もちゑ
2025-02-21 13:21:24
9111文字
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ナターリエのこと

CoCTRPG『蹂躙するは我が手にて』自機HO3周り妄想。
HO3の妻 ナターリエの話。長いよ。

ナターリエ・カドレツォヴァー


 見合いは父からの要請だった。
 時間を取ってしまって申し訳ないが、食事をするだけ。お前が気に入らなければ断る。重厚なマホガニーの机の向こうで僅かに気まずそうにする父の姿に、この見合いもまた、上官から命令されたものなのだろうことは容易に察せられた。
 貿易と老獪な外交によって莫大な富と凡ゆる情報が集まるコジェニスタート。その将校の娘に生まれれば、自ずと人生の展開は分かってくるものだ。父はナターリエに十分好きにさせてくれた。ダサかったら振るからね、と冗談めかして返せば明らかに安堵の空気を纏う父もまた、国の駒に過ぎないのかもしれない。
 セッティングされたのはホテル・インペリアルのフレンチレストランだった。ホテルもレストランも家族で利用したことはあるが、自分の見合いとなると緊張するものだ。
 予定の30分前にロビーに到着した。コートも預け、メイクも直し終わればすることが無い。少し早いが席で待たせてもらおうと約束の10分前に入店する。上品なメートルドテルに案内される。
 夕方早い時間ということもあり、落ち着いたインテリアの店内には穏やかな空気が流れていた。空席の目立つテーブルを縫って、メートルドテルの背中を追う。
 グランドピアノと観葉植物の向こう、彼は既に待っていた。大人しい紺のスーツに栗色の髪をオールバックにしている。軍人にしては小柄で細身だ。しゃんと伸びた背中。青い視線の先には早めのディナータイムを過ごす老夫婦の姿があった。
 近付く人影に気が付いたのだろう、ちらと視線を寄越した彼はナターリエを認めて立ち上がった。
「ヨゼフ・クラーセスと申します」
 緊張を滲ませながらも柔らかな笑みを含んだ響きだった。薄い下瞼が持ち上がり、青い瞳を少し欠けさせる。
 彼が椅子を引く。礼を言って腰を屈めれば、膝裏にぶつかること無く座面が寄せられた。
「お時間を取っていただき、ありがとうございます」
 ジャケットのボタンを外しながら向かいに腰掛ける所作は静かでスマートだった。纏う服も質が良い。
「いいえ」
 クラーセスなんて名前は聞いたことがない。叩き上げなのだろう。
「シャンパンでも?」
「ええ」
 クラーセスが視線をやると直ぐ様ウェイターが寄ってきて、注文を聞くとバーカウンターへ消える。程なくして二人の前にはグラスが置かれ、注がれたシャンパンが微かな泡を昇らせた。
「改めて……本日はありがとうございます」
 軽くグラスを合わせる。チン、と軽やかに響いた。一口飲めば芳醇な葡萄とアルコールの香りに乾いた喉が潤う。
 父が見たら諫められるだろうが、ナターリエは話を持ち掛けられた時から抱いていた疑問をぶつけてみる事にした。
「あの、失礼に聞こえたら申し訳ないのですけれど……どうして私にお声掛けいただきましたの?」
「ええ」
 クラーセスは小さく笑ってグラスを置いた。
「次の配置換えで内地勤務が決まりまして。そうなれば出張も少ないですから、そろそろ身を固めたいと考えたのです」
 よくある話だ。
「それをうっかりランチ時に話したら、あれよあれよと上官に伝わりまして……
「どなたに?」
 クラーセスは眉尻を下げた。
「イングル中将です」
「あら」
 現職の参謀総長だった。加えてナターリエの父の旧友で家族ぐるみの付き合いも長い、彼女にとって叔父のような存在だった。四角い巨体で豪快な性格だが細やかな点に気が付いて、それが重宝されて今の地位にある人物である。
 ヤン、お前のところの娘は最近どうだ。いやうちの若いのが嫁を探していてな。一度でいいから会ってやってくれないか……そんなやりとりが父親たちの間であったことは想像に難くない。
「まさか参謀総長からお話を頂けるとは夢にも思わず……そればかりか、カドレツ少将のお嬢様とお会い出来るとは」
 小柄な彼がどんどん恐縮していくように見えて、ナターリエは思わず笑った。組織のトップから見合いの場が整ったことを聞いた時、彼はどんなリアクションを示したのだろう。
「なるほど、それはお断り出来ませんわね」
「いえいえ……
「中将直々なんて、気に入られていらっしゃいますのね」
「そうであれば嬉しいですが」
 どうでしょうね、と呟いた彼は照れ隠しにシャンパンを飲んだ。
 前菜が運ばれてきた。ラングスティーヌのロワイヤルだ。
 スプーンを取る。何気ない風を装って見れば、クラーセスはスプーンの向こう側でスープを掬い、手前側から口に含んだ。
……実は、ナターリエさんには一度お目にかかっているんです」
 皿が下げられてから発された言葉に顔を上げた。彼は微笑んでいる。
 脳をフル回転して記憶を辿るが、思い出せない。栗色の髪に青い瞳はコジェニ人にはよくある特徴だ。4歳年上の軍人……出会うとしたら父の仕事関係の場でしかありえない。若しくは社交界だろうか。
「ごめんなさい、どちらで?」
「昨年の園遊会で」
 去年の園遊会。園遊会は毎年恒例、王家主催のガーデンパーティだ。日差しの強い春のバラ園が思い出された。
 あの日は風邪をひいた母の代理で父について出席した。次々と訪れる軍関係者を前に、父の後ろで微笑み、挨拶を返すのが仕事だった。
「それは、失礼いたしました」
「覚えがなくて当然です。カドレツ少将にご挨拶に伺う者は大勢おりますし、私は上官に従っていただけでしたし」
 それに軍服でしたしね、と軍帽を被りなおすジェスチャーをされてナターリエも笑い返す。確かに、彼の風貌で軍帽を目深に被られ、挨拶をした程度であれば記憶には残りづらい。
「その時はどなたといらっしゃいましたの?」
「マラー大佐です」
 確か、一般参謀の情報部を管轄している人物である。機械的に口角を上げる仕草がロボットめいた赤毛の壮年男性だ。
「では情報部勤務でいらっしゃいますのね」
 赤毛はコジェニスタート上層部では珍しいから印象に残っている。あの日も軍靴の足音高らかに父の席を訪れていた。確かにその後ろに若手が控えていたが、それがクラーセスだったのか。
「はい」
 甘鯛のポワロが運ばれてきた。カトラリー群の外側に置かれた魚用のナイフとフォークを取り、甘鯛を切り分ける。
 クラーセスはゆっくり瞬きをした。
「あの時はばたばたとご挨拶申し上げるだけでしたので……落ち着いてお話できる機会をいただけて、光栄です」
 ナターリエは微笑んで返す。
「情報部にお勤めであれば、お忙しいですね」
「若いころはあちこち行かされました」
「出張が少なくなるとおっしゃいましたけれど、本部勤めになられますの?」
「はい」
「所属についてはまだ秘密情報でしょうか。こういうことはあまりお聞きしてはいけませんわね」
「いいえ。参謀副長です」
「まあ!」
 思わず驚けばクラーセスははにかんだ。
 一般参謀から一足に参謀副長になるとは、彼は相当優秀なのだ。
「それはおめでとうございます」
「ありがとうございます」
 空いた皿が下げられ、鹿肉のロティが出される。
「ご活躍ですのね」
「早く使い物にならなくてはね」
 彼は笑いながら付け合わせの隠元豆を切った。
 小さくした鹿肉を口に運びながらナターリエは拍子抜けしていた。父の薦めとはいえ相手は年上の軍人男性。てっきり調子に乗った男がくると思って身構えていたのだ。
 だがクラーセスはどうだ。現在二十九歳で、男性の一生の中でも一番脂がのっていると言われる時期で、イングル中将のお気に入りで、栄進する彼が、見合いの場でここまで控えめな言動ができるものなのか。
 しかし彼のこの性質こそ、親類同然の中将が父に話を持ちかけた理由なのかもしれない。
 私ばかり話していますね、とのクラーセスの言葉から、話題はナターリエのことに流れた。最近観た映画のこと、仕事のこと、老いた両親を安心させてあげたいこと……
 クラーセスはどの話題にもゆったりと相槌を打った。ナターリエの言葉に短く質問したり、話題を加えたりして。どこまでも穏やかで控えめだった。
 情報部所属でこれまで出張ばかりだった、ということは、外地勤務に就いていたということだ。即ち、彼は長きに渡るWWⅢの戦場の真っ只中で育った情報将校なのだ。苦労も多かっただろう。その経験から齎されているのがこの落ち着きのある人格なのであれば、これから先、頼りになるかもしれない。
 それに、多忙の疲れや苦労を感じさせない彼の眼差しとテンポには、ナターリエへの気遣いも感じられた。
「今日お話しする内容でもないかもしれませんが……
 デザートのチョコレートケーキも食べ終え、カフェを飲んでいるとき、彼は小さく切り出した。
 打てば響く彼には珍しく考え考え言葉を組み立てている様子にナターリエも居住まいを正す。
 クラーセスはカップの縁をなぞっていたが、覚悟を固めた、という風情で顔を上げた。
「有難いことに私はこれから昇進しますが、それはより国への貢献を求められる立場になることを意味します。結婚相手を探しているのは、私の夢が自分の家族を持つことだからですが……。私と一緒になった女性には、普通の夫婦が育むような幸せは与えてあげられないでしょう」
 クラーセスがナターリエの目を見詰めている。真剣な眼差しだった。逸らしてはいけない気がしてナターリエもその青い瞳を見詰め返した。
 そうしていた時間はほんの一瞬だっただろう。目元の力を抜いたクラーセスは軽く笑ってカフェのカップを取った。
「ですから、貴女は中将のことはお気になさらず、お気持ちを優先してくださいね」
「そんなことは」
 将校の娘に求められることなど生まれた時から、
「既に覚悟しております」
 本心だった。ナターリエは一人の女性である以前に、そうと定められたものなのだ。
 彼は両目をぱちくりさせた。初めて見る気の抜けた反応だった。彼も驚くことがあるのか。ナターリエは笑った。誠実な人だと思った。
 クラーセスは恥ずかしそうに微笑んだ。
「大変失礼いたしました。女性には女性の戦場があるというものですね」
「そんな大層なものでもありませんけれど」
「卑下することではありません。それぞれの苦労があるのですから」
 カップを置いた男がナターリエを見る。
「また、お会いできますか」
 ナターリエは頷いた。






「ナターリエ・カドレツォヴァー。二十五歳、カドレツ少将の一人娘」
「ああ」
「また急な話ですね」
「そうでもない。お前は今年三十だ。時期的にも丁度いい」
「布石ですか」
「うむ。お前には技術、経歴、実績、功績があるが、唯一家柄を持たない」
「下水が産湯でしたから」
「二年後には史上最年少の参謀総長だ。名家との繋がりはこれから必要になる。駒を持っておけ」
「こんな雲の上のお姫様に、どのように取次を?」
「イングルを使う。お前はスーツを新調しろ。五週間後だ」
「承知しました。父上」



* * *

ナターリエ・クラースコヴァー


 夫は、家庭人としては良い人だった。年下のナターリエを見下すことなく、社交の場では立ててくれ、私生活では気遣い、大事にしてくれた。「今年の理想の夫婦」と題して週刊誌に取り上げられたときは二人して苦笑したものだが、内心嬉しかったのも事実だ。
 結婚生活で唯一辛かったことがあるとすれば、彼の多忙が理由で夫婦の時間が取りづらかったことだ。そのせいで子供は授かれなかった。でも仕方がない。彼は史上最年少の参謀総長に就任し、WWⅢの最終局面を担ったのだ。
 それでも早く帰れる日は連絡をくれて、花を携えてきてくれた。疲れているだろうにたまの休日には食事に連れ出してくれた。愛人もいなかった。広い家で一人寝するのは寂しかったが、彼の愛はいつも感じられた。だから私も彼に不安を抱かせないよう、彼が存分に職務に励めるよう、しっかりしていようと決意したのだ。
 まさか彼が全ての責任を負わされるとは思わなかった。処分は受けるにしても、彼だけが命を奪われるとは。
「絶対におかしいです」
「織り込み済みだよ」
「どういうこと」
「戦局を見ていれば」
「絶対におかしいわ。どうして貴方だけ」
 憤るナターリエを見て彼は笑った。彼はこんな時にも笑う。それが悲しかった。
「誰かが責任を取らなくては」
「何故そんなに冷静でいられるんです」
「想定される事態だったからね」
 ナターリエの知らぬところで既に覚悟は決めていたということか。言いかけた言葉を飲み込んで唇を噛んだ。
 ヨゼフは黙ってナターリエの頬に触れた。きっと微笑んでいるだろう顔を見たくなくて俯く。
「傷になる」
 言われて渋々口元の力を抜いた。彼の手は聞き分けの無い子供をあやすように肩を撫でた。
「君を巻き込みたくない」
「離婚はしません」
「ナターリエ……
「絶対にしません」
「全く。向こうでお義父さんに怒られてしまうよ」
「面白くありません!」
 頭上で空気が震え、笑われた気配がした。
 仕方がないなあ、という雰囲気で軽く抱き寄せられる。腰に手を回すと視界がぼやけていった。自分が泣くわけにはいかない。瞬きを繰り返して堪える。
……では聞いてくれ」
 内緒話をするようにヨゼフが囁く。涙の波を引かせてから見上げると、彼は真剣な表情を浮かべていた。
「離婚はしたくないんだね?」
「はい」
「分かった。君は頑固だからどうしようもない。しかし私が逮捕されたり、処刑されたりしたら、君の身の安全は保障できない。亡命の用意をしようともしたんだが、悉く失敗した。この家は戦場になると考えてくれ」
 ヨゼフはナターリエの髪を撫でる。
「私は数えきれない戦死者と障害者と難民を生み出した悪魔なんだ。君がいくら弁明しようと彼らは耳を貸さない」
「彼ら、って」
「世界さ」
 眉根が寄る。ヨゼフは少し笑ったが、溜息を吐いて直ぐに元の調子に戻った。
「そういうものだ。まあ私はいいんだ。問題は君だ。怒りの矛先は悪魔の妻にも向く……女性の君には、死ぬより辛い思いが待っているかもしれない」
 それくらい、と思ったが、実際に戦場を踏んだ彼の言葉に異を唱えられよう筈もなかった。今までナターリエは銃後で守られてきた。地獄の話は聞いても経験したことはないのだ。そんな女の言葉など、駄々にしかならない。
「戦争に巻き込まれる女性は悲惨だ。私は君にそうなってほしくない」
 ヨゼフは後ろ手にサイドボードの小引き出しを開けた。促されて覗き込むと小瓶が入っている。中身は無色透明な液体だった。
「暗殺用のものだ」
 はっとして見ると、夫は痛みを堪える様な顔で微笑んだ。初めて見る顔だった。
「ワインに混ぜるといい。味は保障する」
……どうして分かるの」
「みんな進んで飲んだ」
「笑えないわ……
 何とか笑みを返すと背中に回された腕に力が籠った。寄せられるままに体を預ける。
「すまない」
……大丈夫。織り込み済みよ」
「うん?」
「貴方、デザートの後に言っていたもの」
 私たちに普通の幸せは望めない。
 翌日朝早く、ヨゼフはナターリエが贈ったスーツで出ていった。
 ドレススーツ姿で一人車寄せに立つ夫を2階の窓から見ていると、軍用車が次々現れて彼を囲んだ。両手を上げた夫は手錠を掛けられ、車に乗せられて行ってしまった。あっという間だった。
 そして今日。四人の戦犯の処刑が行われる。並べられた昼食に手をつけないナターリエに、使用人達は何も言えないでいる。
 水だけ飲んで部屋に下がった。メイドのマリーだけが付いてきて、壁のスイッチを押しあかりを点けた。
 部屋はカーテンを締め切っている為に昼間でも室内灯を点ける必要がある。暴徒を避けるためだ。首都の家は彼の逮捕の日に引き払い、現在は別荘にいる。彼との思い出が詰まった家も、今は焼け跡を残すのみだろう。
 テレビを点けて向かいのソファに沈み込む。どの局も午後から行われる死刑執行の話題で持ちきりだ。国際同盟が用意した会場を報道ヘリが空撮した映像ばかり流れている。報道によれば執行は午後三時らしい。
「マリー。まだワインはあるかしら」
「白ですと、グラン・コルドンとメナージュ・ア・トロワゴールドがございました」
 画面を見つめながら背後に問えば、簡潔な答えが返ってくる。
「ヴィオニエを持ってきてくれる?」
「かしこまりました」
 直ぐにワインクーラーに入れられたボトルがサイドテーブルに置かれ、グラスにワインが注がれる。グラスに口を付けながらテレビモニターを見ると左上に「12:23」の数字が表示されている。
……奥様、ずっと観ておられなくても宜しいのでは」
 珍しくマリーが言い淀んだ。見ると、目が合った彼女は気まずそうに視線を落とす。
 気を遣ってくれているのは十分感じる。彼女との付き合いも長い。
「ええ……でも、落ち着かなくて」
 カーディガンのポケットに触れる。ヨゼフから貰った小瓶の凹凸を感じた。
「それは、お察しいたしますが……
『──ん、あれは?』
 国際同盟事務総長の演説概要を繰り返していた現地レポーターが困惑の声を上げた。思わず二人で顔を上げると、屋外会場に集まった群衆の遠く向こうに山陰が映っている。独立峰だ。
 ……あんなところに山などない筈だが。
 俄かに画面内で騒乱が起きた。叫ぶもの、暴れるもの、その場から逃げようとするもの、棒立ちするもの、ただ困惑するもの。カメラがぐるりと周囲を映す。それまで会場舞台に向かってシュプレヒコールを起こしていた群衆が狂乱状態に陥っている。
『なんだ……急に巨大な……山の様なものが現れました。周辺にはパニックが、うわあ!』
『あっおい! やめろ!』
 レポーターは殴られたのか頭を抑えて映像から消えた。画面がぶれる。カメラマンも襲われている様だ。
 突然の出来事に呆気にとられる。
「何……暴動?」
……ああああああ!」
 当惑して腰を浮かすと隣で叫び声が上がった。マリーが会場のパニックに呼応するように金切声を上げている。目をむき、限界まで口を開けて、見た事のない形相で顔面を搔きむしっている。白い皮膚に引っかき傷がついていく。みるみる血が滲んでいって、かなりの力がかけられていることが窺えた。
「マリー? マリーどうしたの」
「来るっ、くる、やだ! いやだいやだ怖い!」
 顔に立てられた手を取り、自傷を阻止しようとするが引きはがせない。もみ合っているとサイドテーブルが倒れてけたたましい音を立てた。テレビからは悲鳴と怒号が鳴りやまない。
「誰も来ないわ、大丈夫だから落ち着いて……
「いやだあああ!」
 凄まじい力で跳ね飛ばされ、ナターリエは思わず両手を離した。
 パン、と短い炸裂音が響いた。マリーの手に銃が握られていて、銃口はこちらを向いている。
 途端に襲いくる激烈な痛みに力が抜け、絨毯敷の床に倒れ込んだ。胸が痛い。はっはっと浅い呼吸を繰り返していると投げ出された手が濡れていくのを感じた。大量の出血が絨毯を伝っている。撃たれたのか。どうしてマリーが。
 貴方。
 そう思った所で終わりになった。







……なんとまあ、随分贅沢な収容施設ですね」
 晴天の真昼間に小綺麗な建物を見上げて呆れ笑いする男を促し、玄関へ入る。
「貴方は基本的にこの建物内から出られません。刑期は本日から49年348日。同盟の特殊部隊が24時間体制で屋敷内外、敷地内外に配置され、貴方を監視・警護します。食料品、日用品等必要なものがあれば職員を通して申請するように。審査を通った物品のみ手配します」
「お世話になります」
 小柄な男はリビングルームを覗き込んでいる。
 一見、人当たりの良い普通の男だ。こんな奴があの惨禍を引き起こし、そして地球を救ったと思うと胸が悪くなる。
「妻がどうなったかご存じですか」
 男が振り向いた。男を挟んで対角線上に待機していた隊員を見ると僅かに頷いたので、口を開く。
「コヴァの別宅で亡くなっているのが見つかりました。死亡日は作戦当日だそうです」
……そうですか」
 男は視線を落とした。
「どのように亡くなったか、分かりますか」
「射殺されたと聞いています」
「射殺? 暴徒でしょうか」
「さあ、そこまでは」
「遺体は……
「確保してあります」
 男は小さく頷いた。高級なジャケットを脱いで畳み、左腕に掛けている。その動作は僅かに鈍く、こんな人間でも人の死によって消沈することを物語る。
 男は無言でゆっくり室内を回った。ぼんやりと調度品を見ているが、目的があって歩いている様子はない。何か考えを巡らせているのかもしれない。左腕のジャケットに置かれた右手が妙に気になった。
……脱走しようなど、考えないでくださいね」
「おや」
 男がこちらを向いた。明るい青の瞳には既に人当たりの良い微笑みが浮かんでいる。
「面白いことを仰る。この厳戒態勢で、一体どうやって」
 それをやるのがお前だろう。
 沈黙すれば、悪魔もまた無言で返した。


* * *
メモ書き

ナターリエ・クラースコヴァー(旧姓カドレツォヴァー)
お嬢様。夫が大好き。choiceで死んだ。

ヨゼフ・クラーセス
箱入り娘を手玉に取るなど朝飯前。5年間良い夫をやった。今は湖畔の一軒家で脱走タイミングを考えている。

カドレツ少将
旧友のイングル中将から娘の縁談を持ちかけられる。裏があるとは思っているが、抵抗できなかった。娘は呑気に幸せそうにしているし、クラーセスはしっぽを出さないし、ぐぬぬと思っていたら心筋梗塞で死んだ。

イングル中将
ミハル卿のいう通りに動いたただのメッセンジャー。それ以上でも以下でもない。見合いの二年後に殺された。

父上
ミハル卿。クラーセスの養父でスパイ養成の父。引退しているが今なお暗躍中。シナリオ開始時には死んでいる。

マリー
ナターリエ付のメイド。クラーセスから服毒自殺の話は聞いていて、「もし死にきれなかったらかわいそうだ。その時は申し訳ないが君が楽にしてあげてくれ」と銃を渡されていた。SAN値チェックに失敗した。