1.
ナオの腕を掴んでいた男が吹き飛んだ。
冷や水を浴びせられた店内が静まり返る。いや、薄く掛けられたBGMと空気を読まないミラーボールの反射だけが巡っている。
ナオの横にスーツの片足が伸びていた。ちょうど階段を下って来た人が、ナオを引き摺って店を出ようとした男を蹴り飛ばしたのだ。ぶらっと下ろされた足は気楽な感じで持ち主を運んできた。
黒髪の細身の男だった。左頬と首を埋め尽くす刺青から一般客ではないことが容易に察せられる。ナオは彼が今まで何度か店のカウンターで飲んでいたのを思い出した。
刺青男と共に入店した男が一人、カウンターに着いてナオに微笑んだ。
床に転がった男は腹部をおさえて喚いている。突然の暴力に目を白黒させて無意味に騒ぎたてるその姿は矮小で、ナオは脱力感を覚えた。
刺青男はそれを跨いで顔を寄せた。
「うちの商品に傷をつける貧乏神には帰って頂かねえとな?」
瞬間男がぴたりと黙る。彼がどんな顔をしていたのかは分からない。だが男を黙らせるには十分だったようだ。
彼は男の脂ぎった襟元を確り掴むと引っ張り上げ、今来た階段を登って行く。
男の視線から逃れたくて咄嗟に顔を伏せた。顔を覆うように流れ落ちた髪の隙間から、痩身の彼が買い物袋をぶら下げるかのような気軽さで出て行くのが見えた。軽快なベル音が鳴り、扉が閉まる。
その途端聞こえてきた鋭い怒号と男の悲鳴に店内のキャスト達が弾かれたように震えた。階段と扉を隔てている為にはっきりとは聞こえないが、それでも響く罵詈雑言と鈍い打撃音に身が竦む。客はおどおどと視線を彷徨わせ、ナオは更に顔を伏せた。
やがて再びベルが鳴って刺青男が一人で降りて来た。全員が彼を意識している。
彼は張り詰めた空気の中階段を下りきると、仕切り直すように手をたたき、頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ございませんでした! お詫びにシャンパンを奢らせて頂きます。今宵もどうぞお楽しみください」
やったー! とキャストが示し合わせたように黄色い歓声を挙げ、客に絡み付く。つられて店の雰囲気も何となくほぐれた。フロアのボーイが慌てて裏へ消えていく。程無くして全席にグラスが配られ、注いで回られるシャンパンに活気が戻った。
喧騒の中目で追うと、刺青男は店長に歩み寄ってまた頭を下げ、恐縮する店長に札束を握らせている。
……あの口振りと暴力を振るうことへの抵抗の低さ。彼はこのキャバクラの上位組織「開闢」の構成員なのだろう。視察か飲みに来たか、たまたまナオと客が揉めているのを見て行動した、というところか。
ナオは鼻から溜息を吐いた。
正直、これからどうしよう、という思いだ。あの男は確かに厄介ごとの種だったが、お店にも迷惑を掛けてしまった。店長は庇ってくれるだろうが損失を与えた事も確かだ。それに上位組織の人間が絡んだとなれば、話が大きくなってしまうのではないだろうか。
辞めなきゃいけないのかな。仕事は辛いが、この業界には珍しく人間関係に恵まれた職場だった。ここを出ても同じことだが……。
影が差す。見ると彼がナオに保冷剤を差し出していた。その眉はハの字に下げられている。先ほどとは打って変わって子犬のような気弱さだ。
「姉さん大丈夫? 腕、痣になってる。ほかにもやられた?」
言われて見ると、ドレスの短い袖から覗く上腕に男に掴まれた赤痣が浮いていた。尚も差し出される保冷剤は、これで冷やせ、ということなのだろう。ナオは戸惑いながら凍り付いた保冷剤を受け取った。
「大丈夫です……ありがとうございました」
「いやいや! すいません、俺こそ商売の邪魔して」
へらへらと頭を下げ片手で拝む仕草をすると刺青男は同伴の男の隣席に着いた。
店長が小走りに来てナオの怪我を確認する。怪我が小さかったことに安堵の表情を浮かべた店長にまた申し訳ない気持ちが湧く。今日はもうゆっくりして、ボーイに送らせるから、との店長の言葉にありがたく頷いてバックヤードに向かった。
客越しにカウンターを伺うと、彼はスツールに浅く掛けウイスキーのグラスの縁をなぞっていた。隣席の男の言葉を受けたのか口角が上がると刺青が歪む。目が大きい人だ。刺青のせいで厳つく見えるが笑うと幼い印象になった。
見ていたのは一瞬だけだったのに、視線を感じたのだろう彼がこちらを振り向こうとした。ナオは反射的に顔を逸らした。
絶対に不自然な振る舞いをしてしまった。見ていた事に気付かれたに違いない。変に顔を逸らさず、会釈でもすれば良かっただけなのに。
腕に保冷剤を押し付ける。
思ったよりも冷たくて心臓が跳ねた。
2.
ナオちゃん着いたよ、という声に視線を上げる。
見慣れた1Kの廊下に座らされていた。ナオの前に屈み込んだ東雲が足からパンプスをもぎ取っている。再び腕を肩に担がれて立ち上がった。ナオの身体は軽々と奥の部屋に連れていかれる。
東雲は突当りの扉を開け、暗い室内にベッドを見つけるとナオを下ろした。気怠い身体は重たく布団に沈み込む。頬に触れる木綿の感触に溜息を吐くとアルコール臭さが鼻についた。
……駄目だ。このままだと寝てしまう。それは嫌だ。
どうにか身を起こそうと、手を突っ張ったり肘を突こうとしたりするが力が入らず上手くいかない。じたばたともがいていると脇の下に腕が差し込まれて上半身を起こされた。
「はい水」
ベッドの隣に座った東雲に手を取られ、濡れたコップを握らされる。無言で口を付けると男はよしよしと独り言ちた。
「じゃあ俺帰るわ」
コップの中身を半分程飲んだところで東雲が言った。
「なんで」
ナオは顔を上げる。
「なんでぇ?」
意表を突かれたのか彼は素っ頓狂に鸚鵡返しをした。
ええ……という呟きとともにマットレスが揺れる。大きく首を傾げたのだろう。彼が良くする仕草だ。
「なんで……ナオちゃんを届け終わったから」
そっとコップが引き抜かれてベッドが揺れた。男の分の重みから解放されたマットレスはナオの身体だけ揺する。目の前を刺青の右手が横切った。ナオはそれを両手で捕まえた。
違和感を覚えた。墨の入った手の甲に骨とは違う凹凸を感じる。その正体を探ろうと良く見ても、刺青で真っ黒な上に部屋が暗くて分からない。親指の腹でなぞろうとすると凸凹の右手が引き抜かれた。
「酔っ払いはもう寝な」
あきれたような笑いを含んだ言い方だった。優しいなあと思う。
でも嫌だった。
頭を振ると視界がぐらぐらした。ほら言わんこっちゃない、と窘める声が降ってくる。
「やだ」
今度はこっちも声が出た。そう、嫌なのだ。
困った様に息だけで笑われる。むっとして相手の顔のあたりを見返した。
「据え膳食わぬは男の恥って、知らないの?」
「びっくりした、急に喋るじゃん……え、なんて?」
「す、え、ぜ、ん、く、わ、ぬ、は」
「いや、知らない……」
声色がしゅんとする。あっ、とたじろいだ。ちょっと言いすぎちゃったかもしれない。
卑下することはしないのだが、東雲は自身に知識がないことを恥じる言動をするのだ。妙な事に、ナオが四大を中退したと話したら尊敬されたことがある。中退だから最終学歴は一緒の高卒だよ、と返すとおかしそうに笑っていたけど。
大学に進学したからといって、現代日本において単純な優秀さのものさしにはならないだろうと思う。でも、学歴に関して引け目を感じている彼と話す時には易しい言葉を選ぶようにしていた。
ナオは少し考えて言葉を足す。
「チャンスを逃がすな、ってことだよ」
「ほーん……? すえぜんって何?」
「もう用意されているご飯のこと」
「あー。なるほどね?」
東雲は納得しかけて頷いたが、頷きながら首を傾げた。
ナオも首を傾げて見せた。
「女が暗い部屋で一人、行かないで、って言ってるんだよ?」
そこまで言われれば彼も分かったらしい。黙り込んで右耳の後ろを掻いた。
東雲が困っているのが分かる。
仕事か遊びか、これから予定があるのかもしれない。彼は若い。彼女もいるだろうし、年増なんてお呼びじゃないかもしれない。自分が見苦しい。
でも今夜は年甲斐もなく、この部屋に東雲がいてくれたら良いなと思った。
「……条件がある」
沈黙の中、諦めたように男が呟いた。てっきり断られると思っていたナオの胸中に怯えと期待が浮かぶ。体育座りの爪先から刺青顔を見上げて続きを待った。
彼が口を開く。黒髪に縁取られた白い顔面に刺青が歪む。
「朝飯、作って」
ぽかんとした。
そんなことでいいの? しかし問いただす勇気を持たないナオに、暗闇に慣れた視界で東雲は眉尻を下げた。昼から仕事だから……ともごもごしている。
ナオは笑って頷いた。
3.
ユニクロのエスカレーターを下る途中で野狗の後ろ姿を見掛けた。無人レジで会計をしている。
一か月ぶりだった。お店にも家にも姿を見せず、LINEの会話も途切れたことから仕事が立て込んでいるのだと分かった。そういう時ナオから連絡することはない。ナオが彼の邪魔をするわけにはいかないし、仕事が終われば必ず彼から連絡が入るからだ。
いつもは素通りするメンズ階に降り、野狗の背中を観察する。
自動レジに買い物かごを入れて液晶モニターを操作するその所作はいつもよりゆっくりしている。疲れているようだった。しかし仕事中の彼が放つ周囲の気配を探るような緊張感がない。ほかに関係者も見当たらない。仕事帰りなのだろうか。声を掛けてもよさそうだ。
ナオは外国人旅行者の波を突っ切ると野狗の横に並び顔を覗き込んだ。
「……お、ナオちゃん」
予想通りの刺青顔が眉を上げた。ナオは笑顔を浮かべようとしたが、彼の服装にぎょっとした。スーツは所々ほつれ、シャツには血が飛んで破れている箇所もあった。
野狗ははにかんでジャケットを引っ張り、シャツの穴を隠そうとした。
「着替えたくてさ」
「それはそうだね」
思考が追いつかず、ナオは頷くにとどめた。
野狗はシャツとジャケット、アンクルパンツの会計を終えるとトイレに入って行った。ナオは少し離れた壁に寄りかかる。
最近は昇進したから喧嘩に出る事は少ないのだ、と話していたのに。
こんなことを思うことすらおこがましいが、久々に会った彼が怪我をしているのは嫌な気持ちがした。
「お待たせー」
こっちの気も知らない男はさっぱりとした姿で廊下に現れた。手に下げた紙袋にはボロボロの服が入っている。
「ナオちゃんは仕事終わり?」
へらりと笑いかけられた。
あれ、と思う。
「うん」
「飯、食った? まだならラーメン食いに行こうぜ」
「いいけど……怪我は?」
「んー、してない」
「嘘」
「ほんとほんと」
着替え前は破れて血が滲んでいた胸辺りを刺青の右手で叩いて見せられる。……確かに、新しいシャツに新たな血は染みてこない。シャツの下になにか処置をしてるのかも知れないが、それでも野狗が痛みを我慢している様子はない。
「……ならいいけど」
「なんで不満そうなんだよ」
「不満なわけないじゃない」
ふうん? と首を傾げて歩き出す男の横に並ぶ。
口数は少ない。
二人でいるときはいつもこうだ。話したいことがあれば話す。そうでないときは黙っている。居心地の良い無言だった。
二人の足はユニクロの店舗から路上に出ていつもの町中華屋に向かっている。
隣を行く野狗を観察する。疲れてはいるのだろうがいつもと変わらない、黒髪に大きな目だ。
しかし、なんだか違和感が残る。
「……なに? さっきから」
苦笑を含んだ瞳がナオを見る。ナオはうーん、と首を傾げた。
「なんだろ?」
「なにがよ」
「刺青増やした?」
「ねーよ。なんの話?」
男はケラケラと笑う。
道行く旅行者を掻き分けて大通りを二つ跨ぎ、路地を曲がって町中華の暖簾を潜る。開店したばかりの店内は空いていた。顔見知りの女将にいつもの? と聞かれつい頷く。
店内には片隅に備え付けられた小さなテレビのニュース音声と、厨房の店主の調理音しか聞こえない。
机の向かいに着いた野狗の後方のテレビ画面を眺めるふりをして、視界の端で彼を盗み見る。
野狗は紙袋を足元に置くと女将が置いていった水を飲み、携帯電話を出してそれをぼんやりと眺めている。
ナオはようやく違和感に思い当たった。
ここまで穏やかな野狗を見るのは初めてなのだ。勿論、いままでだって穏やかな時はあった。しかし彼のベースには怯えのようなものがあって、常にどこかつらそうな雰囲気を纏ってたのだ。それが無い。
今の彼は心配事もなく、満たされていて、朗らかだった。
ナオにはそれが良い事に思えた。
安っぽい木のシールが貼られた机上に投げ出されていた左手に右手を重ねる。んー? と咽喉を鳴らされた。
自然と笑みが浮かぶ。
「なにかあった?」
野狗がこちらを向く。
「……別に」
湯気の立つ皿を盆に満載した女将が割って入った。二人が机から身を引くと目の前があっという間に料理で埋め尽くされる。野狗の意識はラーメンと半チャーハンに奪われ、うまそー、と喜んでいる。
気の抜けた、良い風景だった。
「──続いてのニュースです。今日未明、宗教団体アナクフィスィが所有する施設で発生したビル火災は未だ鎮火の目途が立っていません……」
耳に入ったニュース音声に視線を上げると、小さな液晶画面に黒煙を上げるビルの空撮映像が目に入った。消防隊が放つ白い水流がか細く打ちかけられている。画面に入るビルの並びや看板には見覚えがあった。
「見て。近いね」
餃子を飲み込んで促すと、野狗は画面を一瞥し、鼻の奥で唸ってまたラーメンに向き直った。
knock, knock, knock! Aエンド
to be next route…
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