とはり
2025-08-07 22:14:01
9123文字
Public いろいろ
 

【こはあい】こいびとビギナーズ

恋人になってからというもの緊張ばっかりで進展できないことを悩む藍良。こはくのぬいぐるみを使ってシミュレーションしようとするけれど……みたいな話

恋人ビギナーズ、って何万番煎じ?って感じですが可愛いですからね、恋人ビギナーズって


前置きが長い、三行で。と言いたくなる。
こは中心本をつくるにあたって、こはあい収録しないとかあり得ないよなと思って、これを機に生産してみた。友ビギ可愛いので書こう書こうと思ってたけどなかなか書き始められなかったのでいいきっかけになったね ようやっとひとつ形にできてよかった~
相変わらず計画性がなさすぎて当初想定していたボリュームの倍以上に膨らんだ

他のタイトル案として、べいびーじぇらしー(Baby Jealousy)があったけどあと一歩しっくりこなくてシンプルなこっちのタイトルにした
恋ビギって無限にあっていいんだから

がっつり一人称視点、やっぱ楽しい
BGMはウィークポイントをはじめとしたセレ10の3曲




「あっ」
 指先がぶつかっておれは咄嗟に腕を引っ込めた。隣にいるこはくっち──桜河こはくは桜色の髪を少し揺らして苦笑して、おれはいたたまれなくなって視線を下げた。
 またやっちゃったよォ……。最近こんなのばっかだ。せっかくこはくっちと両想いになって、こ、恋人になったのに、それからのおれ達がしてることといえば、一緒に出掛けたりライブ映像を観たり、友達だった頃と変わらないデート。進展があるとするなら、おれが誘ったフェスの人混みで「はぐれんように手ぇ繋いどこ」と差し出された手をドキドキ震えながら握ったくらい。体格だってそんなに変わらないはずなのにこはくっちの男らしくて頼もしい手のひらに、おれは神経がそこに全部集まっちゃったみたいになってずっとふわふわしてた。
 ネットで出会ってお互いの顔も知らなかったおれたちが巡り会うなんて、運命としか言いようがなかった。それはこはくっちも同じだったみたいで、偶然出会ったおれたちは必然だったみたいに自然に惹かれ合って、ある日の帰り道で夕焼けの告白を経て付き合い始めた。
 友達から推しへ、果てには恋人になって。おれはそれだけでも舞い上がるくらい幸せだった。最初はこれから甘い恋人生活が始まるんだと浮かれきってた。でも実際はドキドキしっぱなしでままならない日々。こはくっちが恋人になったって意識するともうどうにも緊張しちゃって、目を合わすのもどぎまぎしてしまう。肌に触れ合うなんてもってのほかで、フェスの時以来手を繋ぐことすらできていない。
 つまり、おれたちは付き合い始めてからは手繋ぎ止まり。そうしてもう一ヶ月以上も経ってしまった。
 (もしかして、おれたち、き、キスどころかハグもしてない……!?)
 手を繋ぐだけでも心臓が破裂しそうなくらいドキドキしたのに、ハグとかキスとか、考えただけでもうヤバい!
 なんでェ? 付き合う前はおれが手を引いてアイドルショップに連れ回してたくらいなのに、今じゃそれすらとてもできそうにないよォ!
 挙動不審なおれの態度をみてもこはくっちは変わらず接してくれて、あたたかい眼差し向けて無理矢理距離を詰めてくることもなかった。その優しさが嬉しくもあり、心苦しくもあった。せっかく恋人になったんだからもっとそれらしいことがしたいのに、目を合わせるのも緊張しちゃうなんて……どうしたらいいのォ〜!?


・・・⭐︎・・・⭐︎・・・


──らさん、藍良さん」
「ひゃっ、タッツン先輩? な、なに?」
 肩を叩かれて我に返る。顔を向けた先には心配そうにおれの顔を覗き込むタッツン先輩の顔があった。
「随分と深刻そうな表情をしていたので……。やはり造形に気になるところが?」
「え、えっとぉ……?」
 タッツン先輩の視線を追うとおれの手の中のこはくっち、のぬいぐるみと目が合う。ああ、そうだった。今日は近々発売するおれ達ALKALOIDとCrazy:Bのメンバーを模したぬいぐるみ制作の打ち合わせの日だった。デフォルメ化されたおれ達八体のぬいぐるみのサンプルを会議室の机に並べて意見や要望があれば伝えてほしいって担当者に言われてたんだっけ。
 一通り話し合って打ち合わせを終えた後は、マヨさんとヒロくんは次の仕事の時間が迫っているからと先に部屋を出て、おれとタッツン先輩はもう少し残ることにしたんだった。こはくっちのぬいぐるみで彼のことを思い出してついぼーっとしちゃってたみたいだ。
 造形に気になるところがあるのかと訊かれたことを思い出して、もう一度手の中のぬいぐるみに目を向ける。ツンと澄ました顔のこはくっちがおれを見つめていて、思わず頬が緩んでしまう。こういうグッズに使われるビジュアルについて「初めの頃に撮った、緊張で表情が固くなっとる写真をずっとモデルに使われてしまっててなぁ。なんやこそばゆいわぁ」とこはくっちが苦笑しながらぼやいていたのを思い出す。
「うふふ、かわいいなァ。どこから見てもこはくっちの魅力がつまってるって感じ」
「おや、藍良さんのお墨付きでしたら、担当者の方も安心でしょうな」
「えー、そうかなァ?」
……藍良さん。何か悩んでいることがあるなら遠慮なく相談してくださいね」
「う、うん? ありがとう、タッツン先輩」
 ぬいぐるみを持つ手にタッツン先輩の大きな手のひらがそっと重なって、おれは曖昧に頷いた。あれ、おれってそんなに心配されるほど思い詰めた顔してたのかな。「大丈夫だよ」と付け加えるとタッツン先輩は穏やかに微笑んだ。タッツン先輩の手のひらの温度も微笑みもすごく安心する。波立つ心が穏やかに均されるみたいだ。
「では、俺もそろそろ次の仕事の準備があるので先に失礼しますね」
「あ、うん。タッツン先輩、おつかれさま」
 バタンと会議室の扉が閉じると、無音が部屋を満たした。部屋の中はおれと八体のぬいぐるみだけになる。テディベアのように足を投げ出した形でつくられたぬいぐるみは平らな場所に置くと自立して、おれは八体のそれをテーブルの淵に並べて順番に眺めていく。カラフルな色彩がずらりと並んでいる賑やかさはちょっとしたライブステージみたいで壮観だ。
「はぁ~……やっぱりみんなラブ~い! 発売が楽しみだなあ」
 八体分の見た目も手触りも楽しみながら、やっぱり最終的にはこはくっちのぬいぐるみを手に取ってしまう。まじまじと見つめる度に胸の奥から愛おしさが溢れてきてきゅうっと締めつけられる。涌き出る衝動のままにぬいぐるみをギュッと胸に抱き留めると、ドキドキと鼓動に合わせて暖かな気持ちが体を駆け巡っていく。癒されるぅ……。推しのぬいぐるみを抱きしめる時の幸福感は格別だけど、肉と温度のある等身大の推し……こはくっちという恋人と抱き合った時の喜びと幸福はきっとこれ以上に違いない。問題はおれの心臓がそのシチュエーションに耐えられるかどうかだった。
「でも、タッツン先輩にもこれ以上心配かけられないし、このままじゃダメだよねェ」
 数分前のタッツン先輩の眼差しを思い出す。そういえば、ヒロくんからもマヨさんからもどこかおれを気遣う視線を感じたような気がする。本当は二人もおれの様子がおかしいのは気づいていて、あえて何も言わずに見守ってくれているのかもしれない。仲間に余計な心配をかけてしまうなら、やはりこの現状は早々に打破しないといけない。第一、おれだってこのままこはくっちとイチャイチャできないのは嫌だ。
「ちょっとだけ練習、しちゃおっかなァ……。こういうのはイメージトレーニングが大事だよね?」
 両手で目線の高さまで掲げたぬいぐるみと向かい合い、誰にともなく呟く。
「サンプルだから口は付けちゃダメ、フリをするだけ、フリを……
 呟きながらぬいぐるみ向き合って、ごくりと唾を飲む。室内には誰もいないのに何故か周りの目を気にしてきょろきょろを室内を見回してしまう。
「よし、いくよォ……
 大きく一息吸って口元に視線を寄せる。ぬいぐるみだというのに実物の唇をまざまざと思い出してしまって心臓が早鐘を打つ。
 これはぬいぐるみこれはぬいぐるみ……そんなに緊張しなくたっていいんだから……
 目を伏せてゆっくりと唇を近づけていく。真新しい布の甘い香りが鼻を擽って、自分の心臓の音が耳にまで届いてくる。
「へぇ、ぬいぐるみとやったらキスするんや?」
「わひゃあ!?」
 鼓膜に低く響く声が流れ込んできて、驚きのあまり椅子から腰が浮くほど大きく飛び上がる。その拍子に手から飛び出したぬいぐるみは、大きな放物線を描いて声の主の手へと吸い込まれるように収まった。
「あわ、わ……こはくっちぃ!?」
 デフォルメされた顔の傍にくっきりと立体的な本物の顔が並んでいる。さっきまで可愛くデフォルメされた姿を見ていたから、日常の背景から彼だけが縁取られて浮かび上がっているようにすら見える。
 やっぱり実物はかっこよくて綺麗。ラブ~い……、なんて考えてる場合じゃなかった。
 部屋の入り口に立ったまま、おれを見つめるこはくっちの眉間にはシワが寄っていて、苛むような冷たい温度すら感じる。
「な、なんで……
 視線に射竦められてどうして彼がここにいるのかを問うことしかできない。
「次にここ使うのがわしらCrazy:Bやねんけど、ちょっと早めに来たらラブはんの楽しそうな声が聞こえて。ノックはしたけど返事はないし、入ったらラブはんがわしのぬいぐるみとキスしようとしてるやないの。驚いて声かけてしもたわ」
「そんなぁ」
「ほんで? ラブはんの言い訳聞かせてもらおか」
 言ってこはくっちはおれの隣のイスに腰かけて距離を詰めてくる。どことなく感じる圧に怖じ気づいてイスごと一歩後退る。
「そんな怯えんで? 別に怒っとるわけやないよ」
 絶対ウソだァ……声も表情も固いもん。よく研がれたナイフみたいで、触れたら怪我しちゃいそう……
「ご、ごめんなさいぃ」
「なんで謝るん? 疚しいことがあるっちこと?」
 反射的に謝罪の言葉を口にしてしまったのが良くなかった。こはくっちの眉間のシワが更に深くなって、心臓がぎゅっと縮こまる。
 やましいと言うよりかはきっと罪悪感の方が大きくて、けれどどう伝えれば目の前の恋人に分かってもらえるのか分からなくて、目の縁が熱をもつ。声を発すると決壊してしまいそうで何も言えないでいると、滲んだ視界の先でこはくっちがハッと息を詰めた。
「あかん、ちゃう。ごめん」
 短く言葉を区切ってこはくっちが距離を空ける。胸の奥に溜まっていたものを全て吐き出すような深く長いため息の後、こはくっちはテーブルに肘を置いて額を押さえた。表情は腕の陰に隠れてよく見えない。彼の手の中のぬいぐるみは強く握られて綿の形が歪んでしまっていた。
……わしもこのぬいぐるみみたいに可愛らしかったら良かったんやろか」
 手元のぬいぐるみに向けて落とされた言葉は普段からは考えられないほどにか細く掠れていた。何も知らないぬいぐるみはその愛らしく編み込まれたすみれ色の瞳でこはくっちを見つめている。
 違うよ、そういうことじゃないんだ、って言いたかったけど重く沈んだ雰囲気に喉の奥が圧迫されて詰まったように声が出なかった。
 また深いため息をついたこはくっちはにわかに立ち上がって扉の方へと向かう。突然背を向けられて、感じたのは拒絶だった。心臓をひやりとした感触が撫でた。
「こ、こはくっち……?」
「頭冷やしてくる。その間にラブはんも出ていき? そろそろHiMERUはんとかが来るやろうし」
「あ……、ま、待って!」
 咄嗟に追いかけて力なく垂れていた手を両手で掴んで引き留める。振り払われるかも、なんて怯えてる場合じゃなかった。たとえ剥き身の刃を握って痛みを覚えたってこの手を掴まなきゃいけないって思った。
 振り返ったこはくっちは丸くした目をぱちぱちと瞬かせて、呆然と立っていた。手が振りほどかれることがなくて少しほっとする。
「ら、ラブはん?」
「こ、こはくっちはかっこいいよ!」
「え?」
 骨ばった手がおれの両手の中でぴくりと震えた。
「かっこよくて、綺麗で、だからおれ、いつもドキドキしてきみに触れなくて……だから、可愛いとか可愛くないとか、そういうことじゃなくて……えっと」
 自分でも何を言っているか分からなくなって舌が縺れる。俯いた視線の先にあるこはくっちのつま先が一歩こっちに傾いた。
「ラブはんの手、あったかい。なんかこういうの、久しぶりや」
 降ってきた声に顔を上げると、眉尻を下げて笑うこはくっちの顔があった。穏やかな夜明けの色を閉じ込めた眦は照れくさそうに綻んでいる。大人びた人だと思っていたけれど、あどけなさの残るその微笑みに、彼は自分と同い年なのだということを実感して、そしてそれをかわいいななんて思った。
……わしのこと綺麗っちいうけど、わしにとったらラブはんの方がよっぽど、綺麗やっち思うよ」
 こはくっちの手がおれに伸びてきて、驚きに跳ねた心臓が反射的に身を竦ませるけど、繋いだ手がおれたちの距離を離さず保ってくれた。手の甲が頬に触れて優しく撫でられて、それだけで顔に熱が集まるのが分かって恥ずかしい。耳の縁を指先でくすぐられて思わず吐息が漏れた。友達同士ではしない、色を含んだ触り方に顔も体も心臓も全部が熱くて溶けちゃいそう。
「ラブはん、真っ赤っかや」
「うぅ……こはくっちこそ」
 自分が真っ赤なのは承知だけど、目の前のこはくっちの頬にもぽわりと熱が浮かんでいる。
「うん。わしやってラブはんに触るのにドキドキせぇへんわけないやん」
「そうなの?」
 紫の瞳が細められて肯定を示した。
「この前のフェスで手を差し出した時も結構緊張しとったんやから。……あ、ラブはんに誘ってもらったフェスで手繋いだん覚えとる?」
「もちろん覚えてるよォ! 忘れるわけないじゃん!」
 おれが言うとこはくっちの表情がとびきり嬉しそうに綻んで、何だかこっちが照れくさかった。
「近頃は友達やった時よりも距離が遠くなって、関係が変わったことにちっと後悔しかけとったけど、かっこよすぎて触れません、っち言われたら悪い気はせんなぁ」
「もー! わざわざ言わないでよォ!」
「コッコッコ。ほんでも、ラブはんのよそよそしい態度はわしを意識してのことやっち分かってほっとしたわぁ」
 はにかみ合う顔を突き合わせて、互いに肩を揺らす穏やかな空気の波が心地いい。胸がきゅんと鳴いて、甘酸っぱい気持ちが体内をめぐっていく。
「ラブはんが他のアイドルに夢中になるんは覚悟しとったけど、まさか自分のぬいぐるみに嫉妬することになるとは思わんかったわ」
「ご、ごめんね」
「なんで謝るん?」
 今度の「なんで」は柔らかくほどけていて、さっきまでの険が嘘みたいにとれてくすくすと笑うこはくっちに、おれは少し泣きそうになった。
「謝るのはわしの方やね。しょうもない嫉妬でラブはんを困らせてしもた。ごめん」
「そんな! おれこそ紛らわしい態度とってごめんねェ!」
 こはくっちの真摯な謝罪にとんでもないとびっくりして、よろけた拍子に体がテーブルにぶつかる。淵に並べていたぬいぐるみの列がぐらりと大きく揺れた。
「あっ、危ない!」
「ひゃあ!?」
 こはくっちが急に近づいてきて、気がついた時にはおれはこはくっちの腕の中にいた。密着した体の前半分にあっという間に熱がたまる。腰に触れるぬくもりがこはくっちの手のひらの温度だと分かるとおれはパニックになって悲鳴じみた声をあげた。
「な、なにっ、なんで抱きしめられてるのおれェ!?」
「か、堪忍。机の上のぬいぐるみが落ちそうやったから庇ったら、こんな体勢に……
 硬直したままの体で何とか横目でテーブルの方を確認すると、こはくっちの腕がぬいぐるみの雪崩を塞き止めているのが辛うじて確認できた。おれの背中側に並んでいたぬいぐるみを庇ったせいで前のめりに傾いたこはくっちの体重がのしかかってきて、その質量と体温を意識させられる。それだけでもういっぱいいっぱいだったけれど、おれも背中を反った不安定な体勢で、目の前の体にしがみつかざるを得ない。背中に回した両手で服の布を掴むと感じる、骨と肉でかたどられた密度の高い触感に、綿の詰まったぬいぐるみを抱くのとは全く訳が違うのだという実感に、緊張を通り越して感動すら覚えた。忘れていた呼吸を再開すると、新緑の風を思わせる爽やかで落ち着いた香りが鼻をくすぐった。会議室は窓を締め切っていて、外からの香りじゃない。だからこれはきっとこはくっちの匂いだ。ぬいぐるみの化学的な甘い匂いとは違う、温度をもったひとの香りが吸い込む度に色濃くなって、体の中も外もこはくっちに包まれている気持ちになる。
 ドッドッとこはくっちの体を押し返さん勢いで鼓動が強く脈打っていて、ドキドキが筒抜けになっているのが恥ずかしくて仕方ない。けれど、このまま倒れたらお互いに怪我をしかねなくて、離さないようにしっかりと体をくっつけて抱き留め合うしかない。
 少しして、ぬいぐるみの崩落を食い止めたこはくっちの安堵のため息がおれの肌をくすぐった瞬間、ピンと張って耐えていた緊張の糸がほどけて、体から力が抜けてへなへなと座り込んだ。おれの動きを追いかけてこはくっちもしゃがみこむ。ふたりでテーブルの下の陰に半分体を潜り込ませる形になった。体は離れたけれど、抱き締められた時の感触も体温も匂いもおれの中に残ったままで、余熱で身体中の血液が沸騰しそうだった。
「供給が多すぎるよォ……キャパオーバーだってェ……
……ラブはん」
 はひはひと息を整えながら顔を覆って嘆いていたおれは名前を呼ばれ、顔を上げて指の間から正面を覗いた。目と鼻の先にこはくっちの顔があって、呼吸が止まった。近い近い近い……
 咄嗟に距離を取る間もなく、両手を握られて顔から剥がされる。無防備になったおれの顔がこはくっちの目の前に晒されて、これ以上近づけないって距離をすみれ色が越えてくる。辛抱できずにぎゅっと強く目を瞑った。次に感じたのは唇への衝撃だった。
「う、っ」
「い……っ」
 カチ、と歯がぶつかる音が骨を伝わって響いて、続けて訪れたわずかな痛みに声を漏らした。それと重なるようにこはくっちからも似たような呻きがこぼれた。
 ひりひりと痛みを訴える唇とジーンと痺れる歯の感触に、何が起こったか気づくのに何秒もかかって、その間おれの時間はぴたりと止まっていた。キスされたのだと認識した瞬間に脳みそまで沸騰しそうなほど体は熱を帯びて、おれは酸欠の金魚みたいに口をはくはくさせて空気を取り込むことしかできなかった。
 それなのに目の前のこはくっちはさぁーっと青ざめて、慌てたようにおれの頬を包んで、唇を親指で撫でさすった。
「ラブはん大丈夫やった!? 唇切れてへん!?」
「待って待って無理無理、近い近い!」
 睫毛のひとつひとつが見えそうなほどの距離で唇を覗き込まれてたまらず悲鳴を上げる。手を剥がそうとするけど力で全然敵わなくて、顔を逸らすことすらできなかった。
「ラブはん、暴れたらあかんって。唇は大丈夫やったみたいやけど舌噛んでしまうよ」
 おれの唇に傷がないことを確認し終わったらしく、ようやく解放される。新鮮な空気を取り込んでしばらくしても心臓が暴れる音は鳴り止まない。
 心を掻き乱され続けてパニックなおれと、終始冷静なこはくっち。やっぱり意識してるのはおれだけなんじゃないの?
「うぅ……なんでそんなに落ち着いてるのォ? おれたち、き、きす、したんだよね?」
「せ、せやね」
 唇に指を当ててさっきの感触を思い出していると、こはくっちもつられたように同じ動きをした。すると、じわじわと彼の肌にも朱がのぼっていって、狼狽えたように視線が揺れた。……え、今更自覚したの?
「歯、ぶつかってしもたけど。痛かったよなぁ、堪忍な」
「痛いよりもびっくりしたよォ。心臓がバクハツしてしんじゃうかと思った」
「ラブはんが可愛らしゅうて……。それに、ぬしはんがわしを避けとったわけやないって分かったら舞い上がってしもて……すんまへん」
「あ、謝らなくていいよォ……!」
 しゅんと肩を落としたこはくっちは、まるではしゃぎすぎて怒られた犬みたいだった。本人に伝えるつもりはないけれど、やっぱりちょっとかわいい。さっきと立場が逆転しているのが可笑しくて、少しだけ胸がくすぐったかった。
 一ヶ月以上も触れることすらできなかったおれ達がこの十数分間で急に進展したことに頭も心もまだ完全にはついていけてないけれど。ペース配分がめちゃくちゃなマラソンみたいだなんて思うけど、それでもきみと一緒なら楽しく走り続けられそうだなんて思う。
「ね、もう一回しようよ」
 テーブルの縁に頭をぶつけないように屈んだまま近づいて囁く。見開かれたすみれ色が少し宙を泳いでまたおれのところに戻ってくる。目を閉じてみせると、こはくっちが息を呑む音が聞こえた。
 両肩に手を置かれて、硬い指先がおれの肩にぎこちなく食い込む。痛くはなくて、むしろもっとしっかり掴んでくれてもいいのにって言いたくなるくらい。力加減を探るような指先からこはくっちの緊張が伝わってくるみたい。おれに触れる時は緊張する、って言ってたのは本当だったんだなァって実感して肩から余分な力が抜けていった。
 こはくっちの顔が近づいてくるのが空気の動きで何となく分かって、待ちわびる心臓がどんどんと存在の主張を激しくしていく。ドキドキではち切れそうだけど、全然嫌な感じはしない。むしろライブ前のような心地いい緊張にすら感じられた。
 会議室のテーブルの陰から少しはみ出たおれ達の影がゆっくりと重なっていく情景が浮かんで、吐息が唇を湿らせる。
「いたっ」
 唇が触れる寸前でこはくっちの動きが止まった。閉じていた目を開くとこはくっちが自分のつむじ辺りを撫でていた。すぐ傍には彼をかたどったぬいぐるみが転がっていて、テーブルから落ちたそれが桜色の頭にぶつかったみたいだった。
「な、なんなん? 邪魔してきた……?」
……もしかしてきみも、やきもち?」
「ぬいぐるみの癖に生意気やな」
 眇めた目で自分モデルのぬいぐるみを睨んだ後、こはくっちは顔を上げておれの方を見た。どこか覚悟に満ちた表情をしていて、その凛々しさにときめいた心臓がまた強く脈打つ。
「ひゃっ」
 ぼんやりと見とれていたら不意に手を握られてびくりと肩が跳ねた。
「ラブはん、デートしよ。そこでまた改めてキスさせてくれへん? 誰の邪魔も入らんとこで。今度は上手くやるさかい」
「ひゃい……
 指を絡ませて握られてしまったら、でろでろになったおれはもう逃げ場もなくて頷くことしかできない。でも、真剣な紫色がおれだけを見つめて、おれだけを射貫いてくれるのはやっぱり心地よくて嬉しくて、愛おしくて、だいすきだって思うんだ。まだぎこちないおれ達だけど、少しずつ慣れていけたらいいな。
 でもやっぱり、次のデートのことを考えると期待と緊張でくらくらしちゃう。今日で一生分鳴り終わってしまったんじゃないかと思うおれの心臓、あといくつあれば足りるのかなァ……