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千代里
2025-08-03 12:48:52
19341文字
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リーブラ15話
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リーブラの針は問う・15話・その18
「質問をしても、よろしいでしょうか」
「どうして、私がハンフリー司祭を殺したのか、ですか」
竜によって蹂躙されたと思しき、人の気配が死に絶えた廃村の片隅。
かつては家族が住んでいたのだろう、他よりも少しばかり広い建物の中、唯一の光源となっているランタンに照らされた居間で、ノエはミラベルと向き合っていた。
スライムを追い払い、追手であった騎士たちを助けた一同は、順調に予定していた行程を踏破していっていた。
サルヒによると、明日には、日が暮れる前に目的としていた湖畔の別荘地に辿り着けそうとのことだった。
だからこそ、皆が寝静まった今、改めてノエはミラベルに問うていた。
「今更、そのようなことを質問して、何の意味があるのですか。私が罪を告白して許しを乞えば、あの男が戻ってくるわけでもないでしょうに」
「
……
それは、そうなのですが」
だったら、なぜ自分は質問をしようと思ったのか。ノエ自身、どうしてという疑問に突き動かされてばかりで、己の問いの意味を完全に把握していたわけではなかった。
人を殺したというのに、何の罪悪感もないように見えるミラベルに、嫌悪を抱いたからか。あるいは、何か納得できる答えを自分に示してほしいと縋りたいからか。
ノエが、己の質問の意図を確たる形で見出せずにいると、
「あなたは、優しい方のようですからね。今回といい、以前に異端者と遭遇したときといい、あなたは極力人を傷つけまいとしていました」
そこで、ふっとミラベルの瞳から険しさが薄まる。
「もし、自分と真逆の考え方を持つ者がいたとしても、問答無用で拒むのではなく、少しでも理解したい。そう思ったからこそ、私に殺人の意図を問うているのではありませんか」
「あなたは、僕自身より、僕のことをよく知っているようですね。
……
恐らく、あなたの言う通りなのでしょう」
言葉で説明されると、その理屈はノエの中ですとんと落ち着いた。
「僕は、あなたのように考えることはできない。ハンフリー司祭がオデットを傷つけ、子供たちの命を奪ったのだと知っても、だったら彼も死ぬべきだとまでは思えなかった。まして、命を奪おうとは」
「あなたは私ではありません。その判断を間違っているとは言いませんよ」
ただし、正しいともミラベルは言わなかった。言外に、彼はノエの判断を「甘い」と言っているようにも聞こえた。
「
……
では、ミラベルさんは、自分の行動が正しいと信じた上で、ハンフリーさんを手にかけたのですか」
非難をしているのではない。ただ、知りたかったのだ。
己の振る舞いが、何よりも正しいと言い切ること。それは、かつてのノエにはできて、今のノエにはできなくなってしまったことだ。
ルーシャンに自身の正義に隠された欺瞞を指摘された、あの雨の日から、ノエは己の標榜する正しさを無条件に信じられなくなった。
「少なくとも、私にとって正しい道を選んだと自負しています」
迷いを抱くノエとは対照的に、ミラベルはきっぱりと言い切る。
「彼がいなくなったことで、このさき彼の毒牙にかかる者はなくなりました」
「ハンフリー司祭が、未来永劫同じ過ちを繰り返すとも言えない、とは思わなかったのですか」
「彼に改心を求めるのは無駄です。シュガーグレイヴで彼がしたことを見て、私はそう判断しました。一縷の希望に賭けた結果、再び彼によって罪もない子供が手にかけられたとき、私はどの顔でその犠牲者に詫びればいいのですか」
ノエならば踏みとどまった一線を、ミラベルは踏み越える選択をした。
あるかもしれない未来の変化に希望を託すのではなく、起こりうる最悪を避けるために最善を選ぶ。ミラベルにとって、それこそが『自分なりの正しさ』なのだろう。
「私は、自分の守りたい者を守るためならば、どれだけ手を汚しても構わないと決めています。かつて、私たちが断罪したはずの司祭たちが、同じ過ちを辺境で繰り返しているのを目にしたときから」
「それが、他人の目からは間違って見えていたとしても?」
「ええ。多くの人々に称賛される者が、裏ではおぞましいことに手をつけている例など、イシュガルドでは珍しくもありません。ハンフリー司祭が良い例です。復興事業に関わっていた者も、表向きは無害な司祭として通っている者ばかりでしたよ」
だが、彼らは過ちを犯した。
一度目の裁きを経てもなお変わらない罪深さを目にして、ミラベルは二度目の裁きとして死を与えると決めた。これ以上、新たな被害者を出さないために。
「
……
残念ながら、僕はあなたと同じ意見を持つことは難しそうです」
ミラベルの発言には筋が通っている。彼なりに通した筋であり、未だ決意を固めることすらできないノエが否定すべきではないのだろう。
それでも、ノエは誰かの命を奪う行為を正しいとは言い切れなかった。
「構いませんよ。誰かを殺すという選択肢を自ら選ぶのは
――
まして、本来ならば戦う力も持たない者を、一方的に暴力で蹂躙するというのは、人間が持つ道徳と理性の線を踏み越えることになります。この先、私は一生、自分の意見に逆らう者を目にするたび、殺人という選択肢を頭の中で滲ませるようになるでしょう」
それは、盗賊や異端者に襲われるのとはまた訳の違うことだと、ミラベルは語る。
敵意を持つ者に同等の敵意を返すのであれば、言い訳もまだできよう。
しかし、ミラベルが続けてきた殺人は、殺された側にとっては一方的なものだった。それは、相手が剣を向けてきた場合とは異なる、言い訳のしようがない『人殺し』だ。
「ですが、あなたはそうではないようです。そして、殺人を厭うような善良さを未だに持ち合わせているあなただからこそ、私はオデットを任せてもいいと思えたのです」
彼の言葉には、理想主義者を嘲笑っているようにも聞こえたが、その殆どはどこか羨望を交えた発言に思えた。
ミラベルが受け入れようとして、しかし決して受け入れられなかった答え。それを、ノエはまだ捨てずにいると思ったからだろうか。
「とはいえ、明日にはオデットたちに追いつくという状況で、刺し違えてでも相手を止めるという気概を持っていないというのは、私の目から見れば少々甘えが過ぎるとも言えますが」
「オデットと、ルーシャンさんのことですね。たしかに、彼の独断行動は褒められたものではありません。しかし、僕は彼を殺したいと思うほど憎んでいるわけではありません」
オデットに何も伝えずに魔法を使わせ、大地を傷つける罪を彼女に背負わせようとしているのなら、ノエとしても許し難いと思っていた。だが、彼が好き好んでオデットを非難の盾にするとも思えない。まして、殺してしまえと乱暴な結論に至るほどの憎悪もなかった。
だが、ミラベルはどこか冷えた目でノエを睨むと、
「あの男が、何をどこまで知っているかは分かりませんが
……
もしあの男が本気で魔法を発動させるつもりならば、私は最悪、彼を殺す覚悟を持つべきだと思っています」
「
……
なぜ、そこまでしてルーシャンさんの命を奪おうとするのですか」
ミラベルが、オデットに魔法を使わせたくない理由は、以前説明してもらった通りだ。
魔法が発動したときの代償を、その罪禍を、オデットに背負わせたくないからだろうと、ノエも納得していた。
だが、ミラベルの言葉には、より切羽詰まった気配が滲んでいる。
「たしかに、オデットが魔法を使ってしまったら、代償として大地のエーテルが傷つき、結果的に彼女は国中から非難の目を向けられるかもしれません。ですが
……
」
もし、魔法を使えば、国中の人が今後竜に怯えず暮らせるようになる。
その可能性もまた無視できないものなのではないか。そう思ったからこそ、ノエは口篭ってしまった。
ミラベルは、まるで何も知らない子供を目にしているかのように、どこか哀れみを帯びた視線を向け、
「オデット本人が、国中の人間に追われるようなことはないでしょう」
「ですが、先日の説明では
……
」
「その前に、彼女は氷天に召されているでしょうから。貶められるのは、彼女の名誉であり、死した後の彼女の安息です」
一瞬、言われた意味がわからなかった。
オデットという少女に結びつけるには、あまりに不適切な単語が共に語られていたからだ。
彼女は氷天に召される。死した後の彼女の安息。
つまり、それは。
「
……
魔法を使えば、オデットが
――
死ぬ?」
どうにか頭を動かし、忌まわしい単語とオデットを繋ぐ。その言葉は、ノエの動揺する心をざらりと撫でていく。
「オーバン卿には口止めをされていたのですが、あなたが先ほどのように甘い考えを持ったままでいるのなら、今ここで伝えておくべきでしょう」
振り向いたミラベルの瞳には、冗談の気配など微塵もない。
「魔法を発動させれば、その代償に発動者も命を落とします。まず間違いなく。あの魔法は、そのようにできているのです」
ミラベルの語りは滔々としていて、澱みがない。まるで、何度も頭の中で繰り返してきたかのように。
「かつて、試作として今のものよりも規模を抑えた同種の魔紋を作り、発動を試みた記録がありました。その時点で、何人かの魔道士が魔紋から流れ込む過負荷に耐えきれず、肉体の異様な変貌を見せた後に命を落としています」
異端者が竜となって理性を失うのよりも、なお酷い。彼らは、もはや生物としての形すらまともに保てていなかったと記録にはあった。
「大地のエーテルをただ集めて、魔紋に刻まれた魔法を発動させるだけならいざ知らず。集めたエーテルを適切な形で魔紋に流し込み、目指す先に放ち続けるように制御するためには、大地から流れ込むエーテルに術者が触れるしかない。結果、術者のエーテルは魔紋に引き摺り込まれ、溶け合い、不可逆の変化を齎してしまう。エーテルとは命の代名詞のようなものである以上、それは死を意味するも同じです。こればかりは、どれだけ代を重ねても覆せなかったようです」
小難しい説明など、今はどうでもよかった。大事なのは、これから向かう先に待ち受けているものが、オデットに何を齎すかということだけだ。
「
……
それを、オーバンさんは知っているのですか。知った上で、オデットを捕まえようとしているのですか」
「もちろん。彼にとって、どこぞの妾が遺した小娘など、失っても惜しくなどありません。人一人の命と、国中の人間を苦しめてきた邪竜の命。彼がどちらに賭けるかなど、わざわざ考えるまでもないでしょう」
オーバンは、良くも悪くも貴族的であり、全体を俯瞰して考えられる人間だ。
大勢の命を救う魔法がそこにあり、発動のために人間一人分の命が失われるのならば、迷うことなくその命は皆のために差し出されるべきだと結論を出すだろう。
「そのことを
……
ルーシャンさんも、知っているのですか」
「さあ、そこまでは分かりません。ただ、彼はエヴラール卿が遺した資料を読んだのでしょう。魔法の研究にも、少なからず関わっていたはずです。聡い魔道士なら、推測は容易でしょうね」
細かい事情は知らずとも、何の犠牲も払わずに大地から汲み上げてきたエーテルを完璧に操るなど、人間には不可能だと分かる。ルーシャンは魔道士としても一流であった。彼が魔法の代償に気づかないとは到底思えない。
(だとしたら、ルーシャンさんは
……
オデットを犠牲にして、父親の遺した魔法を使うつもりなのか)
そんなことはない、と言いたかった。
しかし、今のルーシャンが何を考えているのか、今のノエには断言できなかった。
今までなら、本人がすぐそばに居たのだから、ただ問いかければ答えはすぐに返ってきた。だが、今ここに彼はいない。
しかし、新たに芽生えた質問の相手なら、目の前にいる。
「そのことについて、ミラベルさん。あなたは、どう思っているのですか。先ほどは、刺し違えてでも止める覚悟を持っていないのは甘い、と僕に向かって言っていましたが」
「
…………
」
「ミラベルさんが魔法の代償について教えてくれたのは、オデットを守り、魔法発動を企む人たち止めるのに必要な覚悟を、僕に持たせるため。そうですよね」
ミラベルは答えなかった。それを肯定とみなして、ノエは続ける。
「では、ミラベルさんも、そう思っているのですか。オデットを守るためなら、ルーシャンさんやオーバンさんを
――
殺すのもやむなしと」
すぐに、彼は首を縦に振るのではないかと思っていた。
ノエのように、人を殺める行為に迷いを持たないミラベルならば。
大事な者を守るためならば、人殺しすら厭わないと言い切ってみせた彼ならば。
オーバンやルーシャンを殺してでも、オデットを助けるべきだとノエに協力を求めるだろうと。
しかし、ミラベルは唇を薄く開いたものの、首を縦にも横にも振らなかった。
「ミラベルさん?」
「
――――
ノエさん。あなたは、今の話を聞いてどのような結論を出しましたか」
質問に質問で返されてしまい、ノエはゆっくりと一度瞳を瞬く。
魔法を使えば、オデットは死ぬ。
乱暴な言い方になってしまうが、大地のエーテルに被害をもたらす話よりはずっと単純な話だ。
(
……
オデットが、死ぬ)
兄さん、と自分を慕ってくれた少女の笑顔は、瞼を閉じずとも鮮やかに閃いている。
手を取ってくれたときの温もりが、掌を掠めていくようだ。保護したばかりの強張った顔が少しずつ雪が溶けるように綻ぶ様も、胸にしっかりと焼きついている。
隣にいたいと彼女が願ってくれたのと同じくらい、気づけば、ノエもオデットの傍らにいたいと思うようになっていた。一度繋いだ手を、二度と手放したくないと、強くそう思うようになっていた。
「オデットは、死なせません。彼女を失うなんて、僕は絶対に嫌です」
考えた瞬間、ノエの中で迸る衝動が、言葉となって飛び出していた。
だが、それを聞いてもなお、ミラベルは一イルムも表情を緩めていない。一瞬浮かんだ微笑は、日向の雪よりも早く溶けて消え失せた。
「では、あなたはオデット一人の命のために、イシュガルドの国に生きる人間全てに、この先も邪竜が齎す災厄を耐えろと言うのですね」
「
……
っ!」
感情的な言葉の後に突きつけられた理性的な現実に、言葉に詰まる。
オデットに生きてほしいと願うのは、ノエの都合だ。
イシュガルドの国民たちは、オデットのことなど知らない。自分たちの知らない子供が一人犠牲になり、代わりに竜に脅かされる生活が無くなるのなら、喜んで彼らは言うだろう。オデットが犠牲になれ、と。
「あなたは、これまでイシュガルドの各地を旅してきましたよね。お父上であるラペイレット家が治める領土で、あなたは竜に襲われる街を見てきたのではありませんか」
「
…………
」
「砦で戦う兵士たちが、竜の炎に焼かれ、命を落とす瞬間まで苦しんでいる姿を見たことは? シュガーグレイヴの人々は、竜の咆哮が聞こえるたびに、震え上がって建物の中で祈りを捧げていました。何も知らない子供たちすら、大人の怯える姿を目にして、やがて恐怖を理解します。その姿は、あなた方も目にした覚えがあるのでは?」
頷くしかなかった。ノエが今まで目にしてきた悲劇的な光景は、竜が原因ではないものもあったが、同じくらい竜が齎したものが数多くあった。
彼らは今もなお、竜の影に怯え、時に竜の猛威に抗うために戦い、命を落としている。
「その上で、私はもう一度問います。あなたは、邪竜を討伐して人々に平穏を齎すかもしれない奇跡よりも、オデットの命を優先する。そう言うのですね」
「それは
……
」
本当にそれでいいのか、と己が問いかけている。
オデットの笑顔と、これまでイシュガルドで目にしてきた悲劇の数々が幾度も交差し、喉の奥で大きな塊となって詰まってしまったかのようだ。
呼吸すらままならず、喘ぐような息を数度漏らした時だった。
「それでも、ボクは言うよ。オデットの命を優先するってね」
朗々と響く言葉と共に、寝室に続く扉が勢いよく開かれる。
机上の照明が浮かび上がらせたのは、部屋に入ってきた三人のシルエット
――
ヤルマル、オランロー、サルヒだった。
「ヤルマルさん
……
。一体、どこから聞いていたのですか」
「魔法を使えばオデットの命が危険に晒される
……
いや、この際だから、はっきり言おうか。魔法を使えばオデットが死ぬって話をしていた辺りからだよ。その前に話していたことについては、ボクからは発言を控えよう」
つまり、ハンフリー司祭の殺害について、ヤルマルは目を瞑ると言っているのだ。
もっとも、彼女はノエが出会ったときも、邪教徒たちを問答無用で射殺していたような人物だ。彼女もまた、ミラベルと同じように、自分の守りたい者のために容赦を捨てられる人間であり、ノエに彼女の考えを否定する権利はない。
それに、今は殺人の是非を問うよりも、一同にとってより重要な内容がある。
「では、ヤルマルさん。あなたは、イシュガルドに生きる者全員の安息よりも、オデット一人の命が大事だと言うのですね」
あえて非難するかのような物言いをするミラベル。しかし、ヤルマルが揺るがなかった。
「イシュガルドに生きる人たちには悪いと思うけれどね。ボクは、顔も知らない何千何万の人よりも、ボクの命の恩人でもあり、大事な友人である一人の女の子の方を優先する。こう見えて、ヤルマルさんは薄情なのさ」
露悪的な物言いをしてはいるものの、ヤルマルの表情は真剣そのものだ。ならば、とミラベルはオランローとサルヒへ視線を移す。
「あなた方は、どうなのでしょうか」
「オレも、ヤルマルと同意見だ。あいにく、オレもこいつと同じくらい薄情者なんでな」
「私は
……
」
そこで、サルヒは一度口ごもる。
イシュガルドに生きる人々の苦境を、サルヒはその目で見て知っている。すでに十年以上昔のこととはいえ、彼女は確かにこの地で生活をしていたのだ。
竜のせいで心を追い詰められた人も、居場所を失った人も、沢山目の当たりにしている。
だが、オデットの声は、姿は、彼らのものよりもずっとはっきりと目に見え、聞こえていた。
「私も、オデットを失うのは認められない。たとえ犠牲になるのがオデットではなかったとしても、魔法を使うために誰かを生贄にするなんて、ルーシャンにそんな選択をさせたくない」
話しながらも、彼が復讐を終えた後の話をサルヒにしてこなかった理由が、彼女はやっと分かった気がした。
「もし、そんなことをしたら
……
ルーシャンは、もう本当に戻らなくなってしまう。そんなこと、私は認めない」
自分以外の誰かを犠牲にして己の大望が叶ったとして、その結末はルーシャンの中にある何かを壊してしまうだろう。
彼を彼たらしめる『何か』が失われたとき、彼はこの世界に生き続けることすら自分に許せなくなってしまう気がした。
「なるほど。あなた方三人は、顔も見えない大勢よりも、自分がよく知る一人を選ぶのですね」
「耳が痛い発言だね。だが、そうとってもらっても構わないさ」
厳しい総括を受けてもなお、ヤルマルは揺るがなかった。
「竜が齎す被害が大きいことも、そのために苦しんでいる人も知っている。彼らが平穏を望む気持ちを、ボクは否定しない。竜を退治するために力を貸してくれと言われれば、ボクのできる範囲で協力を惜しむつもりはない」
だけど、とヤルマルは続ける。
「そのために、ボクの大事な仲間に死んでくれというのは、少し話が違ってくる。彼らが平穏を望む気持ちを否定しない代わりに、ボクがオデットを大事にしたい気持ちだって、誰にだって否定させないさ」
「それに、そういうあんたはどうなんだ。あんたは、オデットの古い知り合いなんだろう。彼女が犠牲になると知っていてなお、あんたは今までそのことを黙っていた。ということは、あんたは既にその犠牲を了承しているということか」
オランローだけではなく、ノエも同様の疑問を交えながらミラベルを見つめる。
彼は瞳を伏せ、細く息を吐いた。
「オーバン卿は、迷わずにオデットを犠牲とするでしょう。鍵となる人物が命を落とすことになるだろうと告げても
……
周辺の土地のエーテルに深刻な被害を齎す可能性があると示唆しても、『それでニーズヘッグを滅ぼせるなら、安いものだ』と言っていました」
オーバンの意見は、ノエにも予想通りのものだった。大局を見据えられる為政者として、彼はより多くの人を天秤に乗せられる選択をするだろう。
ならば、肝心のミラベルはどうなのか。
「
――
私には、選べなかった」
細く吐いた息が、一瞬できた静寂を波打たせる。
「あなたにとって、オデットは大事な人ではなかったの」
「ええ、そうです。ですが、私はオデットの友人であると同時に、この国の人間でもあるのです。私は、生まれたときから今まで、ずっと竜に怯える者の声を聞いてきました」
表情こそ普段通りを装っているが、彼の声には隠しきれない苦渋が滲んでいる。
「これまで孤児院で私が面倒を見てきた子供たちも、幾許かの平穏を望んで祈りを捧げてきた人々も
……
いつしか、私は切り捨てられなくなってしまっていたのです」
竜の襲撃で、一夜にして故郷を失った子供がいた。
住むところを焼け出され、行く場所もなく、廃村の片隅で命を落とす者を埋葬した。
魔物に襲われて道なかばで倒れ伏す者に、己の無力を痛感しながら、死出の祈りを捧げた。
「
……
私も、あなた方のように、あの子の味方であると、はっきりと言えればよかったのですが」
「だったら、君は魔法の元に辿り着いて、ルーシャンからオデットを取り戻したら、彼女に懇願するつもりなのかい。イシュガルドの民のために死んでくれって」
「
…………
」
答えはなかった。それもまた、彼の本音なのだろう。
オデットを前にして、心が揺らぎ、そのほか大勢を見捨てる選択をとるかもしれない。
あるいは、やはりオデットの犠牲に目を瞑り、死んでくれと頼むかもしれない。
彼のオーバンに与したようにも、あるいは抗っているようにも見えたどっちつかずの態度は、彼の迷いが形となったものだったのだ。
「答えられないというのなら、無理強いはしないさ。君は、このことを知ってから今の今までずっと、葛藤を繰り返してきたのだろうから。でも、君がボクたちの前に立ち塞がるなら、悪いけど容赦はしないよ」
そこでミラベルとの対話を切り上げたヤルマルは、今度は今までずっと聞き手に徹していた青年へと視線をやる。
「それで、君はどうしたいと考えているんだ。ノエ」
オデットの命か、イシュガルドに生きる何千何万もの人々の平穏か。
理性は、後者の比重が如何に大きいかを理解している。
オデットという少女のことをまるで知らない頃の自分なら、ひょっとしたら、後者を選んでいたかもしれない。
(いや
――
それでも、僕は問うただろう。それは、正しいことなのだろうか、と)
今は答えられない問いだ。しかし、答えられずとも問うことに意味はある。
オデットをたとえ知らなかったとしても、多くの人々の笑顔のために一人の少女に死を望むのは正しいことなのか。
自分の心が「それでよい」と認められる望ましい道なのか。
唯一ノエの中に生きている指針は、自身の心が己の行動を受け入れられるかどうかという酷く私的なものだ。
そして、その唯一無二の羅針盤の示す方向は明確だった。
「僕は、オデットの犠牲を認めません」
先だってミラベルに伝えたのは、感情的な拒絶だった。オデットと『死』という悍ましい現実を結びつけたくなくて、必死に跳ね除けていただけだった。
しかし、今は違う。
忌避感こそあれど、オデットの死と人々の平穏を天秤にかけ、それでもノエの中にある針はオデットを指し示した。
「では、あなたはオデットの命を守る代わりに、この先いつ終わるともしれぬ竜との戦いが再び続けばいいと考えているのですね」
「竜との間に続く戦いは、できれば終わってほしいと願っています。竜によって傷つく人は、一人でも少ない方がいいと、僕もそう思っています」
「それは、矛盾というのではありませんか」
ミラベルの声の温度が一段下がる。明確な結論を出せず、駄々っこのようにオデットの生存だけを遮二無二望んだのなら、ミラベルはこのような冷え切った言葉は口にしなかっただろう。それは、ミラベルと同じ葛藤の境地だからだ。
だが、中途半端な正義を振り翳すつもりなら、それはミラベルにとっては最も許し難い偽善に映ったらしい。
しかし、彼の冷え切った声には怯まず、ノエは真っ向から相対する。
「今は矛盾に聞こえるかもしれません。ですが、オデットだけが魔法を発動させられるという状況は、今の状況だけを踏まえたものです」
自分でも途方もない話をしている自覚はあった。それでも、躊躇が生まれる前に言わねばと、彼は続ける。
「魔法を編み出したのは、エヴラール卿という一人の人間です。ならば、同じ人間の手で、その前提も変えられるかもしれない。オデット一人に、全てを押し付けるのではなく」
「あるかもしれない可能性を探すために、イシュガルドの地に生きる人々にあなたは我慢を強いるわけですね」
ミラベルの声には、相変わらず抑揚が薄かったが、先ほどのような怒りは薄れていた。
彼なりに、その儚い希望を一度は考えたのだろう。そして諦め、だがそれでももしかしたらと願い続けるのをやめられない。そんな気持ちが混じった声だった。
「
……
オデット一人に犠牲を強いれば、確かに今すぐ平穏を得られるのかもしれません」
そんな世界を想像してみる。
イシュガルドの寒冷化は変わらずとも、支配層と被支配層の問題などは残っていても、少なくとも、突如竜に襲われて、これまでの生活が奪われる日々が終わりを迎えれば、人々はどれほど安心するだろうか。
夜の咆哮に怯えて眠れぬ子供も、ぐっすりと休めるようになるだろう。いつ竜に襲われて死ぬともしれぬと、恐怖を諦めで押し殺していた人々も心の底から笑えるだろう。
――
だが、その世界にオデットはいないのだ。
「そこにオデットがいないのなら、僕はきっと心の底から笑えない」
ことあるたびに彼女の姿を探し、彼女に犠牲を強いたことを後悔する。
オデットを失った世界で笑える人を目にして、違和感を抱き、それはいつしか消えない憎悪に変化するか、はたまた自責の念で押し潰されるか。そんな未来が、ノエには容易に想像できた。
「オデットだけじゃない。誰かに犠牲を強いれば、その誰かを想う人が傷つき、やがて皆が手に入れた平穏を恨むようになる。そうすれば、今度は違う形の憎しみが続いてしまいます」
竜がなぜ人間と戦いを始めたのか、人間たちの中で知っている者はいない。
だが、竜とて人に仲間を傷つけられ、恨みを抱くことは、ゲルトルーデを失ったエレオノーラが証明している。彼女は異端者に手を貸すという方法をとったが、もっと直接的に人々を蹂躙した可能性だってあるのだ。
竜のように長く生きる者すら憎悪を捨てられないのに、より短い命を刹那的に生きる人間が憎悪をあっさり捨てられるわけがない。
「エヴラール卿が遺した希望は、確かに素晴らしいものです。ですが、やはり、僕はオデットを犠牲に魔法を行使することには頷けません。
……
たとえ、オデットが選ばれなかったとしても、どんな人にだって、あなた以外の皆のために死んでくれとは言いたくない」
「理想論ですね。多くの人は、顔も知らぬ誰かの死など、どうでもいいと思っていると、あなたも知っているでしょうに」
「そんな理想を語るために、僕はこの国に残ることを決めたのです」
現実的な意見を突きつけるミラベルに、ノエはあくまで己の望む最善の形を突きつけ続ける。限りなく不可能であると分かっていてもなお、追い求め続けることに意味があると。
「どれだけ探しても、誰かに犠牲を強いるしかないとしたら。あるいは、あなたが最善の道を探す時間を待てないと言われてしまったら。あなたは、どうするのですか」
「その時は
――
」
どれだけ方法を探しても、見つけられなかったら。あるいは、オデットではなくても、誰かを傷つけなければ平穏は得られないとなったら。
人々は、最も自分に無関係な人間を生贄にしようとするだろう。
しかし、そのような人間はいないとノエは思っていた。人が生きてここにいる以上、どこかに縁はある。それが、第三者には見えやすいかどうかの差があるというだけだ。
「もし、誰かに犠牲を強いらなければ成立しないというのなら」
誰かが泣かなくてはいけない、そんなものが希望だというのなら。
「そんなまやかしの希望は
――
僕が、断ちます」
「
……
それが、あなたが思う正しさなのですか」
「
――
いいえ」
世界の正しさがそこにあるなどと、ノエは思っていない。
だったら、残っているのは何なのか。
「僕の求める最善が、そうだった。ただ、それだけのことです」
***
「ノエ」
夜半の会話を終え、部屋に戻る途中。寝室の扉に手をかけたノエを、ヤルマルが呼び止めた。振り返ると、サルヒも含めた女性陣が揃っている。オランローは、まだ別室に残って、ミラベルと明日の旅程を詰めているのだろう。
「先ほどの話だけど」
「荒唐無稽なことを言っている自覚はあります。ですが、僕は
……
」
「オデットの生死とたくさんの人の平穏を秤にかけた話については、ボクもとやかく言える筋合いはない。君ほどあれこれ考えた末ではないけれども、ボクとてオデットが死ぬのは嫌だって気持ちを最優先にしたんだからね」
だったら一体何を気にしているのか。そう思ったノエに、
「でも、ルーシャンは違うだろう」
今までオデットのことに話題が集中していたため、棚上げされてしまっていたもう一人の仲間。オデットと共に姿を消した男もまた、魔法の発動には並々ならぬ執着を抱いているに違いない。
「君は、ルーシャンの望みに真っ向から刃向かうことになる。君が本当に、オデットやその他多くの犠牲になるかもしれない誰かのために、争いの種である魔法を発動させないつもりなら」
「あなたは、ルーシャンにとって最も大事なものを踏み躙ることになる」
ルーシャンが、ノエたちに相談せず旅立った本当の理由。それは、大地を犠牲にする大きな代償ではなく、オデットという個人を失うことをノエが決して許さないと分かっていたからだろう。
「ルーシャンさんにとって、その魔法はオデットよりも大事なもの
……
なのでしょうか」
そんなことはないと、彼を信じたかった。だが、ルーシャンがノエたちに相談しなかったことが、彼の本気を示しているとも思えてしまう。
「少なくとも、彼は行動で答えを示した。このままオデットを連れ出して小旅行をして帰ってくる、というわけにはいかないだろう」
「ルーシャンにとって、エヴラール卿の存在は、あなたにとってのオデットと同じぐらい大事な人。あの人はエヴラール卿に選ばれなかった。なのに、それでもなお、あの魔法のことを忘れられなかった」
自分を選ばない父親のことなど、裏切り者として忘れてしまえばよかったのに。
イシュガルドを出て、自分勝手に生きる道を選んでもよかったのに。
そうしなかったことが、彼がどれほど父親の遺したものに固執しているかを示している。
「もし、ルーシャンさんが、どうしてもオデットを犠牲にするというのなら
……
僕は、彼と戦います」
すると、サルヒがゆっくりとかぶりをふった。
「もちろん、ルーシャンさんの命まで奪うつもりはありません。
……
できる限り、彼とは言葉を交わすつもりですし、剣を向けるとしても」
「そうじゃない。もしそうなるのなら
……
私に、やらせてほしい」
サルヒの発言は、完全にノエの予想を上回っていた。虚をつかれて目を丸くしたのは、ヤルマルも一緒だ。
「ルーシャンを引き止める機会は、私には何度もあった。なのに、私は気が付かなかった。あの人が何を考え、どんな執着を抱えて生きていたのか、知ろうともしなかった。
……
こんなにも近くにいたのに」
だから、とサルヒは拳を握る。
「私が、彼を止める。彼に武器を向けるのなら、真っ先に私がその役目を受け持ちたい」
「
……
サルヒさん」
「オデットを犠牲にしたくないのは、私も一緒。でも、それ以上に、私はルーシャンのことを考えている」
ノエには悪いが、オデットの命が代償となると聞いた時、真っ先にサルヒの脳裏によぎったのはルーシャンのことだった。彼が何を考えているのか、そして、その道を選んだ先に彼の元に訪れる未来だけが気に掛かっていた。
「ルーシャンは、必ず後悔する。あの人はオデットをどうでもいいと思っているわけじゃない。だけど、あの人は選べてしまう人だから
……
自分では止まれない」
自分で止まれるのなら、とっくの昔にそうしている。
誰かがルーシャンの全てを知って、そんな考えは間違っていると言っていれば、彼も考え直せたかもしれない。しかし、最もそれができる可能性のあるサルヒは、ルーシャンが心の奥底で考えていることに近づけなかった。
「自分の意思で選び取って、その先に何が続くかを目にしたら
……
彼は、そこで自分自身も終わりにするつもりでいるのだと思う。ルーシャンなら、そうしてしまう」
「それは、オデットを死なせた責任を取るということですか」
「それもある。でも、それだけじゃない。たとえオデットが関わっていなかったとしても、あの人はこの一件の先を生きる気持ちがないように見えていた。私は、それが復讐が終わったら、と思っていたけれど」
「実態は、父親が遺した魔法について蹴りをつけたらだった、ということだね。つまり、仮に君が首尾よく魔法の発動を防ぐだけでなく、金輪際発動できなくした時、君はルーシャンの生きる意味を根底から奪うことになるってことだ」
ただ意見を戦わせるだけでは終わらない。親しくしていた仲間が渇望していた願いを、自分のエゴのために踏み躙れるのか。
ヤルマルの質問は、そういうものだった。
かつて、生きる意味を自分の兄を装うことに求めた護人は、ただ一つの何かに固執するものの頑なさと、それが失われた時の脆さを骨身に染みて理解している。
ヤルマルがやけにならずに済んだのは、兄が残したもう一つの夢
――
冒険に出て広い世界を見るという願いを叶えている間に、自分が生きたいと思える理由に出会えたからだ。
「君は、ルーシャンからそれほどのものを奪う覚悟はあるかい」
「
……
それは」
ルーシャンには何度も世話になった。
幾度も迷い、悩み続けてきたノエを、時には叱咤し、時には否定し、時には笑顔をもたらして、様々な形で導いてくれた。
グリダニアに訪れたばかりのノエの冒険者業に付き合い、頑ななまでに正しくあろうとするノエの生き方に新たな視点をくれたのもルーシャンだ。
しかし、その彼が今度はノエから最も大事なものを奪おうとしている。
「僕の、ひどく勝手な考えだとはわかっていますが」
最後に見たルーシャンの姿を思い出す。オデットの腕を掴み、部屋から消え去ったときの彼の顔は、今もくっきりと瞼に焼き付いている。
「オデットを連れ去ったときのルーシャンさんは、幸せそうには見えませんでした」
何を言っているのかと言わんばかりに、サルヒが怪訝そうな目を向ける。
ノエ自身、己の考えを一つ一つ辿るように、少しずつ言葉を吐き出す。
「ルーシャンさんにとって、お父様の遺した魔法は、とても大事なものなのでしょう。サルヒさんが言うように、生きる意味とすら言えるものなのかもしれません」
ノエには想像すらできないほど、ルーシャンは考えたはずだ。
魔法を発動させる意味。そのさきに失われるもの。自分が何を望むのか。何度も何度も考え、その末にオデットの手を取ったのだろう。
「でも、ルーシャンさんが出した結論は、ルーシャンさん自身の笑顔を奪ってしまっている。僕には、そうとしか見えませんでした」
使命感だとか、父親の遺産だとか、今はそんなことはどうでもいい。
父の遺した魔法の鍵を開くことこそを、心底からルーシャンが望み、それこそが彼の幸せにつながるのだというのなら、真っ向から相対し、剣を向け合う未来しかないと割り切るしかなかっただろう。だが、あの瞬間のルーシャンは、己の信念に殉じてはいたのかもしれないが、心底から賛同しているようには見えなかったのだ。
「その上で、この件で蹴りがついたら、命を失ってもいいなんて。そんなこと、僕は認めません。オデットが魔法の代償となることと同じくらい、受け入れられないことです」
全ての願いが叶って、幸福の絶頂の中、人生に幕を引くというのならいざ知らず。
どこかで後悔を引きずりつつ、ただ成し遂げたという事実だけを粛々と受け入れて、釈然としない気持ちを抱えながら人生という舞台から消えるなどいうのなら、ノエは全力で引き止めるつもりでいた。
「ルーシャンさんにとって、お父様の遺した魔法が最大の生きがいだというのなら、今度はもっと違う生きがいを見つけ出してもらいます」
「はっ、随分と言うようになったねえ、ノエ。でも、君の意見の方がボクも好きだ。自分なんて死んでもいいって言うやつは、一人で十分だよ」
からりとした声をあげながらも、ヤルマルはやや気まずそうに口元に苦みまじりの笑みを浮かべる。
「それに、君の言うとおり、存外新しい生きがいってものは見つけられるものさ。今は、魔法のこととか父親のことで頭がいっぱいで見えていなかったのなら、それらがすっかり片付いた後の頭に違うものを詰め込んでやればいい」
「二人とも。ルーシャンが、そんなに簡単に受け入れてくれると思うの?」
ノエやヤルマルの考えは、サルヒにとってはひどく新鮮なものに映ったのだろう。戸惑いが混じった瞳に見つめられ、それでもノエは力強く頷き返した。
「やってみなければ、分かりません。最初から諦めてしまうのは簡単です。でも、そうしたら、きっといざという時に僕は動けないでしょう」
だが、諦めが必ずしも悪とは言えない。心が受け止められる傷の数は、きっと有限なのだろう。だから、ミラベルは、多すぎる傷を受け止めて自分が壊れないように、どこかで線を引き、希望をもつことを諦めた。
オデットを助けたいという願いと、オーバンの言うように多くの人を救うことこそが正しいという信念。引き裂かれそうな心を抱えて、どちらも選べずにいた彼が、それでもノエたちを助けてここまで導いたのは、諦めに塗れた自分では出せない答えを出してほしいと思ったからかもしれない。
「僕は、ルーシャンさんを止めたい。もし武器をとることになってしまったら、その時はサルヒさんが望むようにしてもらって構いません。ですが、彼の命を奪うことだけは認めません」
たとえ、サルヒが「自分の手で殺してでも止める」と決意していたのだとしたら、たとえ相手が仲間でも真っ向から立ち向かう。口にすればするほど、ノエの中で決意は固まっていく。
「魔法については、どう扱うつもりだい。ルーシャンが説得に応じても、あのお爺さんは君の言葉に付き合ってくれないだろうよ」
「できることなら、僕もルーシャンさんのお父様が遺した奇跡は大事にしたいと思っています。ですが、成果をあげるためなら、誰かに負債を押し付けるという考え方は
……
僕は、やはり受け入れられない」
皇都が無事であるなら、エヴラール領であった大地が犠牲になるのはいいのか。
多くの人が喜ぶのなら、魔法を発動させた一人はどうなってもいいのか。
それらの選択を良しとしてしまったなら、続く未来でも同じ選択がなされてしまうのではないか。
「もし、オーバンさんがオデットを使うというのなら
……
僕は、魔法そのものを壊します」
「方法も定かではないのに?」
「オデットが取り出した鍵があったでしょう。狙うとしたら、あの鍵だと思っています」
「ボクも君と同意見だ。だけど、君はイシュガルドで生きている人の誰かが竜によって犠牲になったとき、彼らの怨嗟を受け止める覚悟はあるかい」
「
――――
」
ノエが魔法の破壊を口にしたとき、ミラベルも同じような質問をした。
犠牲はあれど、確かにルーシャンの父親が遺したそれは、イシュガルドに生きる人々にとって一抹の希望なのだ。それを壊すということは、多くの人々の絶望を同時に生み出すということでもある。
「その覚悟がないのなら、鍵の破壊はボクが引き受けるよ」
「ヤルマルさん。ですが、それは」
「ボクはそういうのには慣れている。一か百を選べと迫られ、一を選んだ上で、石を投げられたことなんざ、百年も生きていたら何度もあるよ。横紙やぶりなら、故郷にいた頃からやっていたことだからね」
憎まれ役を背負ってもらえれば、いくらかノエの心は楽になるだろう。誰かを言い訳にするという選択肢は、恐ろしいほどの魅力を持っているように見えるものだ。
ノエが答える前に、ヤルマルはノエの肩をぽんぽんと叩き、
「この調子なら、目的地の到着は明日になるだろう。寝不足で頭が回らない、なんて無様は見せてくれるなよ?」
いつもの揶揄い混じりの声を残して、ヤルマルは部屋へと消えていく。
残ったサルヒも、しばらくは気遣わしげにノエを見つめていたが、やがてヤルマルの後を追って姿を消した。
「
――
ノエ」
立ち尽くしていたノエは、突如背後から声をかけられ、驚いて振り返る。振り向いた先にいたのは、地図をまとめたオランローだ。ミラベルの姿がないのは、今は顔を合わせづらいと思ってか。
「話は聞こえていた。オレは、あんたが何を選んでも、あんたの味方でいる。元々、イシュガルド人はオレを追いかけ回して半死半生にした奴らだからな。そこまで奴らに思い入れがあるわけでもない」
そんな風に言っているものの、オランローがわざと悪人ぶった物言いをしてくれていることはすぐ分かった。
「ただ、一つ言っておく。オレは、ヤルマルが死にかけたとき、オレ自身が死にそうになったときよりも余程堪えた。死にかけただけで、あんな風に思うのなら、もし本当に命が失われていたのなら
――
どうなっていたことか」
きっと、世界中を呪っていただろうと、どこか投げやりな口ぶりで彼は言う。
「オレは、あんたがそんな風になるのは見たくない。言いたいのは、それだけだ」
ノエの肩に手を置いて、喝を入れるように一度手に力を込めてから、オランローもまた部屋を消えていった。
残ったノエは、己の胸に手を当て、目を瞑る。
自分の中に渦巻く多くの気持ち。これまで交わしてきた誰かの言葉。
今ここにいない人の姿。それらを、いくつも思い描いてから、ようやく瞳を開いた。
「
……
きっと、明日には全てが終わる」
そのとき、自分は何を選んでいるのだろう。
できるならば、すべてが解決するような天啓が齎されればいいのにと願う。
しかし、彼はもう知っていた。
どんな未来であっても、自分が手を伸ばして掴み取るしかないのだと。
***
「見えてきた」
サルヒがそう言った頃には、とうの昔に昼が過ぎ、太陽が遠くに見えるアバラシア山脈の向こうに少しずつ消え始めていた。
傾きかけた日差しに今日の終わりを感じ始めた折、整備されていない街道を抜けた先にその建物はあった。
幾分か小高い丘に建てられた、古びた屋敷。イシュガルドらしい石造りの建物は、長らく人の手が入っていないからか、随分と寂れて見えた。訪問者を楽しませていたはずの庭も、今では雑草が生えて荒れ放題になっている。
だが、屋敷以上に目を引いたのは、夕日に照らし出された大きな湖だ。屋敷は湖よりも高台にあるので、ありし日に屋敷に暮らしていた人々は、窓から見える景色を楽しんでいたのかもしれない。きらきらと日差しを反射する湖面は、それそのものが宝石の山のように美しかった。
しかし、今は自然の作り出す雄大な美に見惚れている場合ではない。
「あの礼拝堂が、そうなのですか」
「多分。大旦那様
――
エヴラール卿は、たびたびこの地を訪れたと古参の使用人が話していた。それに、以前、ルーシャンがエヴラール卿とあの建物から出てきたところも見ている」
庭にチョコボを繋ぎ、サルヒに急かされるままに丘から湖につながる斜面へと駆け降りる。
ルーシャンとオデットは、夜の移動を避け、できる限り慎重に進んでいると聞いていた。彼らの進行方向には最近妖異が出没しており、踏破に苦戦するだろうという報告もあった。
魔法が発動した気配もないことから、それは事実だろうと分かっていた。
しかし、もし彼がノエたちより早くこの地に辿り着いたら、という懸念は拭いきれない。
斜面をおりた先では、無人の礼拝堂が、夕日を浴びてノエたちの前に全貌を晒していた。
手入れする者もいなくなった礼拝堂は、さながら、貴人の棺のごとく静謐な近寄りがたさと、言葉にし難い侘しさに包まれていた。
「どうやら、間に合ったようですね。ルーシャン殿の姿は見えません。
……
オーバン卿の手の者は、遠からずやってくるでしょうが」
周りを見渡し、念を押すようにミラベルは言う。
次いで、彼はノエをじっと注視していた。ノエが話した、魔法の存在そのものを断つという話に、彼も思うところがあるのだろう。今朝から、何か言いたげにノエを見つめては、黙りこくるということを繰り返していた。
「先に、魔法のありかについて調査はできないでしょうか。そうすれば、ルーシャンさんよりも先に、魔法の調査を進めることができるのでは
――
」
「遅くきた割には、これまた随分と向こうみずなことを言うようになったな、ノエ」
ぎい、と礼拝堂の扉が開く。礼拝堂の両開きの扉の片側を押し開き、姿を見せたのは、
「
……
ルーシャンさん」
「やけにのんびりと来たんだな。道でも混んでたのか? それなら、ずっと渋滞に巻き込まれていてくれればよかったのにな」
こちらを挑発するような物言いをする男の目は、別れたときと同じように、鋭さを帯びている。そこには、今まで彼が見せてきた茶目っ気はどこにもない。
「オデットは、どこにいるのですか」
「兄さん。わたしなら、ここに。怪我もしていません」
扉の影から顔を見せた少女に、ノエは内心で安堵の息を吐く。ルーシャンが彼女を傷つけるわけがないと分かっていても、道中で怪我をするようなことがあったら、と思わずにはいられなかったのだ。
「それで、雁首並べて今更何を言いにきたんだ。
……
いや、先にこう聞くべきか」
腰の細剣にさりげなく手を添え、片手でオデットを制しながら男は問う。
「お前らは、一体どこまで知っている?」
冷たい風が、廃墟と化した礼拝堂に降り積もった雪をさっと撫でていく。
一同の前に置かれた問い。
それに答えれば、この一瞬でありながら永遠に思えるような硬直の時間も終わりを迎えるだろう。
残された時間は、もうない。それでも、できる限り己の望む最善に続くことを信じて、ノエはゆっくりと唇を開いた。
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