぇと」と躊躇いがちに手元を見つめた。
まだ三分の一ほどしか終わっていない採点作業。昼過ぎから続いている咳と、先ほどから主張を止めない頭痛。手元の状況を整理している間にも、太い縄で締め付けられているような頭痛に、思考が拡散していく。六角は痛みを堪える間を置いて、「
……
じゃあ、お言葉に甘えて」と、俯きがちに頷いた。採点済みのテストとそれ以外が混ざらないように目印を挟み、回答が紛失しないように茶封筒に入れる。六角は軽くデスク廻りを整えると、カバンを手に取り、席を立った。
神薙と連れ立って、普段はあまり近寄ることのない教員用の駐車場へ向かう。昼間は旺盛に鳴き交わしていた油蝉の声は止み、今はもの悲しさのあるヒグラシの声が夕焼けに映えていた。体調不良のせいか、なんとなく涙腺が緩んで、顔を上げる。西に残る茜色を見上げて、六角は何度か乗ったことのある彼の車に乗り込んだ。「お邪魔します」と、恐縮しながら助手席でシートベルトを締める。彼は「それじゃ、出発しますよ」とひと声かけてから、アクセルを踏み込んだ。
「哲平くん、今日すごく体調悪いでしょ。顔色悪いし
……
、夜、寝れてないんやない?」
断定するような物言いに、「寝不足は千景さんの方でしょ」と軽口を返す。彼は「冗談やなくて、」と眉根を寄せて、進行方向を睨みつけたまま言葉を重ねた。
「夏場は冷房と外の暑さの落差で寝つきが悪くなりやすいんですよ。寝不足の人も増えるし、それで風邪を引いたり、熱中症になったり、色々不調になりやすい時期やから、気を付けてください」
「
……
は~い」
言い返せないことへのわずかな後ろめたさに、返事が拗ねたように低くなる。神薙はそれを察してか、苦笑交じりに「口やかましくてごめんな」と呟いた。何かを諦めるような声音に、心臓が跳ねる。
「いえ
……
、優しいなって、思ってますよ」
目を合わせないまま、呟くような声量で言葉を返しても、彼は何も言わなかった。車内に落ちた沈黙を、無機質に繰り返されるウインカーの音が、等間隔に埋めていく。たっぷりの間を置いてから、左折を終えた彼が、重たそうに口を開いた。
「僕は、頼りにならないかもしれんけど、
……
六角先生の力になりたいと、思ってますよ」
頼ってくださいね、と結ばれた、踏み込み方を迷うように揺らぐ声に、唇を引き結ぶ。六角は自分の膝頭へと視線を落としたまま、返答を考え、息を吸い込んだ。
「先生は充分、頼りになりますよ」
断じるには頼りなくなった言葉に、彼が微かに笑う気配がする。車は滑らかな走行を続け、気づけば駅前のロータリーはすぐそこに迫っていた。
「
……
そう? なら、嬉しいですね」
つきましたよ、と彼がこちらを向く。その顔を見上げて、六角は笑みを繕った。「ありがとうございました」と笑顔で別れる、──つもりだったのに、言葉が喉の奥に張り付いて、声が出ない。
平気なふりをして車から降り、電車に乗って家に帰って、いつも通りに夕飯を用意して、シャワーを浴びて寝る。これからするべきことを脳内で整理して、その途方もなさに目が眩む。当たり前のことなのに、その当たり前があまりに高く聳え立つものだから、六角は思わず俯いた。
頭が痛い。体が重い。疲れて、笑う気力も残っていない。頼ってくださいね、と差し出された言葉が頭蓋骨の内側で残響している。六角はカバンを抱きしめ、「
……
あの、」と脳内で想い描いて用意していたのとは全く異なる言葉を吐き出した。
「今日、千景さんの家に、泊めてくれませんか」
呟いた言葉に、彼が微かに笑う気配がする。訝しんで視線だけで窺えば、慈しむような顔をした彼と目が合った。
「ええよ、そうしましょう。体調悪いのに一人で帰るのは不安やもんな」
何かに言い訳するように頷いて、彼がハンドルを握る。神薙はロータリーから出ると、気恥ずかしそうに、言葉を付け足した。
「頼ってくれて、ありがとな」
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