ふーこ
2025-08-03 20:35:52
2800文字
Public 小説
 

少年の風邪の日

熱が出た壬生少年と館長の話。

 あの日の館長の眼差しをふと思い出すことがある。僕が熱を出して寝込んだ日のことだ。館長と出会って間もない、僕がまだ小学生の子どもだった頃。 
 世間でも風邪が流行っている時期だったと思う。だから、自分もきっとそうだと理解した。額が熱く、全身がちゃんと毛布で覆われているのか何度も確認したほどに震えが出た。関節も痛むものだから気を紛らわそうと何度も寝返りをうっては壁や天井を眺めていた。朝からそうしていて、昼が過ぎてもそのままだった。なんとか水を汲んで飲んだり食べ物を口にいれたりしていたが、そうしているうちに全身が熱くなってまともに立っていられなくなった。起き上がらなくてはいけないという思いはあっても体がいうことを聞かないのだ。
 
 病気にかかるってこんなに辛いことなんだ。今日は母さんのお見舞いに行けないけど、心配させはしないだろうか。こういうとき僕はどうしたらいいんだろう。
 
 不安も疑問も、動きの止まったような空気の中にすうっと吸い込まれていく。答えなんて返ってきたりはしない。母が入院してからすっかり慣れたと思っていた家の中の静寂が、その日はとても寂しく体中を浸していた。
 何もしていなくても息が上がってうまく呼吸ができない。漠然とした恐怖が膨らんで、それに抗う術がない。
 薬がどこかにしまってあった気がする。それは、大人用のものだったろうか。箱の横になにか書いてあったような。それよりも、暑くて困る。氷は作ってあったかな。
 ゆらゆらと視界が暗くなっていく。そのうちとうとう、自分が目を閉じているのかどうかも分からなくなった。
 
 次に覚えているのは、目が覚めたら隣に館長がいらっしゃったということだ。いつからそうしていたのか、僕の様子を気にかけてくれていたようで、すぐに目と目が合った。
「すみません」
 どうしてここに? と理由を尋ねるよりも先に、自分を不甲斐なく思ってそう言った。母のために、どんなに辛いことでもしてみせると決意した。それを館長に宣言したばかりであった。それなのにこの有様だ。
 その決意と焦りが僕の体をどうにか動かしてくれた。毛布を押しのけて体を起こし、歪もうとする視界をまばたきで追い払うと、急いで館長と向き合った。
「すぐにでも、動けます。今日は稽古をつけてくださるのですか? そのためにいらっしゃったのでしょう」
 これまでに大人と喋ったときのことと、それから読んだ本や、国語の授業や、そのほかいろいろ。とにかく目上の人と喋るときのことを一生懸命に思い出していた。記憶や知識にある中でも、最も丁寧な言葉を使わなくてはと思った。これから、生きる術を学ぶのである。僕が母を守って生きていくための術だ。そのために僕は、仕事で役に立つ存在にならなくてはいけないだろう。
 館長は何か考え事をしながら僕の顔を見ているようだった。眉間に皺が寄って、怒っているのとは違うにしても機嫌のいい様子ではなかった。その時の僕はまだ幼く、その表情から内面を推し量ることが難しかった。
「今日は眠っていなさい。氣が乱れていては身に着くものも着かない。今の君に稽古をつけたところで、何にもならないだろう」
 館長がそう返事をしたとき、不安の火種が僕の心の中に生じた。
「すぐに治します。もう、風邪を引いたり怪我をしたりしません。万が一そうなっても耐えられます。耐えてみせます」
 館長の表情は相変わらず険しいままだ。僕を見ている目には静かな気迫がある。分かりやすく威張り散らしてなんかいないのに、この人はすごい人なんだと思わせる力がある。それでいて冷酷さばかりを感じさせるわけでもない。不思議な人だ。今までに会ったどの大人とも違うと思った。
 やがて館長は、目を閉じて短く息を吐いた。僕は正直なところ、背中を丸めて顔をゆがめてしまいたい気分になった。けれど目を逸らしてはいけないと思って、ぐらつく頭を気力で支えた。母を守ると決めたからだ。もう涙を流すことなんてないように。
 館長は手を伸ばして毛布を掴むと、それを僕の胸元にそっと押し付けた。
「君にはいずれ、苦痛に耐えて戦わなければいけない日々が訪れる。どんなに傷ついていても戦わなくてはいけないようなだ。ただ、それが今日から始まらなくてはいけないという定めはないのだよ」
 できるだけ素早く館長の言葉をかみ砕こうとする。とにかく、目下の指示としては、今日は眠っていなさいということである。
「これから嫌というほど思い知ることだろうが、人間はあっけなく死んでしまうものだよ」
 毛布を持った手に力が籠ったのが分かった。館長の手が胸元に触れているから感じ取れたくらいの僅かな動きだったけれど、確かに何かの思いが作用して体が動いたのだろうと思わせた。
 館長にも、あったのだろうか。忘れることも辛さを麻痺させることもできないような死というものが。埋もれて消えそうにもないようなものが。僕は知り得もしないことを勝手に想像して、それから自分のことを考えた。あっけない死が溢れる中で母を守って生きていく、これからの自分のことだ。
 考えたところで何か変わることもない。進むしか、ないのだけれど。
 たじろいで一歩でも退けば切り立った崖に落ちてしまうように感じた。前を向けば館長がいらっしゃる。守るべき母の姿も見える。この人に、付いていくんだ。
 
 ようやく僕は館長の言葉に従って、毛布を受け取って横になった。館長は小さく頷いていた。
「だからこそ、君は生きなくてはいけない」
 続いたのは重い声だった。思い違いを叱るような、決まりを言って聞かせるような、そんな風な声だと思った。
 あるいは館長は、僕のような子どもが高熱を出したりなんてしたら弱ってすぐに死んでしまうと危ぶんだのではないだろうか。そう思い当たると再びこの熱が恐ろしくなった。館長のような大人が真面目な顔をして生きろと訴えてくるようなことが自分の体の中で起きているということだろう。強く、嫌だと思う。
「はい。……はい」
 僕はその言葉をよく噛み締めて、重たく受け止めて、何度も返事をした。

 
 無礼を承知で、それ故に内心で思うだけに留めておくが、今になって思うとあれは少々大げさだった。館長にしても、僕にしても。その晩は眠るのが怖かった記憶まである。
 けれど仕方がない。僕も物心がついてからあんな高熱を出したのは初めてだったし、もしかすると館長も見知った子どもが目の前で高熱を出しているのは初めてだったかもしれない。
 実際に大げさだったかどうかはともかく、館長が心から気にかけて言ってくださったことであっただろうというのも、真実として僕の心の中にある。そうでなくとも金言だ。僕は生きなくてはいけない。たった一つのこと。けれど、ずっと変わらないことだ。