77nairo
2025-08-08 16:02:21
1434文字
Public
 


 自分の人生のほとんどを秋田で過ごしたような錯覚に陥ることがある。実際に秋田で暮らしたのは高校三年間だけだった。その三年間だって、寮と学校と体育館を行き来するばかりだった。竿燈まつりもなまはげも見たことがない。たまの休みに行ったところなんて、近所のジャスコくらいのものだ。
 それなのに目を閉じてじっとしていると、遠くからざざん、ざざん、と波音が聞こえるような気がする。
「それは砂浜ランのときの海?」
 松本はすぐとなりから声をかけられて、枕から頭を起こした。一之倉がうっすら目を開いている。窓の外から差す街明かりに照らされた頬は、ずいぶん青白く見えた。
「起きてたのか」
「ゆめうつつ……続き、話して」
 一之倉はそう言ってもう一度まぶたを閉じ、右手をこちらへ伸ばしてきた。タオルケットの下で松本の手を見つけて、当たり前のように手のひらを重ね合わせる。松本も目を瞑って、ひとり語りを続けた。
「いや、能代港の……堤防に絵が描いてあるところ」
「ああ」
「一度、夜中に脱走したときの」
「うん」
 夏合宿やOB戦が嫌で脱走したのではない。あの湘北との試合のあと、山王に戻ってからだって、松本は国体に向けて粛々と練習していた。普段通りに寮と体育館を往復する生活を二週間くらい続けたあと、ぷつりと糸が切れた。糸が切れたタイミングがたまたま夜中だっただけで、脱走しようと考えたわけでもなかった気がする。
「どこか行くあてもなかったし……そもそも、寮と学校と体育館と、たまに行くジャスコくらいしか土地勘もなかったし」
「うん」
「発電所の煙突が光ってるのが見えて、なんか、そっちに行ったんだよな」
 あの頃の能代港で高い建物といえば、火力発電所の煙突だけだった。今は風車がたくさん立っていると聞くから、すっかり様変わりしているだろう。
「お盆過ぎで、半袖だと肌寒いくらいで」
「ああ……熱帯夜なんてなかったね」
「そうそう」
 あの頃は想像できなかった。一之倉とふたり、都会で毎晩のように熱帯夜に悩まされることになるなんて。
「そういえばあの時、なんで俺がいないってわかったんだ?」
「ん……
 返事はしばらくなかった。薄目を開けて一之倉のほうを見ると、一之倉はゆめ九割うつつ一割くらいの様子で、口を開くのも億劫そうだ。一之倉は寝つきがいい。高校生の頃も、しっかり寝て誰よりも早く起き出し、ランニングをしてから体育館で練習していた。あの日、松本が寮を抜け出したのは日付が変わるころだったから、一之倉はぐっすり眠っていたはずだ。
 もうしばらく待ってみると、一之倉の唇からはすうすうと寝息が聞こえてきた。返事はなさそうだ。松本も目を閉じた。エアコンが冷気を吐き出す音、少し離れた幹線道路を走る車の音が重なって、寄せては返す波のような音が聞こえる。
……お前、泣いてただろ」
 松本も夢の世界に半ば浸ったころに、不意に返事があった。もうまぶたを上げる力も口を開く力も残っていなくて、重なった手のひらにほんの少し力を入れて答える。
「海で、お前が泣いてるのが聞こえて、起きた……
 そんなはずはない、とうつつの自分が否定する。だって、寮から海までは、三キロ以上離れていた。そもそも声を上げて泣いてはいなかった、と、思う。
「もう……だいじょぶ」
 重なるだけだった手がもぞもぞ動いて、指を絡めとられる。暑苦しいくらいの温度に安心して、松本は今度こそ夢の世界に沈んだ。