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もち粉
2025-08-05 00:32:48
8141文字
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ツマクレナイ
カブミス
モブ視点 両片思い
ホウセンカで爪染めたら赤よりオレンジになるし 短時間では染まらないと思うけどそこは気にせずお願いします
窓から見える裏庭のホウセンカが、夏の夕暮れの光に透けて赤く揺れている。
そろそろ摘んで、染料にしなくちゃと考えながら、僕は手元の布靴に刺繍を続けていた。こうして一心に刺繍をしていると、修行時代を思い出す。
革靴に比べたら、実用性には欠ける布靴だけど、丹精込めて仕上げた僕の刺繍が、誰かの人生の彩りになれたなら。
不思議な音に、ふと手が止まる。視線が自然と、店の前の石畳の道へと吸い寄せられた。
ガボガボと大きな音を立て、足を引きずるように歩く、子どものように小さな影が見えた。
フードに顔をすっぽり隠して、革のブーツが片方ぱっくりと口を開けていた。
「
……
ちょっと君、こっちにおいで」
声をかけると、肩を揺らして立ち止まり、自分に言ったのだろうかと確かめるようにこちらを見やって小首をかしげた。
「おいで。靴、壊れちゃってるだろ?」
再び声を掛けると、ガボガボと音を鳴らしながら、こちらに近づいてきた。
扉のベルが控えめに鳴り、影はするりと中に入ってくる。椅子に座らせた時の疲労を滲ませながらも品のある身のこなしで、子どもではないと気がついた。
それでも僕は、そのまま静かにフードを下ろしてやる。言葉を失った。
子どもではなく
――
エルフだった。けれど、その長い耳は欠けていた。
僕の故郷には、エルフは全くいなかった。このメリニに来てから、多少は街で見かけるが、こんなに近くで見たのは初めてだった。
本当に綺麗な種族なんだな。思わずため息が出そうだ。
けれど目の前の人は疲れきった様子で、指一本動かすのも億劫そうだった。その姿は、埃と泥と、何かの体液が乾いた後のようなものでガビガビになっている。
この国にもう、冒険者はいないと思っていたが、とりあえず放っておける状態じゃなさそうだ。
「ちょっと失礼するよ」
タライにお湯を張り、片膝をついて、そっと泥だらけの長いブーツを脱がせる。足は、僕の片手にすっぽりと収まりそうなほどに小さく、華奢だった。
けれど、確かに男の足だったことに、少し驚く。驚いたことで、自分が彼を男と認識できていなかったことに気がついた。
お湯につけた彼の足を、マッサージするようにゆっくりと洗ってやる。
おや、彼が着ているのはアリアドネーの糸で織られた服ではないか?
あとでよく見せてもらえないかな。
足の指の間まで丁寧に洗ってやると、彼がほぅと息を吐いた。すんなりと形のいい脚には無数の傷跡があり、暖まるにつれ、うっすらとピンクに染まっていく。
手が勝手に、ふくらはぎの傷跡にまで滑りそうになり、僕は慌てて心を引き戻した。
どろりと濁って、奇妙な匂いを放ちはじめたタライのお湯を外に流すと、新たに少量を沸かして、おしぼりを作ってやった。
「このブーツ、よければ預かって修理に出しますよ。僕は布靴の専門なんですが、皮靴の職人に外注できますから」
「そうか。では、頼む」
穏やかな声。話し方にも、ふとした動きにも、気品と歳月が滲んでいた。
ブーツも相当いい革と仕立てだった。これだけ丁寧な作りなら、よほど無茶な動きでもしないと壊れることはないと思うのだが。
伝票に名前を記入してもらうと、そこには流麗な筆跡で「ミスルン」とあった。
「ミスルンさん。
……
大丈夫ですか?もう少し休んでいきますか?」
おしぼりで手を拭きながら、今にも寝てしまいそうに動きを止めている彼に声を掛ける。すると、はっと頭を上げて首を振る。
「帰る。今夜までに帰ると、カブルーに約束したから」
椅子から降りようとして「
……
靴がない」と耳を下げる彼に、僕はショウウィンドウの布靴を差し出した。
飾り用に作った、ちょっと凝ったやつだ。
跪いて彼の足に履かせてやると、誂えたかのようにぴったりだった。見映え重視で細身に作ったから、まさか履ける人が現れるとは思っていなかった。
ガラスの靴を履いたお姫様の童話を思いだす。彼女を見つけた王子の家来は、こんな気持ちだったろうか。
あの、「たったひとつの靴が、人生を変えてしまうことだってあるの」と言ったお姫様。
「これ、どうぞ。気に入ってもらえたら、また来てください」
青い花文様のその靴は、履き口に陽炎の羽のような金属片が精緻に並んでいて、ミスルンの歩みに合わせて触れ合っては、しゃらしゃらと涼やかな音を立てた。
冒険者みたいな彼の格好には、繊細で華やかな靴は正直似合っていなかった。
けれど彼は、「ありがとう」と、まっすぐこちらを見て言った。
――
その視線に気がついた。右目が、義眼だった。
◇
夏の日差しが、重たく照りつける午後。外が明るすぎて、かえって薄暗く感じる店内で、花瓶に生けたホウセンカだけが、火を灯すように鮮やかだった。
靴を渡してから、五日が経つ。
あのエルフ
――
ミスルン、という名の人は、もしかしたらこのまま二度と現れないのではないかと考える。
あれはたまたまの出来事で、行きずりに受けた親切で終わってしまったのかもしれない。彼にとってあの靴は、ただの一時しのぎだったのではないか
――
と。
……
気に入らなかっただろうか、僕の靴。
そうだとしても、ブーツの修理が終われば連絡はできる。知り合いの革靴専門の職人に預けたのだが、ミスルンのブーツを見るなり、彼は真剣な顔で言った。「なんだこれ、とんでもねぇ上物じゃねぇか。
……
こいつは、じっくりやらねぇとダメだな」そうして予定を調整し始めたので、仕上がりにはまだ時間がかかるだろう。
この五日間、気がつけば彼の足に合うデザインをスケッチしている。
靴の色は白がいい。汚れてもつれていたけれど、あの銀色の髪に、きっと似合う。
印象的だった黒い瞳を除けば、彼はどこまでも白かった。
ポイントに赤を刷くのもいい
――
そう、このホウセンカのような赤。
再訪を約束されたわけじゃないのに、こうして待ってしまう自分が、少しだけ可笑しい。
けれど、願わずにはいられないのだ
――
もう一度、あの人の足に触れられる機会があることを。
僕の贈った靴を履いて、僕に会いに来てくれることを。
◇
彼が来たのはその二日後だった。
カランと控えめに鳴ったドアベル。続いてしゃらり
――
僕の靴の音。
振り向けば待ち人が立っていた。
「こんにちは、ミスルンさん。その靴履いてくれてるんですね、お似合いです」
今日のミスルンは、ゆったりした白いパンツに詰襟のスリットの入った丈長の貫頭衣を着て帯を締めている。
「この靴を履いていくと言ったら、侍女にまるごと着替えさせられた」
ちょっとうんざりしたように言うミスルンは、髪も艷やかに櫛を入れられ、七日前とは打って変わって、全身隙なく手入れされていた。
「靴屋、先日は助かった。礼がしたいのだが
……
何か、注文させてくれないか?」
待ち望んでいた言葉が現実になり、僕は勢いよくカウンターに乗り出した。彼が少し身を引くほどに。
「じゃあ!寝室用の室内履きはどうです?柔らかくて軽くて、冷え防止にもなりますよ。好みに合わせて、刺繍も変えられます!」
この二日、ふと手が空く度にさらにスケッチを描き足していた。
増えすぎてしまったそれらを、照れながらミスルンの前に並べる。
「どれがいいですか?」
ミスルンは困ったように眉を下げて、言った。
「私は選ぶのが苦手なんだ」
押し付けてしまっただろうか
――
女性は全般的におしゃれが好きな人が多いが、男性はすごい洒落者と、全く興味のない者に分かれることが多い。
先程、侍女に着替えさせられたと言っていたことを考えても、ミスルンは後者なのだろう。
「では、おまかせで。僕が選んでもいいですか?」
しかしミスルンは、意外にも「いいや」と首を振った。
「できるだけ、自分で選ぶ練習をするように、カブルーに言われているから」
また「カブルー」だ。家族の人だろうか?
胸の奥がちくりと痛んだけれど、気が付かないふりをして、僕はスケッチを一枚一枚丁寧に説明していった。
最終的に僕と相談しながら彼が決めたのは、白いチュールに銀の縁取り、森の刺繍、ポイントに鳥があしらわれたデザインだった。
ちなみにチュールは、僕の熱いプレゼンの成果である。
「鳥の色はどうしましょう?赤も似合うと思うんですが
……
」
あんまり沢山見せすぎると、また困らせてしまうかもしれない。そう思いながらも、僕は赤い糸束をいくつか取り出そうとした。
「青はないか?」
履いてる布靴の爪先をなでながら、ミスルンが言った。
「この、花文様の一番外側の青と同じものがいい」
光の差した海のような、鮮やかな青。
それは、僕の染めた糸の中でも会心の出来のものだった。
さすれば、今日この靴を履いてきてくれたのも、贈られた側の礼儀としてだけではなく、僕の靴を気に入ってくれてのことだろうか。
僕はうきうきと、取っておきの糸束を棚から出す。
「青、お好きなんですか?」
大切な人に触れるように、しばらく糸を撫でてからミスルンはうなずいた。
「
――
うん」
一呼吸おいて、続けた。
「カブルーの、目の色だ」
一瞬にして心が凍りついた。
止めておけ、と心臓が叫ぶのを無視して、口が勝手に動いた。
「恋人さん
……
ですか?」
その問いに彼は、首を振った。
「私の、カタオモイだ」
それから、ミスルンは堰を切ったようにカブルーの話をたくさんしてくれた。
優しくて、賢くて、忙しくて、ちょっと口うるさくて、誰からも好かれている
――
と。
まるで、その人のことを話しているだけで幸福だといわんばかりの声だった。
僕は、笑顔を作るために苦い唾を飲み込み続けるしかなかった。
けれど、ミスルンの話は終わりに近づくにつれ、その声音に、わずかな影が差しはじめた。
最後に少し間を置いて、ミスルンがぽつりと言った。
「
……
彼の優しさは、私にだけではないから」
それは、まるで自分に言い聞かせるような、どこにも行き場のない声だった。
表情のない口ぶりだったけれども、その奥に、泣き出しそうな淋しさがあった。
勝手な僕の、想像だけど。
ミスルンは、誰かを好きになることに慣れていないのかもしれない。
幼子のように立ち尽くす彼に笑ってほしくて、僕はひとつ提案した。
「その、カブルーさんに、お揃いで室内履きを贈りませんか?お揃い、といっても控えめに、色違いくらいで。使うたびに、あなたのことを思い出してくれるかもしれませんよ」
彼は目をぱちくりさせたあと、こくこくと頷いた。
青い鳥の靴と対になるなら
――
「たとえば、黒い繻子に、緑の森。鳥は
……
」
「黄色がいい」
「黄色?いいですね、色も映える」
「カナリア、だ」
いたずらっぽい笑みを、初めて見せた。
「縁取りはどうします?さっきの青い糸と似た布がありますよ」
「
……
青は、彼が好まない色かもしれない。自分の目の色を、あまり好きではないらしいから
――
」
彼の好きな人が、青を好まない理由を僕は知らない。
でも目の前でしゅんとしたミスルンの顔を見たら、何か言わずにはいられなかった。
「その人、青を見るのもイヤってわけじゃないでしょう?
自分の嫌いなところだって、誰かに『そこが好きだ』って言われたら、好きになるかもしれませんよ。
僕だって、自分で染めた糸が、『思ってた色とちょっと違ったなぁ』って思っても、誰かが『この色がいい』って選んでくれたら、大成功だったって思えたこと、何度もあります。
……
それと、ちょっと似てる気がするんです」
「
……
私が言って、効果があるだろうか」
「
――
僕だったら、ありますね」
◇
ミスルンと室内履きのデザインを決めた夜、なんだか興奮して眠れなかった。
昼間の彼との会話をなぞるように、作業台に揃えて置いた材料たちを一つずつ確かめていく。
鳥の青、ミスルンが迷いなく選んだ青い糸。
昼間のミスルンの様子を思い返す。
彼は「片思い」だと言った。けれど、その言葉が彼の気持ちに、あまり馴染んでいるようには聞こえなかった。
まるで、ただ想うことを許されたくて、「片思い」と名付けているようにも感じられた。
――
自分が誰かを好きでいてもいいって、信じられてないみたいだった。
赤くはないけれど、この糸が、鳥が飛ぶように、ミスルンと彼の好きな人を、まっすぐに繋いでくれるといいのに。
ランプの焔に照らされて、指先がじんわりと熱をもち、青い糸の光沢がかすかに赤みを帯びていた。
◇
ドアベルが、軽やかな音を鳴らした。
午後の陽射しがやや傾きかけたころ、入ってきたのは、宮廷風の詰襟を着た青年だった。
僕よりは五つ六つばかり年下だろうか。
濃い褐色の肌に、黒い巻き毛、鮮やかな青い瞳。すぐにわかった。僕の染めた、あの糸のような青。
「いらっしゃいませ。靴をお探しですか?」
「ええ、そうですね
……
あの」
青年は店内を一巡するように見渡してから、まっすぐこちらに視線を戻してきた。にっこりと、人好きのする笑顔を浮かべるが、その視線の奥に不躾なものを感じて胸の奥がもやりとする。
まるで品物ではなく、店主を値踏みしているかのような目つきだった。
「最近、僕の
――
ある友人が、とても見事な布靴を履いているんです。珍しい刺繍と、糸の色だったから、もしかしてこちらのものではないかと思って」
「そうですか。うちのお客さまでしょうか。その方のお名前、伺っても
……
?」
「
……
ミスルン、というのですが」
彼は自然に答えたつもりなのだろうが、声の調子に力みがあった。
僕は意識して声に明るさを乗せ、はっきりと言ってやる。
「ええ、ミスルンさま。たしかに、うちの靴です。先日も、ご来店いただいて。とても素敵に履きこなしてくださってましたよ」
「
……
そうですか」
彼の表情が一瞬だけこわばった。
すぐに笑みを作ろうとして失敗し、握りこぶしで口元を覆いながら、視線をそらす。
「その、」
彼は靴棚を見やりながら、何気ない口調を装って言う。
「最近、彼
……
服の趣味が、変わりまして。あんなふうに靴に合わせて衣装を選ぶなんて今までなかったので、少し驚いて。珍しい靴を履いているから、どうしたのか尋ねたら、貰い物だって
……
」
「ああ、それは
……
お召し物、侍女の方が決めておられるそうです。靴に合わせて、まるごと着替えさせられたって、少し困った顔でおっしゃってましたよ」
わざと、一番気にしているであろう、彼の発言の最後には触れてやらない。
「へえ
……
そうなんですか」
なんでお前がそんな事知ってるんだといいたげな顔で、努めて軽く返しながら、彼はそのまま視線を刺繍糸の棚へと向けた。指が一本、青い糸巻きをなぞって、すぐに離した。
「
……
あなたが贈ったんですか?」
「ええ、片方の靴が壊れていたので、代わりに。たまたま展示用の小さめの靴がぴったりで」
「ふうん
……
それは、偶然ですね」
「偶然」って、そんな冷ややかなトーンで呼ばれる単語じゃないと思うな。
わずかに唇を引いて笑った青年の、探るような視線の奥に、独占欲が垣間見える。僕は口の端を上げた。
――
なんだ、両想いじゃないか。
それにしても、わかりやすいぞ、青年よ。ミスルンの話じゃ、君はもっと頭が良くって冷静な男だって話だったけど。
「今度ぜひ、おふたりでご来店ください」と青年を送り出し、黄色い鳥を刺繍しながらひとり笑む。
――
僕の贈ったあの靴は、ちゃんと、あの人の気持ちを運んでいる。
それなら、まあ、いいか。
ふたつの室内履きが完成したのは次の日の夜だった。
◇
靴を取りに来た日、彼は言った。
「なあ靴屋、
……
トールマンの男として、聞きたいんだが。これを二足、私の寝所に並べたいと誘うのは
……
はしたないことだろうか?」
不安げなその顔が、少しだけ可笑しかった。眉と一緒に下がった耳の先が赤い。
まるで思春期の少年のようじゃないか。
「うん? 誘うの?」
わざと今までの距離を崩して、軽く聞いてやる。
「その、お互いの寝室にこの靴があって、きっと同じ時間に揃いの物を使っている
――
それだけで、いいつもりだったんだ。カブルーが、これを履くときに、私を思い出してくれたらと
……
」
靴を抱きしめて、守るように自らの胸に押し付けながら、うろうろと視線を彷徨わす。
「だがその、さっき、来る時にカブルーに会って
――
お前の店に行くのかと聞かれて
……
。なんだか、私が、お前の靴を履いているのを気に入らないようなことを言ってきて
……
それで
……
その、私はびっくりして、思わず逃げてきてしまったんだが
……
」
そう言いながら、ミスルンは腕の中に抱えていた靴を丁寧に近くの椅子の上に置いた。
そうして彼は、自分を抱きしめるように両腕を交差させ、伏せたまぶたをかすかに震わせた。まるで、誰かのぬくもりを思い出しているかのように。少しだけ肩をすぼめ、吐息に乗せてほろりと言った。
「
――
欲が出た」
彼の中からあふれたかのように、唇からこぼれたその言葉に、僕は息を呑んだ。
ミスルンの瞳には、確かに恋が花ひらいていた。音もなく、やわらかに。
「大丈夫。きっと、喜ばれますよ。
……
不安なら、おまじないでもしてあげましょうか」
魔法使い相手に言う台詞じゃないと自分でも思うけど、彼はふふ、と笑ってくれた。
「まじないでも気休めでも、何にだってすがりたい気分だ」
「おいで」
彼の手を取って、奥の工房へと導く。驚いたように目を見開いたけれど、手を引かれるがままについてくる。
この素直さ、心配になるね。
僕が悪いやつだったら、どうするつもりなんだろう。
――
カブルーが相手を確かめに来たのも、仕方がないか。
裏庭のホウセンカが、盛りを過ぎる寸前だった。生命を次代へと繋ぐ種をはじきながら、いっそう紅く、燃えていた。
祈りを込めて、花を摘み、惜別に変えて、葉を落とす。両者を混ぜて、すり潰した汁を小筆に含ませる。
光のふんだんに差し込む明るい工房の中、椅子に座らせたミスルンの足元に跪き、一本一本、丁寧に足の爪を染めていく。僕の手にすっぽり収まる小さな足は、時々くすぐったがって、ぴくんと跳ねた。
赤い爪。寝室で室内履きに履き替えたなら、チュール越しに透けて、艷やかに色香を放つだろう。
――
恋のライバルへの、ほんの少しの意趣返し。スパイスくらいは、許されたい。
「爪を塗るのが、まじないなのか?」
「ええ、僕の故郷では女の子たちが恋の成就を願って、ホウセンカで爪を染めるんですよ」
染料を乾かすように、ふぅっと息を吹きかけた。
――
僕のささやかな恋に、サヨナラを込めて、その爪先にそっと唇を落とす。
驚いて足を引っ込めた彼は、きょとりと僕を見上げた瞬間、黒い瞳に理解の光を閃かせ、隠すように一呼吸分まぶたを閉じて、再び開けた。
彼が何か言う前に、僕はそっと布靴を揃えてミスルンの前に置く。
あいにくと、かぼちゃの用意はないけれど、君には二本の足がある。
「さあ、その靴を履いて。好きな人に、会いに行っておいで」
ミスルンはしばらく靴を見つめたあと、静かに足を差し入れた。戸口まで歩きかけて、ふと振り返る。
「なあ、靴屋。
……
お前の名前を、教えてくれないか?」
僕はちょっと驚いて、笑う。
「今さらですか? でも、光栄です。僕は──」
名前を名乗ると、彼はそれを一度、口の中で転がして、僕の名前を確かに呼んだ。
「ありがとう。お前を、友人と思ってもいいだろうか?」
「もちろん。僕の初めてのエルフの友人ですよ」
彼は少しだけ唇を緩めると、ふわりと戸口から出ていった。しゃらりと、涼やかな音だけを残して。
戸の向こうに夏の光が揺れている。ホウセンカの花が、また一つ、種をはじいていた。
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