古紙の良い匂いがした。目の前に、積み上げられた紙の束が数個、まとめて置かれている。ナイロンの紐で結ばれてはいるが、たわんでおり持ち上げたら崩れ落ちそうだった。下緒院のロッカーに押し込まれていたものらしいが、これらが誰のものか分からず廻り巡ってこちらにやって来た。腰を落として古紙のざらつきを確かめるように触れる。インクだまりがあちこちに見られた。万年筆で書かれたものかもしれない。おぼえのある形と凹凸。懐かしい匂い。僕の宗匠だった男のものだと、白髪の男は確信する。
――僕が彼に出会ったのはおおよそ十五年前。下緒院が所有する個室で、「君の教育係の、雲井青嵐と申します」と抑揚のない声で笑いかけてきた。まるでロボットのような、感情の起伏があまりない男なのだろう――それが第一印象だった。僕の家は大家でもなんでもないが、母方の親族が少々複雑な家が多い。ひと言でいえば呪われた血筋だ。けれどそんなことは特別、珍しいわけではない。僕の家より難儀で絶望的な血をもつ刀遣いはたくさんいる。宗匠もそうだと思っていた。実際、そうであったようだが彼からはなにも言い出すことはなかった。ただほほえみながら、「君と私は違う生き物だ」と刃を突きつけられているようでもあった。僕にとってはそれが心地が良く、違う生き物であっていいと思えていた。
ただ欲のない男であったことをおぼえている。
――年月がたてばモノは否応なしに古くなる。万年筆で書いた日誌も二十年もたてば黄ばみ、襤褸になる。モノだけではない。人間自身も衰えていく。気力も、体力も。だがものによって古くなればなるほど色や深みは増し、濃くなってゆく。過去を懐古し、未来にひとつまみの絶望を見いだす。
目を伏せて、襤褸の日誌の表紙に手を置く。ざらり、と砂がこびりついたような感覚をひとり、持て余した。
これは青嵐の元教え子――と言ってもよいのか――が、よこしたものだった。昔使っていたロッカーに放り込んで忘れていたのだ。ノートの最後の日付は今から十五年前のものだった。8月最後の日。夏の終わり。青黒いインクで書かれた句点のまわりが滲んでいる。
「これは、日誌?」
穏やかな声が聞こえ、顔をあげる。机の上に置かれた紙の束を見下ろしていた。はい、と答えてノートを閉じる。気恥ずかしいようにも感じたからだ。
「昔の……二十年ほど前に書いたものですから、面白いことは書かれていません」
この量を見るに、ひと月に一冊、ノートを使い切っているようだった。天照に入ったのがおおよそ二十年前。ノートの最後の日付が十五年前。約5年ほど続けていた日誌は、もはや処分されるのを待つだけだ。
紫垂月頼宗は青嵐のとなりに坐り、ノートの山をじっと見つめた。自分の手記に興味があるのだろうか。そう思い、一番古いであろうノートを一番下から引き抜いた。
「今から二十年前、4月の日付です。おそらく天照に入った初日に書いたものでしょう」
白い手がそれを受け取り、彼は一枚、頁をめくった。
まつ毛がほおに影を落とすように見え、風鈴の音が穏やかに聞こえてくる。庭から風が吹き抜けて、居間をゆっくりと巡回しているように見えた。
4月●日
上京して、はじめて驚いたのは電車の多さだった。本州では電車というものが走っていて、線路に縋りつきながら猛スピードで走ってくる鉄の塊を見たとき、ずいぶん心臓が痛んだ。驚愕して思わず足が二歩、うしろに下がってしまったくらいだ。
電車が走る時間もひっきりなしで、まばたきをする間にも次の電車がくるような感覚を覚えた。
その前に、切符を買うのにとても苦労した。路線図もごちゃごちゃとしていてなにをどう見ればいいのか分からない。ただ金額だけ書かれたボタンを押すのに、迷って数分を費やした。後ろに並んだ男性が舌打ちをしていた。けれど、親切な人が「どちらに行かれますか」と聞いてくれたので、天照の本部がある場所に一番近い駅名を言うと、その人は「それならここです。●●●円のところですよ」と指を差して教えてくれた。穏やかそうな人で、今も印象に残っている。
私が天照本部についたのはそれから1時間ほどたってしまっていた。電車には乗れたものの降り口が分からず、またも右往左往としてしまった。
時間ぎりぎりに到着した私に事務局の女性が、これからを過ごす下緒院のオフィスに案内してくれた。廊下を歩く刀遣い、あるいは刀神の容姿は本当に様々であった。
そして私を指導してくれる先輩を紹介した事務局の女性は「分からないことがあればこの方か、またこちらに来てくだされば大体は案内できます」と明るいふうに言ってくれた。
先輩の名前は七ツ橋という男性だった。今年で四十歳になる、参段の刀遣い。握手をすると彼の手はとても温かく感じ、その人は穏やかにほほえんでくれた。ただ、彼は抑揚のない声をしていた。なににも心を動かさないような。けれど、下緒院の術師としてこのほうがよいのかもしれないと思う。呪術を扱うのに、強い感情はあまりに毒だ。そのことを私は痛感している。
4月●日
七ツ橋さんが氷冷符と炎熱符の書き方を教えてくれた。
教え方はとても丁寧で、素人の私でも十分に理解できるように一言一句、はっきりと伝えてくれる。彼は教官の資格を持っているようだ。
そして彼はとてもお酒が飲める人のようだった。私も飲めるほうだが、誰かとふたりで飲みに行くのは初めての経験だった。故郷にいたころは、誰かしら――排他的な家だったから、家族か親族、大勢で飲むのが常だったから。
七ツ橋さんはマムシ酒を頼んだ。飲んだことがあるかと問われたので、ハブ酒なら、と答えた。彼は「沖縄にはマムシがいないのか」と興味深そうに頷いていた。私はマムシはいませんが、ハブならいます、と付け加えた。
以前より彼の感情が少し見えてきて、あるいは感じられて、うっかり「おばあがよく作ってくれました」とサーターアンダギーを見ながら呟くと、七ツ橋さんは「僕も好きだな。サーターアンダギー。甘くて、さくさくしてて。君のおばあさんのサーターアンダギーは、とてもおいしいだろうね」と笑った。私はおばあのことを馬鹿にされなかったことを何よりも安堵していた。
あんな女性でも私のおばあであるから、同意してくれると嬉しかった。
そこまで読むと、紫垂月頼宗は「ずいぶん、電車に乗るのも上手になったようだね」と頷いた。
「おかげさまで」
苦笑いし、両の手のひらを膝に乗せた。
「二十年前と今とでは、電車も変わりました。今はスマートフォンだけで乗れますから。切符を買う人も、あまりいませんしね」
「君は買っているようだけど」
「ええ。幼い頃から機械が苦手で……。今では更に顕著です」
眼鏡のつるを抑えて笑う。紫垂月頼宗はノートの山のてっぺんから真新しい書類をみとめた。
緋鍔局から渡された出張先の詳細だ。彼から遠出の了承を得ている今、まとめられた書類を読んでもらってほしいと思い、持ち帰った。
「以前お話しした、出張のスケジュールです。出立は、二週間後。行き先は○○県のY島。ここからかなり遠いですが」
「構わないよ」
「ありがとうございます。……すみません。仕事中にお伝えすればよかったですね」
彼は机上の紙の束を再び見下ろして、「これがあったからね」と笑った。
帰り支度をしていたら、元教え子に押しつけられたノートの山をまとめるのに時間がかかってしまったのだ。
今ではなくてもと文句のひとつでも言いたいところだがあいにく、彼はもう私の手には負えない。
「ところで、そのY島には何があるんだい」
「……国産みの舞台のひとつと言われている場所です」
「国産みか。物騒な気配がするね」
「詳細は書類を頂いていますので、明日お伝えします」
分かったと呟くと、彼はふいに庭を眺めた。タチアオイが天に向かってまっすぐ咲き誇っている。様々な色。目の覚めるような。
夏の花々は、本当に――ペンキを塗ったような、はっきりとした色合いが多い。命の色だ。それをひどく見せつけてくる。急くように色づく花々を、青嵐は眩しいと感じる。
薄暗くなった空を見上げると、否応なく風鈴が目に入った。涼やかで清らかな、魔除けの音色。
「それでは、夕食をとって参ります」
「うん」
彼は一度頷き、山になったノートに再度視線を移した。
「読んでもよろしいですが……幻滅、しないでくださいね?」
情けない言葉を告げると、紫垂月頼宗はくすっ、と笑った。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.