ぱしゃりと足元に水がかかる。まだ浅瀬だが靴も脱がずに海に入ったせいで足元は酷く重たい。さざなみがスバルの足首で小さく繰り返し音を立てた。
学校を抜け出して六月の平日、真昼間の海は海水浴シーズンでもないこともあってスバル一人だけだった。ゆっくり、ゆっくりと重たい足を引き摺るようにして前へ前へと進んでいく。
格好だけ見れば入水自殺のようだが別に死ぬつもりなんてものは毛頭ないのだ。
スバルは弱虫だから。
恋人に面と向かって別れを告げる勇気すらなくここまで逃げてきてしまった男が命を捨てることなんてできるわけがないのだ。
ただ、ただこの波が全部を押し流してくれたのならば。
そんな自分勝手な世界頼みをしたくてナツキスバルは波に揺られている。
ナツキスバルとオットースーウェンは恋人同士である。
今現在のスバル言わせてもらえば『だった』の方が正しくあるのだが。
オットーとスバルの出会いは運命なんて綺麗なものではなくて、どちらかというと不運であったと言える。
学校に馴染めなくて不登校だった時、スバルは自分への怒りと情けなさにどうしようもなくなっていた。だから目の前に転がっているサッカーボールにすら八つ当たりをしたくなったのだ。
運動神経は人並みにはある高校一年生のボールをこれまた後輩の仕事とボールを探しにきたオットーが顔面で受け止めた。それが二人の決まらない出会いであった。
スバルは焦って自分のジャージを脱いで男の血の吹き出た鼻に押し当てたし、そのジャージの半分が白で構成されてるのを見たオットーが慌てて引き剥がそうとして二人揃って血まみれになった。どう美化したってどうにもならない悲惨な出会いだ。
でも、涙で濡れても美しく輝いていたあの青い瞳がスバルははじめからずっと好きだったのだ。
告白をしたのはオットーだったがキスをはじめに仕掛けたのはスバルだった。
スバルはオットーのことを知るたびに彼のことがさらに好きになっていた。
柔らく風に揺れる髪の毛が触れると思ったより細くて意外と硬いところが好きだ。
「腕の筋肉はそんなに鍛えるつもりはない」と言ってたのにお姫様抱っこされたいと嘯いたらベンチプレスの強度をいそいそと上げようとするちょろいところが好きだ。
スバルの名前を呼ぶ時にほんの少し声音が丸くなるところが好きだ。
いっつも仲間にいじられて困ったような声をあげているのに思った以上に他人からの評価を気にする狡猾な面があるのも惚れた弱みでギャップにしかならない。
惚れた方が負けとはいうがスバルはオットーのことが好きで仕方がなかったのだ。それなら負けてやってもいいかなって思うくらいには。
「スーウェン、プロチームから声がかかったらしいぞ」
そんな噂話が昼の教室で聞こえた。それがオットーと同じサッカー部の人間でありおおよそ真実なのだろうと確信した瞬間、スバルは学校を飛び出していた。
前述したようにスバルはオットーのことが本当の本当に大好きであった。彼の全てが好きと言っても過言ではなくもちろんその中には芝生の上で汗をかきながら縦横無尽に走り回る姿も含まれる。
スバルでも聞いたことのある名門チームの名前だった。目を閉じればユニフォームを着て活躍するオットーの姿が簡単に思い浮かぶ。
「じゃあ、だめだな」
オットーは人の目を気にする男だ。
プロになれば記者などに私生活も暴かれるだろう。
そんな時にこんな目つきの悪い大した取り柄もない男がいたらどうなるかなんて結果は目に見えているのだ。
だめだ。
だめなのだ。
オットーに頭のてっぺんから爪先まで愛されてしまったスバルにとってオットーこそが世界と言ってもよかったし漠然とずっと一緒にいて最後はあの手を握って看取ってやるのだと考えていた。
ナツキスバルは弱虫だった。
恋人に別れを面と向かって言えないくらいには弱虫であった。
でも好きなやつのためにスバルの全部を捨ててもいいと思えるくらいには愛していた。
波の音はまだ規則的に聞こえている。座り込んで膝を抱えれば膝小僧が少し出るくらいの水深だった。
「昼飯一緒に食べる約束すっぽかしちゃったな……」
あれだけ人畜無害な顔をしておいて怒るとめちゃくちゃ怖いのだ。きっと今も約束を破ったスバルに腹を立てているに違いない。
携帯の電源だって切ったから連絡も通じない。
きっと彼は呆れるだろう。だってスバルはそんなふうにいきなり距離を取られたら死んでしまいたくなるほど寂しくて辛いと思うから。
ただ、大好きなのだ。
恩知らずな恋人だったと恨まれてこの恋心を死ぬまで殺して生きていったっていいくらいには。
時々高い波がスバルの頬を打つから口に入ってくる海水はしょっぱくて冷たい。頬を伝うその塩水に温度があるのに気が付かないふりをしながらポツリと呟く。
「……別れたくないな」
「おや、珍しく可愛らしいことを言ってくれるじゃありませんか」
振り向くと髪は乱れて汗でシャツが張り付いたまま肩で息をする男が立っていた。なんで、とかどうしてここになんて言葉が出る前に男の青い瞳にとんでもない怒りを見つけてしまってスバルは出てこようとした言葉ごとヒュウと息を吸うしかできなかった。
スバルが固まっている間にオットーが海に足を進める。バシャバシャと荒っぽく水が跳ねたあとバシャン!と一際大きな音がしてスバルの右半身がずぶ濡れになった。
「な、な……」
「僕も汗かいていましたしあんたもそんだけ濡れてたらもう一緒でしょ」
言葉にならないスバルに対し海の中で行儀悪くあぐらを描いて頬杖をついていけしゃあしゃあとオットーはこたえる。
「さて、どうしてこんなことになっちゃってるのか全部話してもらいますよナツキさん?」
怒っている。
それもものすごく。
「いや、あの……」
「誤魔化しはなしですよ」
「う……」
ぼろり、とまた涙がこぼれた。
鋭く細められていたオットーの目がぎょっと見開かれる。
「う、うぅ〜!!」
「あぁもう泣くか怒るかどれかにしません!?」
スバルの涙は止まらないしオットーも勢いつけて座り込んだせいでびちょびちょなのだ。濡れた手でいくら涙を拭ってもあとからあとからぽろぽろ止まらない。
怒ってる恋人が怖すぎるのはもちろん別れ話を面と向かってしなければいけないのも怖くてスバルにだってこの涙の止め方がわからなくて唸ることしかできない。
「も〜」
だから呆れた声が甘いことも「しょうがないひとだな」と囁いた声も全部いっぱいいっぱいで聞こえちゃいなかったのだ。
ちぅ、と小鳥が花の蜜を吸うようにオットーがスバルの目尻にキスを送りその涙を舐めとる。
「……しょっぱ」
「へ」
「あ、とまりましたね」
涙は止まったというのに今度はオットーが止まってくれない。両の目尻にキスを落としたかと思うと頬のラインに沿って何度も口付けを落とされる。スバルの口からは「うひゃ」とか「ひぇ」なんて細い声が上がるがオットーはかまいもせずに涙で濡れたところがわからないくらいにキスをおくりつづけてくる。
「や、やめて……」
弱々しい拒絶の音が出たのはしばらく経ってからであった。やっと恋人が言葉を発したためオットーも止まって続きを促してやることにする。
この時までオットーは確かに怒っていたがそれはスバルが何も言わずに失踪したことへの心配であり僕の目の届かないとこに行って悩んでるんじゃないよという独占欲からであった。この男は自分に捨てられることをひどく怖がっているようだったから海で見つけた独り言だってそういうことだろうと自己解釈していた。
「……そ、そんなに優しくされたら別れてやれなくなる……!」
だからこれは全く彼にとっては晴天の霹靂であったのだ。
***
「……馬鹿じゃないですか?」
「はぁ!?」
しゃくりあげながらスバルがオットーに全部ぶちまけた後はじめに飛んできた言葉はこれだった。
足りない頭なりに考えたことを「お前は馬鹿か?」の言葉で一蹴されてピキらない人間だけがスバルに石を投げるべきだとスバルは激怒した。
スバルは激怒したがオットーにとっては子猫がパヤパヤの毛を逆立てているに等しいので全く効果はなかった。
「あのねえナツキさん。それじゃああんたが幸せになれないってことでしょう」
「いや俺はお前が活躍してくれたらそれで……」
「あとあんたは一つ誤解してますよ僕ぁ、世間体なんてあんたと比べるならどうだっていいんです」
あっけらかんと言ってのける男に今度はスバルが面食らう番だった。洋服の色だけでも相手に与える印象が違うんですよとスバルをデートで散々着せ替え人形にした男が言うセリフとは到底思えなかったのだ。
「……カッコ悪いから言いたくないんですけど!世間体なんてものはあんたが欲しくてたまらなかった可哀想な男の外堀埋めの手段の一つでしかないんですよ!」
両手で水面に手を打ち当ててバシャバシャとオットーが暴れる。こいつこんなに愉快だったのか。
散々暴れて満足したのか大きく息を吐くとスバルを見つめてくる。恥も外聞もなくスバルのために暴れ倒した男が可愛くてしょうがなくてスバルはやっぱり淡い希望を抱いてしまいそうになる。
「でも、男が恋人ってやっぱり……」
その後の言葉は続かなかった。
スバルの口は抱き寄せてきたオットーの肩口に沈められてしまったから。
「あのねナツキさん。僕のためとか、世界の常識とかそんな寂しくなる言葉を使わないで。あんたのためなら僕はなんだって差し出すしなんだってやれるんです。だからね、僕のためなんて言葉であんたをこの世界と心中させてやるつもりはありませんよ」
お互いに海水に濡れてびしょ濡れだった。学校指定のシャツは薄くて二人の体温もじわりと混ざりあう。
オットーの肩に固定された頭では彼の表情を見ることは叶わなくて耳の後ろを伝う熱いそれがなんなのかを直接確かめる術はスバルにはなかった。
ゆっくり、ゆっくりと波が流れる。たっぷりの時間を使った後にオットーはスバルの体を解放して笑いかけた。
「……あんたが自分を殺さないといけない世界なんてそれこそ間違いだって僕は思いますよ」
そう言ってばしゃりと立ち上がると両の手をスバルに向かって差し伸べる。
「ね、ほら。水なんか掴んでないで僕の手を握ってくださいよ」
「……お前ってカッコつけだよな」
しっかりと両手を握ると嬉しそうにオットーの目が細まる。
昼過ぎの空は青くて人のいない海岸の海も綺麗だったけれど。
この青には何も敵わないのだ。
***
高校卒業後日本リーグで最多得点を記録したオットー・スーウェンという選手に恋人がいるというのは有名な話だ。
柔和な顔立ちとは真逆の健脚と先輩にも物おじせず指示を飛ばす卓越したゲームセンスがギャップを生み、女性人気も高いかというときに恋人がいると明かしたためお茶の間にとんでもない阿鼻叫喚が響き渡り、新聞の見出しはみな彼のハットトリックではなく彼女がいるというものばかりだった。
ただ、記者がいくらインタビューをしようが張り込もうがその恋人の姿を捉えることはできなかった。
「スーウェン選手に本当に恋人はいるのか?」
そんな噂が囁かれ、その疑問が本人に投げつけられた時、彼はいっとう美しい笑みで小首を傾げて語った。
「あいにく世界様には見せてあげれないんです」
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.