来羅
2025-08-04 18:17:25
1625文字
Public トワウォ
 

桃(風信)

ワンドロライ第3回。




「あ! 桃!」
 弾んだ声と共に背中から伸びてきた両腕に抱きしめられて、危うく包丁を取り落としそうになった。
「信一、包丁を持っているときは抱きつくな」
「ごめん、大佬。大丈夫だった?」
 それでも離さない養い子は腹の前で両手を組んで、肩に顎を乗せるように顔を覗き込んでくる。そこに反省の色はない。甘やかしすぎたな、と龍捲風が思うのはこういうときだ。
「美味そう!」
「油麻地に寄ったらいいのがあったからな」
「え、また大ボスんところに忍び込んだの!?」
「人聞きの悪いことを言うな。買い物に行っただけだ」
「やだなぁ、またアイツから文句言われんじゃん」
「アイツ?」
「大ボスんとこの飼い犬」
「ああ」
 仲が良かったのかと言えば、実に嫌そうな顔をするので、それなりに仲は『良い』らしい。
 流水で軽く洗った桃は、信一が帰って来るだろう時間に合わせて冷やしておいたので、程よく冷たい。手の平に抱えれば産毛に弾かれた水滴がぽとりと落ちた。その表面に包丁を立てて種に添ってくるりと切れ目を入れる。その途端に香る花のような甘さに、信一が目を細めた。
「いい匂い」
 さすが油麻地の売り子が薦めるだけはある。信一の言うところの『大ボスんとこの飼い犬』が選んだのだが、言わない方がいいだろう。
 ちょうど食べ頃らしい桃をくし型に切って皮を剥いた龍捲風に、信一が大きく口を開いた。
「一口ちょーだい!」
 大きくなっても、ちっとも変わらない。
 子供の時分から信一は龍捲風が剥く桃をこうやって口を開けてねだったものだ。
 小さく笑って、ひとつ口に放ってやる。
 甘やかしすぎだろうか。
「ん~~、甘い!」
 けれども目を蕩けさせて幸せそうに頬張る顔を見てしまったら、否と言えるはずもない。
「もう一個」
 またかぱりと開いた口に、ひとつ。
「もう一個」
「全部食べ尽くす気か?」
「もう一個だけ」
 ね、おねがい。
 舌足らずなその言葉に、結局のところ龍捲風は弱かった。
 ふうっと溜息をついて見せたものの、もうひとつ食べさせてやった龍捲風の指ごと口に含んだ信一が、にたりと笑って龍捲風の指と舌先で桃を潰した。そのまま滴り落ちそうな果汁を啜り、指先を食んで爪の間にまで舌を這わせる。
 指を引き抜くこともせずに信一の好きにさせた龍捲風は、やはり甘やかしすぎたなとちらりと思う。ふやけるかと思うほど丹念に指先を舐めて、ちゅぷりと音を立てて離した信一は、けれどもわかっているのだろう、悪戯めいた瞳でわざと唇を舐めて龍捲風を見上げた。
「大佬も食べる?」
 龍捲風越しに、剥いたばかりの桃を摘まむ。それを自分の口に持って行った信一が、桃を口に含んだままで伸びあがって龍捲風に口付ける。
 信一、と呆れた声で呼びかけようとはしたのだ。
 けれどもくぐもった声は信一の口内に呑まれ、忍び込んできた舌先と桃の塊に言葉にはならなかった。
 果汁をまとった舌先が絡む。熟れて柔い果肉が舌と舌の間で潰れて、あふれる果汁がぐちゅぐちゅと口内ではしたなく鳴った。甘く痺れるような香り。潰れた果肉の感触。ん、と喉を鳴らして飲み込もうとする信一の口の端からこぼれてた果汁が顎を伝うのを、追いかけて舌で舐めとる。
「もっと」
「夕飯のデザートがなくなるぞ?」
「いい。大佬、ちょうだい」
 それは桃を、なのか。
 それとも大佬を、なのか。
 とろりとした顔は甘くねだる。その顔にだって、実のところ、弱い。
 果汁に濡れた両手では抱きし返すことも敵わずに、龍捲風は少しばかり焦れた。
 これではどちらが甘えているのかわからない。
「夕飯は」
「あとで」
 わかりきった問いかけに肩を竦めながら、手を洗う。
 やはり甘やかしすぎたのだ。
 せめてタオルで拭く時間くらいは欲しい。
 するりと顔を寄せてきた愛し子を濡れた手で抱き留めながら、龍捲風はその甘い唇に噛り付いた。