明けの明星ばかりが蒼い天にひとつ残る頃、バーソロミューは誰にも秘密だよ、とたくらみを込めて目を細めた。水遊びをし損ねてしまったんだろう、と、夏の夜を渡る風めいた囁きに、否応なしに胸は高鳴る。
――カルナにも、マスターにも。
誰にも言ってはいけないよ。
それがいけないことだと理解していたものの、パーシヴァルは肯くこと以外を知らなかった。彼はわるいひとだけれど、悪魔ではない。少なくともパーシヴァルにとってはそうだった。
手を引かれるままこっそりホテルを抜け出し、サーヴァントの足でもってコンクリートの街を駆け、人気のない砂浜にふたりで立つ。サンダルを纏う素足を波に濡らしながら、彼は一艘の船を喚び出した。
金色に輝く霊子の粒が積み上がり組み立てられていく様は、まるで妖精の魔法だ。自身の武具を顕す時にも同じ光を見るというのに、どうしてか彼のものは美しく映る。これが、ふたりきりの秘密の冒険であるからだろうか。神秘を覆い尽くした高層ビル群の向こうに、朝日の気配を感じているからだろうか。
曙光の中に現れたのは、二人乗りのボートだった。
元は軍艦であった立派な帆船ではなく、昨今では誰でも気軽に買えるゴムボートでもない。エンジンも載せていない、木で出来ていて、オールのついた、古めかしい小舟。脛まですっかり水に浸かるのも構わず、バーソロミューは船尾に手をついてぐいと海へとボートを押し出す。彼が波打ち際に立ってからそのすべての仕草を惚けたように眺めていたパーシヴァルは我に返り、慌てて離岸を手伝った。
パーシヴァルがボートに乗り込んだのを確かめて、バーソロミューは言葉もなく漕ぎ出した。直接水には触れてはいないのに、足の裏をつける船底はどこかひんやりとしている。エンジンを搭載したクルーザーに乗船している時よりも、波の揺れが直に伝わる――自分自身が波になったかのような、そんな心許なさが募る。アラビア湾の波は穏やかで、それでも揺れてはいた。しかしパーシヴァルの巨躯が下手な動きをすればすぐに転覆してしまいそうなそれも、バーソロミューが漕ぎ手である限り傾くことも沈むこともないのだろう。
ボート特有の揺れに慣れてくれば、己の知る船とはこういうものだったと、霊基に刻まれた物語の時代が懐かしさを呼び起こす。ままならぬもの。大海に漂い大河に流されるもの。たとえどれほど立派な船であれ、広い、広すぎる海原にあっては木っ端の一片に過ぎない。
――それに乗り込んで、獰猛に果敢に突き進んだひと。
櫓を漕ぐバーソロミューの、肩から上腕にかけての筋肉が静かに緊張と弛緩を繰り返すのを見ている。浅黒く筋張った手に、胸の底から湧き立つ敬虔な想いを閉じ込めるようにパーシヴァルは沈黙を守っていた。波の音ばかり。美しい静謐を掻き分けながら、船は沖へ向かう。
「――ここらでいいだろう」
「と、いうと」
「誰も来ないし、見えやしない」
ひとりうなずいて、バーソロミューは櫂から手を離した。小さく首を傾げるパーシヴァルにウインクひとつだけを寄越して、名うての船乗りは危なげなく立ち上がる。
追いかけ見上げた先で、強い潮風が一陣、朝焼け色のシャツをはためかす。その風に押し出されるかのように、すっくと伸びた両足がおもむろに船底を蹴った。その衝撃で、これまで一番の大きな揺れを感じた瞬間――ちゃぽん、とあまりにあっけない水音と共に、バーソロミューは頭から海に飛び込んでいた。
「なっ、あ……」
漕ぎ手を失ったオールがぎい、と軋む。
波の下を見通すにはまだ光の足りない、杳として知れない海中だ。我が目を疑いながら少しも動けなかったパーシヴァルを、しかしバーソロミューはそれ以上待たせることはなかった。黒々とした波の合間から、ぷかりと美丈夫が顔を出す。
「君もおいでよ」
水も滴るなんとやら――陳腐だが紛れもない事実を纏い、濡れた前髪を片手で掻き上げながら彼はにっこりと笑う。少年じみた言葉遣いにぎゅうと心臓を鷲掴まれた心地がして、名前すら呼べずにパーシヴァルは息を詰まらせた。何がそんなに楽しいのか、あはは、と声をあげて屈託なく笑うバーソロミューが誘うように両手を広げる。水飛沫が頬に飛んで、パーシヴァルははっと我に返った。
「沈んだら、引き上げてやるから――怖くないよ」
――怖気づいているとだけは思われたくなかった。堪らず立ち上がり、彼に倣って服のまま飛び込む。ざぶん、と、バーソロミューに比べればずいぶんみっともない飛沫を立ててしまったのを恥じ入る暇もなく、泡立つ水を蹴って浮き上がった。
果たして海の上では、バーソロミューが小舟の縁に掴まりながら待っていた。水面を目指すとき、彼の白いボトムスがやけに眩しく目に焼きついたのを一拍子遅れて意識する。
「……これは……」
前髪から滴る海水を振り払い、塩辛い唇を舐め、何かを尋ねようとして、失敗した。
開きかけた口を閉ざしたパーシヴァルに、バーソロミューは何も言わず、滑るように泳いでくる。
水平線を抱く空は濃紺から薄水色へ、やがて金色に変わりつつあった。砂漠の国の苛烈な太陽も今はまだ、濡れた肌にただ暖かい。濡れて色を濃くした黒髪が、凛々しい柳眉が、小さな雫をつけた下まつげが――彼のまつげはそれほどに長かったのだ――きらきらと、瞬いている。
それでもいまひとつ勇気の足りない視線は、桃色のシャツの裾が海面のすぐ下、くらげのように揺れるのを見つめていた。再び潮騒だけが二人の間を満たしている。やがて――背中を押した波がちゃぷり、と戯れのような水音を跳ねさせたのが合図だった。
「くちづけても、いいですか」
「君はムードというものを知らなければならないね」
そうして目にも止まらぬ速さで奪っていった唇も、朝日のようにあたたかいのだと知った。
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