どのボタンを押してもうんともすんとも言わなくなったクーラーを見上げ、俺は蒸し暑い部屋の中で呆然としてしまった。クーラーが壊れた。真夏日が続く季節の真っ只中で。いくら窓を開けても入ってくるのは生ぬるい空気で、風が吹いても涼しいとはとても言えなかった。
幸い今日は定時で帰ってきていたからすぐにかけた電話は修理業者の営業時間に間に合ったけれど、取れた予約は最短でも二日後だった。今日と、明日、クーラーのない部屋で過ごして眠れば熱中症の危険もあるだろう。
出費は痛いけれど近くのホテルを取ってやり過ごすのがいいだろう。それなら職場に近い方が……と考えかけて、あのあたりのホテルはきっと平日でも関係なくそれなりの値段だろうとやはり家の近くで検索をする。二日くらいなら事務所に泊まることも不可能ではないだろうが、他の人に心配や迷惑をかけたくはない。
いくつか候補を見つける頃には全身にじわりと汗をかいていた。手の甲で汗を拭い、窓のそばに立ってせめてもの涼をとる。むわっと顔を撫でる蒸した空気に堪えきれなかったため息が溢れた。
熱を持ち始めたスマホを一度テーブルに置いた途端、それがブブブッと震えた。画面には見慣れた名前が書かれていて、俺は熱さも忘れてスマホを手に取った。
「もしもし、逢さん?」
『由鶴、いま大丈夫か?』
「はい、どうかしましたか?」
逢さんは今日は打ち合わせのために昼過ぎに事務所を出て、夜に会食の予定があるから直帰の予定になっていたはずだった。時間を確認するために時計を見上げた俺が今の時間を認識するより先に、逢さんが『まだ事務所にいるか?』と聞いてくる。確かに普段ならこの時間はまだ事務所に残っていることだろう。
「すみません、今日はもう帰ってまして。何かありましたか?」
『もう家か。悪い、それならいいんだ。会食の帰りに土産で寿司をもらって、生ものだから今日中に食べた方が良いだろうけれど俺はもう食べられないから、まだおまえが残っているならこっちに寄って行かないかと誘おうと思っただけだ。もう帰ってるならわざわざ来てもらうのも手間だろう』
「え……ありがとうございます。逢さんが良ければ、少し遅くなってしまうと思うんですがお邪魔してもいいですか?」
『またこっちの方に来るのは面倒じゃないか?』
「せっかく逢さんにお誘いいただいたので。そういえばまだ夜ごはんも食べてなかった……」
『……何かあったか?』
「あ、……ええと、その、部屋のクーラーが壊れてしまっていて」
『は。……それは、大丈夫なのか?』
「いえ、大丈夫じゃないので修理を頼んだところです」
『すぐ修理してもらえるわけじゃないんだろう。今日はどうするんだ』
「近くのホテルに泊まろうかと思って調べていたところでした。それでバタバタしててごはんを食べ忘れちゃって。だからお寿司、いただけるならぜひ食べたいです」
『……』
「逢さん?」
電話越しの沈黙はちょっとだけ怖い。目の前にいたら顔を見て何を考えているのか予測することができるけれど、音しか情報がないと怒っているのか呆れているのかも分からない。色々なパターンを想像しては心臓がすうっと冷える。
『……うちに来ればいいだろう』
「? はい、なのでこれから」
『寿司じゃなく。わざわざホテルなんて探さなくても、俺のところに泊まれば良いだろうと言っている』
「え……それは、でも、逢さんのご迷惑に」
『ならない。何度も言っているが、おまえが家にいて迷惑なことなんてひとつもない。人に頼るのが苦手なのは分かっているが、俺にくらい頼れ。恋人だろう』
「……えっと、じゃあ、……今日と明日、逢さんの家に泊まらせていただいてもいいですか?」
『ああ、いいよ。むしろそのまま住んでもいい』
「う……それは、その……」
『ふ、冗談にしておいてやる、今のところは。早くおいで、熱中症で倒れたら本当に俺の家に閉じ込めてやるからな』
優しい声でからかうようなことを言われる時、自分がどれだけ愛されているのかを感じて全身に幸せが溢れる。ドキドキと心拍数を上げる胸の上でぎゅっと拳を握り、すぐに行きます、と伝えて電話を切った。部屋の中の暑さは変わっていないはずなのにさっきより気にならないのは、逢さんが俺の心を奪っていってくれたからだ。
手早く荷造りを済ませて、戸締りをして部屋を出る。帰ってきたばかりの道はすっかり日が落ちて暗くなっていた。仕事帰りの疲れた顔をしている人が大半の中、足取り軽く駅へ向かう。電車の中で開きっぱなしになっていたホテルの検索サイトを閉じ、今夜は深夜も三十度を超えるほどの熱帯夜だというニュースを見た。
「お邪魔します」
「おかえり。暑い中わざわざ来させて悪いな」
「いえ、むしろ俺の方が図々しくて」
「由鶴」
「……はい」
「おかえり」
「……た、ただいま、です」
「ん。いつでも帰ってきていいよ。他のやつを相手にするみたいに気を使う必要もない」
「それは、ちょっと無理ですけど……」
「ふ、そのうちな。先に風呂に入るか?」
逢さんの手が伸びてきて俺の額に触れた。その指先が汗で濡れたのを見て慌てて自分の服を引っ張って逢さんの手を拭う。くすくすと楽しそうに笑う逢さんに「汚いからダメですよ!」と言っても彼は「汚い?」と言ってさらに笑った。
「それならおまえも、俺のものを舐めるなよ。汚いんだろう?」
「……! それはっ、でもっ、……それとこれとは話が別です!」
「同じだろう」
俺もおまえのなら舐められる、と言って背伸びをしかけた逢さんを慌てて止め、壁に強く押し付ける。両手を掴んで動けないようにすれば逢さんは俺の顔を見てやらしく笑った。
「このまま進んでもいいけど、どうする?」
「……お風呂に入ってきます。……お寿司も食べたい」
「そうだったな。悪い、今日はもう会えないと思ってたからつい楽しくなった。待ってるから風呂に入っておいで。夕飯、寿司だけじゃ足りないだろう。何か取るか?」
「何か食材を使っても良ければそれで適当に作ります。逢さんはお腹いっぱいなんでしょう?」
「ん、おまえが付き合ってくれるなら酒だけ飲むかも。どっちでもいいよ」
「後で冷蔵庫の中を確認させてください」
ちゅっと唇を触れさせた後、逢さんが鼻先を重ね合わせてくすっと笑った。汗をかいていたかなと内心で焦った俺を気にする様子もなく逢さんはもう一度キスをして、楽しそうに目を細める。
「クーラーの温度低めにしておくから、今日は由鶴とくっついて寝たい」
「……うん、そうしましょう」
「夏なんて暑いしうるさいし虫も多いし良いことなんて全然ないと思っていたんだ。楽しいことがあるなんて、きっと由鶴がいなかったら思わなかった」
「……もっと楽しいこと、いっぱいありますよ」
「たとえば?」
「かき氷とか、スイカとか、夏野菜も美味しいですし」
「ふふ、食べ物ばっかり」
「あ、えっと、プールとか海も」
逢さんの笑い声に体温が上がった気がした。でもクーラーの効いた涼しい部屋の中だから、もう汗をかくことはない。笑い声を止めるように唇を塞いですぐに二人してキスに溺れて、ぎゅうっとくっついたまま荒い呼吸を整える。一人で立っているだけでも汗をかく熱帯夜に、好きな人とくっついていられる幸せを静かに噛み締めた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.