自分のものには名前を書きましょう。と幼い頃から言われてきた。上履き、お弁当セット、エトセトラエトセトラ。そうやって言い聞かせられてきたスバルだが自分に所有印をつけられるのは、はじめてだった。
「いでー!!!!」
ーーこれは当たり前の話なのだが噛みつかれた時『ガブリ』なんて可愛らしい擬音なんてものは起きず食いつかれた方の情けない悲鳴が響き渡るのみである。
***
「すみません……」
「すみませんですんだら警察も騎士団もいらねえんだよな」
オットーは自分の頬を描こうとしてカツリ、と爪が異物に当たる。指が当たるのをみたスバルがズイと眉を顰めた。
「それ、外すなよ」
現在、オットーの口元は格子状の口輪で覆われていた。
後頭部のほうで止めるワンタッチ式のそれをスバルが持ってきた際にオットーは激しく抵抗の意を示したが、スバルが自分の首筋にくっきりとついた歯形を見せてきたため拒否権を剥奪されてしまったのだ。
呼吸にも会話にも問題はないのだがやはり異物感というものは拭えずオットーは口をもにょもにょと動かす。
すい、とスバルがオットーの髪に触れ、頬を挟み視線を合わせてくる。まっすぐな黒瞳にライトの灯りが反射してくるりときらめいたそれに一瞬見惚れた。
惚けた顔をしていたのだろう頬に触れていた指先は両頬を伸ばして引っ張ることに変わったようでオットーの頬は餅のように左右に伸ばされる。
「いひゃひゃひゃひゃ」
「なんか反省してなさそうでむかついた」
「申し訳ないなとは思ってるんですけど確かに反省はしてないですね……あいたたたた!」
髪の毛をかき混ぜられる。口輪の網目に髪の毛が絡まりそうでちょっと怖い。オットーの髪の毛をぐしゃぐしゃと混ぜながらスバルが問いかけてくる。
「おいこら人にガブリとやっといて反省してないとはどういうことだ!」
「ええ……。言わないとダメですか」
「犯行動機を聞く権利があると主張する」
きゅっと眦を釣り上げ、短い眉を顰め、顔のパーツ全てを真ん中にやって「怒ってます」と全身で示してくる目の前の男がどうしようもなくいじらしくて可愛らしい。
ついでに、酷く不用心だと思うのだけれど。
ぐい、とスバルの襟元を広げて自分がつけた傷跡を晒す。親指でなぞれば歯形の凹凸がわかるとともに傷を触られた痛みでスバルが小さく喘いだ。
「だってあんた」
「い、いたいって」
続けた声は自分でもわかるくらいに酷く甘かったように思う。
「……僕に噛まれて嬉しかったでしょう?」
スバルの瞳が大きく揺れる。口元が不自然に吊り上がって笑っているのか怒っているのか唇を噛み締めているのか歪な形を作るのをずっと見ていた。傷口に触れていた指をそのまま頸に持っていくとうっすら汗をかいている。今彼の胸元に耳をすませば跳ねる心臓の音だって鮮明に聞こえることだろう。
覆い被さるようにぎゅっと抱きすくめてやれば抵抗されることはなかった。オットーはスバルの首元に顔を埋めて表情が見られないのをいいことにうっそりと笑う。
ほんとうにかわいそうで可愛いくて隙だらけな男なのだ。だからこうやってオットーの前にまた現れて捕まえられてしまうというのに!
スバルの手がゆっくりと自分の背中に回ったのを確認して抱きすくめたまま甘えるように擦り寄った。オットーはスバルの良き理解者でいたいし、気兼ねのない友人でいたいし、優しい恋人でありたいと常々思っている。
ただみすみす獣の巣に入ってきた子猫を逃してやるほど優しい男ではなかったのだ。
「ね、ナツキさん」
「な、なに……」
応える声があんまりにも小さいものだからオットーは思わず笑ってしまった。器用に片手で膝裏を抱えて横抱きにしてベッドの淵に座り込む。
「見えるとこに傷をつけてしまったのは申し訳ないと思っているんです。ね、だから次はあなたの許可をください」
無意識なのだろう、自分がつけた傷に触れる姿は何故だか酷く喉が渇く。
「きょか……?」
「噛みついていいところを教えてください」
「え」
スバルの両手を自分の口輪を止めている金具の近くにもってきてやる。触れた手はどちらの熱なのか酷く熱かった。
「ね、外してナツキさん」
「え、あ……」
犬用をもして作られた口輪では顔を寄せたってたかが知れてる。後頭部で震える指先が哀れで愛しい。
ぱちん、なんて間抜けな音がして顔にはまっている異物が二人の間に落ちてそのまま床に転がった。指先をほんの少し動かしただけだというのに目の前の男の目には涙が浮かび浅い呼吸を何度も繰り返していた。
顔の感覚を確かめるように口元に手をやれば自分がずっと笑っていることに気がつく。膝の上に座っていた男がオットーの腕から逃げ出してゴロリとベッドの上に転がった。
涙で潤んだ瞳が右に左に逡巡しオットーの顔をチラリとみやる。どうしようもなく意地悪がしてやりたくなってぐあと大きく口を開けて歯を見せてやったあともう一度選択を委ねてやる。
「おしえて?」
ぎゅっとスバルが両目を閉じてしまう。涙がポロリと両目から溢れるのを見てもったいないな、なんて思った。オットーはスバルの小さな星を閉じ込めた黒瞳も大好きだったのでそれも見られなくなってしまって二重に残念だった。
オットーが一人でしゅんとしているとべしりと顔面に布切れが当たる。
え、いまなんか投げつられる雰囲気だったっけ!?オットーの顔面です止まったそれは重力にしたがいそのまま落っこちる。スバルが身につけていた下履きだと理解した瞬間二度見した。嘘、四度見くらいした。
下履きとスバルを交互にみやってるなかでノロノロと男は起き上がりオットーの腹の辺りを軽く蹴っ飛ばす。
「み、みえないとこ」
「は、はい」
「みえないとこなら……いい」
じいとスバルがオットーのことを下から見つめてくる。蹴っ飛ばした足のつま先は落ち着かなく開閉していた。
さっきまで主導権を握っていたのはオットーであったのだが目の前の獲物とその行動があんまりにも自分に都合がよかったのでしばし固まることになる。
ただ、商人が目の前の好機を逃してしまうわけもなくスバルの足の間に入りこんだ。グッと肩膝を抱えてやっても抵抗しないところを見るとこれでいいらしい。
日に焼けていない大腿部は普段隠れているのもあってか腕や腹よりも生傷が少なかった。口付けを一つ落としてペロリと舐めてやる。
「……噛みますよ」
返事はなかった。ただ両手を口元に当てて震える男が小さく頷いたのをオットーは了解の返事と捉えることにした。
グッと皮膚に歯を沿わせ力を入れる。痛みと反射でスバルの身体に力が入るのを抑え込んで歯を沈めてやる。
オットーの口腔内に鉄の味が広がっても部屋には二人の呼吸の音しかしなかった。オットーはオットーが大事に囲いたい男に自分でつけた傷から滲む血を舐めとった。くっきりと歯形が残っているのをみてもう一度だけ口付けを落とす。
組み敷いた男を見下ろすと口元を手で覆い隠すのをやめていた。首筋の傷を癖のようになぞり自惚れでなければスバルは笑った。
幸せそうな笑みを浮かべて。
興奮で掠れた声でオットーの名を呼んでくるからオットーもそれに応えてやる。
「ね、次はどこにします?」
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