Ca(か)
2025-08-02 18:56:38
6774文字
Public haikaveh SS
 

ウェルカムホームマイダーリン

七月九日に「おかえり」をもらうカーヴェの話


「メラック、ほら、もうちょっとだ。家が見えたぞ」
「ピッポ、ピ!」

 傍らに浮遊するメラックと励まし合いながらスメールシティの長いスロープを上る。ようやく見えた三日ぶりの我が家に安堵したあと、僕はもうひと踏ん張りだと石畳を踏みしめた。
 ファロス灯台の点検のために赴いたオルモス港だったが、たまたま居合わせた教令官に「ウィカラ隊商宿の壁の一部に崩れそうな部分があるから」とそちらにも引っ張られていったり、ついでにエレベーターも見れませんかと頼み込まれたり、あれこれと用事が重なって長居してしまった。とはいえオルモス港に行くときにはだいたい似たようなことになるので、あらかじめスケジュールには余裕を持たせており、誕生日だというのに帰宅早々徹夜確定……なんて悲しい目には遭わずに済みそうだ。

 そう。誕生日なんだよな、僕。
 さすがに子どもの頃と同じくらいに待ち遠しいものではなくなったけれど、それでもカレンダーを新しくめくり、七月九日が目に入ったときには心がそわそわしてしまう。誕生日おめでとう、と家族や友人に祝われるのは大人になっても心がくすぐったい。近づいてくる三十路というものにはちょっと怯んでしまいそうになるものの、大きな病気や怪我もしないで歳を重ねられるというのはそれだけで幸せなことに違いなく——還暦を過ぎてなお、生き生きと畑仕事に励むザハハディ教授たちを見るにつけ、大切なのは年齢そのものではなく重ね方なのだなと深く思う。
 これから帰ったら、一旦荷物を置いてバザールに買い物に出よう。せっかくの誕生日なんだからちょっぴり贅沢して、いい肉と上等な酒を買ってしまおう。でもその前にやっぱり掃除がしたいな。三日くらいではそうそう部屋が散らかることもないだろうが、もし目も当てられない有様になっていたら、夕方帰ってきたアルハイゼンを小突いてやらなければ。

 そんなことを考えているうちにスロープを上りきり、僕らは家に到着した。
 メラックが取り出してくれた鍵を差し込んでドアを開ける。玄関に一歩踏み入った瞬間に馴染みのあるうちの匂いが出迎えてくれて、ほっとしながら胸いっぱいに吸い込んだ。出張から帰るといつもこうやって久方ぶりの自宅を堪能する。無人だとわかっているのに「ただいまあ」なんて気の抜けた声で言ってしまうのも、ここ数年で染みついた癖のひとつだ。

「ああ、おかえり」

 ところが無人のはずの家の中から返答があり、僕は玄関口でぴしりと固まった。
 傍らのメラックも液晶の目をぱちくりさせている。数秒顔を見合わせたあと、僕らはどたどたと足音荒く廊下を進んだ。
 まさか、でも平日昼間にそんなわけ——ぐるぐると混乱しながらリビングに躍り込んだ僕たちが目にしたのは、ゆったりとした家着姿で読書に勤しむアルハイゼンの姿だった。

「あ……えっと、ただいま……? じゃなくて君、どうしてここに? この時間はまだ仕事のはずだろ」
「有休を取った。そろそろ一日くらい消化しておけとせっつかれていたからな」
 
 アルハイゼンはこともなげにそう返して本を閉じると、ピポピポと近寄っていったメラックを撫でた。有休だなんて先週の時点で話題にも上がっていなかったはずだが、見たところ具合の悪そうなところもなく、病欠というわけでもなさそうだ。
 まあ取りたいときに取るのが有休だし、ひとまず元気ならいいか。僕がそう思い直したところでアルハイゼンがおもむろに身を起こした。テーブルの上に置かれた小包に手を伸ばし、はい、と僕に差し出してくる。

「君宛だ。今日の朝一に届いたよ」

 今日の朝一に届く僕宛の荷物。それだけでぴんときて、僕はみるみる上がってしまう口角を抑えながらそれを受け取った。
 差出人欄に書かれていたのは——思ったとおり、母さんの名前だ。
 離れて暮らすようになってからも、毎年母さんはこうして当日着で手紙と贈り物を送ってくれている。一昨年までは「仕事で家に帰れないかもしれないから」と苦しい言い訳で配送センター留めにしてもらっていたが、なんだかんだの末に正式にここに住所を移してからは、この家に直接送ってくれているのだった。
 きれいな包装紙を破かないように慎重に解き、箱の蓋をゆっくりと持ち上げる。どきどきしながらそっと覗き込むと、中には真紅のラッピングに包まれたワインボトルと一組のグラスが収められていた。添えられている上等そうなポリッシングクロスはメラック用なのだろう、袋の端にデフォルメされた工具箱のイラストが描かれている。同封された手紙には誕生日を祝う言葉とともに「あなたの大切な人と一緒に飲んでね」とあり、なんだかいろいろなことを見透かされているような気がして心臓の裏がくすぐったくなった。アルハイゼンとのあれこれはまだふんわりとしか話していないはずなのに——これがいわゆる”母親の勘”というものなのだろうか。
 いつか母さんとも乾杯して話せる日が来たらいいなと思いながら、僕は手紙を仕舞った。

「アルハイゼン、ワインを貰ったよ。それにグラスが一組。君にもよろしくだってさ」
「光栄だな。晩にいただこう——赤か?」
「ああ。だから今晩は肉で決まりだな。メラック、このクロスは君にだって」
「ピポ!」
「あれ、もう気に入ったのか? 君がいいなら、このまますぐ持って行くかい。ドックでゆっくり休んでおいで」

 三日間の出張でくたびれたのは僕だけではない。いつもの場所でゆっくり休みたいのはメラックも同じだ。メラックはピッポ! とにっこり笑って、クロスをカーソルで掲げながら機嫌よく部屋へと入っていった。

「さて、と。アルハイゼン、なにか忘れてないか?」
「なにかとは?」
「今日はなんの日かって聞いてるんだよ。七月九日」
「ふむ……毎年、なぜかうまい肉が食べられる日だな。ちなみに二月十一日あたりもそうだ」

 そんな減らず口を叩くのはこの口か! と僕はアルハイゼンの膝に乗り上げて、頬をむにりとつまみ上げて左右に伸ばしてやった。アルハイゼンはおい、と眉を寄せるものの、特段振り払いもしないところからして本気でいやがってはいないのだ。頬をこね回したあとには元通りに均すようにもちもちと揉んでやり、そうして頬と手のひらの温度が同じくらいになった頃、僕は両手でアルハイゼンの頬を包んだままくちびるを寄せた。
 むにっと押し付けるだけのキスはアルハイゼンが下唇に食みついたのを境に少しずつ色気づいて、角度を変えながらより深いものになっていく。白々しくすっとぼけた数秒後にこれか、と笑った僕の吐息さえも、最後にはまるごと食べられてしまった。

「ん……。なあ、今日は僕の誕生日だから有休を取ったのか?」
「水曜に休んでしまうのがいちばん都合がよかっただけだよ」
「ふうん。ほんとか?」
「一週間のうち、水曜午後がもっとも暇なのは明白だからな。申請書の提出についても切羽詰まったやつは木曜午後に駆け込んでくる。本格的にまずいやつは金曜十六時以降だ」
「それは執務室の仕事の話だろ。書記として会議に出るのはどうなんだ」
「それこそ俺じゃなくても問題ない。人事課のなかで、ほかでも務まる会議の記録を俺にさせたいのと、上半期の有給消化率をどうにかしたいのでは、後者のほうがより切実だったというだけだ」
「なら、来週じゃなくて今週に取った理由は……んぶ」

 そこで肩をぐっと引き寄せられ、ふたたびくちびるを塞がれた。ずいぶん強引な口の縫い付け方につい笑ってしまったが、僕の鼻息がくすぐったかったのか、よく見ればアルハイゼンもわずかに笑っている。それがなんだか無性にかわいく思えたので、仕方がないから少しだけ黙らされてやることにした。くすくす笑いながら密やかにくちづけを交わし、なにかを言いかけるたびに舌を滑り込ませては言葉を奥へと押しやる。外の人々の行き交う様子がガラス越しに漏れ聞こえてくるこの真昼間に、リビングでこんなキスをするのはどこかずるいように思えてそわそわしながら、三日ぶりのキスの心地よさに感じ入った。

「で? どうしてなんだ」
……別に大したことじゃない。それにどちらかと言えば自己満足だ」
「自己満足?」
「誕生日は家族が恋しくなる、と以前君は言ったな」

 アルハイゼンの乾いた親指が僕の目元を撫でる。

「家族がいちばん恋しい日に、無人の家に帰るのはどうなのかと、そう思っただけだ」
「無人、って……夕方には帰ってくるのに?」

 僕の言葉にアルハイゼンは黙って頷いたが、至極あっさりとしていて、わからなくても別に構わないといった様子だ。「自己満足」という前置きに嘘はないのだろう。
 だけどここで「なんだかわからないけどそういうこともあるか」と流してしまうのは惜しい気がした。アルハイゼンが自己満足と称する見返りを求めない優しさを、僕はもう取りこぼしたくないのだ。
 無人の家に帰る寂しさを僕らは知っている。だからこそ、こうしてふたりとひとつで営む生活の心地よさがいとおしい。
 そんななかで、あとから帰ってきたのでは叶わないことと言えば——思い当たることはひとつしかなかった。

「もしかして……おかえりって言いたかったってこと?」

 アルハイゼンの瞳がわずかに見開かれ、それから満足そうに細まった。

「帰ってきたらただいまを言えと言ったのは君だ。それなら、おかえりもあってしかるべきだろう」

 そういえば、そんなことも言ったっけ——
 アルハイゼンの言葉に引っ張られ、懐かしい記憶が思い起こされる。
 僕がこの家に住み始めてからもうずいぶん経つものの、「ただいま」や「おかえり」が当たり前に交わされるようになったのはここ最近のことだ。その最初の日のことを思うと、今でも懐かしさや気恥ずかしさで口元が緩む。
 あれは忘れもしない、学院トーナメントが終わったあとのことのできごとだ。

 アルハイゼンの口から真実が明かされたことで、父と砂漠を巡る二十年分の誤解は綻びを見せた。そしていつぶりかの「ありがとう」を伝えるための勇気が湧いて、目の前に立つこの男のことも少しだけ見直したのだった。
 それから帰ったこの場所は、なんだかこれまで思っていたよりもずっと落ち着いて見えて、なかなか悪くないように思えた。明り取りがもたらす光はけして過度なものではなく、人が心を落ち着けるのに必要な陰りのこともきちんと計算されている。ステンドグラスが床に落とす色とりどりの光は木漏れ日を思わせて、夕日でわずかに赤みが差しているのもきれいだ。静謐な書斎と開放的なリビング、それに包まれるように落ち着く自室は廊下で地続きになっていて、ここの設計者はこの家で人々が学びを深め、存分に語らい、そして穏やかに眠るといった健やかな日々の循環を願ったことがわかる。
 これまでこんなふうにこの家と向き合ったことはあっただろうか。建物としての機能性という視点ではなく、実感として、自分がこの家でどんなふうに生きていくかを踏まえたうえで改めて向き合ってみると——まるで腕を引かれながら名前を呼ばれているような、これまでにないあたたかさで迎え入れられたような感覚を覚えた。

 当時はまだ、ここを「家」と呼ぶにはいろいろなことを認めたり、整理しなければならなかった頃だ。
 それでもたしかにこのとき、僕はこの場所に愛着を感じ始めていた。
 だから、それまで頑なに口にしなかった「おかえり」も——今なら言ってみてもいいかもしれない、と思ったのだった。


……ふふ」
「なんだ」
「いや、ただの思い出し笑いさ。それにしても……覚えてるか? 僕が初めて「おかえり」って言ったときの、あの君の呆けた顔といったら! 鳩が豆鉄砲を食らったようっていうのはまさにあんな顔のことを言うんだろうな。写真機を構えてなかったことをほんとうに惜しく思うよ」

 アルハイゼンはほう、と眉を上げ、「まるで俺ばかりが間抜けのような言い草だな」と口を曲げた。

「君のほうこそ覚えているのか? 「おかえり」のたった一言のために、柄にもなく緊張して声を上ずらせていたのはいったい誰だっただろうな。俺がなにも言わずにいるあいだ、君はみるみるうちに赤面して「帰ってきたんならただいまをちゃんと言え」だの、「帰ってきたのに気づかなかったらびっくりするだろ」だのと賑やかだった」
「間違ったことは言ってないだろ。実際に驚いてアイデアが飛んだことだってあったんだから」
「そうか。では、そのせいで仕事が遅れたと?」
「まさか! 僕を舐めるなよ。百点のアイデアを逃しても、百二十点のアイデアをひねり出したさ。プロの意地だ」

 僕はアルハイゼンに胸を張り、ふふんと得意げに笑ってみせた。
 あれから二年経った今、ここはもう僕にとってかけがえのない「家」となった。モラが貯まり次第すぐにでも出ていくつもりでいた頃は、ここは自分のほんとうの居場所ではないと頑なだったし、アルハイゼンのことだって絶対に相容れない、いけすかないやつだと思っていた。
 だから迎える言葉も出かける合図も、なるべくそっけなく済ませてやろうとしていたのだ。

 でも——今はもう違う。
 ステンドグラスから差し込む光の色に、朝の廊下の気だるそうな足音に、リビングでめくられるページの静かな気配に——皮肉屋の男の遠回しな優しさに、心が何度も震えてしまった。
 仕方なく帰るだけだった借宿が、帰りたい家になっていく。自分の心が少しずつほどけていくごとに、ここに根を張ってもいいのだろうかと恐る恐るまわりを探る。けれどきっとアルハイゼンは最初からぜんぶ許していて、僕がそれに気づかなかっただけだ。

 ——おかえり。
 アルハイゼンの言葉が深く、優しく染みわたる。
 大切な人の帰りを喜び、あたたかく迎えるその言葉はまるで灯台のようだ。アルハイゼンが僕に言ってやりたいと思ったぶん、普段の僕もアルハイゼンに伝えられているだろうか。君が帰ってきたのが嬉しいこと。今日のできごとをたくさん話したいこと。なにか面白いことがあったか聞きたいし、ほかにも興味のあることについて語らいたいこと。
 いってらっしゃいとおかえりのあいだも、変わらず君が好きだったということ。

「アルハイゼン、ただいま」
「さっき聞いたよ」
「ばか。ここは笑っておかえりって言うところだろ。ロマンがわからないやつはこうだ」

 アルハイゼンの額にぐりぐりと擦りつく。ごりごりとちょっと痛いくらいに擦りついて、前髪がぺったりと引っ付いたままはにかんだ。するとふいにアルハイゼンが顎を上げ、頬に擦りつくようにして僕を抱き込んできた。

「カーヴェ」
「うん?」

 ——誕生日おめでとう。
 ぴったりくっついているせいで、とびきり低いアルハイゼンの声が肌越しに振動で伝わってくる。首筋に当たる頬の熱がいっそう熱く感じられて、たまらずアルハイゼンをぎゅうと抱きしめ返した。
 ちゃんと顔を見て言えよ、とか、ちょっと言うのが遅いんじゃないか、とか。そんなことは言うだけ野暮だ。アルハイゼンがこうして僕を迎えてくれて、僕を思ってくれることがどれだけうれしいかを噛みしめながら、こうして全身で伝えるだけでいい。あったかくていとおしくて、なんだか泣きそうなくらいの今の気持ちが肌を通してダイレクトに伝わればいいのに。だけど言葉にすることの大切さも身に沁みているので、ほの赤い耳元にくちびるを寄せて「ありがとう」と囁いた。

 三日ぶりの家は思っていたよりもずいぶんきれいで、バザールの夕市にはまだ早い。あと一時間もすればメラックもスリープモードから起きてくるだろうから、それまではもう少しこのままでいよう。さすがに膝に乗りっぱなしなわけにはいかないから隣に座り直して、三日間のできごとや今晩のメニューなんかを無軌道に喋ったり、はたまたじゃれあいながらキスをしたり——まだ日は高いが、なんてったって誕生日なのだ。うれしいことはどれだけあってもいいし、ちょっと浮かれるくらいは許されたい。

 今日はちょっといい肉を買おうか。そんなふうに投げかければ「俺はだいぶいい肉でも構わない」なんて声が返ってくる。なんだよそれ、とくつくつ笑えば、隣からもやわらかな笑みの気配がする。
 今日からの一年もこんなふうに、穏やかに過ぎていけばいいな。
 そんなことを思いながら僕はもう一度、この家とアルハイゼンの匂いを胸いっぱいに吸い込んで——ほう、と一息ついた。