もちゑ
2025-07-12 17:39:39
2459文字
Public 🖊️:文字
 

居酒屋から酔いつぶれた警部を持って帰ってほしいと連絡を受けた灰原くんの話

VOID自陣ぼさぼよ 現行未通過✖ 同卓○

 登録住所前に着いたので、灰原はスマートカーに駐車場へバックで入るよう指示する。車はゆっくり後退し、所定の位置で止まる。
 赤いテールライトと白いフロントライトが消える。シートベルトを外して後部座席を振り返った。
「警部。着きましたよ」
 スーツのまま後部座席に伸びている警部は反応を返さない。投げ出されて宙に浮いた右手の人差し指だけがぴくりと動いた。
 運転席から出、左後部座席のドアを開ける。長々とストッキングの足が伸びている。左足を後部座席床面に踏ん張り、振り乱されたポニーテールを纏めて避け、警部の肩を支えてゆっくり起こした。
「うわあ! まわるう! おおめにまわってるよはいあらくん」
 アルコール臭と共に出し抜けに警部が大声を出した。灰原はそのまま向かい合うように警部の上体を自身の左肩にもたせかけ、曲げさせた両足の膝裏に腕を入れて抱えあげる。枕にされていた警部の鞄は右肩に掛け、脱げたパンプスを拾った。
 自動で閉まる後部座席の扉に手を翳してロックを掛ける。成る可く警部の身体を揺らさないように留意しながら、煌々と明かりの灯るマンションエントランスに入る。
 灰原の肩口で警部がもごもご言っている。探知した音声波形を解析すると、のどぐろおいしかったねえ、と言った様だった。
「良かったですね。時期ですものね」
 鞄を探り、底から摘み上げた鍵をエントランスのキーパッドに翳す。大理石を模したタイル床をガラス戸が滑っていき、警部と灰原に道を開けた。
「はいばらくんもたべればよかったのに」
 ふわふわとした発音ながら警部の音声が明瞭になった。顔をこちらに向けたのだ。
「私の分もあげますよ」
 脳内で登録住所を参照しながら内階段を上る。
 深夜の階段を使うものは警部と灰原しかいない。革靴の足音が蛍光灯の光と綯い交ぜになり、壁に反射する。
「えー! やさしーい! うらがあるぞこれは! なにがのぞみだあ!」
「警部、今階段ですので暴れないでください」
「なに階段って」
「警部をご自宅まで送っているところです」
「は? なんで」
「酔い潰れた警部の財布を確認した店員に呼ばれました」
 業務終了後、ログ整理中の灰原の脳ユニットに居酒屋から電話がかかって来たのは今から四十分ほど前のことだ。
「私の登録電話番号を緊急連絡先に指定しましたね」
「きんきゅーじゃん、きんきゅー。なんか立てないしさあー」
 警部が抱えられた足をばたばたと動かし灰原の脛を蹴った。
 警部の部屋に着く。表札も飾りもなにもない無機質な扉だ。ドアノブに鍵を翳し、扉を引き開け、部屋の中に一歩踏み入ったところで小さな熱源を探知した。四角く内廊下の光が差し込む部屋の中、床に近い影に何かいる。なんだろうか。
 後ろ手に扉を閉めれば視界は闇に閉ざされた。小さな熱源は暗闇をものともせず、こちらに近付いてくる。見守っているとそれは灰原の足首に寄りかかった。そのまま小さな頭部を上下に擦られた。
「警部、猫です」
「サビちゃあん! 不法侵入者だぞ! 噛み付け! ひっかけ! 通報しろ!」
 腕を振り上げる警部に体勢を崩されないよう体幹を保ちつつ、シューズボックスの上に鍵を、三和土にパンプスを揃えて置く。足先に懐いてくる猫をやんわり避けながら靴を脱ぎ廊下に上がった。床に置かれたペットボトルや空き缶の間を縫って暗いリビングを通り過ぎ、その先の一室を覗くとベッドが見えた。そこに下ろす。警部が仰向けになろうと寝返りをうったのを見て肩を抑えて制止し、横向きの体勢を取らせた。鞄はベッド横のサイドテーブルに置いておく。
 猫が追いついてきて灰原の脹脛に頭突きした。手を伸ばすと熱心に匂いを嗅がれ、ぐりぐりと頬を擦り付けられる。ふわふわした感触を検知した。
「猫はまだペットフードを食べていないんですか」
「あー……お利口さんに20gあげてー……
 マットレスに顔を埋めた警部がふらふらと指を指す。その先にキッチンが見えた。灰原が立ち上がると猫はみゃあみゃあと声を上げ、あちこちの壁に擦り寄りながらキッチンへ先行した。
 照明を付けてキッチンカウンターを見れば確かにキャットフードの大袋があった。ジップロック式の袋は開封されていて半分ほど中身が残っている。猫は食事が貰えることを察して灰原の足元を往復している。黒っぽいモザイク柄の猫だった。インストールされたデータを参照し、錆猫だと思った。
 リビングを振り返るとキッチンから漏れる光に照らされて家具の輪郭が浮かび上がっている。その中に自動給餌器が見えた。しゃがみ込んで見ると、自動給餌器にセットされた小さな皿は空で、乾いた唾液の跡が付いていた。そう古い痕跡ではない。
「警部。猫は既に食事を終えたようですが」
「いいこちゃんにカリカリあげないなんて憲法違反だろー! ロイヤルカナンもってこーい!」
 警部が脚まで振り上げて喚く。灰原のしゃがんだ太腿に猫が乗り上げ、スーツの肩口に顔を擦り付けてきた。こうやって警部のスーツにも毛が付くのだ、と理解した。
 灰原は小皿を取り上げ、キャットフードを20gよそって給餌器の前に置いた。猫はかつかつと音を立ててフードを食べている。左右に振れる尻尾が灰原の足首を柔らかく叩いた。
 猫の追跡が止んだ所で廊下に備蓄水のダンボールがあるのを見つけた。中からペットボトルを一つ取り、一度キャップを開け、倒れても水漏れしない程度に締め直す。それを警部の枕元に置いた頃には警部は寝息を立てていた。呼吸は安定している。
 灰原は踵を返した。
 キッチンの照明を消し、靴を履く。玄関扉にドアポストは付いていなかった。
 扉を押し開けて廊下に出る。ガチャン、と重たい閉音が響き渡った。ドアノブの機構と鍵の構造を思い返し、アンロック状態が五分継続すると鍵が閉まるオートロック形式の玄関だろうと判断した。これなら簡単だ。
 灰原はドアノブに触れ、ハッキングをして錠を下ろした。