柚子子
2025-08-08 22:19:04
11517文字
Public Dog Days of Summer
 
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Dog Days of Summer (5)


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「外、めちゃくちゃ雨降ってるらしい」
 店を出る前にと手洗いに立った際、トイレの窓ごしに激しい雨音が聞こえて嫌な予感がした。携帯で天気を確認したところ、ちょうど今私たちがいるあたりに雨雲がかかっているらしい。
「天気予報見た感じ、長引く感じではなさそうだけど」
 そう言って、私は携帯の画面から顔を上げ黒尾を見た。黒尾は考え込むように、渋い顔をしている。
「まじか、どうしたもんかね……。ゲリラ豪雨ならちょっと待てばやむか? 俺は雨がやむのに賭けて待ってもいいけど」
「そうだねぇ……
 黒尾に問われ、私も思案した。部屋は九時まででとってある。学割で入っているから、九時を過ぎての延長はできないはずだ。
 とはいえ、この雨。ついでに今が夏休みであること、黒尾の外見が大人びていて高校生には見えないことまで含めれば、短時間だけ、雨が止むのをフロントで待つくらいならば、目をつむってもらえる可能性が高かった。
 近くのコンビニで傘を買えばいいだけの話ではあるものの、何せ私たちは金欠の高校生であるからして、無用な出費は避けたいのが本音。
 と、天気予報のサイトを開きっぱなしにしていた私の携帯が、軽やかなメールの着信音を鳴らす。見ると、天気を心配したらしい母からだった。
「お母さんからメール来た。『迎えに行こうか?』って」
「それでもいいな。俺ひとりなら駅まで走れる」
「せっかく頑張った課題とか、全部濡れてぐしゃぐしゃになるよ」
「おいおい、俺が何のためにエナメルバッグを持ってると思ってんだ」
「雨のなか走って帰るためではないでしょ」
 それにここから駅まで、けして短い距離ではない。走って駅までたどり着いたとしても、びしょ濡れのままこの時間の電車に乗り込むのは、ほかの乗客にとって迷惑以外の何物でもない。
 どうする、と黒尾が視線で問う。雨がやむのを待つか、迎えに来てもらうか。
 黒尾は本当にどちらでも良さそうな顔をしている。その顔を見ているうちに、何とも身勝手なことながら、私はむしょうにもやもやした気分になった。
 別に引き止めてほしいわけじゃない。黒尾の立場であれば、安全に私を帰せれば何でもいいと思うのだろうことも分かる。
 だけど、なんというか、次に会う約束だってしていないのだから、一緒に雨がやむのを待とうくらい、言ってくれてもいいのに。それくらいのワガママなら、言ってくれた方が嬉しい。
 そんな勝手なことを考えて、けれどすぐ、黒尾にかぎってそういうことは言わなさそうだなと思った。黒尾はそういうやつじゃない。私は多分、そのことを誰よりもよく知っていた。
 今のこのちょっと表現しにくい関係になる前から、黒尾がそういうたぐいの自己主張をしたことはなかった。いつだって主導権はこちらに渡してくれるのが、黒尾という男だ。だからこそ、私は今までもずっと、安心して黒尾と一緒にいられた。
 こんなにも図体が大きくて威圧感があるのに、それでも私は黒尾に一切怖さを感じないで済んでいる。それはひとえに黒尾のありかたというか、気遣いのおかげなのだろう。
 くわえて今日はすでにこの時間だ。黒尾と私の関係であっても、この時間に引き止めるのはよくない、と黒尾が考えてくれているのだろうことは、容易に想像がついた。
……じゃあ、もうちょっとだけ、待とっか」
 少しの沈黙のあと、私は言った。うかがうように黒尾を見ると、何でもない顔をして「いいのか?」と首を傾げている。
「俺に気ィ遣ってんならお構いなくだけど」
「そういうわけじゃないけど」
 いや、そういうわけじゃないわけでもないけれど。ちょっとだけ後ろめたいような気分になって、私はふいと視線をそらした。
 黒尾と一緒にいたい気持ちが私の中にある。黒尾が私を引き止めなくたって、私が勝手に黒尾と一緒にいたいと思った。だからまだ、帰らないことに決めた。
 黒尾に気を遣ったわけではないけれど、黒尾が理由であることには違いない。別にぜんぜん、悪いことじゃないけれど、やはり少しだけ後ろめたい気持ちはある。
 そらした横顔に黒尾の視線が突き刺さる。胸のなかに、余計にばつの悪さが降りつもる。
 その後ろ暗いのをごまかすように、
「そもそもうちのお母さん、迎えに来たら絶対に黒尾のことも送っていくって言うと思うよ。そうなったらひやかされて居心地悪いの黒尾だからね。私はいいけど」
 早口で言い訳ともつかない言葉を連ねる。黒尾は少しだけひるんだ顔をした。
「うお、それは想像するだけで……試練」
「ね。だからもうちょっと、ふたりで待っていよう」
 私が言うと、黒尾はまるで何かを探るようにじっと、眉根を寄せて私の顔をじろじろと眺めた。ここで怯んだら負けだ。そう自分に言い聞かせ、私は甘んじてその視線を受け止める。
 しばらくすると黒尾は、これまたなぜか大きく溜息をひとつ吐いてから、
「じゃあ、フロント下りてしばらく待つか」
 そう言って視線をやわらかくした。ほっとしたのも束の間、黒尾に向けられた視線の温度に気付き、私はふたたびたじろいだ。
 黒尾の瞳から感じる温度が、今まで黒尾から向けられていたものとは少し、けれど明確に違うものになっていた。
 ほかの男子から向けられる、微妙に下心が隠しきれていないときの視線とも違う。やわらかくて、あたたかくて、そこに好意がひそんでいることは明らかなのに、嫌な感じがちっともしない、そんな視線。
 これは相手が黒尾だからなのか、それともそもそも感情の種類が、黒尾とほかの男子では違うのか。恋愛経験の乏しい私には、そのあたりの詳しいことは分からない。けれどただひとつ、今の私は多分、黒尾からものすごく特別なものを向けてもらっている……そのことだけは、こんな私でもうっすら理解することができた。
 フロントに下りるためエレベーターに乗り込む。ふと見上げると、傍らの黒尾がゆるく口角を上げ、私のことをやけに慈愛に満ちた目で眺めおろしていた。
……なんか、黒尾の視線が妙に生温いというか、生暖かいというか……
「そうか?」
「慈愛を感じてこそばゆいんだけど……
 記憶にある限り、黒尾からこんな顔をされたことは一度もない。悪いことではないのだろうけれど、それでもやはり落ち着かなかった。
「私としては、できればいつも通りにしていてほしいんだけど」
 さっきまでは引き止めてほしい、もう少し一緒にいたいと思ってほしいと思っていたのに、我ながらワガママだと思う。それでもずっとこんなふうに慈しまれていては、気になるどころの騒ぎじゃない。
 ひとり内心でおたおたしていると、
「つっても、今までのがむしろ好きバレ対策で相当頑張ってた結果っつーか……、どっちかいうと今この状態の方が、本来の俺の心情に即した態度ではあるんだよ」
 黒尾がさらりとそんなことを言う。なんでもないことのように黒尾は言っているけれど、その内容は結構こっ恥ずかしい……というか、とてつもない甘ったるさを含んでいる。
「うええ」
「おい、うええって何だ、うええって」
「いや、だって、黒尾にとっての恋愛感情って、なんかそういう感じなんだって思ったら、なんか、すごいびっくりしちゃって。それじゃあ黒尾って今までも、そういう慈愛に満ちた心情で私のことを見つめたがっていた……ってこと?」
「そういう言語化をされると、俺がめちゃくちゃキショい感じになっちゃうだろ」
「まあまあ、恋愛って大概キショい思考と行動ばっかだって、インターネットに書いてあったし」
「そんなインターネット見るんじゃありません」
 黒尾が本当に嫌そうな顔をした。もっともその言説を目にしたときに思ったのは、黒尾に恋しているときの私って、たしかに大概気持ち悪いよなぁという自省だったと思う。なので気持ち悪さでいえば黒尾も私もいい勝負だと思うのだけれど、それも今は黙っておく。どのみち今後、もしも付き合うなんてことになれば、遅かれ早かれバレるだろう。
 と、そこまで考えが及んだところで、私は不意に気が付いた。
「待って、じゃあ今までの黒尾って、本来の黒尾ではなかったってことなの?」
 私の質問に、黒尾がいぶかしげな顔をする。
「本来もなにも、俺はずっと俺なんだけど。どういうこと?」
「今まで私が黒尾といるのってラクだなーとか、黒尾とは気が合うよなーとか、そういう風に感じていた黒尾って、好きバレをめちゃくちゃ回避しまくった結果生み出された黒尾だったってことでしょ?」
「それはまあ、そう」
「で、多分だけど好きバレ回避と同様に、黒尾は私の好み、というか私と気が合うキャラに寄せてもいたのでは」
「あー、そういうことか」
 ようやく話が通じたらしい。黒尾が腑に落ちたというように声を上げた。
 これまでの私は黒尾の友人ポジションにおさまって、さんざん楽しい高校生活を謳歌してきた。しかし黒尾のここまでの発言を踏まえると、私が友人として接してきた黒尾というのは、私の友人として最適化された黒尾、言わばかりそめの黒尾だったのでは。そんな疑問に、当然ぶちあたる。
 一体全体どうして、私は今までこの疑問に気付かずいられたのだろうか。動揺する私をよそに、
「そりゃあまあ、少しも苗字に寄せなかったといえば嘘になりますが」
 あっけらかんとした調子で、黒尾は答える。
「多少見栄張ったり、苗字の好きそうな感じに寄せたのは認める。けど、そういうのって好きな相手がいるやつなら、多かれ少なかれやってることだろ」
「そう言われてみれば、まあ、そうなのかも……?」
「そうだよ」
 本当に何でもないことのように言い切られ、私は反論の言葉を失った。
 黒尾に無理を強いることはしたくない。それはもちろん当然だ。けれど翻って己の事情を顧みれば、私だって黒尾の良き友人であるようにと、意識して振る舞っていることがないわけじゃなかった。
 黒尾といるのはラクだけれど、それでも黒尾に対して、自分の素のすべてをさらけだしているわけじゃない。黒尾に好かれるような言動を、ほとんど無意識のうちにとっていることだって、恥ずかしいけれど結構ある。
「俺としては、好きな子に好きになってもらえるなら、大抵のことはまあ、頑張れるわけでね」
……そうですか」
……好きな子に好きになってもらえるなら、」
「もう一回言わなくても聞こえてる。大丈夫です、ありがとうございました」
「ちなみに『好きな子』のところには『苗字』ってルビつけといて」
「あーあ。もう今ので台無し、台無しですよ黒尾さん」
「は!? 待てって、そんなことはないだろ」
「いや、嘘じゃないよ、せっかくのいい感じがぶち壊しだった。本当に気を付けて」
「まじか気をつけよ……
 本当に全部台無しだった。思わず苦笑いしたところで、エレベーターは一階に到着した。
 カラオケ代の清算を済ませ、フロント前に用意された待合用のソファーに並んで腰かける。店の自動ドアにばらばらと雨粒がぶつかる音が続いていた。その音に耳を澄ませながら、私はついさっきの黒尾との会話を反芻していた。
 さっきの、というか、今日黒尾と顔を合わせてから今までの、全部。
 黒尾は私が思っていたよりもずっとずっと、私に対する好意を隠さない。二年間もただの友達をつらぬいていたのだから、てっきり気恥ずかしさが先に立ち、今までと大して変わらない態度をとるんじゃないかと思っていた。そんな私の予想は、今日黒尾に会ってみてあっけなく覆されたわけだ。
 一方で、黒尾は私からの気持ちを受け取るのが、壊滅的に下手でもあった。私だって結構、包み隠さず好意を押し出しているつもりだ。それなのに、黒尾に私の気持ちを察してもらうには、これでもまだまだ全然足りないみたいなのだ。
 もしかすると黒尾は今、自分の気持ちを伝えることだけでいっぱいいっぱいになっている?
 だとすれば私は今以上に分かりやすく、はっきりと好意を伝えなければいけない。もっともそこまでやってしまうというのは、もはや「私も好きです」と言っているようなものでもある。
 いっそのこと、それでもいいのかもしれないけど……
 フロントに流れる流行りのロックを聞きながら、そんなことを考えた。
 黒尾がこれだけ言葉と態度で示してくれているのだし、いつまでも意地の悪いことをしている必要はない。というかこの夏休みを有意義に活用するためには、黒尾にばかり任せていないで、もっとこちらから積極的に動くべきなのかもしれない。はっきりとした返事は夏休み明けに持ち越すにしても、だ。
 膝の上に置いていた手を、ぎゅっと強く握りこむ。
 そうだ、黒尾にリードしてほしいなんて言っているのは、もうこの際やめてしまおう。
 黒尾は実直に愛情を示すのは上手なようだけれど、乙女心を汲むとかなんかそういう、経験値がものを言いそうな部分は多分、あんまり得意じゃないっぽいのだ。だったらそのあたりは、私が歩み寄るところだ。多分そう。きっとそう!
 胸のうちでひそかに決心を固める。私は顔を黒尾の方へと向けた。
「黒尾、来週の土曜か日曜、どっちか部活のあと暇?」
「受験勉強の進捗的にはまったく暇とは言い難いが、苗字からの誘いなら気合いで暇にすることもできます」
 間髪入れず黒尾が応じる。それってつまり本当なら暇じゃないってことなのでは? そう思ったけれど、この際気付かなかったことにした。
「暇なんだね、了解。わかった、ありがとう」
「めちゃくちゃボケをスルーされた気がする……。つーか来週? 来週って何か……あ、夏祭りか」
「そう」
 黒尾の察しがよくて助かる。私はもう一度、指を握りこんだ手にぎゅっと力を込めた。そうしてから黒尾に向かって、できるだけ平静を装ったうえで尋ねた。
「一緒に行きますか? 夏祭り」

 ★

 耳を赤く染めて、それでも普段と何も変わりないような顔をして、苗字が俺に問いかける。俺は返事をしかけて開いた口を、さりげなくぎゅっと引き結んだ。口にたまった唾を飲み込むと、必要以上に大きくごくりと喉が鳴る。
 ばくばくと心臓が激しく胸を打ちまくっていて、うっかりすると声がひっくりかえってしまいそうだった。夏祭り。苗字と、夏祭り。
 内なる興奮をどうにかなだめすかす。くちびるを一度舐めて湿らせてから、ようやく俺は返事をすることができた。
「一緒に行っていいんですか? むしろ俺から誘おうと思って忘れてたんだけど」
 これは半分本当で、半分嘘だった。俺から誘おうとは思っていたのはたしかだが、どうにも誘う糸口がつかめないまま、現在ここに至っていた。苗字の一挙一動に脈がありそうとかなさそうとかぐるぐる考えていたせいで、すっかりお誘いのタイミングを失ってしまっていたのだ。
 そんな情けなさすぎる俺の事情などつゆ知らず、苗字は耳どころか頬まで赤く染めたまま「なんで忘れちゃうの」と眉を下げて笑っている。おい、これ以上可愛いを更新しないでくれ。頼む、これ以上はちょっともう、俺ももたないから……
「なんだ、黒尾も夏祭り誘ってくれるつもりだったの?」
「なんと、実を言うと」
「でも私が今言わなかったら、多分黒尾ずっと忘れたままだったでしょ。そしたら夏休み明けまでさようならだったじゃん。もう、忘れないでよ」
「悪い。今この瞬間が楽しすぎて、未来のことを思考できなくなってた」
「そんなに」
「なんとほとんど盛っていません」
「嘘でしょ、怖すぎ」
 けらけらと笑う苗字を見ていると、まるで夢の中にでもいるのではないかという気分になってきた。
 もちろん苗字の笑顔なんか、俺はこの二年でとっくに見慣れている。それでもなお、夢みたいだった。
 最終的には苗字の恋人になるのが目標で、今の友人関係はいわばその時が来るまでの雌伏の時──この二年のあいだ、俺はずっとそうして己を律してきた。けれどそんなふうに思いながら、心のどこかではこうも思っていた。
 もしかしたら俺たちはこのままずっと、ただの友達以上に仲がいい、けれど特別な友達以上の何にもならない、なれないままなんじゃないのか。
 それは諦めにも似た疑いだった。ほかの誰でもない、俺が俺に向けた疑いだ。そしてその疑いはしぶとく小さく、絶えず俺の中でくすぶり続けていた。
 だけど今、俺と苗字は恋人同士ではなくたって、少なくとも特別な友達以上の何かにはなっている。なかば事故のように「好きだ」と伝えた結果現れたのが、今この目の前にある苗字の笑顔なのだ。
 どうしようもなく嬉しいのに、うっかりすると泣きそうになった。なんかもう、苗字が俺のことなんか好きじゃなくてもいい。そんな気すらした。
 細く長く息を吐く。さいわい、苗字は俺の挙動不審には気が付いていないようだ。
 少しだけ心を落ち着かせてから、俺はやっと苗字の提案への返事をした。
「俺でよければ、一緒に行こうぜ」
「まあ、黒尾でいいから誘ってんだけどね」
「おい。なんかもうちょっと可愛く言って、アニメに出てくる女の子みたいな感じで」
 なんともいえない感情を押し殺すため、わざとらしく茶化して問う。苗字は顔をしかめたけれど、
「では、ごほん」
 意外にも俺の無茶ぶりにノってきた。
「あー、ん゛ん゛っ……よし。『黒尾くんと一緒に夏祭り、……行きたいなっ』」
「ふっ、んっ……んん?」
「え? なに、その腹立つリアクションは」
「なんかあれだな、たしかに可愛くはあるけど、さすがにオモロが勝つな……
「うわっ最悪。もうだめ、絶交ね。一緒に祭りに行く話はなかったことに」
「すみません世界で一番萌えました、ありがとう」
「半笑いだし、嬉しくもないし。もう、恥のかき損すぎ」
 ぺし、と大して力の入っていない手で、苗字が俺の腕を軽くたたいた。世界でいちばんキュートな暴力か?
 というか、あれだ。ついさっきまで苗字が俺のことなんか好きじゃなくてもいいとか、そんな寝ぼけて日和ったことを考えていたやつ。俺。あまりにも世界の法則というものを理解していなさすぎるだろと、さすがに自分でつっこみを入れたくなった。
 だって苗字、絶対俺に脈あるだろ、これ……
 苗字の態度に滲む、俺への圧倒的好意。だんだんと頭が冷静になってきたことで、じわじわと認識できるようになってきた。
 ある、あるぞこれは。脈が。
 ある! 脈がある!!
「あ、雨あがったみたい」
 苗字が立ち上がり、自動ドアの向こうの外をのぞく。俺も遅れてついていった。自動ドアの外では湿気が強く立ち込め、路上のいたるところに水たまりができているものの、さいわい雨はやんでいた。雨が降った後だからか、外気は冷えて肌寒いくらいだ。
「よかった、これで黒尾も雨の中走らなくて済むよ」
苗字の家って駅の方だっけ」
「そう。だから駅まで一緒に帰れるね」
 「帰ろう」でも「帰る?」でもなく「帰れるね」ときたものだ。一緒に帰れるね、て。そんな可愛い顔ではにかむんじゃない、俺がどうなってもいいのか。
 苗字と一緒に下校したことなんて、まあそりゃあ数えるほどしかないけども、これまでにも何度かはあった。しかしこうも噛みしめたくなるような帰り道は、正真正銘これがはじめてのことだ。
 まずい、油断すると顔が気持ち悪くなりそうだ。俺って普段、どういう顔してたっけ?
 苗字の脈を確認したことで、急激に世界が眩しく輝き始めていた。雨に濡れた通りを苗字と並んで歩いていく、それだけでもバカみたいに嬉しくなる。
 出会いがしらに可愛いなと思っていた苗字の服は、帰りのこの時間になってもやっぱり可愛いままだった。通り過ぎていく社会人だか大学生だかが、みんな苗字のことを見ているような気がする。できることならあまり見ないでほしい。
 と、そんな浮かれた煩悩に支配されていると、ふいに前方から声がかかった。
「あれ、黒尾と苗字さんだ」
 隣の苗字の歩調が一瞬乱れる。顔を上げると、そこにいたのは同じクラスの男子だった。両手にそれぞれ携帯とペットボトルを持ち、どでかいバックパックを背負っている。
 俺たちの目の前までやってくると、そいつは俺と苗字を交互に見てから、妙にむかつく半笑いで「はーぁ」と奇妙な発声をした。
「なんなの、お前ら。夏休みまで一緒にいんの?」
 苗字とつるんでいると、この手のセリフはしょっちゅう投げられる。ほとんどはつまらない揶揄からかいだ。苗字と親しくしている男子が俺だけというので、ちょっとしたやっかみも含んでいるのだろう。
 何にせよ真面目に取り合う必要はない。俺は「まあね」と適当に受け流した。浮かれた気分に多少水を差されたのは否めない。
「そういうお前はこんな時間に何してんの」
「俺? 俺は塾の自習室にいたんだよ。勉強してんの。で、今から帰るとこ」
「あー、塾この辺だっけ」
「そうそう、駅の裏側な。でも小腹空いても駅のあっち側ってファミマねえから、一回駅のなか通ってファミマ寄って、遠回りして帰んなきゃなんねえんだよ」
「ファミマ行きたさに遠回りしてんのかよ」
「体動かすのにちょうどいいしな」
 そいつはそこでもう一度、苗字の方に短く視線をやった。苗字はさっきから、俺の隣で当たり障りのない笑顔を浮かべて黙っている。ときおり頷いたりはしているので、一応会話に参加している雰囲気だけは装っておくつもりらしい。
「黒尾たちは何してんの? あ、もしかしてデートか」
「なわけあるか。俺らはそこのカラオケで課題やってただけ。健全な集会だ」
「なんでそんなとこで課題やんだよ。カラオケ行ったら歌えよ」
「そこはまあ、いろいろと事情があんだよ。財布的な事情が」
「黒尾いっつも金ねーもんなぁ」
「お前に言われたくないわ」
 益体のない会話が一区切りついたところで、俺はそいつの肩をぽんと軽く叩いた。
「もうそろそろ行けよ、ほら。早くしないとファミマ閉まるぞ」
「ファミマは閉まんねえんだよ。邪魔なら邪魔とはっきり言え」
「お、言ってる間に『蛍の光』の調べがどこからともなく……?」
「閉店前に『蛍の光』が流れるファミマってなんだ。ファミマかどうかすら疑わしいわ」
「あっはっは。じゃあな、さよならまた出校日に」
「ったく……。じゃあ、苗字さんもまたなー」
「うん、またね」
 適当な茶番と短い挨拶をかわしてから別れ、俺と苗字はふたたび駅に向かって歩き始めた。
 隣の苗字はさっきよりも少しだけ静かになっている。ぎこちないというほどではないものの、会話がいったんリセットされた感じはある。少し考えてから、俺は苗字に話しかけた。
「なんつーか、もうちょっと喋れば? 苗字さん」
 ぎくり、と苗字が肩を揺らす。次にこちらに顔を向けたとき、苗字の表情はふてくされたような、バツが悪いような、そんな感じの面白い表情を浮かべていた。
 苗字は口を少しだけ尖らせ、言い訳でもするように言う。
「話しかけられたときはちゃんと話してたじゃん」
「挨拶だけな」
「向こうだって、ほぼ黒尾に話しかけてたし」
「そうか? 俺らふたりに話しかけてたと思うけどな」
「えー? 私はそんなことなかったと思うけどね」
 反抗期みたいな態度の苗字を見下ろし、俺はひそかに嘆息した。自分だけ特別扱いであるという優越感もあるにはあるが、それ以上に苗字一般モブ男子への対応の塩ぶりを久し振りに目の当たりにし、背筋が心なしかひんやりする。
 そう、苗字は本来男子に対してこのくらい反応が薄いのだ。そもそも俺以外の男子とのかかわりが少ないことで、普段はことさら態度が悪いだの何だのと言われることもないが、たまにこうしてそういう場面を目撃すると、関係ないはずの俺の方が少しヒヤッとしてしまう。
「お前、夜久とは世間話くらいするだろ」
「うん、夜久くんはね」
「夜久がよくてさっきのやつがダメなのは何なわけ」
「ダメとかそういう話では……。それに夜久くんいい人だし、かっこいいし」
「そのかっこいいって何? 夜久の話するとき、苗字毎回言うけど」
「変な感じしないから、かっこいい」
「変な感じ? 下心が感じられないってことか?」
「うーん、それに近いけどなんかちょっと違う気もする……。なんていうか夜久くんって、全然ねちょねちょしてないことない? それで言うと海くんもそんな感じなんだけど」
「分からんでもないけど」
「ねちょっとしてない人はかっこいいなと思うよ。安心感がある」
「清潔感みたいな話か……?」
「ああ、そうかも。そんな感じかも」
「だとしたら、さっきのやつに対して失礼すぎるだろ。夜久ほどさっぱりしてないとはいえ、あいつだって清潔感はあったぞ」
「そうだけど……
 そこで言葉をつまらせた苗字は、少しの間むっとしたように黙り込んでいた。
 苗字の言わんとすることも、分からないではない。何せ苗字はなまじ見てくれがいいので、これまで苗字の言う「ねちょっとした」感じの男子のせいで、何度となく嫌な目にも遭ってきたのだろう。そのくらいのことは、苗字の友達を二年もやっていれば想像がつく。
 ただ、俺もさっきのやつと同じく男に生まれた身としては、明日は我が身と空恐ろしくもなるもので。自分が苗字にとっての「ねちょっとした」男認定されたらと思うと、はっきり言ってかなり気が気じゃない。
 苗字はしばらく、俺の横で口をとがらせていた。けれどやがて、やおら俺の方に顔を向けると、
「じゃあ黒尾は私がほかの男子とにこにこ話をしていた方がいいんだ」
 ちょっとだけ拗ねたような口調で、俺にそう詰問した。
「は? そんなわけないだろ」
「そういう話じゃないの?」
「全然違う」
「なにー? もう、面倒くさ」
「本気で面倒くさくなってる言い方やめろ、傷つく」
「いや本気で面倒くさがってるんだよ、実際……。もういいや、この話やめよ。なんか話の終着点が見えない」
「まあ、そうだな」
 たしかにここで苗字と言い争いになるのは本意じゃない。一度大きく息を吐きだし、俺は心をどうにか落ち着かせた。それから今度は大きく息を吸い込む。
 さっきまでの浮かれ気分がいい意味で吹き飛んだ今、どうしてもひとつ、苗字にこれだけは聞いておきたいという質問があった。
苗字
「まだなんかある?」
「下心あんのが嫌なら、俺に告白されて……嫌じゃなかった?」
 脈があるだろうとは分かっている。多分、嫌われていないどころか好かれている。けれどどうしても今、それだけは確認しておきたかった。
 結果としてだけではなく、今この瞬間にいたるまでの全部の時間。今までのすべての時間において、自分が苗字に嫌な思いをさせているとしたら、それはやはり嫌だと思う。すでに嫌な思いをさせてしまった後ならば、せめてそういうことがあったのかどうかだけでも、ちゃんと自分で知っておきたかった。
 苗字はちょっとの間、じっと俺の顔を見つめていた。それからふいに視線を外すと、わずかにその表情をほころばせた。
「ちょっとでも嫌だと思ってたら、夏休みに入る前に黒尾と縁切ってるよ」
「うおっ、予想以上に怖っ」
「夏祭りも誘ってないし」
「まあ、それはたしかにそうだろうけど……
 それきり苗字は何も言わなくなってしまった。それでも表情がやわらかいことだけは、夜闇の中、街灯に照らされたその横顔を見ればうっすらと分かる。
 あとは察して、ということでいいんだろうか。そういうことなら俺は全力で、俺にとって都合よく解釈するがいいんだろうか。
 スニーカーの爪先が水たまりで濡れる。蹴りあげた水しぶきが、街灯の光にちらちらと瞬いて見えた。