オットー・スーウェンは頭を抱えていた。隣にはソファで寝こけている恋人、目の前には机。その上には本屋で買ってきた雑誌の付録の婚姻届。かわいらしくピンクで印刷された用紙にはは己の名前だけが記入されている。それは先ほどまでの自分が書いたもので間違いはない。
……間違いはないのだが。
「さすがに女々しすぎやしませんかねえ」
恋愛に関して自分とはこんなにも臆病であったのか。知りたくもなかった大発見である。いや、正確に言うのであれば両想いになってからだ。自分の中にナツキスバルに対する恋心があることに気がついて、おんなじ熱の燻りを彼の瞳の中にほんの少し見つけた時。
その視線を自分だけに向けてほしいと思うまでにそう大した時間はかからなかった。今となってはあの感情が恋心であったのか、それとも未熟な優越感と執着心であったのか。そんな答え合わせは今の自分には知る由もない。
とにもかくにもナツキスバルの恋人の座に収まるために、収めるために自分はとんでもなく頑張った。はぐらかし、逃げに逃げる男の腕をつかんで回り込んで「絶対両想いなのになんで!」なんて泣き言を自室で叫んだことも数知れない。この攻防戦に勝ったからこそ今の状況があるのだ。しかし、いつ彼があの臆病を発揮するのかわからない。
だからこそ彼を自分に縛り付ける証なんてものが欲しかったのかもしれない。
それにしてもつなぎとめるものなんてほかにもあっただろ。指輪とか、ピアスとか、なんなんだよ婚姻届って。ぶっ飛びすぎだろ。重いとかそういった問題じゃあない。
隣で規則的な寝息を立てている男の顔を覗き込む。思ったよりも長いまつ毛に縁どられた瞳は閉じられているが、瞳が開いた時、黒瞳がほどけて蜂蜜を混ぜ込んだような色が自分を映すのを僕はもう知っている。その目じりに指を滑らせ、頬から顎、首筋をたどって最後に力の抜けている手のひらをそっと持ち上げた。
「指輪、あってもいいかもしれないですね」
形に残るものなんて彼は遠慮するのかもしれないけれど、そこはうまく丸め込んで。手を洗う時や文字を書く時、スマホを触るとき、料理をするときに目にとめて僕のことを想えばいいと思う。いつかその指輪をしていることが当たり前になっていけばいいと。目の前の婚姻届に再度目を落とした。彼の手を握ったまま片手で朱肉のふたをあけ、自分の親指に朱肉をつけて印鑑の欄に押し付ける。そのまま彼の親指にも同じ要領で。少しよれたがどこに出すものでもないのだ。
「……片づけますか」
「なにを?」
「あっ」
「んあ、なにこれ……」
起きてしまった、それも一番気まずいタイミングで。寝ぼけている男はうにゃうにゃと目をこすりながら僕の顔と机の上の犯行現場、その二つに交互に視線をゆらした。オットーは頭が沸騰するなんて比喩表現を現実に感じた。考えてみろ、起きたら恋人に婚姻届に勝手に拇印を押させられているんだ。自分だったら引く。沸騰した脳みそはうまく回ることはなく、焦りはさっきまでの思考とないまぜになって口から零れ落ちる。
「こ、これ、ナツキさんのとこ僕が筆跡変えて書いたら出せちゃいますね」
今日は全部ミスっている気がする。普段うまく付き合えている独占欲や執着心が口をひらけば全部ボロボロと出てしまいそうで僕は慌てて口をつぐんだ。しばしの沈黙。隣に座っている男はぱちぱちと瞬きをして、その瞳をゆるりと溶かした。
「ふは、ばかじゃねぇの」
そのまま立ち上がってどこかへと行ってしまう。呆れられたのかと思ったがすぐに戻ってきた。瞳をとろかせたまま僕の前にしゃがみこんで僕に見せつけるように印鑑を振る。それを取りに行っていたらしい。僕が勝手に押した彼の拇印の上とその横に判を押す。
「そんな不意打ちみたいなことしなくても押すって」
僕は彼が紙の半分をゆっくりと埋めるのをただひたすらに眺めていた。
「オットー、俺のこと好きすぎねぇ?」
やっぱり今度は指輪を買いに行こう。
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