ふーこ
2025-08-03 14:21:51
6378文字
Public 落書き、メモ
 

【落書き】メモ

だいたい散歩日記

【夏の公園散歩 2025.8.3】
 身近なところにある自然はよい。公園は最高だ。
 直接浴びたら五分と我慢できないような夏の日差しも、木陰の下(もと)ではその苛烈さを失って地面にぼやけた光を落としている。それはつまり、葉が太陽の光のほとんどをキャッチして光合成をおこなっているということだから、うまいことできているものだと感心しながら、たくましく生きている木を眺める。
 根本近くの地面には、傘の先で突いたような穴がいくつか空いている。蝉の幼虫が這い出た穴である。木の幹は深い緑色の苔を纏って真っ直ぐに伸びていき、目線より少し高い場所で枝分かれして横に広がっていく。
 イチョウの葉の根本は枝がコイルのような螺旋模様を描いていて、同じ根本から四本も五本も葉が伸びている。重なった葉の裏側はたいていが暗く、たまに光を透かして若葉のように光るものもある。葉の先には蝉の抜け殻がしっかりとしがみついている。これもまた、風に揺れて時おり透明に照らされている。
 しな垂れた枝の先では蜘蛛が巣を作ったらしい。家主はおらず、獲物のかかった様子もなく、枯れた葉が一つだけくるくると回っている。
 こんな猛暑日に元気にしている虫も蝉くらいだろうと思っていたが、アゲハチョウが短い草の上を飛んでいる。蜜を飲む花がどこかに咲いているだろうかと探してみるが、周りはだいたいが草の緑色をしている。赤とか白とか、花らしい色を見つけることはできない。
 そうしているうちに体が暑さに慣れてきて、風が吹くと涼しいように感じてくる。しかしここで夏に気を許してはいけない。本当は涼しくなんてない。外気温は三三℃である。
 まやかしの涼しい風と木漏れ日を名残惜しく思いながら、冷房のよく効いた家へと急ぐ。冷蔵庫には桃が冷えている。
 公園から一歩出ると、アスファルトから逃げようのない暑さが立ち昇ってきて頭の上まですっぽり覆われてしまう。蝉の声が背後に遠くなる。人はどこにも歩いていない。まんまと世界は夏のものである。


【夏の終わり公園散歩 2025.8.31】
 夏休みも最終日である。今年の九月一日は月曜日で、週の頭から新学期が始まる。キリがよくていいじゃないかと思うのは、自分がもう夏休みも関係のない社会人だからであろう。
 夏休みが終わるからと言って暦の通りに暑さが引くわけではないのが近年の辛い所である。日中の公園は気温が高すぎるため誰もいない。
 以前と比べて変わったところを探してみよう。
 まずは、草がだいぶ伸びている。雨と日光を浴びてぐんぐん育ったのであろう。広場の短い草たちは膝下まで伸びて揺れている。走り回り草を踏みしめる子どももほとんど訪れなかったものと思われる。
 それから、枝が木の根元に落ちたものがある。近づいて見てみると枝の一部は根に飲み込まれて一体化している。一度、木の一部ではなくなったものが再び融合している。このまま育つとこの枝はまた伸びて葉をつけたりするのだろうか。
 以前は木の実のように付いていた蝉の抜け殻はすっかりなくなっていた。落ちて土に還ったのか、子どもが虫かごやポケットに入れて持ち帰ってしまったのか。とにかく夏の間にスッパリと消えてしまった。
 青色のトンボが水平に並んでいる。秋の虫がどこかでリーリーと鳴いている。草むらに忍び寄ると黙る。外気温は三三℃。暑さは何も変わっていないのに虫はどうして秋を知るか。

【お土産のお菓子を食べる 2025.10.1】
栗のショコラガレットというお菓子を食べる。
手のひらに包めるくらいの大きさで、コロッとした円柱形をしている。輪切りの形である。
栗蜜が練り込まれたガレットの硬い表面を噛んで崩すと、中からこれまた栗のペーストが現れる。栗とチョコレートとが練り合わさっているらしいが、栗の実の色をしているので見た目はバターに近い。栗らしい控えめな甘さとチョコの油分でもったりとした感じが合う。
ガレット生地はカリカリしていて互いに結合する力は弱い。噛んだそばからぽろぽろ崩れてくるので、こぼさないよう注意しなくてはならない。半分ほども食べすすめたら、あとは一気に口に含んでしまう方がいい。少しずつ食べていると崩壊してなくなってしまう気がする結びつきの頼りなさである。
さて、信州小布施といえば栗の郷であるが、実はこのお菓子も小布施の栗を使っている。長野は父の故郷だ。これは父と母が彼岸に少し遅れて墓参りに行った際の土産である。
子どもの頃は家族で年に一度は長野に遊びに行っていたが、栗を食べた記憶は実のところない。蕎麦か、お焼きか、山菜か、たしかそんなようなものを食べていた。健康長寿の県というのも頷ける滋味深さだった。乏しい記憶力で思い出せるのはそんなところである。
長野の景色を思い出すと、四方に山がある。大きく緑豊かな山に守られるように街がある。どこにいてどこを向いていても大きくそびえる山が見える。
そこは小布施の街ではなかったが、ぼけっと心を世界に明け渡して眺めていたその景色の中にも、栗の木はあったのではなかろうか。
ガレット生地が崩れて口の端から逃げる。かけらを拾って個包装の袋の中に入れる。思い出せる景色の中にいない栗を食べている。

【秋の土手散歩 2025.11.15】
小学校の授業が好きだったのだと今になって思う。記憶が確かならば「生活」という名前の授業があり、校庭に出て季節の草花や昆虫を見つけて観察し記録していた。それが楽しかった。それから二十年を優に過ぎたいま散歩に出ても気になるのはそういうことばかりである。
秋の土手のトレンドは神楽の鈴のような形をした黄色い花(インターネットによると、おそらくはセイダカアワダチソウという要注意外来種)と、ふわふわした熊手のような形の草であるようだ。目にする土手にはだいたいある。それがゆらゆらと揺れているのを面白がりながら堤防通路を歩く。秋の中に入っている。風が冷たくても、太陽が出ているとあたたかい草や土の匂いがする。
ひとりで黙って歩いているので周りから聞こえる音も一大エンタテインメントである。川が流れる音、葉が揺れる音、鳥の鳴き声、砂利を踏む音、風の唸り、秋限定の落ち葉を踏む音。赤、黄、茶色の乾いた落ち葉をわざわざ踏んでみる。春にも同じところを歩いているので、これらの葉の少なくとも一種類は桜であるということが分かる。
そうして地面に視線を落としていると、やたらとトンボが止まっている。トンボといえば枝や草の先に止まっているのを想像するが、地べたのような平面にも当たり前に止まっている。じっとしているが、人の影に入った途端なにかを察知して飛び立っていく。
海側に向かって歩き始めていたのだが、適当なところで橋を渡り折り返す。石粒や葉の一枚一枚を見ていた目を、今度は一気に遠くに向かわせてみる。こんもりとした緑の山が遠くに連なっていて、山のそのまた向こうに見える空は透き通る青色をしている。薄い雲がやはり秋めいている。ぐるりと首を回して次は対岸の堤防通路を眺める。西日が差す時間だったので自分の影が向こう側にまで映っていて、とても巨大なものになった気分。
再び視線を足下に戻して帰り道も落ち葉を観察する。なんといっても秋限定なのだから。
イチョウの木の下に小さな小さな羽根のような種子を見つける。クルクルと回転しながらここまで落ちてきたことを想像する。プリントにスケッチして教室に持って帰るならこれか。生活がずっと「生活の授業」の中にある気がした。

【大きめの公園へ散歩 2025.11.22】
昨日は職場の飲み会だった。
そういった場ではいつもなんとなく居場所のない思いをしてトボトボと帰路についているのだが、昨日は楽しかった。酔っ払ってハイスピードに愉快な話をしてくださる方が同じテーブルにいてくれたおかげである。酔っているから同じ話を何度もしているのだが、毎回絶妙に続きの言葉が異なるので面白い。言葉が水の流れのように留まることを知らず、こんな風におしゃべりがしてみたいと思った。
そういうわけで人の中にいる楽しさとありがたさに浸っていたのだが、今日はまた一人で散歩に出かける。昨日の余韻で人並み以下ながら冒険心が滲み、今日は市街地を通って少し遠くの公園に行ってみる。
いつもの川沿いとは反対側の、大通り沿いを歩いていく。イチョウの葉が落ちて歩道の端に溜まり黄金色に光っている。先日の雨で地面の凹面はまだ濡れていて、落ち葉もしっとりと、風が吹いても音も立てず貼り付きあっている。
目的の公園は幹線道路を挟んだ向こう側にある。車で行くなら道路で一直線だが、徒歩の場合はアンダーを潜っていく必要がある。トンネルのような通路の壁面には工事の際のチョーク書きがたくさん残っている。真上を車がゴウゴウと行き交っている。巨大なコンクリートの柱が道路を支えている、その隙間を通り抜けていく。高架下の雰囲気がありなんだか都会っぽいと思う。
アンダーは二つあった。一つは車も通れる道幅と高さだったが、二つ目はどちらも恐らく2メートルもない。完全に歩行者用である。冒険のようで心が躍る。
そこを抜け、少し歩くと公園にたどり着く。入るとすぐに広場と池が見える。近所の公園とは広さのスケールが違って驚く。地面の広さもさることながら、木が圧倒的に高く、自分が小さくなったようで面白い。
池のそばにはコイの餌の販売機があったが、残念ながら売り切れであった。水面には紅葉した木が映り込んでいて秋らしく美しい。サギがヒョコヒョコと歩いたり首を突っ込んだりするたびに水面の景色がやんわりと揺れる。サギはどこにでもいて、どこにいてもかわいい。
今時期は花こそついていないが、藤棚の下にはベンチが並んでいて、蔓の隙間から日が差し込んでいて趣がある。座面は雨で湿っていて座るのは諦めた。気持ちがいいだろうから、どこかに座るか、寝転ぶかしてみたい。広場の小高い丘はそこまで湿っぽくなかったので、フードをかぶって思い切って寝転がってみた。背中がひんやりとした。一面の青空は清々しく天上にいるようだった。
そんな風に寄り道をしながら公園内を突き抜けて、帰りは川沿いを歩いて帰る。いつもと違う道も楽しいが、いつも通りに川の流れを見て歩くのはやはり面白い。
今日は、どんな色をしているかに気をつけて景色を見てみる。川の水面の遠くの方は白っぽく光っていて、中間は黒っぽい青、近くは緑がかった濃いグレーに見える。山の緑は向こうの方に行くにつれて薄墨色に霞んでいく。雲は底の方が色が濃くて天の側が明るく白んでいる。山の上に雲があると山間の大気の動きを想像する。今日はどことなくずっとスケールの大きい日であった。自分比。

【断念散歩 2025.11.24】
川沿いを山に向かって歩き始めてみる。いつもとは反対方向である。気分が新しくなるかと思ってのことだ。
ある程度歩き進めて気がついたが、道がない。大きく迂回すれば進むことはできるのだろうが、海側に向かう時のように堤防通路を真っ直ぐ進むということができない。草が生えすぎていて気楽な散歩の装備では進めそうにない道や、老朽化により通行止めになっている橋があり、川をまたぐ線路を抜けるためのアンダーや踏切もすぐに見つからない。いろいろな「徒歩だと真っ直ぐ進みづらい事象」があり、結局、草に満ち溢れた堤防通路を前に立ち止まり山を眺めてから引き返す。本日は曇り空だったが山の方は晴れており、斜面の緑と赤と茶色の木々が照らされていて美しかった。遠くの山は山頂に雪の白がうかがえて、さらに遠くの山となると相変わらず薄墨色をして霞んで見える。
堤防通路が歩きづらいので、帰り道は下道を通って行く。そうすると、今度は逆に「徒歩だと入れてしまうところ」があることに気がつく。川を渡る高架の下の歩道にはガードレールに身幅ほどの隙間があり、川縁に降りていけそうな細い通路に繋がっている。徒歩なので入っていけてそうだが、朽ち果てたフェンスと身長ギリギリの低い天井に怖気付く。理由のない散歩で入るべきところでもない雰囲気があるが、誰でも入れてしまう道でもある。行ってみようか。観察してから決めることにして、橋の上から通路の先を覗き込んだ。通路は川縁に繋がる前に高い段差があり、飛び降りていけそうにもなかった。やはり大きな理由なく入るような場所でもなかったらしい。
住宅街を進む。マンションに狸の置物がある。犬の名前の表札があるお宅がある。店先にもまた狸の置物を見つける。表通りからしか見たことのないコンビニの、裏口に立っている看板を初めて見た。分厚いガラスタイルがたくさん嵌め込まれているレトロなマンションのエントランスは青緑色に光っている。落ち葉に埋め尽くされた公園にはキノコを模したベンチが並んでいて、今の季節にぴったりで面白い。
住宅街の中には歩行者専用道路がたびたび現れる。車での移動時には味わえない承認を得て進んでいくと、畑や送電塔のフェンスに突き当たって引き返すことになる。それもまた面白い。
散歩も最終局面に差し掛かり、家のほど近くの交差点で信号待ちをする。カチ、カチ、カチというスイッチを押すような規則的な音が、信号を制御する機械の入っていると思われる鉄扉の向こうから鳴っている。もしやと思って歩行者信号を見ると、音と同じ間隔で点滅していた。こんな風に察知できることを知らずに過ごしていたんだなと思う。

【冬は蜜柑 2026.1.14】
大きい蜜柑を食べる。掴んでみたところ、ふだん食している蜜柑の1.5倍くらいの大きさに感じる。真実そんなに大きいかは分からないが存在感はそれくらいだ。
いざ、剥く。さてはオレンジかと思うくらい皮が厚くて硬い。やっとむしりとると霜が降りたかのごとく房が筋に覆われている。霜取りのような気持ちで、筋を少しずつ剥がしていく。爪の先がもったりと薄いオレンジ色になっている。
こういうものというのは、経験則から言うと味がぼやけているか極端に酸っぱいかだ。これはどちらか。ええい、ままよと芝居がかったセリフを浮かべながら覚悟を決めて口に放り込んでみると、これがとても甘くて単純に喜ぶ。むしった甲斐があったと自分のしょうもない労力を労ったところで、それよりもまず蜜柑に礼であろう、いやいやそれよりも生産者に礼であろうと頭を振る。
大きい蜜柑の皮がくったりと机の上にある。冬の夜に、つやつやぴかぴかとしている。

【春めいている日の散歩 2026.2.14】
この地域のこの時期には珍しく晴れてあたたかい日となったので、冬の間は気の向かない散歩を今日なら復活させられるだろうと思い繰り出す。のさばっていた冷たい空気も一面灰色の空も、鳴りを潜めている。コートを着ずにいても十分に快適である。
雪の残っているうちにあたたかい日があると、そこかしこで水の音が聞こえる。民家の屋根雪が溶けて雨樋を伝う。地面に積もって固まったままの雪が溶けて側溝に滴っていく。側溝の水は川に流れ込み、川はまた泥の混じらない水をゆるい流れに乗せて下流へ運んでいる。海までいけばきっとそこでも春の波の音がしただろう。
川を見るのも久しぶりだ。水面を通って川底に映る光は網目のように区切られてゆらゆら揺れている。堆積した部分を避けて流れる水はそこだけを深く穿っていて、低くて重たい音を立てている。
春は水の音がする。空気はあたたかく、命の気配が感じられる。もうすぐ春だねを口ずさみたくなる。春への期待を先取りして感じている。